動かない時間(ウゴカナイ ジカン)2
誰かがこの家に来たようだ。
私はティーカップを静かにテーブルの上に置き、読みかけの本に栞を挟んだ。何を話しているのかは知らないが、口論がうるさい。これでは読書に集中できないではないか。
「……鈴?」
廊下を走る弟が視界の端に見えた。どこに行くんだろうなんて疑問に思うまでもない。彼がこの家の中にいる限り、慌てる理由は一つしかないからだ。
「博士に知らせなきゃ」
私たちは、博士の本当の子供ではない。今はもう亡き母が再婚する際に連れてきた、いわゆる厄介者だ。博士のためにできることが何もない私はその代わりに、博士の言うことを素直に聞くよう心がけている。博士以外に身寄りのない私たち双子は、本来なら彼に感謝するべきなのだ。
それなのに。
鈴は彼を嫌う。感謝することはあっても、嫌う必要はないはずだ。私は、彼のことを理解できない。
たった一人の家族。鈴は私にとって大切な存在だ。だが、それは鈴だけではない。博士だって同じだ。
鈴が私のことを感情が欠落した人間だと思っているのは薄々気づいている。だがそれは間違いだ。私は決して感情が欠落しているわけじゃない。
ただ、博士の役に立ちたいだけ。
「鈴っ!!」
その瞬間、僕は反射的にビクリと肩を上下させた。この声は。
博士だ。博士は鬼のような形相で僕の前に立っていた。怖くて、足がすくんで身動きが取れない。頬に博士の張り手が飛んできた。その衝撃で、僕はその場に崩れ落ちた。
「外の人間と関わるなとあれほど言っただろう!!」
「ご…めん…なさい」
博士の怒鳴り声に、すぐさまキリエさんが飛んでくる。
「待ってください、博士! 鈴は悪くない、私が客人を案内してくれと頼んだんだ!」
「そんなことはどうでもいい! 問題なのは、鈴が私との約束を破ったことだ」
「待ってください、博士! 鈴は悪くない、私が客人を案内してくれと頼んだんだ!」
お願いだ、そんな理不尽な理由で彼を虐めないでくれ。
「そんなことはどうでもいい! 問題なのは、鈴が私との約束を破ったことだ」
約束? あんたは何か勘違いしているよ。最近のあんたはちょっと変だ。『それ』は約束でも何でもない。あんたは一度だって彼の顔を見たことがあるかい? 無いだろうね。それなら見てごらんよ、恐怖で顔が引きつってるじゃないか。
「私が鈴に無理を言ったんだ、責任は私にある。私をここから追い出すなりなんなりしてくれ。だから、この辺にしてくれないだろうか?」
「……お前が鈴を唆したのか。責任を取るというのなら、私はそれでも構わない。とっととここから出ていけ」
「ああ、分か―――」
「ダメだ」
その言葉を発したのは鈴だった。
気が付けば、それを口にしていた。
「ダメだ。そんなこと、ダメだよ。約束を破ったのは僕だ」
キリエさんはぶっきらぼうな話し方をするけど、本当はとても優しい。彼女がここからいなくなってしまうなんて嫌だ。
「ほう、度胸があるな。どうやら私とお前はしっかり話し合う必要があるようだ。後で私の書斎に来なさい」
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
「………」
「返事はどうした」
「はい、博士……」
本当は嫌いなんじゃない。そうじゃない、怖いんだ。向き合うのが怖くて僕は博士を避けているんだ。