動き始めた時間 (ウゴキハジメタ ジカン)2
外に出たいと思った。
「外の世界に憧れるのかい、メグリヤ?」
暗くて寒い。いつからここにいるのか、私は知らない。
返事をするのも面倒だったので私が無視をしていると、彼は溜息をついて話を続けた。
「君は籠の中の鳥だ。せいぜい頑張って、ここから出てみなよ。もっとも、僕はここから逃げるなんて無理だと思うけど。それにしても、皇帝サマも嫌な役を押し付けるよね。誤解のないように言っておくけど、僕だって好きでこんなことしてるわけじゃないんだよ」
灰色の壁。申しわけ程度に設置された小さな窓。そして、柵。
ここは牢獄だ。これが私の全てだ。
何を言っても返答がこないと察したのか、彼はもはやこちらを見ていなかった。たとえこの隙に逃げられたとしても、彼には私を捕える自信があるのだろう。さすがにカチンときて、私は目の前にいる、掴み所のない、まるで海を漂うくらげのような男―――私にはまだ、彼が少年に見えた―――を睨んだ。
彼は太陽が昇ってから沈むまでに二、三回は訪れる。どうやら見張り役らしい。
視線に気づいた彼は、心情を読みづらい笑みを浮かべて言った。「外に出て、絶望しないといいね」
「しないわよ、もちろん」
それくらい覚悟しているんだから。
すると、彼はやれやれと言うように肩を竦めた。
「そこまで覚悟してるなら、協力してあげなくもないかな」
「え……」
それは、何かの冗談なのだろうか。
「大体さっきも言ったと思うけどさ、『逃げる』ってのはとても響きが悪い言葉だよ。僕だったらそんな言葉、絶対に使わない。こういう時は『逃げる』じゃなくて自由になるって言えばいいんだよ」
彼の口ぶりから、これは冗談なんかじゃないということを悟る。
「あ、ありがとう……」
私はまだ知らなかった。物語はすでに始まっているということに―――。
「こんなところにいたんですか」
チャールズだ。彼は僕を見つけるなり、早速声をかけてきた。
丁寧な言葉遣いなのにも関わらず、どこか他人に不快感を感じさせる口調。僕は一瞬だけ、顔を顰めた。
「お久しぶりですねぇ。外の空気にはもう慣れましたか?」
「まあまあかな。それより、皇太子サマが一体僕に何の用だい?」
するとチャールズは大袈裟に肩を竦めた。
「おや、どうしたんです? ご機嫌斜めですかね」
「そう見える?」
「ええ、とっても」
チャールズはにやりと嫌な笑みを浮かべた。
「アナタ、ワタシの相手をする時に御自分がどんな目をしているか気づいています?」
「さあ、興味ないね。ただ、一つだけ言えるのは、死んでもあんたを尊敬することはまず無いってことかな」
城の回廊で、彼の高笑いが響く。
「これはこれは、随分ご立派な返答ですねぇ。褒めて差し上げましょう。それにしても、意外です」
「何が?」
僕が訊くと、いちいちリアクションが大きいこの男はぴたりと静止した。
「意外と言うか……ねぇ? 残念なんですよ。あなたがただの人形ではないということが」
ふざけた答えだ。
「あんたはそれを言うためだけに僕を探していたのかい? とんだご苦労だね」
「んっふっふ。もちろん、それだけを言いに来たわけじゃないですよ」
「あんたと話すのは好きじゃない。手短にお願いするよ」
ホント、オ兄サンニソックリデスネ。
………今、何て。
アナタノオ兄サンモ、ソウヤッテ逃ゲテイタンデスヨ。ワタシカラ、コノ国カラ。
「嘘だっ!!!」
嘘ジャアリマセン。ソノ証拠ニホラ、オ兄サンハ今ココニイナイジャナイデスカ。
「兄さんっ」
僕は城を出て行く兄を追いかける。
「悪いのは兄さんじゃない。兄さんはここを出て行く必要なんてないよ!」
たった一人の家族。家族離散をしてからずっと離れ離れだった。どこにいるのかも知れなかった。僕は一人だった。誰が味方で誰が敵なのかも分からない。他人はみんな敵に見えた。
やっと再会できたのに。
「じゃあ、またな」
僕は兄を止めることができなかった。
「それからアナタは現実から逃げました。逃げて、逃げて、逃げた先には一体何があったんです? それを是非教えて頂きたくてここに来たわけなんですが」
―――しっかりするんだ。こんな男の言葉に惑わされるんじゃない。奴の言葉が嘘であれ本当であれ、用心するに越したことはない。
だけど。
逃げたのは、確かだ。間違えようのない現実、それは認めなくちゃならない。
「……ま、いいか」
「はい?」
「今日は最高にイライラする日なんだ。だから、特別に教えてやるよ。でも、君が俺の味わった絶望を理解できるとは到底思わないけどね」
「……やっぱり聞くのは止めておきますよ」
チャールズは手持ち無沙汰に、近くにあった燭台を持て余す。何とも言いようがない張り詰めた空気が解けていくような気がした。
「そう、良かった。僕だってそんな暗い話、したくないし」
僕は笑顔を作る。
笑顔は人を穏やかな気持ちにさせると言うが、例外の笑顔だって、僕はあると思う。こういう時に浮かべる笑顔というのは大概、嫌味だ。
「そうだっ」
チャールズは燭台を構うのを止めた。
「ボクちんのメグちゃんに手出ししたら、ただじゃおかないからね!」
………気持ち悪い奴って、どこまでも気持ち悪いんだな。
まあ、そんなことはともかく。
メグリヤ・メグミ。それが彼女の名前だった。
彼女がどうして地下の牢屋に閉じ込められているのか、僕は知らない。僕がこの城にやってきた時、彼女はすでにここにいたからだ。
見張り役として彼女のところへ行くと、彼女は窓の外を眺めていた。僕が政府側の人間だから敵視されているのだろう、彼女は普段話しかけてくれない。しかし、その時だけは違った。
「ここは海が見えるのね」
彼女の祖先は昔、日本と呼ばれる島国で生活していたらしい。
自分はその国の子孫で、実際にそこに住んでいるわけではないけど、海を見るとなんだか懐かしい。そう彼女は言っていた。
彼女は広大な海に『自由』を重ね見ているのだろう。
牢獄の中で過ごしているうちに気が触れてしまう人間は多い。だが、彼女は気丈だった。気が狂うどころか、外へ出るという希望さえ持っている。
「あなたに心配されるほど、私は弱くないわ。必ずここから脱出してみせる。そして、逃げることが不可能だと言ったあなたを見返してやるわよ」
………何も知らないくせに。生意気なことを言う。
「君には、逃げるなんて言葉は似合わない。『逃げる』だなんて。響きの悪い言葉だ。大体その後は、どうするんだい? 当てもなく彷徨う? そんな甘い考えじゃ、外では生きていけない。君の言うそれは、何も知らない子供の夢だよ」
彼女はまるで子供だ。挫折を知らない、ただの子供。
「外に出て、絶望しないといいね」
メグリヤは僕と違う。彼女は明らかに強い。僕が弱者だとするなら、彼女は勝者だ。僕にとっては眩しすぎる存在だった。だからこそ、彼女が外の世界を見ることを恐れた。
彼女が外の現実に敗北することにではない。外を知ることで彼女の根本的な何かが変わることは決してないと言い切れる。そうではなく、彼女がどこかへ遠くへ行ってしまいそうで、僕は恐かった。
未だに掴むことができない何かが、僕の中にあるんだ。
「しないわよ、もちろん」
―――ああ、やっぱり君は行ってしまうんだね。
「そこまで覚悟してるなら、協力してあげなくもないかな」
「え……」
君がどう変わってしまうのか、見届けてやるよ。
「あ、ありがとう……」
お礼だなんて。君らしくもない。だから僕は、君が嫌いだ。