7.
上司思いの文官達のおかげで早々に暇になったリシェーラは心を落ち着かせるために文官の見習い時代に小脇に抱えていたボロボロになった教本を読み返す。
あの頃はただひたすらに教本の内容を頭に詰め込むことと上司からの指示を遂行することだけを考えていたせいか、城に来てから1年間は思い出といえるものがない。
ルミオンやディートリッヒに出会ったのはリシェーラが城に来てから1年と少し経った時のことだった。たまたま混み合った食堂で相席をして、それから何度と顔を合わせるようになっていた。
そして騎士団副隊長だったルミオンと、彼に目をかけてもらっていたディートリッヒの身分を知った時にはすでにそれが気にならないほどには仲が良くなっていて、それからもよく3人で王都へと繰り出したものだ。
思えばリシェーラにとってあの時が一番輝かしい思い出かもしれない。
ディートリッヒに想いを寄せずに、あのまま3人でまた酒を飲めることを望んでいればよかったのだ。
男性からの支持が厚いルミオンとは正反対に、ディートリッヒは細いわりに程よく筋肉の付いた身体と麗しいその目を惹く容姿で城内外構わず女性からの熱い視線を送られていた。
そんな彼から想いを寄せられていたなんて都合のいい勘違いだったのだろうというのがこの3年でリシェーラが導き出した結論である。
何を告げようとしたか分からない今、それがリシェーラの精神を安定させるのに一番いい答えであった。
懐中時計で時間を確認したリシェーラは一昨日の夜のこともからかわれたのだと結論づける。そしてウラル曰く、元気になれるのだというチョコレートを1粒口に放り込むとルミオンとの約束の場所の場所へと向かった。
待ち合わせ場所はルミオンとよく飲みに行く酒場兼食堂である。
朝昼晩、どの時間に来ても人で溢れかえっているその場でリシェーラが一番に見つけたのは待ち合わせ相手のルミオンの姿、ではなく1人で奥の4人がけの席へと腰掛けるディートリッヒの姿であった。
どうやら人を待っているようで、手元には汗をかいたジョッキがあるもののほとんどかさを減らしていない。
なぜこんなにも遭遇率が高いのだと毒づきながらディートリッヒのいる方角とは真逆の場所へと席を陣取る。落ち着いてから辺りを見回すもやはりまだ店内にはルミオンの姿はない。
体格のいいルミオンのことだから店に入ればすぐ気付くと、適当に酒を頼んでひとり酒を楽しんでいたのだが、待てども暮らせどもルミオンが来る様子はない。
この店は城からさほど距離が離れていない。それにあの男なら最悪約束を忘れているということもありえる。飲みの誘いを忘れ去っていた前科は3度ほどある。
リシェーラだけならそこまで気にすることはないのだが、なんならご飯でも食べて帰るものだが今回は他に人がいる。
ルミオンの知り合いとはいえ、その相手までバックれを食らっていたのでは可哀想だろうと席を立ち、とりあえず頼んだ飲み物のぶんだけの勘定を済ませる。そして店を後にしようとしたリシェーラが入口の境を超えるよりも早く彼女の腕を掴んだものがいた。
「待ってください!」
それはずっと誰かを待っていた様子のディートリッヒだった。
「今、時間がないから後にしてくれる?」
その手を一瞥したリシェーラははぁとため息を吐く。それと同時にもう何度もその手に乗るかと二度の失敗で得た苦い思いは喉元まで上がって来る。
「誰の元へ行くんですか? ルミオン団長、ですか? ……そう、ですよね。止めてしまってすみません」
次第に声色を低く、そして弱いものへと変えていったディートリッヒは同時にリシェーラの腕を掴む力も弱めて行く。
解放されたリシェーラは用がないのならと今度こそその場を去ろうとしたのだが、今度は正面からやってきたルミオンにその足を阻まれる。
「なんだ待っててくれたのか、入っていても良かったのに……」
「ルミオン!」「団長!」
ほぼ同時に待ち人であったルミオンを表す役職名を発したディートリッヒの顔と彼の顔を見比べてそういうことかと納得する。
「……ルミオン、会わせたい人というのは彼の、ディートリッヒのこと?」
そして一応とまでに目の前の男に質問する。
「ああ、そうだ。ディートリッヒのことはお前もよく知ってるだろう? つい3年前まで城にいて今は実家に帰っているが、国からは未だに給料もらっているから金には困らないぞ。それに何よりいいやつだ。俺が保証する」
「帰ります」
ルミオンから確証を得たことで、彼の身体と扉の小さな間に身体をねじ込むと言葉通りリシェーラは城の一室へと帰ろうとした。
「は?」
「誰がなんと言おうとも解雇されるまで、ギリギリまで城に居座って、退職金ガッポリもらって、その金で豪邸を建てて自由気ままな余生を過ごすことに決めました」
「ちょっ、待てよ」
だが体格差のあるルミオンの太い片腕で阻まれては線の細いリシェーラは先に進むことはできない。
「離してください」
「何でだよ、顔だけでも、って……」
「顔だけならもう見せたでしょう? だから終わり。それに、相手が彼だってわかってたら初めから来なかったわよ。私もそこまで愚かではないつもりよ」
まくし立てるように話し終えるとリシェーラはルミオンの腕を解いて早足でその場を立ち去った。
遠くで名前を呼ばれているのが聞こえたがリシェーラは気にかけることなくただひたすらに資料に埋もれた自室を目指して歩き続けた。