アルマとクリスのウルトラC
ぬいぐるみが失くなってから、アルマは気付くとぼうっとしてしまっている。殆ど部屋から出ず、メイド以外と顔も合わせないまま、気付けばもう二日が経つ。そろそろ再開しようと思っていた祈祷を今日も休んでしまった。
最後に祈祷をしてからもうひと月。そろそろ再開した方がいい。ウィンターハーンの霊脈の中心もまだ分からないし、もたもたしていたらすぐに秋の波が来てしまう。これを無駄にしたら、ジグルドは何のために急いで評判の悪い女と結婚したのか分からない。
自室で領地の勉強をしているが、気づけばただ紙を捲っているだけの自分に気付いてアルマは溜め息をつく。
何をやっているのだ、いい歳して。
ぬいぐるみなど、アルマの歳なら娘に贈ったりするようなものだ。
部屋に篭りっぱなしなのもきっと良くない。
だってごはんが運ばれてくるんだもん……。
明日は、調子が戻らなくても一旦神殿に行こう。上手くできなかったとしても、このまま引き篭もっているよりは改善する気がする。
立ち上がり、棚の上の空っぽの箱を手に取ってそっと撫でる。
十年間、開くといつも小さなうさぎが鎮座していた箱。それ自体も古ぼけた安物だ。
何度かゴミ箱に捨てては、その度に拾い上げてしまっていた。
(今日、メイドに捨ててもらうね。
長い間、宝物を守ってくれてありがとう)
額を寄せて心の中でお礼を言う。
箱を机に置くと、扉を叩く音がした。
どうぞ、と声をかけると、夕食のワゴンを押したメイドの横に緊張した面持ちでクリスが立っていた。
そういえば、クリスと話をしないといけないのを失念していた。
「クリス、ごめん。ぼうっとしちゃってたわ。お話しにきてくれたの?」
「お部屋に、入っても、いい……?」
「もちろんよ! ごめんね」
慌てて駆け寄ると、クリスは少しほっとした様子を見せた。
ワゴンをテーブルに寄せたメイドが、クローシュを持ち上げながらアルマに質問した。
「アルマ様。クリストファー様も、本日の夕餉をこちらで召し上がっても宜しいですか?」
了承すると、メイドはソファテーブルにふたり分の食事を配膳する。退室するメイドに、アルマはこっそりと空箱を託した。
促されてソファに座ったクリスが何かを言おうとして、さっと目元に朱がさす。ごくりと唾を飲み込んで、クリスは搾り出すように声を出した。
「アルマ。勝手にお部屋に入って、大事なものを、持っていって、ほんとうにごめんなさい」
「そうね。勝手に人の大事なものを持っていくのは、良くないわ。でもわたしも、クリスだって王都の家族に会いたかったのに、寂しい思いをさせたまま放っておいたの、ごめんね」
クリスはじっとアルマを見たまま、耐えるように深呼吸をする。
「………アルマ。僕は、寂しかったけど、違うの。僕、あのぬいぐるみはアルマの宝物だって知ってた。勝手に持っていくなんていけないことだっていうのも分かってた。
僕は、―――アルマは僕なら許してくれるって、アルマの大事なものを勝手に持ち出しても、僕だから許してくれるって、自慢したかったんだと思う」
「…………誰に?」
「分からない。父上かな? みんなにかな? でも、誰にもナイショで、アルマにもナイショで戻しておくはずだった。
分からないけど、でも、僕は、―――自慢する気持ちだったと、思う」
「………それは、きっと、クリスにだね」
「僕?」
「だって、クリスしか知らないようにするつもりだったんでしょう?」
「………うん」
「もしかしたらクリスは、わたしがクリスのこと好きかどうか、不安だったのかもしれないね」
綺麗な大きな目が驚きに見開かれる。
ベビーブルーの目に涙の膜が張る。
「―――ごめんなさい。ゆるして。
父上に、しつこく謝罪をしてはダメだって言われた。僕たちの言葉は命令になってしまうから。でも、アルマ、お願い、ゆるして。僕は、どんなにずるくても、アルマを失いたくない」
青い目が細められると、溜まっていた涙が淡い金色の睫毛を超えてあふれ流れた。
「………だめ? もう、僕のこと、嫌いになる?」
「クリス……」
アルマは少し目を閉じて、自分の心を確認する。
「あのね、わたし、クリスのことはちゃんと大好きよ。なくなってしまったことはもういいの。
でも人の大事なものを勝手に持っていくのは、相手が誰でも、いけないことだわ。クリスがわたしを特別な友達だと思ってくれてるなら、簡単に赦すことがクリスのためになるのか、難しくて、考えちゃう……」
「簡単にじゃなくていいよ! 僕、何でもする! アルマのしてほしいこと、何でもするよ! 何すればいい? 将来でもいいよ。僕が領主さまになったら、アルマの欲しいもの、何でもあげる。
お師匠様に貰ったものは、もう、あげられない、けど」
アルマが師匠に貰ったもの。
子どもの頃に貰ったあのぬいぐるみは、師匠の形見になってしまった。
師匠が中央神殿で使っていたものは殆どが貸与物だったし、アルマは師匠の最期には側にいられなかったので、形の残るものを貰うことはできなかった。
だが、アルマが師匠に貰ったのは決してそれだけではない。
祈祷の技術と、前を向く力。
それは、アルマが持ち続けようと努力する限り、誰にも奪われないもの。
(―――ああ、そうか……)
「クリス。わたし、ウルトラCを思いついちゃった」
「え? なに? うるとらなに?」
「師匠がよく言ってたの。超難しいことを解決する必殺技のことよ。
クリス、ほんとのほんとに、なんでもしてくれる?」
「もちろんだよ!」
「すごく難しくて大変なことでも?」
「すごくすごく難しくて大変なことでも!」
前のめりにげんこつを振り回すクリスが可愛くて、アルマは苦笑する。
アルマはクリスに、クリスの幸せのために何かしてあげたいと、ずっと思っていた。だがアルマにはできることがとても少なく、あげられるものなど何もなかった。
「あのね、クリス。
将来、クリスが幸せになるために、わたしの代わりに頑張ってほしいの」
振り回していたげんこつを所在なげにして、クリスが困惑したように首を傾げた。
「………? どういうこと?」
「これからのクリスの人生で、きっと大変なことがたくさんあるわ。諦めてしまいそうになることもあると思う。
もうだめって思った時、もう一回だけ頑張ってみてほしいの。
わたしの大事なクリスが幸せになれるように、わたしの代わりに助けてあげて」
ウィンターハーンを背負っていくクリス。
辺境伯を継ぎ、人々の上に立ち、数えきれないほどのものと戦っていかなければならないクリス。
本来雲の上の人であるクリスに、アルマにも、あげられるものがあるのかもしれない。
例えほんのちっぽけなものでも。
クリス自身の心の中に、戦うための力を。
「……………それは……それは、全然、アルマは得をしないんじゃない?」
「そんなことない。例えばクリスがジグルドみたいに、自分の幸せより領の方が大事って思ってても、クリスの幸せのために頑張らないといけないのよ。クリスは、わたしのために、自分も幸せになるように考えないといけないの」
「………アルマ……」
クリスは呆然とアルマを見上げる。
アルマはきっと、クリスが領主になる頃にはウィンターハーンにはいない。それでも、これなら大人になったクリスに手が届く。
「約束よ。覚えていてね。クリスの幸せを、いつでも願ってるわ」
小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
クリスはアルマの身体に頭を擦り付けるように抱きしめ返した。
「………約束、する」
クリスは、アルマの言うことを理解してくれたように見える。この歳の子にしては、本当に賢いのだ。
ふわふわの金色の髪を撫でながら、アルマには、クリスの心に小さな戦士が加わったように感じた。
その戦士は、小さなうさぎの形をしていた。