8.
「リシェーラ」
ハザールから申し訳なさそうに声をかけられたリシェーラは一文だろうと見逃さない勢いで見つめていた書類から顔を上げる。
「何か不備がありましたか?」
十分気をつけていたつもりだが自分もまだまだだと己を叱責する。
「いや、そうじゃなくってね……」
言葉を濁すハザールに、では何事かと首をかしげると彼は視線を右後ろへとずらした。
視線の先には仁王立ちをしながらこちらを睨むルミオンがいる。リシェーラが酒場を立ち去った翌日からずっとこの調子なのだ。
書類などの処理が主で、式典の準備と後処理がメインの宰相を筆頭にした文官とは違い、式典本番という峠を越えた騎士達は今の期間はさほど忙しくはない。
そのためか鍛練を早めに切り上げたルミオンは1日の大半を、リシェーラを問い詰める時期を窺ってこうして過ごすのだ。
だからといってリシェーラの仕事を邪魔するわけではない。彼女の仕事を邪魔すれば部屋にすら入れてもらえなくなることをルミオンは重々理解しているのだ。
だが残念ながらあの日以降、処理しても処理しても山のように運ばれてくる書類や報告書のせいで彼が望むようなリシェーラとの会話は成り立っていない。
もちろんリシェーラは無駄な時間を過ごすだけだから部屋に帰って休息をとってはどうかと、書類から目を離すことなく何度か提案した。そして彼女の部屋に出入りする文官達も。だが彼は話すまでは通い続けると頑なにそこに立ち尽くすのだった。
「ルミオンとの話ならこれが全てなくなったらしますので気にしないでください」
「気にしないって言っても、まだしばらくはこれ、続くよ?」
「まぁ、そうですけど……」
「少しくらいなら構わないから話してきなよ」
そう勧めるのはリシェーラのためというよりも彼女の部屋に出入りする他の文官達のためである。見慣れた者でも騎士団長様が無言で佇んでいれば萎縮してしまうのだ。
「……わかりました。ルミオン」
ハザールの意図を汲み取ったリシェーラは仁王立ちをしたままのルミオンに声をかける。すると彼は一文字に固めた口を開いた。
「話なら俺の家でしよう」
「わかったわ」
なぜわざわざルミオンの家まで行かなくてはならないのかと、城内のどこかでいいのではないかと疑問に思ったリシェーラだったが数日間待たせてしまったという罪悪感が背中を押した。
そして城からほど近くに建てられたルミオンの家までたどり着くまで2人ともが口を開くことはなかった。
久々のルミオンの家はいつのまに家具を再び取り揃えたのか、靴箱やソファーなどの必要最低限の家具が並び、おまけに廊下には埃一つだって残っていなかった。
リビングの革張りのソファーへと身体を沈めるとさっそくルミオンは本題を切り出した。
「リシェーラ、ディートリッヒの何が気に入らない」
ルミオンが宰相補佐官室を訪れた時点でディートリッヒについて問われるだろうとは予想していたリシェーラだが、まさか何が気に入らないかと聞かれるとは思っていなかったため言葉に詰まる。
なぜ帰ったのかと聞かれればディートリッヒが居たからだと答えることができる。
そして彼とは顔を合わせたくないから帰ったのだとも。
だが何が気に入らないかと問われれば適切な答えが頭には浮かばない。
ディートリッヒと顔を合わせたくなくとも、約束を2度も反故にされようとも、他の思い出が邪魔をして、彼を嫌うことは出来ないのだ。
その代わりに彼を諦めきれない理由なら浮かぶ。
鬼と呼ばれるリシェーラを女性扱いしてくれるとか、どんな時でも他の女性にするのと同じように紳士的に接してくれるだとかそんな他の人から見れば些細な理由ではあるが、リシェーラにとっては大事なことあった。
「責めているわけじゃない。だが俺はこの数年でお前のことも、ディートリッヒのこともよく見てきた。2人が互いを好意的に見ていることも知っている。だからお前にディートリッヒを勧めた」
ルミオンは両手を組んで出来た穴にため息を詰め込む。
ルミオンはリシェーラのこともディートリッヒのことも娘や息子のように思っている。可愛がっている2人が互いに好意を寄せていて、けれどもどちらも先に進もうとはしないからこそ今回背中を押せればと思って立ち上がったのだ。
キッカケは国王陛下にリシェーラとの結婚を勧められたことではあったが、その時彼の中に浮かんだのはどうにかしてその勧めを断るかどうかではなく、城を去ってもまだなおリシェーラを思い続けているディートリッヒをどうにかしなければとのことだった。
実家へ帰ったディートリッヒではあったが、何度か城へと招集され、そしてその度にルミオンと酒を交わしていたのだ。
酒が進むにつれてこぼれ落ちる想いを耳にしては鈍感なルミオンだって気づかないわけがないのだ。
「なぁリシェーラ、ディートリッヒの何が気に入らない?」
そしてルミオンは繰り返し問う。
お前はディートリッヒが嫌いではないのだろうと確認するかのように。
「……ディートリッヒと一緒になったとして、幸せになる未来を想像することができない」
だからリシェーラは己の気持ちを丸めてくずかごへと投げ込むと即席で紡いだ言葉を返した。
「幸せな未来、か……。それはどんな男となら築けるんだ?」
「私を見てくれる人となら、築けるかもしれない……」
幸せな未来だなんてそんな子どもじみたことをこぼした自分に呆れて、そのついでに本心を継ぎ足す。
リシェーラはそんな相手など現れないだろうと思いつつも、居るのならば現れて欲しいと願う。
仕事一辺倒の彼女だが、実家から手紙が送られてくるたびに幸せな家庭を築いた他の兄弟を羨ましく思うのだ。
はぁとため息を吐いて俯くとその頭に降りかかったのは目の前の男とは違う声色を持っていた。
「俺じゃ、ダメですか?」
「ディートリッヒ……」
そこには居るはずがないと見開いた目リシェーラの目に映ったのはディートリッヒ。彼はリシェーラに懇願するように膝をついて、そしてこの手を取ってくれとばかりに右手を差し出した。
だがリシェーラがその手を取ることはない。破られた2度の約束で彼女は臆病になってしまったのだ。
「無理、しなくていいのよ。こんな女と一緒になって幸せになれるはずないもの」
リシェーラは自分の欠点など自分が一番よく知っているのだと、心に新たな防壁をいくつも築くとディートリッヒから目を逸らす。
「俺は……リシェーラと共にこれからの生を歩みたいんです。……ルミオン団長みたいに強くもカッコよくもないけれど。だけどリシェーラを思う気持ちなら負けない自信はあります。だからこの手を取ってはくれませんか?」
ディートリッヒは必死に言葉を紡ぎ、目の前の女性へと己の気持ちを伝える。だがリシェーラはどうしてもそれをそのまま受け取ることは出来ない。
「でも…………」
もしもあの時、彼が約束通りに部屋に来てくれたのならば迷いなく彼の手を取ったことだろう。だが彼は来なかった。
想ってくれているのならなぜ2度も約束を破ったのかとそれが心に引っかかるのだ。
リシェーラの呟きを耳にしたディートリッヒは唇に歯をついたてた。過去の出来事を後悔しているのだ。
「リシェーラはルミオン団長のこと好いているだと、全てが終わったら式を挙げるのだと聞いたんです……」