2 死にたくなるぐらいの恥ずかしさと
懐かしい故郷の夢を見た。どんな内容だったかはっきりとは覚えてはいない。けれど、木が削られる軽やかな音、優しいピアノの旋律がまだ耳に残っている。
今朝はこの夢のおかげで、久しぶりに穏やかな気持ちで目を覚ますことができた。嫌な夢はうんざりするぐらい見るのに、本当に見たい夢を見ることはほとんどない。夢というのは自分でコントロールできなくて面倒だ。
でも、今日は夢に感謝しないといけないな。今の気持ちを曲に乗せたらきっと今日の準決勝が上手くいく。そんな確信が湧いてくる。なんせ今回の課題曲のテーマは〈故郷への告別〉なのだから。
※※※
出かける支度をしている内に夢はどんどん薄れてしまう。鏡からは薄い水色の瞳が鋭い目つきでこちらを睨んでいる。あの日から続く寝不足のせいで隈がひどい。ため息をつきながら、両親と同じ銀色の髪を撫でつけた。
故郷への溢れんばかりの憧憬と、それを失った悲しみ。そして故郷の全てを滅ぼした原因への憎悪。それが俺をこの国で毎年開催される権威ある国際コンクールへの出場へと押し上げてくれた。
勝負服のタキシードと、念入りに予習をしたスコアを持って部屋を出る。どうやら今、この家で起きているのは俺だけらしい。俺をこれまで養ってくれた養父母の興味は優勝だけなので、準決勝なんて眼中にないようだ。そんなのはとっくに分かっていたのに、あまりにあからさまな態度に苦笑がこぼれる。
静かな家の中を歩き玄関へと向かう。最後に誰に言うでもなく、幼い頃からの習慣で「行ってきます」と小さく言うと家を出た。
コンクール会場へと足早に向かう。年に一度のコンクール。音楽の都と呼ばれるこの街が一番盛り上がるのがこの季節だ。今はまだ朝早いので聞こえないが、お昼にもなれば街は音楽で溢れる。街のあらゆる場所で様々な楽器が大道芸人よって演奏されるからだ。音楽ではなく、人の声で賑やかな朝市を突っ切れば、荘厳な劇場が待ち受けていた。そして、その壁には……
これだけは勘弁してほしい……
そこには今日の準決勝に残った12人のピアニストの超特大パネルが飾られていた。ご丁寧に風と光の魔法によって一定時間ごとにパネルの周辺がキラキラと輝く等、こいつには様々な演出が施されている。俺たちはアイドルか何かか、そんな勘違いを起こさせる一品だ。
このバカげた演出はこの国で最近ものすごい話題の演出家によるものだ。恐ろしいことにそいつは今回のコンクールだけではなく、コンクールの優勝者だけの演奏会の演出も担当するという。俺の長年の目的はその演奏会に出ることだ。悲願達成のため優勝は誰にも譲るつもりはない。
だが、まだ優勝していない身だが…… 演奏会そのものへの不安がこのきらめくパネルを見ると湧き出てくる。見ていると決意が削がれそうなパネルを見てため息をついた。
朝日と魔法のダブルパンチでいつも以上に眩しいパネルを眺めていると、そこに各出場者の名前とキャッチコピーが浮き上がってきた。
〈超絶技巧の神の手の動きについていけるか〉 〈休符に放たれる流し目から目が離せない〉
右のパネルから順番に現れる謎のキャッチコピー。まだ20代の俺はコンクール出場者の中でも最年少のため、パネルの場所は1番左端だ。12枚目の俺のパネルが輝き始め文字が現れる。
〈あなたのペダルになりたい〉
意味が分からない。予選でピアノを弾いている俺の姿の横にでかでかと表示されるキャッチコピーが心臓に悪い。俺には全く理解できないが、今回の大会は演出家のおかげで集客力が大いに上がったらしい。朝市で嬉しそうに商人たちが言っていた。歴史と権威だけではコンクールは開催できない。商魂の逞しさもある一定度は必要だろうがもっと違うやり方があるだろう……
こんなの眺めてたら演奏に響く
そう判断し、離せずにいた目を引き離すと今見たものを忘れるように頭を大きく振る。それからわき目も振らずに用意された楽屋へと向かった。楽屋にさっさと入るとタキシードへと着替える。
支度を全て終えると、出番までの残りの時間を気持ちを曲に集中させることに注ぎ込むことにした。指の動きはもう大丈夫だ。後必要なのはどれだけ曲に感情を乗せられるかだ。観客の気持ちを俺の曲に引き込んでみせる。今は無き懐かしい故郷を思い出しながら何度も頭の中に曲を流し続けた。
「サンダーソンさん、そろそろ準備お願いします」
ノックと共に聞こえた会場係の声で現実に引き戻される。急いで返事をすると部屋を出た。楽屋から舞台へと続く廊下を歩く。廊下に飾られた百合の仄かな香りを小さく吸い込み、薄暗い楽屋袖へと入る。ちょど俺の前の出場者が舞台へと出て行ったところだった。客席から響く大きな拍手の音がここまで届いてくる。初めての大舞台、情けないことに緊張がこみ上げてくる。落ち着くため、目を閉じもう一度集中する。
何のためにここまで努力したのか思い出せ。
今朝の夢で聞いたピアノの音が頭の中で徐々に大きくなる。まるで俺の気持ちを奮い立たせるかのようだ。その音は再び聞こえた大きな拍手にかき消される。ゆっくりと目を開けば、ステージマネージャーが俺に出番だとサインを出している。それを見て大きく頷くと、スポットライトに照らされた舞台へと大きく歩みを進めた。
薄暗い舞台袖から一転して眩しい舞台へと堂々と歩く。ピアノ椅子の横まで歩くと、客席へと向きを変える。そのまま前を向きしっかりとお辞儀をした。1・2・3 心の中でカウントし姿勢を正す。
ピアニストも舞台人、役者と一緒だ。舞台に出たその瞬間からその立ち振る舞い全てが注目される。ここでしっかりと自分自身をアピールできなければ、曲のアピールなんてできる訳がない。
拍手が少し静まってきたので椅子に座る。
準決勝なんてまだまだ通過点に過ぎない。まだ舞台から降りるには早すぎる。
高まる気持ちを抑え、手を鍵盤の上に乗せる。俺の中にある〈故郷への告別〉への気持ちと、曲の中に描かれた〈故郷への告別〉。2つが俺の中でしっかりと重なったのを感じた瞬間、俺の手は最初の音を鳴り響かせていた。