動き始めた時間 (ウゴキハジメタ ジカン)3
『逃げていたんですよ。ワタシから、この国から』
チャールズは兄への言葉じゃない。これは、僕に向けられた言葉だ。
『逃げて、逃げて、逃げた先には一体何があったんです?』
その先にあるのは虚無だ。希望も、未来も、試練を乗り越えようとしない者には訪れない。
「悩んでおるようじゃな」
声をかけられて驚いた。フローラが目の前にいる。いつの間に……。
「知っておるぞ。お主はあの娘を逃がそうとしておるのだろう」
「まさか。この国を敵に回す度胸なんて、僕には無いなぁ」
状況反射のように笑顔を作る。
「確かに、お主にそんな度胸は無かろうな。だが、信用できぬ。お主はまだ、わしの質問に答えておらぬではないか。嘘の中に真実を混ぜれば騙しやすくなる。なるほどそれは確かに上手い逃げ方だ。だが、大抵の人間ならば騙されてしまうやもしれぬが、このわしは騙されぬぞ」
突然、フローラはふっと笑みを溢した。
「まあ良い、言いにくきこともあろう。問い詰めはしまい。わしはそこまで酷な人間ではないからな。……逃げるという行為は決して悪いことではない。己の弱さを自覚し、勝ち目のない戦いから逃げるのもまた、一つの戦いだ。お主の見た絶望がゴールではない。それはただの通過点に過ぎぬ。先を行くことができぬほどの深さを持つものなのだとしても、わしならお主を救ってやれる。悩みがあるのなら、いつでも相談に乗ってやろう」
「フローラ様……」
光を見た、気がした。
掴めない何か。……そんな風に言って誤魔化すのは止めよう。それが何なのか、本当は分かっている。今、それを掴みかけたじゃないか。
残酷な女神様、彼女がどうしてそう呼ばれているのか。答えは一つ。
暴君だからだ。
言葉巧みに人を操り自分の思い通りにさせる彼女は自己中心的でありながら、人を惹き付ける何かを持っている。関わり合いを持つと面倒になるはずだ。それでも。
残酷な女神様。あなたは光臨してしまった、堕ちるだけ堕ちてしまった僕の目の前に。
ごめんね、メグリヤ。
僕は君との約束を守れそうにもない。
「―――っ」
はっとして飛び起きる。
「夢……?」
自分が無意識のうちに泣いていたことに気付いた。どうして涙なんかが出るのだろう。
「おはよう、クリス」
メグリヤがやってきた。僕は彼女に気取られないよう慌てて涙を袖で拭い、「おはよう」と言い返した。彼女はそれに答えるかのように微笑む。なぜだか、もう見慣れてしまった彼女の笑顔に元気がないように見えた。
「どうしたんだい?」
「夢を見たの」
「夢?」
「ええ。何だかとても悲しくなる夢。あんまり覚えていないのだけれど……」
「奇遇だね、僕も同じだよ」
「クリスも?」
「ああ。―――食堂に行こう。この時間帯なら、きっと誰かいるはずだ」
食堂に行くと、すでに鈴が来ていた。
「おはよう、鈴」
「クリス……と、メグリヤか。おはよう」
鈴はあまり快活ではない口調で言った。
「他のみんなは?」
鈴は首を横に振る。
「まだ来てないよ。いつも僕が一番なんだ」
「昨日は悪かったね。僕らのせいで君が怒られてしまった」
「大丈夫、気にしてないから」
「そういえば、さっき一番にここに来たって言っていたけれど、あなたはいつも一人で朝食を取っているの?」
メグリヤが訊いた。
「博士がいる。博士は『天才科学者』だから、頭を使う。頭を使うと、お腹が減るんだって。だから、朝になるとすぐお腹が減るんだ。書斎にいない時はたいてい食堂にいるよ」
扉はすでに半分開きかけていた。鈴はドアノブに手をかけた。そして、そのまま動かなくなった。
「どうしたんだい?」
返事がない。ただ一点を見つめている。聞こえていなかったのだろうかと、僕はもう一度声をかけてみることにした。「どうしたんだい?」
鈴はゆっくりと振り返った。その表情は蒼ざめていた。
「死んでる……」
彼はただ一言、そう呟いた―――。