貴方との、初めての
アルマの嘆きに、ジグルドが首を傾げる。
「どういう意味だ」
「わたしも初めてだから、大変かもと思って」
「えっ?
―――いや、だが、あなたはラウル・ハーガーと」
「それ、嘘です」
目を見開くジグルドを指の間から覗き見て、アルマはとうとう白状した。
「嘘です。わたしがその辺で済ませようとしてたら、ラウルが嘘に付き合ってくれたの」
言ってしまってから、言ってしまって良かったのかと不安になる。
「あの、絶対に絶対に中央神殿には秘密にしてね? わたしなんかの身体を気にしてくれたラウルに何かあったら、死んでも死にきれない」
「いや、私は、あなたはこういう仕事に慣れているのだと………その、昔、花屋で仕事を、」
「かろうじて、子どもに本番させる種類の店ではなかったの」
「……………………………」
ジグルドは怖い顔でアルマを凝視して固まってしまった。
眉間に凄い皺を刻みながら絞り出すように問う。
「…………………やめ、た方が、いいか……?」
「ジグルドがいいなら、いいわ。乱暴にとか、しないでしょう?」
「しない、しないが、……初めては、できれば、好いた男がいいんじゃないか……?」
そうか。
わたしは今から、好きな男に抱かれるのか。
それで報酬が出るとは、なんとも贅沢な話だ。
「初めてって言ったって、男の手垢まみれの身体だもの。ジグルドがそれでいいなら、いいわ」
「そういう言い方はやめろ」
「……そんなに気になるならやめる?」
動揺する姿が気の毒になって聞くと、ジグルドはぐっと息を飲み込んで、強く目を閉じた。長い睫毛が開き、灰色の目がアルマを見る。
「―――あなたが大丈夫なら、したい。代金が足りなければ、あとで何とかする」
「足りないわけないでしょ。
きっと高い買い物したって後悔するわよ」
「しない。……触るぞ」
ジグルドの右手が伸びてきてアルマの肩を撫でる。頬や腕を撫でてから、下ろした栗色の髪に隠れた首筋に指を伝わせた。
「………ん……っ」
あまりにも微かな刺激がくすぐったくて、アルマの口から吐息混じりの声が漏れた。びくりと跳ねたジグルドは慌ててその手を引く。
宙に浮いたままの腕がもう一度伸びてきて、途中で引っ込んでしまう。
俯くアルマの視界の端で、ジグルドの右手が何度か宙を掴む。
とくとくと自分の鼓動が耳に響く。
それを宥めながらジグルドの行動を待っていると、突然何かを殴る音がした。
「……―――クソッ……」
聞こえた罵言に、アルマは驚いて視線をあげる。
残虐の魔王と呼ばれ王都で恐れられている男が、浅い呼吸で、俯いた顔を耳まで真っ赤にしていた。
「…………………………何を、どうすべきか、頭が回らない……」
悔しそうな顔で、自分の額をごつごつと拳で叩いている。
呟く声に滲む、焦りと失望の色。
普段の泰然自若とした姿からはとても想像がつかない。
今まで見たこともない、いっぱいいっぱいなジグルド。
―――それを見て、漸くアルマは気付く。
頭では分かっていたつもりだったけれど、どこかでやはり、ジグルドは特別なのだと思い込んでいた。
ジグルドだってアルマと同じ、まだ二十代のひとりの人間なのだ。
強さを求められて、誰にも甘えられず、欲しいものを欲しいと言うことも知らない哀しい人。きっと、弱いところも、甘えたい時も、欲しいものもあったのに、誰かのためにずっと一人で傷ついてきた、優しい人。
言葉が足りなくて、責任感ばかり強い、女心の分からない、アルマの好きなジグルド。
―――愛しい。
気まずさや恥ずかしさがすとんと落ちて、アルマはただ、目の前の愛しい人を抱きしめたくなった。
身を乗り出してジグルドの首にするりと腕を回す。そのままジグルドの身体を跨いで膝に座り、体重を預けた。油断していたジグルドは正座を崩して尻をつく。
ふたりの身体がぺたりと触れ合う。
硬直したジグルドが息を呑むのが分かった。
ジグルドの細い髪から、仄かにサンダルウッドの優しい香りがする。
鼻先にある首筋からの、人肌のにおい。
アルマのものとは違う筋肉質な肉感に、男と裸で抱き合っているのだと少し怖気付く。その気持ちごとぎゅっと抱きしめてみる。
応じるようにジグルドの腕が背中に周り、アルマの背中に触れてびくりと震えた。
背中の、汚い傷痕に触れたのだと気づいて、アルマは苦笑する。
指先で傷痕を辿っていた手がアルマの身体を強く締めつける。ジグルドの身体に押し付けられて、互いの体温が溶ける。
霊脈が見えていたときのウィンターハーンの心地良さはもうない。これはジグルドと触れ合う心地良さ。
初めての感覚に愛しさがあふれる。
暫くの間そうやって抱き合ってから、アルマは彼の膝に乗ったまま顔を合わせ、灰色の瞳に笑いかけた。
「気持ちいいね」
「………うん。あなたは、驚くほど柔らかいな」
そんなことに感動している風のジグルドが可愛い。甘えるように額を擦り合わせてくるので、頭を撫でてあげた。
もしかして、初めてが不安だから、気心の知れた相手としたかったのかな。それでわたしがいいと思ってくれたのかな。
「わたしをどうしたかったの?」
「―――分からない。ただ、あなたを全部覚えていたくて、………」
「今はどうしたい?」
「………もっと、抱きしめていたい」
「それから?」
「キスしたい」
「あとは?」
「あとは……」
目元を朱くして一生懸命考えているジグルドが可愛い。この瞬間、自分だけがこんな彼を見ているのだと思うと胸がぎゅっと締め付けられた。
「ジグルドのしたいこと、ぜんぶ、して?」
そう笑いかけると、ジグルドの大きな手がアルマの頭を引き寄せて、ふたりの額が合わさった。
長い睫毛の奥の不安気な目がアルマの心を覗くかのようにこちらを覗き込む。恐々と唇を押し付けては離れることを繰り返される。
触れるだけのキスが、伺いをたてるように喰むように変わる。
アルマがそれに応じると、そのまま頭を支えられてベッドに倒され、覆い被さったジグルドはアルマの口を塞ぐ。
ふと、一瞬動きを止めたジグルドの手が、壊れやすい宝物を触るようにアルマを優しく撫でた。
アルマの身体に触れるジグルドの手が、唇が、全部が愛しい。
―――そう思えることが、嬉しい。
ジグルドと目が合って、愛しさに自然と笑みがこぼれた。
「アルマ」
薄く開いたアルマの目に、切なく歪んだジグルドの顔が映る。
吐息が混じった掠れた声が、優しくアルマの名前を呼ぶ。
「……アルマ」
それはどこか哀しく、まるで愛する人を呼ぶような深い響きで、―――アルマはこみあげる涙をなんとか堪えた。
吐息を感じるほどの距離で見つめ合ってから、ジグルドはアルマを身体の下に閉じ込めたまま額をすりあわせた。
「―――気を遣わせた」
「料金に含まれておりますので大丈夫ですよ、お客様」
眉を下げてしまったジグルド。アルマは厚い背中に手を回してくすくすと笑った。
「冗談よ」
ジグルドがどういうつもりでこんなことをするのか分からない。もしかしたら、後腐れのない平民の女を味見したいだけなのかもしれない。
それでも、アルマは自分の心を知っている。
これは幸せなこと。
それは、アルマだけが知っていればいいこと。
祈祷師でなくなったアルマは、どんなに手を伸ばしてももうこの人には届かない。
「ジグルドは超イケメンだから、わたしは満更でもないです」
この愛しい人の心に、ひとつのしこりも残していきたくはない。
「―――………この顔に、感謝する日がくるとは思わなかった」
ジグルドは少しだけ哀しそうに笑って、またゆっくりとアルマと唇を重ねた。





