『LEC』本社ビル 9F
「クリス兄……大丈夫かな」
鈴は、心ここにあらずだった。
「大丈夫よ。彼なら絶対……」
メグリヤは振り返りもせずに言った。彼女のその言葉は、そうであってほしいと言っているかのようだった。
「たとえ、あいつがいなくなったとしても」
ゼロが嫌なたとえを出した。
「戦争は続くんだ」
その言葉は呪いのようだった。戦争は続く、まさにその通りだ。人は戦争を避けられない。それが銃剣を振りかざす戦いでなかったとしても、小さな諍いが日々行われている。
ゼロはふと窓の外を見た。雨が降っていた。通りで肌寒いわけだ。
雨。嫌な思い出しかない。俺が『デスぺラード王』に仕えていたあの日々のことしか―――――。
世界は二つの国で成り立っていた。
絶対王政で恐れられているデスぺラード王が支配する『デスペラード王国』と、シリアルキラーという異名を持つ皇帝が支配する『光の楽園』だ。
世界は平和だった。両国は国が出来てから一時も揉めたことなどなかった。彼らが民の頂点に立つまでは。
「相変わらず不機嫌そうな顔をしているな」
デスペラード王国の中佐であるゼロは、唯一の宮廷女兵士であるライトに声をかけた。たった今上司から任務を受けただろうライトの表情が曇っていることに気づき、疑問を持ったのだ。
彼女は面倒くさそうに振り返った。
「何の用だ」
「なぜ不服そうな顔をしている? あんたは陛下を慕っているから宮廷兵士になったんじゃないのか?」
すると、ライトは冷笑を浮かべた。
「『不服そうな顔』だと? 当然だ。私が慕っていたのは今の王ではなく、先代だ。私は今の政治に不満を抱いている。なぜ辞めないのか、なんて愚問はやめろ。私はこの国を滅ばせたくない、だからここにいる。お前はこの現状を見て何も思わないのか?」
「あんたの言っていることはよく分からないな。陛下が良いと言うことは、民にとっても良いことなんだろう? それより、あんたは『上下関係』って言葉を知らないのか?」
ライトは軽蔑の眼差しをゼロに向けた。
「お前たち上部の人間は、皆死人のような目をしている。私は、ただ上の者の命令に従うだけの奴らを『上司』だとは思えない。……それだけだ」
そう言い残し、ライトは去っていった。
ゼロは彼女の言うことが理解できなかった。
荒波に逆らうことは難しい。だが、波の向かう方へ行くことはいとも簡単に出来る。つまり、世の中というのはそれと同じだ。流されてしまえば、何も考えずに生きていくことができる―――。
そのように考えている彼が、わざわざ波を荒げるようなことを言うライトのことを理解できるはずもなかった。
あなたは、自分がどうしてここにいるかってことを考えたことはある?
「あなたは……?」
長い黒髪と真紅の瞳を持つ『姫』は、驚きを隠せていなかった。陛下から何も聞かされていなかったに違いない。
「お初にお目にかかります。私は中佐のゼロです。本日より、姫様の世話係兼守り役をやらせて頂くことになりました」
陛下の愛娘である姫は元々スラム街育ちで、養子なのだと噂されている。それが嘘か本当かは定かではない。だが、そんなことはどうでも良かった。どちらにしろ、俺は任されたことをやり遂げる義務があるからだ。
「何かご要望がありましたら、私に申し付けください」
「あの」
「何でしょうか」
「えっと……。や、やっぱりいいです。なんか人違いだったみたい」
「おや、誰か私に似ている方がおられるのですか?」
「うん……。私ね、小さい頃は『ハイドジック』っていうスラム街にいたの。その時隣の家に住んでいた子に、少し似ている」
姫がスラム街育ちと言うのは真実だったようだ。まさか、彼女の口から直接聞けるとは思わなかった。
「そうですか。姫様はその子を好いていたのですね」
「ど、どうして分かるの?」
「好意を抱いていなければ、姫様はその子のことをすっかり忘れているはずですから」
そう言いながら、俺は軽く罪悪感を覚える。
俺は何も分かっていない。直感で気づいたんじゃない。ただ、理屈で考えただけだ。
「では、失礼します」
ウサギは近くに仲間がいないと寂しさで死んでしまう。それと同じで、人が一人では生きて行けないのは心が弱いからだ。弱いから、群れる。つまり彼女は心が弱いという事だ。
「あ、ちょっと待って。訊きたいことが、もう一つ」