お巡りさん、私の話を聞いてくださいよぉー!
「ね”え”、き”い”て”く”だ”さ”い”よ”ー!」
深夜の交番に、間の抜けた泣き声が響いた。
デスクの向かい側に座らされている女性は、いきなり両手で顔を覆ったかと思うと、そのまま机に突っ伏した。
肩が小刻みに揺れている。
「こんばんは。お名前、言えますか」
「いえますよぉ、たなかみちこです。というか知ってるでしょ。ちひろさん!」
「……名前で呼ばないでくださいね」
「えー、だって、いつも対応してくれてるじゃないですかあ」
女性はそう言いながら再び机に突っ伏したかと思えば、今度は勢いよく顔を上げ、首が縦に振れた。両手も宙を泳ぐように忙しく動いている。落ち着きというものが一切ない。
髪型だけはやけにきれいだった。きっちりと整えられたブラウンのロングヘア。だが、その下の視線は定まらず、正面と天井とデスクを忙しなく行き来している。
俺はため息を飲み込み、書類を引き寄せた。端を揃え、ペンを置き直す。余計な感情は挟まない。
「田中美智子さん。今日はどうされました」
「それがですね!」
質問が終わるより早く、田中さんは椅子から身を乗り出した。デスク越しに距離が一気に縮まる。
反射的に椅子を引き、ペンを落としそうになるのをこらえた。
「合コンだったんですよ! 合コン!」
女性は両手を広げ、まるで事件現場を示すかのように身振りで強調した。その拍子に、椅子の脚がきい、と短く鳴る。
「聞いてます? 千尋さん」
「聞いてます。大丈夫ですから、座ったままで」
落ち着かせるように声を抑えると、彼女の足元で何かが転がった。脱げたらしいヒールが、デスクの下からこちらへ来ている。
俺は視線を下げ、足先でそれをそっと押し戻してやる。
田中さんはその動きをじっと見て、ぱちぱちと瞬きをした。
「……やさしい」
なぜか感極まったように、目元が潤む。
「そう、そうなんですよ。あのひとも、最初はやさしかったんです」
唐突に話題が切り替わった。
「何か、事件性はありましたか」
ペン先を紙に当てたまま、確認する。
田中さんは胸の前で拳を握りしめた。
「はい、ありました!」
「わたしの心が、深く、深く傷つきました!」
俺はペンを置いた。
「それは事件ではありません」
「ひどい!」
「確認です。さっき、あなたをここまで連れてきた男性が、相手の方ですか」
一瞬だけ言葉に詰まり、勢いよく顔を背けた。
「もう知りませんよ、あんなひと!」
机を叩きそうになり、寸前で手を引っ込める。
「わたしは、悪くないのにぃぃ……!」
交番の壁時計が、静かに秒を刻んでいた。
「あの方は、どちらに」
「帰りました」
即答だった。
「お一人で?」
「はい! わたしを置いて! 帰られました!」
田中さんは胸の前で両手を握りしめ、勢いよく自分の胸を叩いた。強調するたびに、何がとは言わないが揺れる。机の上の書類がかすかにずれた。
俺はそれを直すこともせず、壁時計に目をやった。針は深夜の時間を淡々と指している。
置いたペンを手に取り、書類の空欄に一行だけ書き足した。
――保護理由、酩酊。
「田中さん」
「あなたが、近々で交番に来た回数……何回かわかりますか」
「ふぇ……」
田中さんは一度だけ瞬きをし、視線を宙に泳がせた。
「さ、さあ……?」
「八回ですよ、八回。いいかげんにしてください」
ペン先で紙を軽く叩く。
「で、でも、今日の私、すっごくかわいそうだったんですよ!」
急に声のトーンが上がった。
さっきまで胸を叩いていたのが嘘みたいに、田中さんは机に突っ伏して顔を伏せた。
「それ、前回も言ってましたね」
反射的に口から出た。
「今日の合コンはですね、医学生との合コンって聞いてたんですけど」
――しまった。
「蓋開けてみたら医学生一人しかいなくて、でも皆アイドルしてますかってくらいイケメンで、話聞いたら有名大学院生とか、弁護士の卵とかいて、そんなのテンション上がるじゃないですか、張り切って野球部ばりに声出して、笑顔で『えーすごーい!』って褒めて――我ながら今日の私、完璧ですね。それでやっとの思いで今季ドラマに出てくる恭太君似の、あでも笑顔は全然似てなかったんですけど、医学生の子を捕まえてめっちゃ嬉しくなっちゃって」
(また始まっちまった……)
俺は頭をかかえた。
こうなると止まらないんだよな、田中さん。
だが、黙っているわけにもいかない。
「田中さん、交番は愚痴を話す場所じゃないですよ」
「二軒目誘ったら向こうもいいね行こうって二つ返事して完全に脈アリじゃないですか、その時の笑顔とかめっちゃ可愛くて、やっぱり恭太君とは似てないんですけど」
俺の言葉は見事に無視された。
「それでウッキウキで二軒目行ったらアイツ完全にノリが死んでて、『ホテルいこっか』とか急に言い出して、私は惚れっぽいけど軽い女じゃねえってもう酒飲まなきゃやってられないですよね」
「……脈がなくなった女性を交番まで連れてくるだけ、優しい男の子ですね」
「そ”ん”な”こ”と”い”わ”な”い”で”よ”ぉ”ー!」
田中さんは椅子の背にもたれかかり、ぐにゃりと体を傾けた。
「大方、酔った勢いで余計なことを口走っていたんじゃないですか。今のように」
「そ、そんなことないもん!」
もんって。成人女性が。
「というか千尋さん、今のようにってどういうことですか!?」
田中さんは体を起こし、机を挟んでこちらを指差した。指先が少し震えている。
「そりゃそうでしょう。下手したら公務執行妨害ですよ」
「うぐっ……」
半分は事実で、牽制の意味を込めた。
その言葉が効いたのか、田中さんはぴたりと動きを止めた。代わりに、カウンターの縁を指先でなぞり始める。爪がガラスを擦る、かすかな音。
「ねえ、千尋さん」
今度は、やけに静かな声だった。
「……はい」
「私、悪くないですよね?」
顔を上げると、田中さんは俺を見ていなかった。デスクと自分の指先を見つめたまま、ぽつりと。
「私にはわかりません」
事実だけを返す。
「……そっかぁ」
そう言って、田中さんは笑った。どこか力の抜けた、妙に穏やかな笑み。
椅子に深く腰掛け、背もたれに体を預けたまま、ぼんやりと天井を見上げている。
「きょうも話を聞いてくれて、ありがとーございます」
舌がもつれるような声。アルコールの匂いはまだ強いが、言葉の勢いはすっかり萎んでいた。
「いえ。付き添いなどは呼ばなくて大丈夫ですか」
「千尋さん、知ってて言わないでよ。家、近いですし」
一拍置いて、視線がふらりと泳ぐ。
「付き添う人が居たら……」
言葉の続きを探すように口を開き、閉じた。
「居たら、うう……」
眉間にしわを寄せ、喉を押さえる。
「失言でした、申し訳――」
「うっぷぇ、気持ち悪っ――!」
田中さんは勢いよく立ち上がり、口元を押さえた。椅子が大きな音を立てて後ろに倒れる。
俺も即座に立ち上がり、デスクから身を乗り出した。
「早く、そっちへ!」
言い切る前に、田中さんは交番の出口の方へよろめきながら歩き出す。
「外! 外でお願いします!」
慌てて声を張り上げた。
「おろろろろろろろろろろろろろろ」
数秒後、夜の静けさを破るような、盛大な音が交番内に響く。
俺は深く息を吐いた。
「さっさと帰ってください!」
◇
おとといはえらい目にあった。
あの後の田中さんを、そのまま外へ放り出すわけにもいかず。背中をさすり、水を飲ませ、落ち着くまで交番の隅で介抱する羽目になった。深夜の冷たい床に座らせ、紙コップを何度も取り替えた。
当然、後始末も残った。
床、ゴミ箱、玄関マット。
交番内の清掃を。
俺一人で。
帰り際の田中さんはさすがに堪えたのか、喋っていたときの勢いが嘘のようにおとなしかった。俯きがちに「……すみませんでした」と一言だけ言って、ふらつきながらも一人で帰っていった。
これで懲りて、無茶な飲み方をしなくなってくれればいい。
――いや、せめて。
交番へは、来てくれるな。
そんなことを考えながら、昼の交番で詰めていた時だった。
「こ、こんにちはー」
控えめな声とともに、ガラス戸が静かに開いた。
反射的に顔を上げる。
立っていたのは、見覚えのある女性だった。きちんと整えられた髪、よれていない服装。
いつもの酔態とはまるで別人だが――。
田中美智子さんだ。
俺は無意識に、ペンを握り直していた。
田中さんは入口の前で立ち尽くしたまま、こちらをうかがうように小さく声を出した。
「この前は、その、ご迷惑をおかけしました」
ぺこり、と。
丁寧に頭を下げた。
俺は立ち上がらず、ペンを持ったまま答える。
「職務ですから」
言い切ると、田中さんは一瞬だけ口を尖らせた。
「そういうとこですよねー」
「何がですか」
「なんでもないでーす」
田中さんは、交番の中をきょろきょろと見回した。
おととい倒した椅子は当然、元の位置に戻っているし、床も乾いている。何事もなかったような顔をしているが、俺の中ではまだ全部終わっていない。
「今日はどうしたんですか」
田中さんはわずかに肩をすくめた。
まるで咎められた子どもみたいな反応だ。
「どうしたんですかって、私がいっつも迷惑かけてるみたいじゃないですか」
「事実では?」
「そ、そうですね、すみません……」
空気が、目に見えてしぼんだ。
そのまま数秒、沈黙。
ペン先を紙に落とそうとしたところで、田中さんが勢いよく顔を上げた。
「でも!」
両手で紙袋を掲げるようにして、
「今日は本当に、謝りたくて来たんです!」
そう言って、手にしていた紙袋をデスクの上に置いた。軽い音がして、中身が揺れる。
俺は一瞬だけそれを見てから、視線を戻した。
「何ですか、これ」
「これ、知ってます?」
「駅前に最近できたドーナツ屋なんですけど、最近SNSでも話題で、私もドハマりしてて! 定番モノも美味しいんですけど、私のおすすめはちょっと変わった味で、このきな粉黒蜜味とか、期間限定でもないのにもう絶品で――」
待ってましたと言わんばかりに、田中さんのスイッチが入った。
紙袋の中を覗き込み、勝手に説明を始める。身振り手振りもついてくる。
「田中さん」
「しかも油っこくなくて夜でもいけちゃうんですよ、あ、でもダイエット中の人には微妙かもですけどお巡りさん夜勤とか大変だからちょっと間食したくらい大丈――」
「田中さん」
「……はっ!」
名前を呼ばれて、ようやく我に返ったように口を閉じる。
俺は紙袋と田中さんを交互に見てから、淡々と聞いた。
「昼から飲んでます?」
「飲んでないもん!シラフだもん!」
だもんってお前、それが平常運転なのかよ。
俺は小さく咳払いをして、話を元に戻した。
「田中さん。謝罪のお気持ちは受け取りましたが」
一度、紙袋に視線を落とす。
「田中って呼ばれるのあんまり好きじゃないから美智子って呼んでほしいんですけど」
「田中さん」
即座に呼び直すと、唇が尖った。
「警察官は、差し入れを受け取れないんですよ」
言い切ると、目がみるみる丸くなった。
「え”っ……そうなの……んですか?」
語尾が途中で迷子になっている。
「賄賂になってしまうので」
「ええー……」
紙袋に置いていた両手が、そっと引っ込められた。
「世知辛い世の中になっちゃいましたねえ」
「昔からのルールです」
田中さんはしばらく黙り込んだ。視線が紙袋と俺の顔を往復する。
「……」
身を乗り出し、声をひそめる。
「ないしょで……いっかいだけ」
「ダメ」
「けちー!」
机に突っ伏し、短く叫んだ。
俺は書類にペン先を戻し、淡々と告げる。
「用件はそれだけですか」
「ドーナツ渡しに来ました」
「受け取れません」
「ですよね」
苦笑いを浮かべた。
それから、小さく息を吸う。
「あと、お礼を言いに来ました」
「お礼?」
「はい」
田中さんはいつもとは違って、ちゃんとこちらを見ていた。
「おとといとか、その前も。最後まで面倒見てくれるじゃないですか、千尋さん」
言いながら、視線がふっと床に落ちる。
「仕事ですから。あと、名前で呼ばないでくださいね」
「帰り道、ちょっと恥ずかしくなって」
言い方が、妙に人間らしく聞こえた。
俺は返す言葉を探したが、結局いつもの結論に行き着く。
「無事に帰れたなら、それで十分です」
田中さんは顔を上げ、じっと俺を見た。酔っていたときの焦点の合わない目とは違う。
「千尋さんって、ほんと警官ですね」
「警官ですから」
「ですよね」
小さく笑う。
今度ははっきりとした声で言った。
「本当に、いつもありがとうございます」
そう言って、田中さんは清々しい顔で笑った。 昼の光がガラス越しに差し込んで、その表情がまぶしく見える。
――美人って、ずりーな。
胸の内でそう思ったのが、少し癪だった。お礼を言われただけで、なぜか色々と報われたような気分になってしまう。
「今日はもう帰りますね」
田中さんは椅子から立ち上がった。
「長居しても、いけないので」
「……そうですね」
俺も形式通りに告げる。
「今後は、節度ある飲み方をしてくださいね」
「ふふっ。わかりました」
返事は軽いが、どこか本気とも取れる笑い方。
田中さんはそのまま交番の出口へ向かい、ガラス戸を押し開ける。
そして、去っていった。
ドーナツを、デスクの上に置いたまま。
「……」
俺は一拍遅れて紙袋に目を落とし、すぐに我に返った。
「田中さん!」
慌てて交番のドアを押し開け、声を張り上げる。
「田中さーん!忘れものですよー!」
外に出たときには、すでに彼女の背中は遠かった。
あの女。
パンプスで、走ってやがる。
昼間の通りを、全力で。
俺は紙袋を持ったまま、しばらく立ち尽くした。
懲りたと思ったのに。
相手に期待なんて抱くからいけない。
どうやら俺の学習能力は、警官としても、男としても、まだ足りないらしい。
◇
「で、今日はどんな男だったんですか」
ドーナツの一件から、数日後の深夜だった。
また交番のデスクの前に、最近すっかり見慣れてしまった女性が座っている。
田中美智子。
勤め先のものだろう制服――スーツのようなそれを着たままだった。ジャケットの裾は少しよれていて、スカートの皺も直されていない。きちんとした服装のはずなのに、どこかだらしがない。
「いーえっ」
間髪入れずに、首をぶんぶんと振る。
「きょーは、ひとりでしょーちゅーです!」
また、しこたま飲んでいるな。
田中さんは椅子の背にもたれ、天井を見上げてへらりと笑った。
「きょうはちゃんと、たれにも迷惑かけてませんから!」
「ここに来ている時点で、かけてますよ」
「うっ……」
一瞬だけ言葉に詰まり、それからすぐに復活する。
「でもほら、ちーろさんも聞きたいでしょー?」
「何をですか」
「わたしのはなし」
俺はあからさまにため息をついてみせた。
「仕事ですからね、聞かなくちゃいけないんです」
田中さんはにやりと笑い、身を乗り出した。
数日前とまったく同じ距離感。
「きいてくれます?」
「業務の範囲内でなら」
「やさしー」
もう嫌な予感しかしなかった。
「お名前、言えますか」
田中さんはにへらっと笑って、胸を張った。
「みちこちゃんですよー。みちこって呼んでくらはーい」
舌が全く回っていない。
「田中さん。今日はどうされましたか」
「たなかって言わなかったら、名前で呼んでくれるって思ったのにぃ」
酔っているくせに、考え方が狡いな。
「きょうはほんとに、ひとり寂しくのんでただけですぅ」
指を一本立て、次に二本、意味もなく増やす。
「帰りにちょっと、ふらっとしちゃって」
体も一緒に揺れる。
「やさしいひとに、つれてこられましたー!」
満面の笑みだった。
本当に、優しい人でよかったな。
連れてきてくれた女性、めちゃくちゃ呆れた顔してたけど。
俺は書類を一枚めくり、事務的に問いかける。
「何か、事件性は?」
「事件と言えば、あのときのドーナツ、どうでした?」
こっちが質問してるんだけどなあ。
「どうもしません。すべて廃棄しました」
「えー! ひっどい! もったいない!」
椅子の上でばたばたと足を揺らしながら、声を上げる。
「一個くらい食べてもいいじゃないですか!」
「……実際には、一つだけ食べました。きな粉黒糖味」
言う必要はないと理性が止めたが、口のほうが先に動いた。
田中さんの動きが、ぴたりと止まる。
「美味しかった?」
「まあ、結構、――って、そんなことはいいんです」
慌てて話を戻す。
俺は姿勢を正し、ペンを握り直した。
「あの時、反省したんじゃないんですか」
田中さんは一瞬だけ目を伏せた。
「どうしてまた、そんなになるまで飲んでるんですか」
問いかけると、田中さんは唇を尖らせ、少しだけ考える素振りを見せた。
「……だってぇ」
次の瞬間には、もう言い訳の表情だ。
俺は無言でペンを置いた。
どうせまた、長い夜になる。
「わたし今……すきな男のひとがいるんですけどぉ」
語尾がやけに甘ったるい。
(いつもいるだろ)と胸の内でだけ突っ込む。
「その人がですねぇ、全然態度がつれないっていうか」
指を一本立て、くるりと回す。
「わたしがなにをしても、事務的にしか対応してくれなくて」
ちらり、とこちらを盗み見る。
「どうやってアプローチしたらいいか、全然わかんなくてぇ」
声がだんだん湿っぽくなってきたな。
「それで、ヤケ酒を」
「ちひろさんがわるい!」
「私が?」
思わず自分を指差す。
「だって!」
机を軽く叩き、身を乗り出す。
「ドーナツ、受け取ってくれなかったじゃないですかぁ……」
目元がみるみる赤くなり、声が震える。
「ありがとーって……ぐずっ……つたえたかっただけなのにぃ……」
嗚咽が混じり始めた。
「こんのマジメ警察官へのアプローチがぁ……ぜんっぜん、わかんなくてぇー!」
指先がこちらを指す。
「俺のことかよ!」
つい、声に出して突っ込んでしまった。
田中さんはむっと唇を尖らせた。
「ちひろさんをわるく言わないでください!」
「いや、言ってないです」
あなたが悪いって言ったんでしょ。
田中さんは聞く耳を持たなかった。
急に背筋を伸ばし、椅子にきちんと座り直す。さっきまでの酔態が嘘みたいに、姿勢だけはしゃっきりしている。
「千尋さんはね、私に対していつも優しいんです」
そうかなあ。
「私は優しい男性が好きなんですけど」
スイッチが入ったらしい。
「私の周りの男って、優しさの中に下心が透けて見えるんですよ。多少なら『まあいいかそういうのも必要だもんね』って流せるんですけど、最近は下心しかねえ下衆な男しかいなくて!そんな中で、傷ついていた私の前に、さっそうと現れたのが千尋さんなの!」
机越しに、ずいっと身を乗り出す。
「わかります? 余計な下心を出さなくて、でもちゃんと私の話を聞いてくれて、困ってたら助けてくれて私は、そういう男性を求めているのです。わかる?」
最後は、詰め寄るような視線。
俺は一度、深く息を吸った。
「それは、職務ですから」
それ以上でも、それ以下でもない。
田中さんの顔が、少しだけ曇る。
なんで俺が責められてるんだろう。
理不尽。
だが酔っ払いの対応は、だいたいこんなものだ。
田中さんは、まだ何か言いたそうに口を開きかけていたが――
その瞬間、交番の無線が短く鳴った。
俺はそちらに視線を移し、話を切り上げる。
「田中さん。今日はもう帰りましょう」
「えー」
「家、近いでしょう」
「……はい」
不満そうにしながらも、立ち上がる。
「ちゃんと帰って、休んでください」
そう告げると、田中さんは少しだけ目を見開いた。
「やっぱり、やさしい」
小さく呟いてから、今度こそ交番の出口へ向かった。
ガラス戸が閉まる音を聞きながら、俺は椅子に深く座り直す。
全く、照れる暇もない。
俺は片手で顔を仰ぎ、息を整える。
デスクの上に残った書類と、静かな時計の音。
さっきまであんなに騒がしかったのが嘘みたいだ。
なんて。
俺は小さく首を振ってから、無線に出た。
◇
「うおう!?」
自分でも情けない声が出た。
夜勤明け。交番のガラス戸を出て、二、三歩だけ進んだところだった。朝の光に目を細めながら伸びをしかけて――視界の端で、何かが動いた。
道端、交番のすぐ脇に、女性が座り込んでいた。壁に背中を預け、膝を抱え、こちらを見上げている。
見覚えがありすぎる顔だった。
「どうして、ここに?」
思わず足が止まる。
無視して帰るのは、流石に忍びなくて。
田中さんはすぐには答えなかった。 一拍、二拍。間を置いてから、視線を逸らしたまま口を開く。
「勢いで、告白みたいなこと言っちゃって、恥ずかしくて」
喉の奥で言葉を転がすように続ける。
「……ちゃんと、言いたかったから」
俺は、朝の空を一度だけ見上げた。
「それで、出待ちを?」
「で、出待ちって言わないでくださいよぉ!」
勢いよく立ち上がり、埃を払う。
「なんかストーカーみたいじゃないですか!」
いや、まさにそうでは?
その言葉は口に出さずに飲み込んだ。代わりに、ため息を一つ。
「夜通し、ここに?」
「だって退勤時間、わからなかったから」
視線が泳ぐ。
「あとなんか、入っていくタイミングなくて」
俺は腕時計を確認した。 普通の会社の始業には、ずいぶん早い。
田中さんはもじもじと指先を絡めながら、こちらを見上げてくる。
「怒ってます?」
「職務時間外です」
「時間外なら、警官としてじゃなくて、千尋さんと話せるかなって」
沈黙が落ちる。 朝の通りを、通勤途中の自転車が一台、二台と通り過ぎていく。
俺はもう一度、田中さんを見た。
「……帰れましたか、昨日は」
驚いたように目を瞬かせてから、ふっと笑った。
「はい。ちゃんと」
短く答えてから、田中さんは一度だけ深く息を吸った。
そして、姿勢を正す。
さっきまで壁にもたれていたのが嘘みたいに、背筋を伸ばし、両手を太ももの上に揃えた。
「千尋さん」
「夜勤でお疲れでしょうけど、聞いてくれますか」
澄んだ声だった。酔いも、ふざけも混じっていない。
俺は遮れなかった。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」と言って、田中さんは小さく頭を下げた。
まっすぐに、こちらを見る。
「千尋さん。私は、惚れっぽくて、酒癖も悪いです」
自分で言って、少しだけ苦笑した。
「でも……記憶は、全部残ってます」
「昨日も、その前も。交番であったこと、全部」
「あなたが、私の話を聞いてくれて……嬉しかったんです」
ほんの一瞬だけ、視線を伏せた。
声は低く落ち着いている。
俺は黙って続きを待った。
「この気持ちは本物だから、よかったら、お友達から……」
首を横に振った。
「いいえ。友達に、なってください」
言い切ったあと、田中さんはごくわずかに肩の力を抜いた。
俺はまず、困惑していた。
正直に言えば、厄介だと思った。
面倒な人だとも思った。
断ればいい。
今まで通り、職務だと線を引けば終わる。
それなのに、
じっとこちらを見続ける田中さんの視線を受け止めた瞬間、
俺はたじろいでしまった。
「……そんなつもりは、ありませんでした」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「ただ、職務として。警官として、受け答えしていただけで――」
「知ってます」
即答だった。
「それでも、いいんです」
「たとえ職務でも、あなたが真面目で優しいってことに、変わりはないから」
胸の奥が思いがけずざわついた。
そんなふうに、思ってくれていたのか。
俺は彼女を、ただの酔っ払いだと思っていたのに。顔に血が巡るのが、はっきりわかった。
何か返さなければと口を開きかけた、その時だった。
「あっ」
田中さんが、はっとしたように声を上げる。
「も、もしかして……彼女とかいました?」
「ど、どうしよう、普段の出会いが合コンとかだから、そんなこと全然考えてなかった! ん? でも友達だから彼女いてもいいのか。えー私だったら彼氏に女友達とかゼッタイ嫌だしぅぁぁああああ!」
さっきまで背筋を伸ばしていたのが嘘みたいに、視線が泳ぎ始める。眉が上がったり下がったり、口元が忙しい。
――ああ。
いつもの田中さんだ。
「……ハハ」
気づけば、息が漏れていた。
「えっ、笑われた?なんで?」
俺は首を横に振る。
「彼女はいませんよ」
「警官しててそんなこと言われたの、初めてで驚きました」
田中さんの目が、ぱっと見開かれる。
「そ、そっか。よかったぁ」
胸をなで下ろすように大きく息を吐いた。
朝の光の中で、その顔は、ずっと穏やかに見えた。
――厄介な人だ。
でも、その評価は、さっきまでとは少しだけ違っていた。
俺は、一度だけ深く息を吸った。
「俺は……あなたの思っているような人ではないかもしれない」
警官としての立場も、言い訳も、今は全部脇に置いた。
「プライベートでは俺って言うんですね。千尋さん」
全く、この人は。
視線を逸らし、言葉を続ける。
「でもまあ、俺がいたほうが、無理な飲み方とか止められるから」
「そのうち一緒に、居酒屋にでも行きましょうか」
「美智子さん」
今、俺の顔は耳まで真っ赤だろう。
隠す気にはならなかった。
彼女は、ぱあっと表情を明るくした。
「はいっ!」
大きく、迷いのない返事だった。
その綺麗な笑顔につられて、俺の口元も勝手に緩む。
夜勤の疲れすら、風にさらわれるみたいに抜けていく。
気づけば、朝日は俺と美智子さんを同じように照らしていた。
「そういえば、千尋さんって、何歳なんですか」
軽い調子で、こちらを見る。
「二十五です」
「えー!」
即座に声が裏返った。
「若っ! え、じゃあ私の方が年上なんだ」
両手で自分を指して、満面の笑み。
「私、二十九!」
ええー。
二十九歳で、この落ち着きのなさ。
この行動力、距離感。
判断、早まったかなあ。
「年上だからって遠慮しなくていいですからね」
「居酒屋も、私がおごっちゃおうかなー!」
美智子さんは何を勘違いしたのか、胸を張った。
……不安しかねえ。
俺は空を仰いだ。




