プロローグ
グラントス大陸、北に広大な山脈があり肥沃な大地と人族が栄える地である。
西には未開の新大陸、東には未だ詳細な地図のない東方の島々が広がる世界だ。
世界は広く、誰もが新しい場所を求め広大な大地を切り開こうとする時代。
世界は大きく変化を迎えようとしており古代の呪い、魔族と言ったものはすでにお伽話となり伝説と成り果てた後だった。
その中、中華煉国は白天山という大陸最大の山の麓にある大陸一の大国だ。
西では騎士の国、ファーリアス帝国と衝突を繰り返し、さらに中華煉国は東の島々、東方連合の国々とも領土を拡大するために長年戦争を繰り返し、戦域を拡大させていた。
中華煉国の圧倒的な力は、工業の振興による大量の武器の生産だ。
山の鉱山から金銀、川からは砂金。
その豊富な財力を持って、鉄を精製し、武器を造り大量の人員を揃える。
だが、それでもなおこの大陸の覇権を握るには足りなかった。
ラムール川を挟んだファーリアス帝国との戦い、それに越中河を挟んだ東方連合との戦争。
いずれの両国も一歩も引かぬ対抗する力、それは……
ファーリアス帝国の怪しげな妖術、東方連合の強靭な武人達だった。
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越中河の中華煉国側、指揮所を備えた砦が野営地の中心に建てられている。
長年の戦争で砦は強固となり、度々河の向こう岸押し戻された東方連合の猛攻にも耐えるほどだ。
だが、その砦の中の寝所である場所では中央から派遣された官士達がうめき声を上げていた。
「またかっ!これで暗殺された指揮者は何人目だ!?」
格子造りの部屋の中で、無残に首をはねられた将軍の姿が晒されている。
集まったのは武人を兼ねる官士で、文官は恐れをなして部屋に近づくことさえ恐れていた。
「これでまた最高指揮官は死亡、円雷参謀官、次はあなたの順番だ」
円雷と呼ばれた武官は、長い息を吐きながら死体に近づいていく。
それから静かに――首がない元最高指揮官の逃亡を阻止した、そして喉に刺さり声を出さなくした鉄器を引き抜く。
「野営地だけで三万、三千の兵士がいる砦の中に侵入し、見事成し遂げたか……これを見た事あるか?」
円雷は隣に立つ副官に、手のひらほどの矢尻のような短剣を渡す。
受け取った副官はすぐに、納得したように頷いた。
「苦無と言いましたかな、東方のさらに東の部族が使う武器だと聞き及んでおります。尋常ではない肉体改造、邪心に命を捧げる狂信者……確か、忍と名乗る戦闘集団ですな」
その言葉に恐ろしげに身を震わせるのは入口に固まっている文官だ。
「やはり、我らが統治すべき蛮族どもよ……恐ろしげな」
円雷は侵入し逃亡した出窓に目をやり、そこから見える暗闇に目を凝らそうとする。
が、やはり何も見える事はない。
「蛮族か、……だがこれほどの武国を倒すためだけに、我ら煉国は一体どれほどの消費を繰り返してきたのか……」
円雷の気弱と取れる発言に、文官は聞き及んだとばかり咎めた。
「なんと、我らが聖上様のご意思を疑われるのか!?」
「……いや、ただもう少し無欲であられればよいのだが……、と申しているのだ」
いずれにしてもと、そこに副官が前置きをして述べた。
「惜しいですな、これだけの力、滅ぼすことなく我が国に採り立てることが出来れば……!」
副官は手に持っていた苦無をすぐそばの柱に向かって投げる。
だが、十分な戦の経験を持つ武人の彼でも、苦無は柱に当たるだけで刺さることなく転がり落ちた。
「このままだと、たったの一月で一兵卒が将軍となる日も近いかもしれぬな」
円雷は言うと、それから半ば本気で呟く。
「出来れば私の寝所の壁は、何も通さぬ鋼鉄で作ってもらいたいものだ……」
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船が出発しようといていた。
中華煉国の港を出発し、アルノアラ海を南下し新大陸へと進む海路を通る船だ。
商船であるその船は、中華煉国が納める新大陸を目指す準備を終えていた。
全ての荷を詰め込み、もやいを解き船は帆を広げ徐々に港を離れ始める。
「あ~あ、間に合わなかったみたいだな……」
船の船尾でキセルをくもらせる船長は桟橋を見詰めながらつぶやいた。
三日前、旅人として船に載せてくれと言った者がいたのだ。
大金を弾み、何も問わずただ乗せろと。
と、桟橋にようやくその男が乗り込もうと急いで走ってきた。
まるで異教の宣教師か、暗殺者かの様な風体――全身黒づくめ、黒のフードとマスクで顔を隠している。
背中には紐を繋いだ旅用の箱を背負い、これでもかと言うぐらい尋常な速度で突っ走しる。
だが、どう見積もっても船には間に合いそうにはなかった。
商船も一人の旅人の同伴を待つために、錨を降ろしたりするつもりはない。
「残念だな、多額の前金も支払われていたのだが……」
船長は思わず嬉しそうに言ってしまった。
持ち逃げになるというのは理解していたが、出立の時刻に遅れたのは向こうが原因なのだ。
船長は姿が見られないように隠れようと踵を返すが、男の動きに目を止めた。
「おいおい、海に落ちるぞ」
黒づくめの旅人はまるで諦めるつもりはないのか、桟橋を砕く勢いで速度を落とさない。
すでに船と桟橋の距離は10メートル以上。
届くはずはないのだが、いきなり男は背中に手をやるとショートボウを取り出した。
船長は身構える暇もなく――こちらを殺すかと思われた矢は繋がった鋼線を回転させながら、船尾の木に突き刺ささる。そのまま男は桟橋の端を蹴り飛ばした。
異常な力で跳躍、そしてボーガンは矢に繋がった鋼線を巻き取りにかかる。
中華煉国でも首都の方でしか生産されていない珍しい巻き取り式弓具だ。
並外れた男の跳躍力もあり、ぎりぎり男の足の先端は船の欄干に掛る。
「おいっ!」
だが、海の波で船は揺れ男はバランスを崩す。
慌てて船長は手を伸ばし男も手を伸ばして繋ぎ、甲板に降り立った。
「驚いたな、そんなに乗りたかったのか。まあ、こっちも止まる気はなかったが」
「構わない、それより修理費は余分に払う」
男は船尾に突き刺さった矢を回収し、ショートボウを折りたたんだ。
船長は男の手袋越しの手の感触、男の風体から武人だと気付く。
男は荷物を降ろすとまとめ直し、手に持ち替えた。
だがそれだけで、フードは脱がず男はこの熱い太陽の下だと言うのに、素顔をさらす気はないらしい。
「いくら払ってもいいから転覆だけはしてくれるな」
男の要求はそれだけで船長は了解、とだけ答えると旅人に関心を持つのやめた。
関わるのはよくない感じだ。一体何の用があって、中華煉国のお膝元から離れて行くのか。
武人なら武船に乗って行けばいいのだ。はてさて逃亡兵か追われる犯罪者かまた追う者かまあ、いずれにしても自分には関わり合いがないものだ。
「おっと、悪いよ」
そこに止める間もなく、一番若い船員が旅人の体に倒れ込んだ。
若者は何度も盗みを働いている前科者だ。中華煉国の人間は、大抵は前合わせの懐に腰袋を入れている。
船が揺れた事で倒れる振りをした盗みだったが……船長は若い船員の愚かさを嘆いた。
殺されないだけましというものだが、若者は逆に自分の腰袋を盗られていた。
男は船長の視線に気づき、それを投げてくる。
「やっぱり、関わりたくねえな」
船長は慌てた様子で体をまさぐる船員に、げんこつとともになけなしの賃金が入った袋を返す。
それから船長は、じっと船の進路、進む先を見ている旅人からようやく目を離した。
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その数か月後、ファーリアス帝国の街道を何列もの馬車が進んでいた。
大型の幌馬車で、中には旅を続ける旅人や、伝令を運ぶ書状を持つ貴族の下僕だ。
その他には奇妙な事に、一人だけで座っている修道女の姿もあった。
「なあ、あんた。その修道服ってどこの宗教だっけ?ヴァニア教には見えないな」
修道女の少し間を開けた場所に座る旅商人が訪ねた。
声を掛けた先の修道女は薄茶色と白の体全体を覆う服に、寒さをしのぐ上着だけを掛けたいでたちだ。
旅商人はこの修道女が、旅に慣れていない――しかも、共も連れずに歩いているのだからいい商売相手になると踏んだ。
商売と言ってもこの修道女自身が商品になるのだが――この辺りのファーリアス帝国、グスタヌフ公爵領は奴隷商売が盛んで――売りつけようと思えば、すぐそばを何台も奴隷馬車が通りかかっていた。
「…………!」
だが振り返った修道女の顔を見て、旅商人は思わず思考も言葉も失った。
見えるのは顔だけと言っても、そのぱっちりとした碧い瞳、長い睫が縁取る目、小さな顎と唇だけだ。
だがその可憐な顔は一瞬で目を引くほど整っている。
驚いた、体型から見てもっと年がいっていると思ったが、まだ16やそこらのうら若い少女だ。
「いや……君ほどの若い子が共もつけずに……」
旅商人は思わず興奮して、近寄ろうと立ち上がったがそれを後悔することになる。
グルアアアッ!!獣の唸り声が聞こえ、旅商人はひどく驚く。
少女の隣のぼろ布の山。
ただの荷物かと思っていたそれが立ち上がり、鋭く長い牙を見せて少女の前に立ち塞がる。
そのまま旅商人に向かって飛び掛かり、押し倒しその荒い息をすぐ目の前で響かせた。
「うわあッああ!!」
この大きさ間違いない、マスタヌフの超大型犬だ。
中華煉国の山奥に住む剣歯虎の血を引く犬で、成人となれば人間の腰辺りまで大きくなりライオンに並び立つほど大きくなると言われているほどだ。
すぐ目の前に見える鋭く長い牙は、剣歯虎譲りで人間の首にやすやすと突き刺さるだろう。
「おやめなさい」
少女が一声かける。
すると、その犬は旅商人の上からどき、少女の元に戻る。
それからボロ雑巾のような巨体を治め少女の足元で再び丸くなった。
ようやく旅商人も体の震えを押さえて、その犬を初めてまじまじと見れるようになる。
見れば左側の牙は半分で折れ、その体は薄汚れてどこか年寄くさい。
元々、マスタヌフは貴族専用の犬だ。
白く輝く長い綺麗な毛が一般的で、そしていわゆる馬鹿犬だという事も知識として知っている。
だが、この犬はそのどれにも当てはまらないようだ。少女のいう事をしっかりと聞き届けている。
「申し訳ない事をしました。お怪我は」
「えっ……あ」
旅商人は自分の下腹部が濡れているのに気が付く。
羞恥で顔が染まり、慌てて馬車内の全員の視線から逃れようと後ろに引っ込もうとした。
「待ってください。私の犬が申し訳ない事をいたしました。これも何かの縁」
けれども修道女は男を逃がさないとばかり、腰の布を掴んだ。
懐から取り出すのは、宗教家が持っている首飾り。
「うげっ……」
思わず旅商人は呻いた。
少女が持つ首飾り、それに男が何本もの槍で突き刺さり腸を流している物だった。
さらにつるされた男は喜色を浮かべていて、さらに異様な悪寒を誘う。
「我らが神にあなたの旅の安寧と無事を祈る祈願をさせてください」
「いや、結構ッ!!」
この少女、邪教の娘だったのか!
ファーリアス帝国には国王が定める宗教、唯一神ヴァニアだけが認められているが、異教の宗教はいくつも存在する。その中には、とても常軌を逸しているとしか思えないものもある。
考えれば旅商人はこの少女の美しさにも一人でいる事にも合点がいった。
生贄になる途中なのか、それとも他の町で宗教という名の誑かしを行う気なのか。
「イル・ハーレヤ・キエン……」
一心不乱に床に額をこすり付けて祈る修道女は呪詛にしか聞こえない祈祷を唱え始める。
慌てて旅商人は自分の荷物をひっつかみ耳を塞いだ。
「や、やめてくれ!!言うな、何も言うなあッ!!」
異教の神などという悪霊に取りつかれたくなどはない。
恐怖に支配され、旅商人は慌てて幌馬車から飛び降りると必死に夜の中を走り出した。
邪教から逃れるため、ヴァニア教が守る教会を一心不乱に目指す。
「ふうっ……」
旅商人がいなくなった後、少女は再び元の場所に座る。
もう誰も話しかける事も視線を合わせる事もしてこない。
少女はこの手段を使って何人もの話しかけてきた相手、危険と感じた相手を排除してきたのだ。
あの男が運がなかったのは途中から何も知らず乗ってきたからだ。
「よしよし、いい子」
少女は忠実な犬を撫でると首元に吊るされる異様な十字架をどうでもよさそうに指ではじいた。
それから今度の相手のためにも、頭の中でまたそれらしい呪文を考え始める。
視線を前に向けるも見えてくるのも暗闇ばかり。
それでも少女はじっと、目指す場所を見つめ続けた。
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時間が違えど、二人は目指す目的地は同じ。
ファーリアス帝国東南の地、前ウィリア辺境伯領地、現ライベル公爵領地。
海に面し、港を持つ帝国最大の貿易地、ナインバルの地だ。