猫の手を借りたならば
『芸術家』『画家』『絵描き』私は何に属するのだろう。
四十を過ぎた中年男と三匹の猫。昭和感漂う平屋の貸家は、アトリエ兼住居となっていた。鼻に付く油の匂い、足の踏み場がないほど散らかった画材。猫達は慣れた足取りでそこを歩いていた。
困ったことに私は今スランプだ。
若い頃はそれなりに描けて自信も情熱もあった。まだ両親も健在で家賃の心配もなく、絵だけで十分やっていけた。大学でも将来有望と言われ個展を開けば人が集まった。最高賞は取れなくとも、入選は毎回している。画家としてはそれなりに成功していた。
しかし時が過ぎれば過去の人、今は絵画だけでなくイラストや広告などの仕事も受けている。好きな絵だけでは食べていけない。プライドだけでは腹は膨れないのだ。
家族は猫だけ。恋人がいた時期もあったが、結婚の話になると決まって別れ話になった。きっとこの生活に不安しかなかったのだろう。
しかし、私はこの生活を気に入っている。出来れば一生猫達とのんびり暮らしたいと考えている。
だが困ったことに、私はスランプだ。絵が描けなければ食べてはいけない。どうしたらいい? 展覧会の締め切りまであと二日、何を描いたら良い? 何も描きたいものが浮かばない。私は何をすれば良い? スランプの原因はわかっている。
────あれは三日前のこと。
友人の個展を見に行った帰り際、偶然聞こえた私の絵の評価。
『面白味に欠ける』
『単調』
『凡才』
絵描きとして散々なものだった。
そこから頭が真っ白になった。描きたいものが浮かばない、何も描けなくなってしまった。目の前には、白いキャンパスがあるだけ。
────絵を描く事は、もう潮時かもしれない。
「にゃー」
三毛猫のミケが私の足に体を擦り寄せてきた。それを見た黒猫のクロも私の足に負けじとすり寄り、2匹で私の奪い合いが始まった。
「にゃー」
斜め右上から白猫のシロの声も聞こえた。せっかく棚の上に登ったというのに、降りようとしている。1匹が甘えだすとこの子達は止まらなくなるのだ。
「シロ、お前も甘えたいのか?」
見上げるとそれはシロではなかった。いや、かつてシロであったであろう緑色の生き物。シロの長く美し毛に緑の絵の具がびっちゃりと付いていた。
「にゃー! にゃー! にゃー!」
緑色のシロは、いつものように甘えだし、そこからは猫同士の大乱闘。
パレットだろうが油だろうがお構い無し、三匹が激しく動き回った。天井から床の隅々まで絵の具を撒き散らせて走るわ、飛ぶわ、引っ掻き回すわ、猫達自身の色柄もわからなくなるまで、それはそれは激しく騒ぎまくった。
それから三十分ほど経ち、私は自分の過ちに気が付いた。
「ああ、本当にすまない、君達のご飯を出すのすっかり忘れていた」
餌に夢中になる三匹の猫。その姿はひどいものだった。色が混ざりあい、すでに何猫なのかわからない。ただ猫達の機嫌が戻ったことは尻尾の動きで感じとれた。
スランプに落ちていた三日前から、私は自分の殻に閉じ籠り、猫達の世話をすっかり忘れていた。
「ごめん、最低だな……」
その時、ドアのノックと共に若い男の叫び声がした。
「うわっ!! 何すかこれ! きったね~なぁ。芸術家ってこんな所で生活するの訳わかんねーよ……」
現れたのは今世話になっている画商のバイト。展覧会に出す作品を取りに来たようだ。歯に衣着せぬ物言いで、裏表がなく気に入っている。歳は離れているが私の数少ない友人の一人だ。
「すまない、展覧会の絵は描けなかった。もう絵はやめにするよ」
私の言葉を無視するように、バイトは靴下を脱ぎ、部屋に上がり込んだ。
「おじゃましま~す。なんだ出来てるじゃないですか! ま、そんなことだろうと思いましたよ。出来てないじゃなくて自分が納得出来てないの間違いじゃないですか? 俺、絵の事よくわからないっすけど凄くいい作品ですよ。これ見てるとなんか元気出ます!」
この子は、何を言っているのだ?
恐る恐る振り返ると、真っ白だったはずのキャンパスに色が付いていた。飛び散り重なり合う色と色。線やら跳ねやらが見事に調和され、大迫力の抽象画が出来上がっていた。猫乱闘の置き土産……素晴らしい作品だ!
* * *
私はその絵を展覧会に出し、生まれて初めて最高賞を手に入れた。私は絵の事をわかったつもりでいたが、一番大事なものが抜け落ちていたのかもしれない。それに気付かせてくれた猫たちには感謝をしてもしきれない。
ありがとう シロ、クロ、ミケ。
人生に迷ったら猫の手を借りてみるのもよいのかもしれない────
完




