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あたしはもう決めてるから

道場へ向かう道すがらも、新之助の頭の中は先ほどの女のことでいっぱいだった。やり取りを何度も反芻する。



「さ、聞かせてもらおうか」


「言った通りだ、私をここから消せ──5日経ったら戻してもらおう」


「都合のいい話だな。そう簡単に行ったり来たりできるって?」


「できるのであろ?」


「……それで? あちらでどう過ごすつもりだ。どこまで知ってんのか知らねえが、アンタが身を置くような場所はねえぜ」



眉をしかめて見せた新之助に、女はなおも婉然と笑う。



「うちに珍しいのがいてな。神隠しに遭ったことがあるというのだ」


「…ほう?」


「それも、たどり着いた先で助けられて、三月ほど過ごしたそうでの。こちらに戻るときには涙の別れだったそうだ」


「……」



新之助は再び眉間にしわを寄せる。その光景には覚えがあった。昨年末だったかに連れ帰った若者だ。あちらの人と親しくなっていて、無事に帰れてよかったと涙ながらに見送られていた。珍しいことだったのでよく覚えている。あの男、この女の家に仕えていたのか?



「その世話になった人に頼めば、数日くらい置いてくれるだろうと言うのでな」


「するてえと、その男も一緒に行くってことか?」


「人数制限でもあったか?」


「いや…二、三人なら…」



問題は人数などではなく。



渋面を作る新之助に、女はわざとらしく、ああ、と付け足した。



「そなたのことは他言無用だったそうだが。許してやっておくれでないか? あの年頃だ、誘惑に勝てぬこともあろう」



……色か、金か。いずれにせよ何かで釣ったのだろう。忌々しい。なるほど、夫よりも詳しいのはそこに情報源があったのか。



「で? 実行は?」


「明日の夜」



明日の夜──。きっかり5日行方をくらますことで何を得ようというのか。夫を心配させたい? そんな可愛いもんじゃないな。では手下に捜索願いでも出させて、夫に罪をかぶせるか。いずれにしても、夫のほうにももう一度会わねばなるまい。報復を警戒した時点で素性は調べてある。今日中に打診をしておいたほうがよいか、あるいは動きを探られないよう、女をあちらへやってから動くべきか──。



「やーっ!」



「!」



考えに夢中になるあまり、反応が遅れた。目の前に竹刀があり、反射的になぎ払う──我に返ると、生徒が床に転がっていた。そうだ、今は稽古中だ。慌てて抱き起こす。



「すまねえ、ケガはないか?」



少年は頭をさすりながら起き上がり、両手をつく。



「参りました」


「バカ、何言ってんだ。今のは俺が悪い。どれ見せてみろ」



おでこのたんこぶをそっと撫でる。なんてこった。気を散らした挙げ句ケガをさせるなんざ、言語道断じゃないか。



「悪かったな、許してくれ」



後ろめたさで反省しきりの新之助に、そうとは知らない少年はきょとんとするばかりだった。



=====


「痣にならなけりゃいいがなあ」



新之助は少年を家まで送って行くことにした。濡らした手拭いで額を押さえさせ、少年の荷物は新之助が持ってやる。心配そうに覗き込む新之助に対し、少年は少し口をとがらせた。



「額にこぶを作ったくらいで先生に送っていただいては、家の者に叱られます」



そう言われると、少し大げさだったかという気になってくる。いやしかし。



「そのこぶはお前が未熟なせいじゃねえ、ってのは、きちんとご両親に説明しないとな。俺の不注意でケガさせたわけだし。母上もびっくりなさるだろう」



母、と聞いて、少年は何か言いたげな顔をしたが、結局口をつぐんだ。その横顔を見やる。


みつよりも少し年下だろうか。子どもと呼ぶには少し大人びた──いや、そうあろうと背伸びをし始める頃、だろう。ちょうどあのときの自分と同じくらいか。



少年の赤い頬を見ながら、新之助はしまっておいた記憶を取り出す。神隠しに遭ったみつを竹次と二人、探しに行ったあのとき。13歳だった。その力を貸してくれという喜八の申し出を、もう少し子どもだったら引き受けなかっただろう──あと少し大人だったとしても。



後悔はしていないが、止めどきを見失ってしまったのは確かだ。助けを求められれば断れない。しかし、他人に言えない仕事をいつまで続けていけるものか。俺だって所帯くらい持ちてえや。



そんなことを考えながら歩いていると、突然少年の顔がパァっと輝いた。



「叔父上! 今お戻りですか」


「叔父上?」


「はい。私は両親とではなく、叔父と住んでいるのです」



前方を見ると、家の前で若い武士がこちらに会釈をしていた。慌てて返す。少年が駆け寄ると、叔父という男性は額のこぶに目を止め、ニヤリとした。



「どうしたその顔、派手にやったなあ」


「はい。それで井原先生が送ってくださいました」



井原、とつぶやき、じっとこちらを見る。



「お前…新之助か」



名を呼ばれ、あっと声をあげた。



「勘さん!」



少年が二人の顔をキョロキョロと見ながら、



「お二人はお知り合いですか」


「ああ。子どもの時分に道場で一緒だった。久しぶりだな、新」



それは新之助が道場に稽古に通っていたころ、何かと面倒を見てくれていた兄貴分。勘右衛門だった。ちょうど竹次が辞めたころに、勘右衛門もまた、奉行所の仕事についたため道場に来なくなったのを覚えている。



「こりゃあいい。新、ちょいとつきあえ。おぅ、俺は新之助先生と一杯やってくっから、お前はそのおでこを冷やしてな」


「はい。先生、ありがとうございました」



新之助から荷物を受け取り、一礼して家へ入っていく少年を見送ると、男二人は呑み屋へときびすを返した。



=====


「久しぶりだな」


「本当に。…いつの間に子ども作ったんです?」



ハシリ、と頭をはたかれる。



「阿呆。甥っ子だ、甥っ子。ちょっと事情があってな、うちで暮らしてンだ……そういや時々若い先生が教えに来るってあいつが言ってたが、まさかお前だとはね」


「たまに代稽古をやらしてもらってんだ。普段は雑用係ですよ」



酒が入り、新之助の敬語がほどけてくる。そうかそうかと上機嫌で酒をあおる勘右衛門の手が、そういえば、と止まった。



「お前、竹次先生とは最近会ってるか?」


「……店にはよく行きますよ。たまに食いに行ったらどうです? 今やあの界隈じゃ人気店だ」


「たけや、か。その店で裏の商売をしてるってぇ噂は?」


「……!」



核心をつかれたその一瞬の動揺を、勘右衛門は見逃さなかった。



「……お前も関わってンのか」


「……」



どこまで明かしてよいものか。言葉が継げなくなっている新之助に、勘右衛門は苦笑とともに肩を叩いた。



「なに、お上が取り締まろうってわけじゃない。ただ、危ない目に遭わねえかってのが心配なだけだ」


「それは大丈夫です。あの父娘に手出しはさせない」



新之助の即答に、勘右衛門の片眉が上がる。



「つまり手出しされる可能性があると?」


「っ……」



再び言葉につまる。勘右衛門は新之助の肩においたままの手を、ぽんぽんとはずませた。



「言える範囲でいい、話してみな」



=====

聞き上手の勘右衛門に、すっかり引き出されてしまった。もちろん「時のひずみ」の話は伏せている。ただ人探しを副業にしていて、いま厄介な案件を抱えているのだということだけ。



「ふぅん…福田家か。駿河台のだろう?」


「知ってんですか?」


「ああ。なんとなく読めた」


「というと?」



うん、とひとつうなずき、酒で口をしめらせる。



「福田の当主にはつきあいの長い女が外にいる。だがな、あそこは入り婿だ。おいそれと離縁はできねえってわけさ」


「だから妻を神隠しに遭わせろって?」


「ああ。不可抗力で“致し方なく”別れようってんだろ」



しかしわからないのは女のほうだ。



「気にくわないなら夫を追い出しゃいいものを。何を企んでんだか」


「そういう事情なら、姿を消せば夫は嬉々として“行方知れず”と届けを出すだろうな。それを女がどう利用しようってのか……」


「きな臭えな。なあ新、今からでも手を引いちゃどうだ」


「そういうわけには行かないよ」



なにせあの女は、みつの顔を知っているのだ。



「…まあ、今の話だけじゃあ奉行所は何も手を出せねえが。俺も気になる。それとなく伺っておくよ」



あまり無茶すんじゃねえぞ、という勘右衛門の言葉に送られ、新之助はたけやへ帰って行った。






=====


日が暮れたとはいえ、まだ早い時間だった。たけやに戻り、家へ入ろうとすると、玄関先でみつが待ち構えていた。壁にもたれかかり、ムッツリと眉をしかめている。



「…おかえりなさい」


「おう…店は?」


「もうお酒の時間」



たけやでは夜になると酒を出す。その時間帯は、みつは店に出ることを許されていない。子どもが酒を扱うな、と竹次に言われ、みつはひと足先に家に戻るのだ。



「そうか。ご苦労さん」



いつものように、ぽんぽんと頭に置こうとした手を、みつはそっとよけた。



「新さん」


「ん?」


「新さんは、ああいう、百合の花が好きなの?」


「はあ? 百合?」



なぜ急に花の話が出てくるのか、と問いかけて──ああ、今朝の女のことを気にしているのかと気づく。



「そうだなあ。俺ぁ百合みたいな気取ったのより、その辺に咲いてるようなののほうが好きだな」


「そう…なんだ」



どことなく嬉しそうにつぶやく姿に、つい余計なことを聞いてしまった。ほろ酔いのせいだ。



「そういうおみっちゃんはどうなんだ。お嫁に行くならどういうのが好きなんだい?」



ばか!と、また真っ赤な顔でふくれるのかと思いきや。返ってきたのは穏やかな笑顔で。



「あたしはもう決めてるから。お嫁に行く先」


「……へえ?」



それは意外なほどの鈍い衝撃だった。



「いっぱしに、いい人がいるのか」


「そんなんじゃないよ」



ぽーんぽーん、と地面を蹴る足元に視線をやったまま、みつは言う。



「あたしはね、お嫁に行ってからも、たけやでお父っつぁんの手伝いをさせてくれる人のところへお嫁に行くの。だからお店をやってる人はダメ。だって向こうの店を手伝わなきゃいけないでしょう?」



…ああ、そういうことか。つまり、



「おみつはお父っつぁんが好きなんだな」



わかんないけど、と、わざと首を傾げてみせるその頭を、今度こそぽんぽんと叩く。さっき、一瞬どきりとしたのは何だったのだろう。



「そんなら、料理人と夫婦になって、亭主にたけやを継いでもらうのかい?」



しかし、みつはきょとんとする。



「それは…考えもしなかった…。たけやの厨房にお父っつぁん以外の人が立ってるなんて、考えたことないもの」


「そっか。じゃあ──」


─……



「もう、ばか!」



パタパタと家に駆け込んで行くみつの背中を、呆然と見送る。俺は今、なんて言った?



──じゃあ、俺は包丁を覚えなくてもいいのかな。



何言ってんだ、俺。



ふぅ。



先ほどまでみつが寄りかかっていた壁に、背を預ける。少し、酔いを覚ましてから家に入ろう。

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