クリスチアナの過去2
こいつを知っている。こいつは―――。
「君とは手を組まないよ、絶対に。君だってこうなると予想がついていたんじゃないかな、マルス?」
数年前に謎の失踪を遂げた男。兄さんをむりやり被験者にして記憶の改ざんを行ったサイエンティストだ。
「ふん。お前が私のことを知っていたとは驚きだ」
「驚いているようには見えないけどね。言っておくけど、君と戦うつもりはないよ。僕を殺すのが目的ならそうすればいい」
「何の障害でもないお前を闇に葬るほど私は残酷ではない」
僕はハッと笑った。「そうかい、そいつは残念だ」
「さっき言っていたのは建前か」
「そうだね、そうかもしれない。……本当は君と戦ってもいいんだけれど。それじゃあ兄さんが報われないからね」
「兄? ……ああ、あいつのことだな」
マルスは、やっと今思い出したと言うような表情を作った。認めたくないが、きっとそれは本当なのだろう。わざとではない。僕は無性に腹立たしくて、逃げるように話題を変えた。
「今までどこに隠れていたんだい?」
「易い質問だな。そんなことを聞いてどうするつもりだ」
「まあ、こういう性質なもんでね。その逸材から埃が出るなら何だってするんだよ、僕は」
「フローラに聞いた通りだったな。お前は偽善者―――いや、策略家だ。自分でも自覚しているのだろう?」
「元々優しさなんて備えていないんだ。あれは……そう、ただの真似事だよ。困った時にどうすればいいか。それが上手く対処できる人を見つけて真似しているだけ。どうすれば相手に不快感を与えないか知っているだけだ」
かつて彼ら―――玲と鈴―――は、自分たちのことを機械だと称した。何をしていても現実味がない、つまらない人間なのだと。だがそれは間違っている。そう、間違っていたんだ。現に彼らは外の世界を知って元気になった。それからは「何をしていても現実味がない」なんて言葉、二度と口にしなかった。彼らはただ、環境に恵まれていなかっただけだ。
僕がこうなったのは誰のせいかだなんて今更言わないけれど、実際のところ恨んではいた―――。
『「いっかりさん」ってなに?』
これはもう随分前のことだ。当時の僕は直前に兄さんが言った言葉の意味が分からず、尋ねた。
『家族が離れ離れになってしまうことだよ』
『どうして離れ離れにならないといけないの?』
兄さんは困ったように笑った。
『とにかく、兄ちゃんたちはもう一緒に暮らせないんだ』
『どうして? ねえ、どうしてなの? ボク嫌だよ、みんな一緒に暮せないなんて』
『……ごめんな、クリス』
兄さんが謝る必要なんてなかった。これは兄さんの責任なんかじゃない。心のどこかでは分かっていたはずなのに、僕は兄さんを責めてしまったんだ。
それでも兄さんは笑って許してくれた。こんな時に笑うなんて、と僕は憤慨した。兄さんがどれだけ辛くて苦しい立場にいたかも知らずに。
『たとえ離れ離れになったとしてもだ、クリス。兄ちゃんは絶対にお前を見つけ出してやる』
『……本当に?』
『ああ! だから……どんなに奴隷商人に酷ぇことされても、兄ちゃんが来るまでは我慢しててくれ』
『うん……わかった。兄ちゃんはこれからどうするの?』
『俺は……デスぺラード王国で兵士をしようと思う』
『デスペラード? 危険だよ、あそこは何か気にくわないことがあるとすぐ人を殺しちゃう王さまがいるところなんだ』
『心配するな。幸い、俺たちが住んでいる場所はちょうど国境の境目だからな。デスぺラードよりも物騒な光の楽園よりはましだろ』
それが、最後の会話だった。兄さんが兄さんだった時の、最後の―――。
当時あった国、『デスペラード王国』は絶対王政です。ただし、光の楽園よりは治安が良いところでした。ゼロが国境のことについて言っているのは、国境から西に住んでいる人がデスペラードの兵士、東に住んでいる人が光の楽園の兵士になると決められていたからです。