いつの間にそんな
──江戸から迷い込んだ奴らを時々見かける。そうとわかるのは、俺もそうやってここに来たからだ。
驚いたかい? もう何年になるかなあ…何かのはずみで気がついたらここに着いてな。俺の場合は幸い世話をしてくれる人に恵まれて、こうしてその日を食って寝るだけの生活ができている。家も定職もねえが、なに、そんなものは江戸でだって無かったさ。
ああ、ここがどこかって話だったな。ここはな、場所は俺たちがもといた所と同じなんだが……時代が違うんだよ。
わからねえか? つまりな、お江戸の世から見ると、今いるこの場所は、数十年、数百年経った未来ってわけさ。
「そいつぁ、一体…」
「なに、戸惑って当然だ。俺も状況を受け入れるまでにずいぶんかかったもんだよ。…坊主くらいの年だともう少し柔軟かもしれないが」
見ると、竹次がただただあ然としているのとは対照的に、新之助はあごに手をあててじっと考えこんでいた。男性の呼びかけに、顔を上げる。
「いえ、私も驚いてはいますが…ただ、それを聞いていろいろなことに納得がいったのです」
「お前、今の話を納得したってのか!」
「だって先生、ここの人たちは異国人ではありませんし…かといって日本の中にこんな場所があるとは思えないし…他に説明がつきません」
うーん、と考え込む竹次から視線を移し、新之助は男性に尋ねた。
「時代が違うというのは、何年くらいなのでしょうか」
「さて…暦が違うから正確にはわからないがね。いま世界でいちばん長寿だという男性が120歳近いんだが、そいつも俺よりずっと年下のようだ」
ひゃくにじゅう…、そうつぶやく新之助に、今度は男性が尋ねた。さあ坊主が答える番だぞ、と。
新之助は、自分に起きたことをわかる範囲で説明した。時々偶然こちらに来てしまっていたこと。江戸に帰れていたこと。今回初めて自分の意志でこちらに来たこと。当然、仕組みも理由もわからないということを。
「そんなことがあるもんなんだな…。で、そのお嬢ちゃんを連れて三人で帰るってわけか」
「はい。あの…あなたも、一緒に行かれますか?」
新之助の申し出に、男性は一瞬目を丸くしたが、すぐに首を振った。
「いや、俺はあちらに戻るつもりはねえ。戻ったところで家もねえ、家族も仕事もねえときちゃ、ここにいるほうがいくらかマシだよ」
「そうですか…」
「それよりもな、坊主に頼みたいことがあンだ」
「頼み、ですか?」
ああ、と頷いてみせ、男性は居住まいを正した。
「俺は江戸へ戻るつもりはない。だがな、うっかり迷い込んじまった奴らをどうにか戻してやりてえのよ」
「おみっちゃんのような子を、ですか」
「小さな子ならまだ、本人も状況がわからないし、養い親に出会えることもある。本当に哀れなのは大人のほうだよ。発狂せんばかりだ。だからな、坊主のその力でなんとか助けてやっちゃあくれねえか」
頭を下げられ、新之助は顔を上気させた。訳のわからない自分の力がひとの役に立つかもしれない、という事実は、少なからず新之助を興奮させた。13歳という子どもと大人のはざま。若者らしい義侠心で身を乗り出す新之助に、一方で冷静な竹次が口をはさんだ。
「いや、こいつはまだ力を使いこなせているわけじゃねえ。娘を助けてもらっておいて言うのもなんだが、あまり期待はしねえでくんな」
「先生!」
水をさすような言い方が、新之助には理解できなかった。人助けだというのに、なぜ? しかし竹次は別のことを案じていた。
新之助の持つ特殊な力が人の口の端に上れば、必ず悪用を企む者が現れる。その力でみつを助けてもらっておきながら、今後は封印しろというのが身勝手なのはわかっている。しかし自分たち父娘がきっかけを作ってしまったからこそ、新之助を守る責任があるのだと、竹次は考えていた。
「私はぜひ協力したいです」
「安請け合いはよしておけ」
どちらの気持ちも理解できる。男性はうんうんと頷いてみせた。
「なに、迷子ったって一年にひとりか二人いるかどうかだ。もしまたうっかりこちらに来ちまうようなことがあったときに、俺のところに寄ってくれたらそれでいい。そのときに俺がまた誰かを拾っていたら、一緒に連れて帰ってやってくんな」
「ここに来ればあなたに会えますか」
「そうさな。追い出されさえしなけりゃな」
「私は井原新之助と申します。あなたのお名前は?」
「喜八…八、と呼んでくれりゃいい」
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それからというもの、渋る竹次を説き伏せ、新之助は時のひずみを作る練習をし始めた。数か月も経たないうちに自在に扱えるようになり、ついに迷子をひとり連れ帰ってきたのを知ったとき、ようやく竹次も諦めをつけた。
賛成はできないが、新之助が本気なのなら仕方がない。ただし約束しろ。決して自分の正体を明かすんじゃねえ。代わりにたけやが表に立つ。
そうして新之助は頻繁に喜八の元へ通うようになった。はじめは喜八が保護した者を連れ帰るだけだったのが、どこから聞きつけたものか、次第に探索の依頼が舞い込むようになった。
どうせ次男坊で継ぐ家もないからと、新之助はこれを仕事にすることにした。いくらか金を取ったほうが後腐れがなかろうという理由もある。
もちろん依頼はそんなにしょっちゅう起きるものではなかったし、探索料も依頼者が無理なく支払える程度の額にしていたから、食い扶持を稼ぐまでには至らない。新之助は、かつて自分も通った道場で師範を手伝うことで生計を立て、その傍ら、密かに神隠しの探索を行っているのだ。
そんな新之助の生活を苦々しく思いながらも、竹次は自分が表に立つことで新之助を守ってきた。
もう師匠でもないから、と、「先生」という呼び名を竹次が断り、三日間悩んだ末に新之助が決めた「親父様」という呼び方が、いつしかただの「親父」に変わり。さらに2人の間に敬語がなくなっても、その関係はずっと続いてきたのだった。
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竹次が心配していたことがついに起きたのは、半月ほど前のこと。新之助に対し、人探しではなくその力を使って人を消せ、と依頼してきた者がいたというのだ。当然断ったが報復でもされたらことだ、しばらくここで守らせてくれ──新之助のそんな申し出で、居候が始まった。
みつの反応には内心驚いた。あいつもいっぱしに男に頬を染めるような年齢になったのかと思う。しかしそれよりもっと意外だったのは、新之助がそんなみつを見て、まんざらでもないような顔を見せることだ。本当にあいつらはいつの間にそんな歳になったんだか。
竹次は包丁の手を止めて店先に目をやった。
そのみつは、新之助を起こしに行ったきりなかなか戻らないと思ったら、今度は店先でちらちらと家のほうを覗いて落ち着かないでいる。
「いい加減にしねえか、鬱陶しい。新はどうした?」
ふり返ったみつは、唇をとがらせて、
「新さん、お客様だって」
「…客だぁ?」
みつの答えを、竹次は訝しんだ。新之助は自分がここに寝泊まりしていることを明かしていないだろうし、たけやの常連たちは二階の居候の正体を知らない。つまり新之助に客など訪れようはずがないのだ。
「客ってなあ一体誰だ」
「…百合の花」
「あぁ?」
「知らない人! ここに浪人はいるかって、お供の人まで連れてんの」
供を連れた女…? 新之助の家の者か? いや、妙齢の女なんぞいないはず。第一名前を言わずに訪ねて来たというのは怪しい。
「誰かれ構わず通すもんじゃねえよ」
「止める間なんてなかったもん! 下がっておれ、とか言っちゃってさ。やんごとないか何か知らないけど何様よ」
身分のある女、か。竹次のなかで不安が頭をもたげる。様子を見に行こうかと厨房を出かけたとき、店の入り口から新之助が顔を覗かせた。
「親父すまねえ、朝飯はいいわ。遅くなっちまったからこのまま道場へ行く」
「お前…」
気遣わしげな目線を送る竹次に、大丈夫だと同じく目で答え。ついでのようにみつの頭をぽんぽんと叩いて、新之助は出かけて行った。たけやの父娘それぞれの胸に、不安を残して。