だって初めての気持ちだから
「おまちどおさま!」
「おっ、おみっちゃん熱い汁物も運べるようになったのか」
昼餉の客で賑わう食事処「たけや」。常連客の軽口に、看板娘の「みつ」は口を尖らせた。
「もう、おじさんたらいつもそれなんだから」
みつの母親が亡くなり、父親の竹次が店先にみつを置くようになったのは、みつがまだ3歳のころ。はじめは「泣かないで大人しくしていること」がみつの仕事だったが、次第に注文聞きや片づけ、お運びを任されるようになり、いまや立派に店を回している。
しかし初めて料理のお運びをしだした頃は、そろそろと歩くみつに、客のほうがハラハラして見ていたものだ。火傷でもしたら大変、と、熱い汁物はみつに持たせないことが当時の常連客の暗黙の了解だった。かけそばを注文したものは「おみっちゃんに任せてたらそばが伸びちまわあ」と、自ら受け取りに席を立つのだ。
「なあに、おみっちゃんも立派な看板娘になったもんだと思ってよぅ。なにしろ俺が育てたようなもんだからさ」
みつは苦笑する。この近所には「俺が育てたような」自称父親代わりがゾロゾロいるのだ。
──おっ母さん、あたしにはおっ母さんはいないけど、お父っつぁんはなんだかたくさんいるわ。だから心配しないでね。
「姉ちゃんこっち丼二つだ」
「はあい、ただいま!」
せっかちな江戸の町人たちは、昼飯に時間などかけない。サッとかきこみサッと出て行く。だからいわゆる店の回転が早い。無口な父親が黙々と料理をし、みつが手際よく客をさばいていく。今日もたけやは盛況だった。
(やっぱりうちのお父っつぁんの料理の腕は最高なんだわ)
たけやがあるのは表通りから少し引っ込んだところ。にもかかわらず、客足は途絶えない。父親の竹次の料理はみつの自慢だった。
けれどみつは知らない。たけやを訪れる客の目当てが、竹次の味ばかりではないことを。
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昼時の混雑が一段落ついた頃、侍がのれんをくぐった。
「いらっしゃいまし」
初めて見る客だった。狭い店内をキョロキョロと落ち着きなく見回している。
「何にしましょう」
みつが注文を取りに行くと、男が耳を貸すよう手招きをした。
「あー…八のやつに聞いたのだが、この店には裏のまかない品があるというのはまことか」
「…少々お待ちを」
みつは厨房に入り、竹次に客の注文を伝えた。
「お父っつぁん、また来たわ。八つぁんて人の紹介だっていうお侍」
竹次は手を止めずに返す。
「何だって?」
「裏のまかない品があるというのはまことか、ですって」
すると竹次は包丁を置き、前掛けで手を拭うと、小さな紙片に何かを書き付けた。
「今日は食材の用意がねえから、こいつをお渡ししろ」
こういうやり取りは今に始まったことではない。時々やって来るのだ。「八に聞いた」と言って裏の品を求める客が。そのたびに竹次は紙片を渡す。一度ちらりと中が見えたことがあるのだが、そこには日時が書かれていた。その日に再訪しろ、ということらしい。
侍にそっと紙片を渡す。他の客に気づかれないよう配慮しろと竹次に言われている。紙片を見た客は大抵、まずがっかりしたような顔をする。そのあと別の品を食べて帰る者もいるし、何も食べずに帰る者もいる。今日の客は後者だった。
「ではまた参ると主人に伝えよ」
去って行く侍の背中を見送りながら、「何さ、けち!」と胸の内で舌を出す。
(突然来ても食べられないって、八って人もそこまで教えてあげりゃいいのに)
けれどみつは気づいていない。常連客に八なんて男はいないってこと。客が“裏の品”とやらを食べている姿を見たことがないってことも。
みつは知らない。この店を訪れる客の中に、竹次の味以外を目的とする者がいることを。そして“八に聞いた裏のまかない品”が、それを手にするための合い言葉だということを。
みつは知らない。けれどみつの毎日は小気味よく明け暮れていく。みつはこの店で過ごす毎日が気に入っていた。
=====
今日もいつものように忙しい一日が始まる。店の掃除を終えてひと息ついたみつに、竹次が仕込みの手を止めずに言った。
「おぅ、みつ。いい加減あいつを起こしてきな」
「えぇーっ」
反論するも、聞く耳は持たれない。みつは不承不承、店を出て裏手の自宅に戻った。ドスドスと二階に上る。
「ちょっと、浪人さん!」
「…その呼び名はやめてくれと言ったろうが」
忙しいながらも平和な毎日が変わったのは、十日ほど前のこと。父娘二人暮らしだったこの家に、居候が住みついたのだ。
「さっさと起きたらどうですか、この居候殿!」
「その呼び方もなあ…そりゃまあ居候には違いねえが…」
ブツブツ言いながらのっそりと起き上がり、大あくびをする。ああもう、伸びたヒゲが汚らしいったら!
「お店開ける前に朝ご飯食べちゃってよ。もう朝でもないっての!」
「おみつよぉ」
「何さ!」
「年頃の娘が男の寝てる所にズカズカ入って来るもんじゃねえぜ?」
「……っ」
カーッと赤くなる。それをごまかすように、みつはピシャリと言った。
「男? どこにいるのさ。おじさんなら見えるけど」
男は心底傷ついた顔で再び布団に倒れ込む。
「ひでえ…そりゃひでえよ、おみっちゃん…」
「ちゃんと布団あげて出て来てよ!」
ドスドスと階段を降り、外へ出てピシャリと戸をしめる。みつは空を仰いでふぅ、とため息をついた。
「ああもう、なんだってんだろう…」
最近みつを悩ませているのはあの男の存在…ではなく、彼と対峙すると何故だかケンカ腰になってしまう自分。
だいたいお父っつぁんが悪い。古い知り合いだかなんだか知らないけど、あたしはもう15になるっていうのにあんな人住まわせるなんて。小さな頃に遊んでもらったことがあるというけれど、そんなの覚えちゃいない。年頃の娘が心配じゃないのかってんだ。
(…年頃の娘、だって)
たけやの常連客はいつまでもみつを子ども扱いする者ばかり。いっぱしの娘扱いをされ、少しだけ頬のゆるむみつだった。
「起こしてきました。じきに降りてくるわ」
店に戻り、竹次に報告するが、返事はない。父親の口数が少ないのはいつものこと。けれどちゃんと聞いてくれているのは知っているから、みつも気にせず一方的に話し続ける。
「ねえ、お父っつぁん。何度も言うようだけど、年頃の娘のいる家になんだってあんな人住まわせるのよ」
すると竹次はちらりと顔を上げ、
「娘? そんなもんどこにいる。洟垂れなら見えるがな」
「は、ハナタレ!? 15の娘つかまえてハナタレ!?」
「お前のハナが垂れてようが垂れてまいが関係ねえ、相手になんぞされねえから心配すんな。第一あれは年増好みだ」
「年増好み…」
オウム返しにつぶやいたみつの頭に、ぽすりと大きな手が置かれた。
「こら。勝手にひとの性癖を決めるな」
「やっと起きてきたか。とっとと食っちまいな」
竹次が差し出した丼飯に手を合わせ、かきこみながらみつに声をかける。
「おみっちゃん、俺は年増よりもおみっちゃんぐらいのほうがグッと来るからさあ。お茶淹れてくんねえかな」
「そんなの、こっちがお断りだよ!」
ちぐはぐな返事を返し、ドタドタと厨房へ入って行くみつをポカンと見送る。
「親父、お前さんの娘は何をぷりぷりしてんだ?」
「俺ぁお前にそいつを聞こうと思ってたんだがね」
「……手なんざ出してねえよ?」
「当たり前だ。出してたら今頃お前の命はねえ」
「包丁片手に言う台詞じゃねえや! まったく…父親がわからねえもんをどうして俺がわかるんだ」
「年頃の娘の扱いはお前のほうが専門だろうよ」
「さぁて、こちとら年増好みでござんすからねえ」
カン!
湯飲み茶碗が叩きつけられるように置かれる。びくりと顔を上げると、真っ赤な顔をしたみつが仁王立ちをしていた。
「おお…ありがとな」
「今度からはどうぞお好みの年増に淹れてもらってくださいっ」
さすがに見かねた竹次が茶碗に当たるなと小言を言おうとして──
ハァ…。
目の前の浪人の、なんだか楽しげに笑んでいる顔に、ため息をこぼすばかりなのだった。
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店の中にいるのがいたたまれなくて、きれいに掃き終えたはずの店先でみつはほうきを握る。
(あたしったらまたキャンキャン騒いでさ…そんなんだからいつまで経ってもハナタレ扱いなんだわ)
ぼんやりと地面を見ていると、ぽん、と頭に大きな手。
「おぅ、お茶ごちそうさん」
出かけていく背中に慌てて、
「……あ、行ってらっしゃい、新さん」
声をかければひらひらと手を振ってくれる。よかった、聞こえたんだ。
「もう…頭なでたりとかしないでほしいよ」
小さくなる背中にぽつりとつぶやく。このもやもやの原因を、みつは知らない。名前をつければ簡単なことなのだけど。
なでられた頭が熱いのも、気持ちが上がったり下がったり忙しいのも、みんな理由は同じだってことをみつは知らない。
だって、初めての気持ちだったから。