させるもんか
翌朝。
珍しく早起きの新之助に、竹次が仕込みの手を止めた。
「……なんだ珍しい。今日は雨か?」
「いや、ちょっとな」
なんとなく、みつが起こしに来る前に起きようと思ってしまった。当のみつは、ムスリとした顔で机を拭いていたかと思うと、入れ替わるように外へ出てしまった。
ちょうどいい、と、声を潜めて竹次に告げる。
「今夜は遅くなる。ひょっとすると戻らないかもしれねえ」
竹次は眉をひそめた。
「例の件か?」
「ああ」
手短に事情を説明すると、竹次がますます渋面になる。苦言を聞かされるだろうことを見越し、それを遮るように新之助は話題を変えた。
「そういやぁ昨日、勘さんに会ったよ」
「勘……勘右衛門か!」
「うん。道場の生徒に甥っ子がいたんだ」
「そうか…あいつも奉行所の仕事が板についた頃だろうな」
「ああ。飄々としてるくせに、目ざというえに耳ざとい。すっかり聞き出されちまった……それで、な。たけやの裏商売のことも知ってたよ」
竹次が視線を上げる。新之助は続けた。
「あちらのことは伏せておいたが、今回の厄介ごとについては話した。何かあれば力になってくれると思う」
そうか、とつぶやき、黙々と作業を続ける。そして手元を見たまま、
「なあ新。今度のことがカタついたら、もう終いにしちゃあどうだ」
「親父…」
「これでわかったろう? ただの人助けの域を超えている」
「わかってンだ、無茶してるってのは。けど、本当に向こうに迷い込んじまう人がいる以上、助けてくれと言われてそれを断ることはできねえじゃねえか」
互いに互いの言い分がよくわかる。ほうきを手にしたみつが店へ入ってきて、その話はそこで中断された。
=====
その晩。
約束どおりの場所で、新之助は例の女と対峙していた。後ろには供が一人。たしかに以前、新之助が助けた男だった。気まずそうに目をそらしている。
「迎えに行くのは5日後、だな?」
女は悠然と頷く。ひずみを開けるべく宙に手をかざしかけ、新之助はさらに問うた。
「それで──こちらに送り届けた途端に口封じ、なんてのはナシだぜ?」
「なんの、立場の危うさで言ったら私のほうこそ不安だ。迎えに来ずにあちらに置き去りにされないとも限らないからな」
内心、ため息をつく。そうしてやりたいのはやまやまだよ……。
「例のじいさんのところに送る。迎えに行くのもそこだ。いいな?」
今度は供の男に尋ねる。場所の確認をし、新之助はかざした手に意識を集中させた。
「ハッ」
気合いを入れるとともに、空中に穴が開く。ふぅ、と息をつき、
「さ、これをくぐればこちらの世界からは影も形も無くせる。じいさんに伝えたいから一旦は俺も一緒に──」
「新さん…?」
聞き慣れた声に喉がつまる。
恐る恐る振り向く。
目を見開く。
そこにいたのは、いるはずのない、
「おみつ…お前、どうして、ここに…?」
=====
今日は夕方で店を閉めるから、先に帰らず残ってろ。父親にそう言われ、みつは首をかしげた。
夏が近づき、陽が長くなってきて、仕事帰りに一杯寄ってから帰る職人が増える時期だ。書き入れ時と言ったら大げさだけど、酒を出さずに夕方で閉めてしまってはもったいないんじゃないの?
それが新之助の不在と関係しているなんて、みつの身を案じてのことだなんて、思いもよらない。
客足が途切れ、のれんをしまう。店には長っ尻の客が一人残っているだけだった。こういう場合、普通は先に帰らせてくれる。終わるまで待ってろったって、その客以外の片づけはもう済ませた。暗くならないうちに湯屋に行きたいし──しびれを切らし、みつは父親に合図をして一人店を出た。
湯屋、つまり風呂屋に向かっていたところで、声をかけられた。昨日、新之助のもとを訪ねてきた女の従者だ。
「あ…昨日の」
「おぬしを迎えに行くところだったのだ。新之助、と言ったか。あの男が今奥方様のところにいてな。おぬしに来てほしいと申しておる」
「新さんが!?」
「うむ、困っておるようじゃ。助けてやってくれぬか」
自覚は無くとも好きな男だ。頼られるのは正直うれしい。が。
「あの、そもそも新さんと、その奥方様とは一体どういう…?」
「詳しいことは言えぬが。奥方様のお困り事を、新之助に解決するよう依頼しておるのだ。今晩その作業をするはずだったのだが、新之助の具合がちと悪くてな」
「具合が? 大変!」
「うむ、それでおぬしを呼んでくれと」
新之助の具合が悪い。みつの頭はもうそれでいっぱい。ほら、昨夜お酒飲んでたし、今朝もやけに早起きだったし、どっかおかしかったんだ。
「参ります。ちょっと、お待ちください。一度家に戻って父に伝えてきますから」
「ああそれには及ばぬ。こちらから使いを出すから、おぬしはここで駕籠に乗れ。できるだけ早く着きたいのだ」
たしかに、今から家に戻っていては時間がかかる。帰りが遅くなったとして、新之助と一緒に帰れば問題ないだろう。そんなふうにしか考えなかった。
連れられていったのは、ある屋敷。男のあとについていくと、部屋の中からボソボソと話し声が聞こえてきた。新さんだ…!
「──こちらに送り届けた途端に口封じ、なんてのはナシだぜ?」
口封じ? 物騒な台詞にそっと部屋を覗く。新之助が、宙に手をかざしていた。何を、しているんだろう。ちらりと見えた横顔は、みつの知らない真剣な顔。少し怖くて、少し素敵で。やがて気合いの声とともに、空間がグニャリと歪んだ。今、何したの──。
「さ、これをくぐればこちらの世界からは影も形も無くせる」
「新さん…?」
思わず呼びかけてしまった。振り返った新之助は驚愕の表情。
「おみつ…お前、どうして、ここに…?」
かすれた声で問われ、困惑する。だって、新さんが呼んでるっていうから。
新之助の問いに答えたのは、女だった。
「一人では心細くてのう。お嬢ちゃんに一緒に来てもらおうと思ってな」
「ンだと!?」
「お嬢ちゃんがいれば、そなたも迎えに来るのを忘れまい」
「てめえ…!」
みつには状況がさっぱりわからない。ただ、新之助がひどく怒っていることだけがわかった。
「新さん、ごめんなさい。あたし来ちゃ行けなかった?」
言うと、新之助はみつを振り向き、心配そうな表情をした。怒っているわけではないのかと、少しほっとする。すると女がさらに
「お嬢ちゃんを叱らないでやっておくれ。“新さん”が困っていると聞いて、助けてあげたくて来たのだもの」
「みつに手ェ出しやがったらどうなるか、覚悟してのことだろうな?」
「なに、手駒を等しくしたまでよ。あまりにもこちらに不利過ぎたのでな──お嬢ちゃん、すまないが、私の供をしておくれでないか? 女手が足りぬでの」
戸惑うみつを制し、新之助が構える。
「行かせるか!」
しかし、新之助はニヤリと笑む女の唇を見たのを最後に、意識を失った。
「さ、参ろうか」
「新さん! 新さん、大丈夫?」
部屋にいた男に手を引かれ、ひずみに連れ込まれる間も、みつは必死に新之助に呼びかける。
「大丈夫、気を失っているだけだ。5日後には迎えに来てもらわねばならぬからな」
「迎えに…?」
そこで初めて、みつは自分の置かれている状況を見た。──どこかへ行く、と言っていた。だのに部屋の入り口ではなく奥に向かっている。先にあるのは、先ほど新之助の手から生まれた、グニャリとした空間。何だろう、これ。そして──
足元がグラリとして、みつもまた、意識を遠のかせた。
=====
ぱしぱし、と頬に軽い刺激を感じた。
「おい、新。どうした、大丈夫か?」
ぼんやりと目を開けると、竹次がこちらを覗き込んでいた。焦点があい、意識が戻る。新之助は飛び起きた──飛び起きようと、した。
「ッつー…!」
後頭部がズキリと痛む。やられた。
「大丈夫か?」
「親父、おみつは?」
「湯屋へ行ったらしいんだが戻らなくてな。様子を見ようと出てきたら、お前が行き倒れてた…何があった?」
思わず目をとじる。一番避けたかったことを防げなかった。新之助は身を起こし、竹次に向かって手をついた。額を地面にこすりつける。
「申し訳ありません!」
先ほどのことを説明する。しかし竹次は、表情こそ厳しかったが動揺はしていなかった。
「その女の言い分に沿うと、少なくともお前が迎えに行くまでみつは無事だろう」
「そん…そんな、無事ったって怖い思いして」
「なに、あいつは肝っ玉が据わっているから大丈夫さ」
それで、どうするつもりだ? 竹次に聞かれ、新之助は顎に手を当てた。
本当ならすぐにでも迎えに行ってやりたい。しかし、居場所を探している間に約束の5日になってしまっては意味がない。あの女の企みを成就させるなんぞ、こうなった以上、絶対に許さない。
「親父、俺は今から女の亭主に会ってくる。女の企みをぶっ潰してやって、それからおみつを迎えに行く」
言うが早いか、もう走り出している。
「おいっ」
竹次の制止など耳に入らない。夜の町を走りに走り抜け、目的の屋敷にたどり着く。両手をひざにつき、肩で息をしていると、その目に男の足が見えた。乱れた息のまま顔をあげ──ニヤリとする。
「やあ、お目にかかれて光栄ですよ」
「貴様、何しに来た」
たまたま出先から戻ってきたこの屋敷の主人、つまり、あの女の亭主だった。