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恋だと知った日


 翌日からアルマは神殿に通い始めた。まだ少し心が重くて失敗を懸念したが、始めてみると何年もアルマの生活の一部だった祈祷はするりといつも通りにこなすことができた。


 クリスは翌日からいつもの調子に戻った。勉強も鍛錬も集中して頑張れているらしい。


 ジグルドとはもう十日も顔を合わせていない。元々ジグルドは用件がなければ向こうからは会いに来ない。アルマから会いに行かなければこんなものなのかもしれない。


(毎晩、隣の部屋で眠ってるのに)


 時々物音が聞こえて、もしかして扉をノックされるのではと緊張して、もちろんそんなことはなくて。


 いったい自分は何をやっているのだろう。


 ジグルドが悪い。

 隣の部屋でイケメンが寝てるなんて、落ち着かないに決まってるじゃないか。肩書きだけの妻にこんな部屋をあてがう必要があったのか。祈祷の指示ならウーリク先生を介せばいい。


 用件がなければ、顔を見ようとも思わないくせに。



 ジグルドへの感情を押し殺して、今日も日中は祈祷を頑張ってきた。割と調子が良くて、また少し気分があがる。例年王都の秋の波が来るのはもっと先だが、ウィンターハーンは王都より寒い。そろそろウーリク先生ともう少し細かい打ち合わせをしたい。


 お腹を空かせて城に戻ると玄関ホールに珍しくエリックとベンジャミンがいる。なかなか見かけない組み合わせだ。

 ソファに座っていた困り顔のベンジャミンがアルマに気付いて立ち上がる。


「アルマ様、お疲れ様です。

 お戻りしたばかりで心苦しいのですが、アルマ様にお願いがありまして」

「ベンジャミン。唐突に怖い顔でそんな事言うと警戒されるよ」

「俺の顔など、閣下を見慣れてるアルマ様が怖がるわけないだろう」


 ベンジャミン。ジグルドのことそんな風に思ってるの。意外。


 お願いとやらを待っているアルマにエリックが「先に報酬を」と小さな箱を渡してきた。開けてみると中に入っていたのは料理長のセンスが光るチョコレート。速攻で頬張ってしまったアルマにエリックがにこりと笑う。


「アルマ様から、閣下に言ってくれませんかねぇ」

「なにを?」

「閣下が馬場で川浚いしてるの、やめさせて欲しいんです」

「……………はい?」


 ベンジャミンを見ると居心地悪そうな顔をしている。


「馬場の川は水が濁っていますし、流れの速いところもあるので危ないのです。一応衛兵はいますけど余計なリスクですし、あれは必要な休息時間として空けている時間なので」


「………ジグルドが、……川浚い? してるの? なんで?」


 苦い顔のベンジャミンとは対照的に、エリックは面白そうに肩を竦めてみせた。


「なんでって、理由なんていっこしかないと思いません?」


 まさか、とアルマは息を呑む。


「………ぬいぐるみ、捜してるの……?」



 城の衛兵に頼んで慌てて馬場に連れて行ってもらう。

 ジグルドの馬を見つけて、二人乗りで乗せてもらっていた馬の背から降りる。

 川で流されたものはこの辺りの淵に溜まりやすいのだそうだ。土手を超えて河川敷に降りる。衛兵のひとりがアルマに気付いて助けを求める視線を送ってくる。


 膝まである草を踏みしめながら近づくと、地平線に隠れようとしている夕陽を逆光に、濁った川に膝まで浸かったジグルドが泥だらけになっていた。


「ジグルド!」


 叫んだアルマに、ジグルドは怪訝な視線を向けた。


「………何故あなたがここにいる」

「ジグルドこそこんなところで何やってるの。ぬいぐるみは捜さないって約束したじゃない!」

「捜させるなとは言われたが、捜すなとは言われていない」


 屁理屈!!


 子どものようなことを言うジグルドにアルマは目を丸くする。

 相変わらず表情が薄くて、冗談なのかなんなのか分かりづらい。


「あなただって、捜させたら口を利かないと言っておいて、捜させなくても口を利かないじゃないか」


 うっ、確かに!


「だ、だからって、何やってるの!

 領主が危ないことしちゃだめじゃない。馬鹿な事やめて早くあがって」

「理由も言わずに散々避けておいて、私の行動に口が出せるつもりなのか」

「だ、だってそれは」

「せめて理由を言え」


 アルマが返事をしないのを見て、ジグルドは棒で水草を掻き分ける作業に戻る。アルマの方を気にする様子もない。

 ぐぬぬと歯軋りしたアルマは、衛兵たちと距離があるのを確認してから、できるだけ川辺に寄って小さく問い質した。


「なんっ………なんで、キスなんか、したの」


 口にすると、不可抗力で顔が熱くなる。

 恥ずかしくて、恥ずかしいと思うことがなんだかみっともなく思えて、涙目でジグルドを睨んだ。

 視線を受けたジグルドが顔を上げる。


「……そんなに嫌だったのか」


「嫌、とか、嫌じゃないとかじゃなくてっ、どういうつもりであんなことしたの! 友達だと思ってたのに、」


 みっともない。

 たかがキスくらいで、何をこんなに動揺しているんだ。いい歳して。キスなんて、子どもの頃に見知らぬおっさんどもに散々されたことじゃないか。


 不愉快な記憶に唇を噛み締める。


 ジグルドの眉がぎゅっと強張った。


「あなたこそ、なぜまだラウル・ハーガーと親しくしている。閨を共にすれば、友情は終わるのではなかったのか」

「だ……っ、だってラウルは特別だもの!」


 突然に過去の発言の矛盾を突かれて慌てる。誤魔化さなければ。ラウルとは本当はしていなかったことは秘密なのだ。


「ラウルにはわたしから頼んだんだし、ラウルに下心なんてないもの。必要なことなら割り切れるわ」

「私から逃げるためにか」

「そうよ!」


 しまった。違う。

 間違えた。

 これではまるで、ジグルドのことが嫌いみたいじゃないか。


「ち、違うの、ごめんなさい。あの時はどうしても王都を離れたくなくて、……」


 ジグルドは眉を顰めたまま、ひとつ長く息を吐いた。


「―――必要だと思ってした」


 川のせせらぎの中でも良く通る深い声が耳に届く。


「口で言っても聞かなかっただろう。他にどうすれば良かったんだ」

「なにが……」


「あなたは、汚くなんかない」


 真っ直ぐにこちらを見るジグルドの言葉にアルマは目を見開く。


 そうだ。ジグルドはあの時も、ずっとそう言っていた。


 ―――何故。


 何故そんなことを、ジグルドが言うのだろう。


 カイヤ師匠と、同じことを。


 記憶の中の優しい扉が開く。

 師匠に出会って、初めて人の優しさに浸って生活した日々。

 ある日、自分が花屋で何をさせられていたのかを唐突に理解して、身体中に鳥肌がたった。胃袋がひっくり返るほど吐いて、パニックになっては風呂場で血が出るほど身体を擦った。

 アルマがパニックになる度に、自分ですら汚くて触りたくもない身体を、師匠は「汚くない」と言って抱きしめ、頬や手にキスしてくれた。


 ジグルドも、あの宝物のような温かさでわたしに触れようとしてくれたのか。


「………わたしが、あんまり可哀想だったから―――慰めてくれるため、だった……?」

「……違う」


 違うのか。

 ぐずぐずしてるわたしが苛立たしかったのかな。


 いや、理由などどうでもいい。

 ジグルドがわたしの心を掬い上げるために行動してくれた。それが一番大事なことだ。


 ジグルドは視線を落とし、怒ったような顔で続ける。


「……事前に、了承を、得るべきだった。不愉快な思いをさせたのなら償いをしたい」

「つ、償いなんか要らないわ!」

「……そうか」

「とにかく、城に戻ろう? ジグルドに何かあったら皆がつらい思いをするわ。

 ぬいぐるみのことは本当にもういいの。捜してくれてありがとう」

「たいして捜せてもいない。初めから、見つけられるとも思っていない」


「………見つからないと思ったのに、捜してくれてたの……?」


「……………もし、見つかれば、あなたが元気になると思った」


 不機嫌な声。


 川辺に上がったジグルドは、重そうなびしょ濡れのズボンから水を滴らせながらアルマの横を素通りしていく。


「日が暮れた。今日は終いだ」


 ジグルドは衛兵に棒を渡して土手を上がる。


 エリックが言っていた。捜していると言っても、午後の執務が終わってから日が暮れるまで。一日ほんの一時間ほど。


 半年近くを一緒に過ごした今なら分かる。

 それは、ジグルドの個人的な時間の、ほぼ全部だ。


 色んなことの心の整理が追いつかなくて、アルマはスカートの布を握り込んで川辺に立ち尽くす。


 ジグルドの馬の蹄の音が次第に遠くに消える。

 

 何故か涙があふれるのを、止めることができなかった。



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ジグルドかっこよ!!
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