あなたと過ごした日々が
使節団が中央神殿へ向かって旅立ってから、ウィンターハーン城砦ではアルマの話が広まり、使用人たちが騒ついていた。
アルマは接点のあった使用人たちに挨拶をしながらぼちぼちと荷造りを始めている。せめて餞別を受け取ってほしいとイゾルデからも何度か言ってもらったが、結納品を返さなくていいだけで十分すぎると断られた。
アルマには帰れる実家がない。新しい祈祷師が来たからといって必ずしも王都に戻らなくてもいいのかもしれない。だが、ジグルドが新しい妻を迎えるこの城にアルマを留める気にもなれなかった。
一見すっかり元通りのアルマは明るく笑ってクリスを宥めている。
久しぶりにウィンターハーンに帰ってきたラースとも何事もなかったように軽口の応酬をしていた。
ジグルドはいつもに増して眉間の皺を刻んでしまい、アルマに笑って指摘されている。
そんなジグルドの部屋に朝から黙って入り浸っていたラースが遠慮がちに聞いてきた。
「新しい祈祷師と結婚するの?」
「ああ。春先に祈祷ができれば、今秋の収穫はもっと良くなるはずだとアルマが言っていた。それに間に合わせたい」
新しい祈祷師が来てくれなければ、計画外の祈祷師を貸してもらうしかない。必ず貸してもらえる確証もないうえに、結納品どころじゃない金がかかる。将来のことを考えれば通行権も鉱山も売ることはできない。領自治を切り売りせず、食糧難が解決し次第鉱山を再開する。そうでなければ領としてはどのみちジリ貧だ。
「でも、兄さんは、あの女が良いんじゃないの」
「祈祷師は、絶対に必要だ」
「そりゃそうだけど。他の方法を考えてみてもいいんじゃないか。
兄さんは一度ちゃんと、好きでもない女と結婚した。そっから育てた情だろ。捨てなくたっていいんじゃないか。そこまでしなくても……」
「領のために、多くの者に命や自由を捨てさせた。旗を振った私が自分だけ望むように生きるなど、していいはずがない」
次の派遣計画を待てばあと四年。独自に祈祷師を特定して求婚しても成立して迎えるのに一年ほどかかる。祈祷が一年空けば、アルマがこの半年かけて整えたものが元の木阿弥だ。鉱山の再開もレガシアへの公道の工事も延期になってしまう。
新しい祈祷師はおそらく、蒼玉の鉱山かレガシアへの公道に目が眩んだ実家に政略結婚の駒として送り込まれてくる。どちらも全面的に利用できるわけではないと知れば実家との板挟みになるだろう。
アルマの時には空いていたジグルドの心も、今はもうない。
気の毒に思うが、領のために飲み込んでもらわねばならない。
「この顔だけで良いと言ってくれる女だといい」
「そんなの、兄さんが一番嫌ってたタイプの女じゃないか」
「他の女に懸想している私より余程誠実だ」
せめて、大切にしようと思う。
できるだけのことをして、望まれれば夫の役割も務める。アルマを忘れろと言われたなら、時間はかかっても努力しなければならない。
望まれなければ、結婚は形だけのものとして、想う相手と情を育んでもよい環境を整えてやろう。幸いジグルドにはもう後継者がいる。
「……あんな山猿の、何がそんなに良かったの」
「失礼なことを言うな。
彼女はよくやってくれた。
………私には、過ぎた女だった」
「………泣くなよ……」
言われて、視界が揺れていることに気付く。
袖で拭うと耳の奥でラースの声が遠く聞こえる。
「兄さんが泣くのなんか、初めて見た」
ジグルドにも、泣いた記憶などない。
誰にも期待しないよう、己のための望みを持たないよう、ただ領のための判断を重ねるように訓練されてきた。ジグルドのものは全て領のものであり、ジグルドの全てもまた領のものだった。今まで何も持っていなかったので、何かを失ったことはなかった。
いつの間にか、アルマと共にいる未来を期待していたのだと知る。
病気でも怪我でもないのに、矢鱈と胸が痛い。大の男が情けないと思っても、涙を止めることができない。
アルマに唆されて情を育んだ心は、危惧した通りに傷付きやすくなった。
柔らかくなるんですよ、と教えてくれた温かな声が蘇る。
弱くなったわけじゃない。
柔らかくしなやかに育ち、傷付いても立ち上がり強くなるのだと、アルマは言っていた。
ならば自分はこの痛みから立ち上がって強くなるのだろうと思う。
彼女と過ごした時間が私にとって、良いものでないはずがないのだから。