プロローグ ①三雲 勇午
いったい、どれだけ歩いたのだろうか。
ついさっき歩き始めた気もするし、ずっとずっと歩いていた気もする。
くるぶしまで溢れ出た血と膿の洪水が、歩行を最大限に邪魔をする。踏みつける柔らかな感触は、途方もなく気色が悪い。まるで、巨人の体内を歩き回っているみたいだ。
いったい、どうしてこうなってしまったんだろうか。
わからない。気がついたらここにいた。既に何かを探して歩き続けていた。
僕は、答えを探して脳内を探し回る。
たった一つ、僕が得ていた確信があった。
それは、僕は既に死んでいるということだった。
死んだ? 一体どうして……。
最後の記憶は、何度と見てきた通学路だった。
舗装された道路、二車線の大通り、サイゼリアの緑の看板。
全てが、退屈で嫌というほど見てきた光景だ。
スマホの存在を、学ランのポケットにあるか確認したときだ。後ろの方で大声が聞こえた。それは、拒絶する様でもあったし、呼び止めるようでもあった。今になっては分からない、振り向いた時には既に全身に強い衝撃が被さっていた。
それが、何だったか分からない。ただ、その時、僕は死んだのだと確信した。
空から捻り出された膿の塊が目の前に落ちて、僕は現実に戻される。
見上げた遥か遠くの空には、肉襞の空が脈打つように蠢いている。時折、ミミズ腫れの様に黄色く膨れ上がった部分が破裂し、血や膿、緑がかった汁等をこのおぞましい大地に供給している。
大地は、血と膿の洪水でいっぱいだ。そして、それ以外何もない。何しろぶくぶくと各所から湧き上がる気泡から発せられった薄紫の気体が空気中に充満し遠くはぼんやりとしか見えないのだ。
これが、現実か。
自嘲気味に笑い、遥か虚空を睨みつける。
もし本当に僕が死んだのだとしたら、僕は地獄に来たわけだ。良いことも、悪いことも今まで何もしてこなかったのに。ただ、学校に行って友達と遊んで部活やって、まるでデフォルメされた高校生のような人生だった。
僕はふいに立ち止まった。
虚しくなったんだ。歩き続けることにも、自分の人生にも。
その時だった。
世界は痙攣したかのように震え始め、血の海は波となって僕の体に打ち付けた。
肉襞の空には一筋の大きな亀裂が入り、ゆっくりと裂け始める。
その巨大な裂け目は大量の血反吐を吐き出しながら、めりめりとその穴を広げていく。
何一つとして理解できることは無く、僕は唖然として立ち尽くすしかなかった。
空にポッカリと空いた穴から、何か巨大なものが更に穴を押し広げるように這い出てきた。
それはまるで、自らの意思で堕胎する胎児のようにも見えた。
いや、違う。肉塊だ。
遠近感覚を一瞬で破壊する程巨大な肉塊が、無数の腸や髪に吊るされてゆっくりと空の裂け目から降りてきたのだ。
その肉塊は血の大地に到達する寸前で停止し、幾本もの触手を肉の狭間から捻り出すと、それを血の海に這わせ始めた。
訳が分からなかった。
それでもただ一つ、ここから遠くに逃げ出すべきだと直感的に感じとれた。
僕は決心し、肉塊に背を向けた瞬間、自分の決断は全くもって遅かったのだと思い知った。
右足が一本の触手に掴まれていたのだ。
「んなっ!」
僕が叫び声を上げると同時に、右足が思いっきり引っ張られた。
体勢が崩れるのをどうにか持ち直そうとしたが、信じられない程の力で引きずられ、僕は血の海の中に顔から突っ込んでしまった。血が少し喉に入り、途方もない嘔吐感が全身を襲う。
頭上から笑い声のような産声のような判断のつかない声がした。血に頭から突っ込んでいるせいか、何と言っているのか分からない。そもそも、この世界で自分以外の生物を見たことが無いのだ。
やっとの思いで顔を出すと、数本の触手が僕を囲むように這っていた。それらの触手の先端は威嚇する蛇のように鎌首を上げていた。蛇と違うのは、先端についた歯は人間のものの様に四角く不揃いなだけだ。
「ンぎゃガがしゅゆチュシュんゲガッガッて」
触手の一本が不揃いな歯をガチガチ動かし叫び声をあげた。僕は、金縛りにあったように身を強ばらせる。怖かった。泣き出したくなるくらい怖かった。
「ちぇりすすす、ころしすすす、ひゅりかりしすすす」
「モンガーナハ」
「ギッィーーー、ギッィーーー」
触手達は次々に叫び声をあげる。その一つひとつが意味がわからず、何がしたいか分からない。
「Hello」
「えっ?」
僕は驚いて振り向くと一本の触手がもぞもぞと、前に進み出てきた。
「Do you speak English? Chinese? Spanish?」
「じゃ、ジャパニーズ!」
「こんにちは」
触手は流暢な日本語を喋ると、一斉に肉塊にへと戻り始めた。
いま、こんにちはって言ったのかあの触手は。
頭が混乱してくる。いったいここは何なんだ!
「輪廻を外れシし者よ、環魂の流レヲを乱せセし者ヨよ」
僕の混乱を他所に、突然世界に地鳴りの様な不気味な声が響き渡った。その声は、明らかに発音できない音域を強引に出しているようで、不協和音のようにう安定せず聞き取りずらい。だが途方もなく響く声は、まるで花火を間近で見たかのように衝撃となって胸に重い負荷をかけた。
誰が喋っているかの特定は容易だった。あの巨大な肉塊なんだ。
肉塊は外側の肉を人の口のように裂いて、僕に向かって語りかけているのだ。その口のような部分が上下に開閉するたびに、想像を絶する程の悪臭を孕んだ突風が吹いてくる。
「汝ら三界の狂人ハは狂セせる事ヲシしらず、四生ノの盲者は盲なる事をシし識る、生まれ生まレれ生まれ生まれ生まれて生の始メめに暗く、死二に死に死に死に死んで死の終わりに冥しと云うがされど汝は違う」
肉塊の口の様に裂けた部分は、しだいに膨れ上がり内部には活発に動き回る突起物と白い骨が生えそろう。口、そう人の口だ。ただ裂けていただけの部分が今や、完璧に人の口へと変化しているのだ。
「あ、あの、ここは何なんですか! あなたはいったい何なんですか!?」
僕は、遠くに鎮座する巨大な肉塊に向かって大声で叫んだ。久しぶりに喉を動かしたせいか、口は上手く回らず、張り付いた喉には激痛が走る。
肉塊は言葉が通じたのか、唇を歪め、肌色の薄い膜で覆われた中の目のような部位がせわしなく動き回る。
「神、悪魔、物の怪、終末、創造主。汝らの言葉に、類似したものは多様にあるが正しく我を形容するものは無し」
「じゃ、じゃあ僕は何の為にここに来たんですか!? 僕が死んだのはあ、あなたが原因なんですか!?」
束の間の無音。
この僕の問いに肉塊は答えるつもりなど無いのだろうか。ふと、そう考え肉塊を睨んだ僕は驚愕に襲われた。
笑っていたのだ。口角を釣り上げ、歯を剥き出しにし、音もなくニィと笑っている。
嘲笑だ。あれは、他人をあざけ笑う笑みなのだ。
その瞬間、僕の足元は急に安定を失い泥の様に崩れ始めた。底なし沼に沈むみたいに僕の身体は肉の地面に沈んでいく。
「……否。汝が魂は次なる肉を、入る母体を違えたのみ。安心せよ、我が特別に次なる肉を与えよう」
「あ、がぼっ……なんっ」
いくら抵抗しても、不快な感触の地面にずるずると引き込まれてしまう。
身体は肩まで沈み、顔が血の海に浸かる直前に見たものは、愉悦に浸るように笑う巨大な肉塊であった。
「汝は我が次なる――」




