黄色
生と死の境の場所には川が流れているという。石ころが乱立する河原に降り立ち、恐ろしげな爺婆に身ぐるみはがされて、なけなしの6文も渡し賃に吸い上げられる。そして一度川を渡ってしまえば、戻れない。その話を初めて聞いたとき、あの世へは何も持っていけないんだなあと、幼心に思ったことを貴文は覚えている。大人になってからは流石に三途の川の情景には現実感をもっていなかったが、死の縁の場所は、それ相応に寂しく、冷たい場所なのだとはおぼろげに想像していた。
それなのに、これは一体どういうことなのだろう。
いま貴文の面前に広がるのは向日葵の海だった。丘の上から眺め下ろしているため、随分遠くまで見えているはずだが、地平線の彼方まで向日葵である。右を見ても左を見ても、青い空以外の視界全てが向日葵の黄色に埋め尽くされていた。しかも花は一本残らず見事に生命を謳歌する鮮やかな色をしていた。ずらりと並んだ黄色の頭はゴッホが描くようなくすんだグラデーションではなく、また項垂れた花も全く見当たらない。みっしりと敷き詰められた花の全てが綺麗に太陽を睨んで首をもたげている。その様は明らかに尋常ではないのだが、まるでこれぞ向日葵という見事な一本をコピー&ペーストで執拗に並べたみたいだなと、貴文は妙に冷静に思った。
この向日葵畑を見下ろす丘に立つ前、貴文は車を運転していた。夕暮れ時、T字路を右折しようとした時、トラックがこちらへ迫ってくるのが見えた。回避のために動く時間は全くなかった。意識を失っているらしい相手運転手の顔がはっきり見える距離で、ああこれはダメだと思ったのが、最後だった。
そして気がつけばこの場所に立っていた。丘のふもとからわずかに吹き上がってくる青臭い風を頬に感じつつ、おそらくここはあの世かそこに向かう場所なんだろうと、貴文は先ほどから考えていたが、思考はその先へ続かなかった。正確には、その先というものが分からなかった。
向日葵以外、生き物の形をしたものは周囲には見当たらない。あの世へ導いてくれる何かがいても良さそうなのに、貴文は一人向日葵の海のただ中に放り出されたままだった。
暫くはその場に座り込んでいたが、傾く気配もない太陽にも焦れて、貴文はゆっくりと丘を下っていった。自分と背丈のほとんど変わらない向日葵の群れをかき分けて進む。ざくざくと歩みを進めながら、向日葵の手触りや香りが記憶の中にあるものと同じであることに貴文は戸惑っていた。手折ることも難しいたくましい茎には堅い毛が生え、少し触れただけでも痛い。花の中心にある人の顔面ほどの大きさの茶色の部分は、ミツバチの尻毛を連想させる。丁度その密集具合もハチが巣に群れる様に似ていると貴文は常々思っていた。無数の向日葵を眺めながら進むうち、貴文は向日葵についてそんなこと思っていたことを思い出した。向日葵という花は、多くの花が象徴する繊細さや儚さとは無縁だ。太陽を追いかける生命力としたたかさは、もはや植物のそれではないような気さえする。夏に向かって背を伸ばすこの花を見かけるたび、貴文は心がざわつくのを感じていたのだ。
風が向日葵の首をざわりと揺らした。むせかえるような花粉の香りに、貴文は顔をしかめる。
丘を下って向日葵をかき分け始めてから、もうかなりの距離を歩いたはずだが、風景に変化はない。胸から下は濃い緑の葉に埋もれ、視界は一分の隙もなく鮮やかな黄色と蠢く茶の塊の群れに占拠されている。相変わらず太陽は頭の真上でぎらついているが、不思議と暑くはなかった。作り物染みた景色の中で、触覚と嗅覚だけがこれは現実だと主張している。
ああ、そういえば
貴文は足を止めた。指先に刺さった向日葵の細かな毛をじっと見つめる。一瞬風が止み、向日葵畑は静止した。
俺は、この花が嫌いだったんだ
黄色頭の獄卒が、一斉に貴文を見た。




