ウィンターハーン諜報部
「ばかねぇ」
領都最大の娼館から少し離れた屋敷。表向きは、とある服飾商人の私邸兼倉庫とされている。
その奥まった一室で、ヴァレンティナが色っぽくパイプの煙をふうっと吐き出した。
「それで、倒れてる妻を放って馴染みの娼婦のところに来ちゃったの?」
煙草を嗜まないジグルドは煙に渋い顔をする。
ウィンターハーン城砦に戻って侍医にアルマを診せたところ、気を失っているだけとの診断だった。目と鼻からの出血も止まり、呼吸もしている。それが、もう三日も目を覚まさない。
ジグルドは焦りを感じつつも、日常の仕事に戻っていた。
「………お前のことを、アルマに、ちゃんと説明したい。アルマはウィンターハーンの一員だ。信用できる―――と、私は思う。
私は、彼女に関して判断を誤る可能性がある。お前の意見を聞きたい」
「私は反対ね。アルマが貴方を裏切るとは思わないけど、あの子はこういう隠し事は下手だわ」
「…………そうか」
「頻繁に娼婦を呼ぶ夫」を返上することはできないと結論してジグルドは床を見つめる。
元々、諜報部との接触は領主がやるものではない。それを、直接会った方が話が早く、ヴァレンティナが社交場に潜り込むにも便利だという理由で、妻ができるまではとジグルドが城に呼んでいる形にしていた。
「結婚するまでって言ってたのに、どうしたのかしらとは思ってたのよね。貴方がそんなに落ち込むなら今後は直接会うのはやめましょうか。
ヤってないことも説明しておけば? 私に弱みを握られてるとでも言っておきなさいよ。口止め料に呼び出されて我儘きいてるって」
「………お前は、我儘など言ったことはない」
「そういう八方美人の正義感は要らないわ」
ウィンターハーンは王国屈指の軍を擁する。それでも、情報なしに他の領や国と互角に渡り合うことなど不可能だ。諜報部は辺境軍と同じくらい、領の防衛になくてはならない存在だ。
軍人ならばその働きには大義があり、その死によって栄誉を得る。間諜たちは蔑まれ、汚れ、闇に潜み闇に消える。
ジグルドはずっとそんな彼らに報いたいと思い続けてきた。
ジグルドがウィンターハーンを守り抜くこと。それだけが彼らの働きに返せるものだ。
自分の都合のためにヴァレンティナを落とすことはしたくないし、アルマに話すことがヴァレンティナにとってリスクになるなら諦めるしかない。
今までのことはそのままに、挽回していくしかない。
ぎゅっと眉間を寄せるジグルドに、ヴァレンティナは眉を下げた。
「そんな顔しなくても、アルマはジグルドのこと好きだと思うわよ」
「そんなわけないだろう」
「ジグルド、貴方、私より女心が分かってるつもり?」
黒い瞳に見下ろされ、ぐっと言葉に詰まる。
「―――だが、恋人がいても馴染みの娼婦がいても嫉妬もしてくれない。………夜も、嫌がられた」
悲しくなってまた視線を落とすと、ヴァレンティナが優しく諭すように言う。
「ばかねぇ。アルマは大人なのよ。好かれてる自覚もないのに、嫉妬したからって癇癪を起こすわけにはいかないの。閨だって、嫌そうなのに、妻の立場だから応じようとしてたんでしょ」
「閨が嫌なら、好かれてはいないだろう」
「そんな単純な話じゃないのよ」
またふうっと煙を吐き出してから、ヴァレンティナはくすくすと笑いだした。
「………ふふっ。まさかジグルドに、恋愛相談されるとは思わなかったわぁ。相談されるなら、好きでもない女を喜ばせる方法とか、そういう方向だと思ってたのに」
そう言って人差し指をジグルドの唇に当ててくる。
「嬉しいわ。一方的かもしれないけど、戦友みたいなものだと思っているの。うまくいったら、ベッドで初心な女をぐずぐずにする方法を色々教えてあげる♡」
「―――アルマは男を知っている。夫が女を囲っても文句も言わない。初心な女ではない。
それより経験者に呆れられない秘訣とかはないのか」
「アルマは初心よ」
ジグルドの言葉を聞く耳も持たず、ヴァレンティナは組んだ足の上で頬杖をついて妖艶に笑う。
「初心で、男嫌いで、貞操観念の強い女よ。
処女かどうかなんて知らない。でも、賭けてもいいわ。あの子の心は、男に身体を許したことはない。ジグルド、初めての男になるチャンスよ。ガンバッテ♡」
それからジグルドは諜報部の副長を交えて国境付近とゴーツ王国内の情報を中心に話を聞いてから屋敷を後にした。
去年からゴーツ王国との国境では小競り合いが絶えない。ゴーツ王国はアルデンティア王国の貴族たちの一部に買収をかけている。知らないふりをしなければいけない、知っておかなくてはいけない情報が諜報部からリアルタイムで耳に届くのは、ジグルドがヴァレンティナに自由な謁見を許可しているからだ。今後接触を控えるなら、ジグルドに自由に会える側近を選び、その者に自由に会える外の身分を作って、諜報部の人間を…………
―――諦めるか。
友人として接している間、アルマがヴァレンティナを疎むことはなかった。ジグルドがアルマとの夫婦関係を諦めるならこのままで良いのだ。
アルマは元々結婚する気はなかったと言っていた。情を交わす男と結婚しなくても構わないタイプの女なのだろう。望むなら、平民の女好みの男をあてがってやっても良い。
(…………良くない……)
大森林の砦で抱き寄せたあの細い腰を、他の男が弄るなど、とても許せない。
許せないって何だ。
別に、アルマの腰はジグルドの所有物ではない。
ジグルドは自分の儘ならない感情に困惑するばかりだった。





