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狂った世界 (クルッタ セカイ)3
「音楽、好きなんだね」
それが、事件が起こる前に交わした鈴との最後の会話だった。彼はキリエが持っているラジカセを指して言う。
「ああ、そうだな。好きだよ、とても」
この日のためにずっと音楽を聴いていたのだ。もしそう言ったなら、彼はどんな反応をするのだろうか。
「さあ、もう遅いからお帰り」
鈴は無言で頷くと、部屋から出て行った。
キリエはあの日、何もかも失った。自分の本当の名さえも。
名医と謳われた自分がこんなところで挫折してはいけないはずだ。彼女は何としてでもあの日々を取り戻そうと思っていた。
彼女から『名医』の座を奪ったのは博士だった。
彼はある日突然現れ、研究結果を発表し、あたかもそこに存在していなかったかのようにキリエのいた世界から消え去った。
彼は『生命』について研究をしていたらしい。当時キリエも『生命』について研究をしていた。だが、彼の残していった研究記録は、キリエの自信を喪失させるほどのものだったのだ。
そして……。
キリエは死んだ。誰も入ることができない状態の部屋の中で―――。