師匠のぬいぐるみ
王都からの帰路、馬車の揺れがつらいアルマのために、ジグルドは布団を敷き詰めた馬車を用意してくれた。
ジグルドは通常の馬車でマークと先に戻っている。速度を落とした帰路は通常より時間がかかり、アルマがウィンターハーンの領都グゼナに帰ってきた時には事件から二週間近くが経っていた。
ジグルドたちと先に戻ったヤコブは、護衛対象を放置して攫われるという失態に、処分待ちの謹慎中だそうだ。謹慎を申し渡された時よりアルマの状況を聞かされた時の方が真っ青になっていたらしい。根は優しい子なのだ。あまり重い罰にならないといい。
アルマの身体は多少の傷や痛みは残るものの、通常の生活には支障ないまでに回復した。
いつも帰城時にはジグルドとクリスの顔を見にいくアルマのために、出迎えてくれたアンダースがふたりの所在を教えてくれる。ジグルドは応接室で人と会っており、クリスは夕方まで馬術の訓練らしい。それを聞いて応接室前を避けて部屋へ戻るアルマに、アンダースは首を傾げた。
ジグルドに会いたい時は食事時を狙えばかなり高確率で会える。だがアルマは昼食の時間にも食堂に行かず、自分の部屋でウーリクに借りた資料を捲っていた。
だって、いきなりチューしてきやがった無表情のイケメンに、どんな態度で接すればいいのかまだ分からない。
ジグルドと顔を合わせるかもしれない、と思うだけで心臓がばくばくする。
なんだこれ。
なんだったんだあれは。
こんな調子で、彼の治めるウィンターハーンを整えることなどできるのだろうか。
ジグルドは多忙で、二、三日顔を見ないことは珍しくない。それだってアルマが朝の挨拶くらいはしようと心掛けているうえでのことだ。
大丈夫。おそらく一週間くらいは凌げる。
決して避けてるわけではない。
ただ―――そう、ちょっと顔を合わせないようにしてるだけ。
そうそう。
少し、移動に遠回りしてるだけ、ほら、健康のためにね?
無駄な忍足で中庭の回廊を歩く。
そしてこういう時に限ってばったり出くわす。
向かいから現れたジグルドと目が合って、アルマは慌てて踵を返した。
「アルマ。安静にしていなくて大丈夫なのか」
背中から聞こえる久しぶりのジグルドの声に、意図せず心臓が跳ねた。
全力疾走するほどには回復していないので、痛む足で精一杯の早歩きで遠ざかる。
「何をそんなに急いでいる」
あっさり追いつかれてしまう。
振り返らずに必死で足を動かすが、追い抜かれて前を塞がれた。
「何かあったのか」
「何もないわ!」
顔を見ないまま方向転換して足を踏み出すと、進路方向を腕で塞がれた。
「……もしかして、私から逃げようとしているのか」
ぴえん! 察したなら見逃してよ!
「……………そんな、こと、ないわ……」
「なぜだ」
「い、言いたくない。用事があればちゃんと話しに行くわ」
「理由を言え」
こっちの主張は無視か、この野郎。
視線を泳がせてなおも逃げようとするアルマを、ジグルドは腕で閉じ込めてしまう。
おい! おいこら! 壁ドンやめろ!
心臓が勝手に大量の血液を送り出して、顔が赤くなる。
どうしようかと考えていると、遠慮がちな幼い声がアルマを呼んだ。
「アルマ」
見ると、乗馬服のクリスが最近選ばれた侍従と一緒に立っていた。ふたりとも泥だらけだ。
侍従が気遣わし気にクリスの華奢な肩をそっと叩く。
「アルマ。お話が、あるの」
上目遣いにそう言うクリスの声は可哀想なくらいに震えていた。よく見ると目元が腫れている。
「クリス。どうしたの? なにかあった? 夕方まで馬場じゃなかったの?」
声をかけると、クリスの肩がびくりと浮いた。ベビーブルーの目が涙で歪む。
「………あっ、……僕、あの」
アルマがクリスの元に駆け寄ろうとすると、ジグルドは素直に腕の間から逃がしてくれた。
クリスの前で屈んで目線を合わせる。
ひうっ、とクリスの喉がしゃくりあげて、大きな目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「アルマ………僕、アルマの、ぬいぐるみ、を、なくし、ました……」
喉を詰まらせながらされた告白に、アルマはすぐに反応することができなかった。
「ぬいぐるみ……」
アルマの持っているぬいぐるみは、ひとつしかない。弟子入りしてすぐの頃に師匠がくれた、小さなうさぎのぬいぐるみ。
エバのために買ったけど子どもっぽすぎると喜んでもらえなかった、と苦笑する師匠の顔が浮かぶ。アルマにとっては、生まれて初めて貰った贈り物だった。
ずっと飾っていたら、師匠がもっと良いものを買おうと処分しようとしたので、箱に仕舞うようになった。
「箱に……仕舞って、たのに?」
呟いてしまった言葉に、クリスの喉がぐきゅっと苦しそうな音を出す。
「……ごめんなさい………」
「………部屋に、入って、棚を開けたの?」
「ご、ごめん、……なさい……!」
呼吸が上手くできないクリスを見兼ねて、侍従が隣で膝をついた。
「今日、馬場に携行して、駈歩の練習を終えてから紛失に気付かれたようで……わたくしどもと、使用人と護衛とで馬場を捜したのですが見つからず……あとは川に落とした可能性ですが、馬場の淵は水深が急に変わるので、クリストファー様に入らせるわけにはいきませんでした。引き続き使用人に捜させております」
馬場の横を流れる川は、水が濁って中が見えない。淵は深く、危ないので立ち入らないよう使用人に注意しているくらいだ。場所が特定できないなら、見つかる可能性は殆どない。
「………………そう………」
仕方ない。
失くなってしまったものは、仕方ない。
形のあるものはいつか失くなるものだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、アルマ」
泣きじゃくるクリスの声がなんだか遠い。
固く握り込んでいるクリスの拳を解くように撫でる。
「クリス、泣かないで。失くしてしまったことは分かったわ。
ごめんね。ちょっと、どう答えたらいいか、すぐに分からないの。少し時間をちょうだい」
侍従が頭を下げてクリスを連れて行く。
地面に座り込んでその後ろ姿を見送るアルマに、ジグルドが声をかけた。
「なにか特別なものか」
「…………どうかな。
大事にしてたのは、そうなんだけど……」
「もっと人をやって捜させるか?」
「………ううん。川は危ないし、……それで、大袈裟に捜して見つからなかったら、余計にクリスを傷付けるわ。……気を遣ってくれてありがとう。いいの、ぬいぐるみなんて、持ってる歳でもないんだから」
「捜す前から諦める必要はない」
「いいの! ………わたしも、そんなことのために何人も駆り出すなんて居心地悪いわ。今捜してくれてる人も、何かある前にやめさせて。
もういいの。絶対人に捜させたりしないで。約束してくれなきゃ、もうジグルドと口きかないから!」
「…………分かった」
ジグルドからは、それ以上の追及はなかった。





