5 死んで果実が咲くものか
胸ポケットさした白百合のコサージュをまじまじと見つめる。
夢じゃなかったんだな……
そろりとコサージュを触りながら思う。手に伝わる確かな感触に、さっきまでの信じられない出来事が鮮明に思い出す。このまま、あの不思議な世界の幻想にもう少し浸っていたいような気がする。
しかし、今の俺にはそんな時間はない。決勝に向けて練習することが何よりも大切だ。このコサージュがあるということは、さっきまでのことは夢じゃないということだ。それならば、きっと俺の願いは叶うはずだ。願いを叶えるその時に向け、今は努力を惜しむわけにはいかない。よし、帰ろう。
荷物を手際よくまとめて楽屋から出る。コサージュはしまう箱が無いので付けたままにしておこう。急いで数時間前に通ったばかりの正面玄関を抜けて行く。まだ他の出場者が演奏中のため、ここはホール付近と違い人気があまり無い。混んでいたら楽屋口から出ようと思っていたが、こちらの方が家に帰りやすいのでこの状況はありがたい。人込みは苦手だ。
玄関を抜けると、大きな電動馬車がすぐ横に停まっていた。最近発明されたばかりのこの馬車は風の魔法で動くという。この国の国民は俺も含め、ほとんどのやつが風の魔法を使える。ほんの少しの魔力だけで動くこの馬車は発売されるやいなや、一家に一台と言われるまでになった。もはや馬がいないの馬車とはこれいかに…… そう思うのは俺だけではないだろう。どうやらあの馬車、ごこかの業者の物のようだ……
見ていると電動馬車の荷台から1人の男が出てきた。男の後ろからは、いくつもの籠がふよふよと浮かびながら付いてくる。男が作り出した風によって浮いているのだろう。その籠の中からは溢れんばかりの花がその花弁を覗かせていた。花…… そういえばあの部屋にも鮮やかなオレンジの百合があったな。
そのまま、後ろを振り向き籠の数を数えている男をなんとなく見つめる。花屋の男は全ての籠を確認すると、劇場の入口へと向かって行った。しかし、途中で俺の存在に気が付いたようでこちらを見て立ち止まる。まあ、こんだけ見られてたら気になるよな。今日は花に縁がある日だな、そう思ってつい眺めていてしまった。視線を男から玄関に飾られている花へと移す。
しかし男の視線は俺に注がれている。すぐに立ち去るかと思ったのに、男は何故かこちらを凝視したままだ。
「何か?」
最初に相手を見てたのは俺だが、あまりにもこちらを見つめてくる男の視線に耐えきれず声をかけた。多分花屋に知り合いはいない。そう思うが確認のため男を再び見てみた。癖の強いオレンジの巻き毛、タレ目がちな茶色の目。年は20代後半ぐらいだろうか? やはり見覚えは無い。俺の問いかけを受け、花屋は慌てたように手を振った。
「あ、すみません! さっき演奏して人だなって思ったので。演奏お疲れ様です」
笑顔で答えると、そのまま籠の花を指差した。
「僕は今回のコンクールと演奏会の花担当なんですよ。ちょっと飾っている花を変えたくなったので、今急いで代わりの花を用意してきたんです」
なるほど、演奏会場に花はつきものだ。さっき俺の通った廊下だけではなく、この正面玄関や会場の至る所に花が飾られている。普通、花の飾りつけは深夜や早朝に行われるものだが……
「随分と急ですね」
「はは、そうですね。でも決して演奏者にも関係者の皆さんにもご迷惑をおかけしないので」
「そうですか」
要件も終わったので、立ち去ろうとすると花屋は俺の胸ポケットを指差してきた。
「素敵な白百合のコサージュですね。まるで生花のようです。花びらも瑞々しいし、香りがここまで漂ってきます」
「ただのコサージュですよ。楽屋の廊下に飾ってあった百合の香りが服に移っただけじゃないですか?」
「僕、鼻いい方なんですけどそれとは違うような……」
男は周囲の香りを嗅ぐように鼻を動かしている。花の香りに個体差なんて無いと思うのだが…… 呆れたように見つめていると、馬車の助手席から新たな人物の声が飛んできた。
「ちょっと、あんたの突然のわがまま聞いてあげたんだからちゃっちゃと動きなさいよ」
扉から赤いブーツを履いた足がのそりと現れる。続いて真っ赤なコートの裾が。毒々しいまでに赤いブーツから目が離せない。きっとそれより上は見てはいけないと俺の本能が制止しているのだろう。すると、太い男の声と花屋の会話が聞こえた。最初に聞こえたのは花屋の声だった
「また花をそんな風にがっちり抱えてると花粉とかがドレスにかかるよ、コスイ」
「レンゲは分かってないわね。美しいものに花は付きものなのよ」
「さっき百合の花粉まみれになって怒り狂ってたのは誰だっけ? そう言えば百合どこにやったの?」
「別にそこら辺にほっぽってないわよ。あるべき場所にちゃんとあるわ。ってあら……」
会話が止む。見つめ続けていた赤いブーツがコツコツと音を立て近づいてくる。
「こんにちは」
すぐ前でブーツの先がピタリと止まった。同時に太い声が上から振ってくる。ゆっくりと、それはそれはゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、赤いコートをの下を羽織った大柄な人物だった。その人物は、籠に入っているのと同じ花を胸に抱き、赤い唇に笑みを浮かべ俺を見つめている。 視線を交わし合った後、さりげなく視線を持っている花の方へずらす。花にはゴージャスなカールを描いた赤毛がふんわりとかかっていた。身長はとてつもなく高いため、長時間目を合わせていたら首を痛めそうだ。快活そのものといったこげ茶色の瞳がにこりと微笑みかけてきた。
「さっきは演奏お疲れ様。とっても良かったわ。あなたが優勝して、その後の演奏会をプロデュースするの楽しみにしているから決勝もがんばってね」
バサバサと音が出そうなぐらい長いまつげをはためかせたウインクを飛ばされる。先ほどの館とは違った意味で、これまでに出会ったことがないタイプの人間だ。未知との遭遇に俺が固まっていると、助け船を出すかのように花屋が口を開いた。
「今日の準決勝が終わる前に花を運び終えなきゃ。行こうコスイ。僕だけで飾っててもいいけど……」
「ダメよ! あんたの腕は認めてるけど、総合プロデューサーは私なんだからしっかり確認させてちょうだい」
「はいはい、じゃあ行くよ。それでは失礼します」
「またね氷の貴公子さん」
1人は頭を軽く下げ、もう1人は唇に掌を添えると勢いよくこちらに向けて来た。そして、花いっぱいの籠を従えて、2人組の男は劇場の中へと去って行った。
確かに俺はピアノの練習ばかりで世情には疎い。読むのも譜面か演奏会の情報誌ぐらいだ。今回のコンクールと演奏会についても、話題の女性演出家が担当したということしか知らない。どんな人物かなんてホールに飾ってあるパネルを見た時点で、知る気が失せていた。あれがそうなのか……
なんとも言えない気持ちで赤いコートをまとったたくましい背中を見送る。
すると、ちょうど演出が設定された時間になったのだろう。彼らの周囲を照らすように、演奏者たちのパネルがキラキラと輝いていた。
死んで果実が咲くものか……死んでしまっては全てが終わってしまう。生きていればこそ良いことにも巡り合えるものだ。