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白紙撤回


 どれくらいそうして項垂れていたのか。周囲の音が聞こえ始めた頃にはすっかり身体が冷えてしまっていた。

 爪を食い込ませていた拳をゆるゆると開く。立ち上がり、何度か指を開いたり閉じたりして指先に血を巡らせる。


(……なにが、他の男をあてがってやれば、だ)


 己の愚かさに自嘲するジグルドの耳に、階段の方から聞き慣れた呼び声が届く。


「ジグルド?」


 視線をやると、アルマがこちらを見ていた。


「ジグルド? どうしたの? 気分が悪いの?」


 ジグルドに駆け寄ってきたアルマが顔を覗き込む。


 目元に泣き腫らした跡がある。

 あの男の前では泣けるのか。

 こんなに長い時間一緒にいたのか。


「………いや、考え事をしていただけだ」

「そうなの?」

「あなたこそ、その顔は何だ」

「え? えっと、………へへ、ちょっと泣いちゃった」


 久しぶりの、アルマの笑顔。


 この半月、望んでもジグルドにはどうにもできなかったアルマの笑顔を、あの男はこれだけの時間で取り戻せるのか。


 そう思うと悲しくて悔しくて、惨めだった。


「―――あなたは、私の妻だろう。

 他の男と、外で抱き合うようなことは慎んでもらいたい」


 自分でも驚くほどの子どもじみた態度にジグルドは心中でぎょっとする。

 赤くなった目をぱちくりとしたアルマは、しゅんとなって頭を下げた。


「ごめんなさい。気をつけます………」


 せっかく見せてくれた笑顔を潰してしまい、ジグルドは慌てて取り繕う。


「いや違う、そうじゃなくて……」


 そうじゃなくて。


「―――私では、そんなにだめなのか」


 話をする。ちゃんと、アルマに、思っていることを伝える。今はあの男よりも下でも、アルマはジグルドの妻だ。時間はあるはず。


「私は、顔しか好みではないかもしれないが、」

「え……待って、急に何?」

「私との婚姻を撤回する気なんだろう。

 私は粋な会話も得意ではないし、遠征に出れば帰ってこないし、女心も分かっていないかもしれないが、これから、」

「ジグルド、ちょっと待って」


 アルマが慌てて手のひらを振った。


「違う、違うの。ジグルドの奥さんが嫌になったとかじゃなくて」


 次の言葉を喉に支えさせて一度俯いたアルマは、少しの逡巡のあとに顔をあげた。


「―――祈祷が、できないの」


 茶色の目が真っ直ぐジグルドを見る。


「霊気が見えない。ごめんなさい、すぐ戻ると思って黙っていて。他の祈祷師に来てもらわないといけないでしょ。ラウルに、なんとかならないか聞いてたの。

 わたし、中央神殿には、身寄りがないって理由だけで選ばれたんだと思ってたの。でもウィンターハーンのと相性もちゃんと考慮には入ってたんだって。わたしたちの結婚が白紙撤回できれば、きっと中央神殿が代わりの良い祈祷師を選んでくれるわ。

 夏に中央神殿に顔出したとき、女の子皆、ジグルドのことかっこいいって噂してたそうよ。今なら来てくれる祈祷師はいっぱいいるわ」


 ジグルドにはそう説明してくれるアルマの言葉が半分も理解できなかった。

 頭が情報を整理しきれず鈍く軋む。


「………ゆっくり、休めば、……治るんじゃないのか」

「分からない。分からないから、そろそろ次のことを考えないと。春先に祈祷をしたい場所がいくつかあるの。新しい人が来てくれたらすぐ取り掛かれるように、今度ちゃんと表にしておくね」


 アルマの声がウィンターハーンの地名を挙げていく。この半年で、アルマがひとつひとつ学んでくれた、ジグルドの治める土地の名前。


「アルマ」


 現実味がなく、ジグルドの口は全く脈絡のないことを口走る。


「アルマ、私は、………結婚したのが、あなたで、良かったと」


 目を瞬いたアルマがジグルドを見上げたまま、本当に久しぶりに、にっこりと笑った。


「ふふ。なあに? ありがとう。どういうつもりでも嬉しい」


 アルマは申し訳なさそうに続ける。


「ごめんなさい。すぐに言うべきだと思ったのに、………なかなか言えなくて……婚約指輪も、結納の品も、返せるあてがないの」

「……そんなことは、いい」


 それだけか。

 言いづらかった理由は金だけか。


 この婚姻を、ジグルドを惜しいとは思ってくれないのか。


 そんなことを思うジグルドに、アルマは安堵の笑みを見せる。


「そう言ってもらえると助かるわ。

 わたしたちは夫婦生活してないから、そんなに時間かからないと思う。きっとすぐに新しい人が来るから安心して。子どもがいたりしたら難しかったかもね」


 子ども。


 子どもが、いればいいのか。


 したことはないが作り方くらいは知っている。


 まだアルマは私の妻だ。

 作ってもいいはずだ。


 子どもさえいれば―――



「良い人、来てくれるといいね」



 アルマの声に我にかえる。

 少し寂しげなアルマの笑顔にざぁっと頭が冷える。


 ―――私は今、何を考えた!?


 アルマとの婚姻が撤回できなければ次の祈祷師を妻に迎えることができない。祈祷師を領に据えて、この土地を守る。それが何より優先すべきことだ。


(―――ああ、………)


 アルマは、私とするのを、嫌がっていた。

 まず想いを告げて、時間をかけて、次こそはと、思っていたけれど。



(………もう、好きだと告げる資格もないのか)



 婚姻を撤回する。

 アルマは妻ではなくなる。

 ふたりを繋ぐものは、何もなくなる。


 そしてジグルドは別の誰かを妻に迎え、夫の役割を果たさねばならない。




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