蹂躙の蝶
眠っていた記憶を辿る。
時間と空間が複雑に入り組んだ混沌とした世界へ。
…呼ばれていた、互いに呼び合っていた。
高い崖の突先にキミは立っていた。巨大なクリスタルの女神の像がキミだった。背中に翼を湛えて、簡素な衣に包まれて、祈りを組まれた両手に顕して。
ボクは崖の底から見上げていた、であるはずなのに間近で向き合っているも同然な距離だった。ここは宇宙の厖大な果てであるかのもしれなかったが、遥かな太古の情景であるのかもしれなかったが、実際ボクの内面に掘り当てたとても近い場所であった。
キミはトオイ眼をして麗しかった、キミはキスを待っていた、透明な美しい液体金属が渦を巻いている。クリスタルの内部に充満した流動物…それがキミの心だった。
キミはボクの後頭部を鷲掴みにして、ぐっと激しく引き寄せたのだ。そして唇は奪われていた。
(痛っ…)赤い血が流れ墜ちた…顎より首筋へと垂れ落ちていった…キミの激しい情動がボクの唇を呆気なく裂いてしまったのだ、ときめくキスより…キミは噛み付いて。
狼狽えていた、しかしキミはそれでも激しい欲情を止めなかった。弄ばれている…でも、骨や精神ごとしゃぶり尽くされてしまいたくなるほどの。
留まらないキミの好奇心と、生贄を誓ったボクの忠誠心が。滑らかに金属は光っていた、透明な紋様が沸騰する想いの速度を物語っている、これは宇宙の始まりからきっと計画されていたんだ、無邪気な…小悪魔の悪戯…キミの転がした運命の操り糸。
やはり遠かった、見つけるだけでは無駄だった、所詮ボクの脳髄は限界を過ぎていずれ抱えきれなくなる。頭蓋骨から宇宙の精は放射されて、ボクの知らない宇宙が突然始まっていくばかりなのだ。皮肉なものだ。そして後続する存在達は安逸なる世界を愛欲する時間の支配を欲しいままにしていき。
景観が戻っていた、ボクは高い崖の上を未だ見上げていた、ここからでもハッキリと判る、細やかな龍や龍が絡み合っているような…透明金属の波紋…
身を焦がし、この身を圧倒し、キャパシティをとうに超えているというのに、ボクのほうこそ情動は収まらなくなっていたのだった、ああ…透明な想いを…ボクの魂で色づけたい…!
しかし差は取り返し様もなく途方もなく拡がってしまった。混乱が気象を伝播する、世界は崩壊へと近づいていた。地面が、のみならず空気さえ、ボクの肉体が爛れ崩れ落ちていく、腐ちていく、蕩けていくのだ、現実が、ボクのただひとつの大切な現実が。
ボクはもう骨さえ溶けてしまった、精神は死にゆく世界へと漏れ出して、ドロドロと汚い液体となり這いずりまわっていた。呻く。世界の空気が震える。ボクは痛みさえ忘れてしまい。キミは唇の位置からすっと後方へ戻していた、ぷっと唇の片を飛ばしていた、じゅっと音たて憐れに蒸発してしまった、たったひとつこの世界に遺されていた肉体のカケラさえとうとう消えてしまった。
切なくて、苦しくなる、せめて。静寂になるまで待って…
夜が更け、すべてが眠るころ…みなの精神が開放されて、穏やかに沈む世界の完璧な時間帯に。
透明なキミは消えていた、宇宙の隅々より無数の生贄を呼び寄せて、世界ともども、すなわち脳髄や頭蓋骨ともども破壊し滾らせ消し去ってしまうキミの残酷な気配、情動。闇を透明に染め上げる女王。翼の生えた天使、悪鬼。
なぜ消えたのだろう?それとも何物かに駆逐され消されてしまったとでも言うのか?
仇討ちが果たされたのだとしても、それがボクのためや無数に朽ち果てていった悲劇的な同胞達の僅かな救済の子守唄であったのだとしても、ボクはそれを認めたくなかった、そんな空虚な事実より、すべての憐れな生贄どもを蹂躙して、圧倒的に踏み潰す悠然と超越した破壊の蝶を求めるばかりだったのだ。
それは宇宙の隅々にまで伝播し感染した、ある種健全なる病の兆候だったのではなかったか?
静寂…
それでも、キミは居ない。
故に、宇宙には、理由がなくなった。
存在する意味、存在と存在とが互い敵意を抱き、全力で殺し合いながら、結果的には愛し合い、肉となり精神となって循環する、一面地獄絵図のような、もう一面は情愛の桃源郷のような、そんな熾烈な宇宙の一体化に…
運命は死を選んだ、宇宙は空疎だった、何もなくなった透明な廓に咲いていた。新しい、現実などもういらなかった、ボクは絶望していた、息苦しい、とりとめのない真実が、本当に咲いているのだった、ボクはその一輪の花を、宇宙の象徴を、踏み躙りたくとも、消え去って透明になったこの肉体では、どうしようにも敵わないのが、もはや浮かべる事も出来なくなった苦笑いの種となって、それでもしつこく付き纏ってしまうのが、皮肉で仕方なかった。