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傷だらけの唇


 翌々日にはアルマは自分で起き上がれるようになった。侍医は回復の早さに驚いていた。

 祈祷のしすぎで寝込むのとはまた違う、慣れない打撲の痛みに耐えて身体を起こすと、窓から庭園の花々が見える。女主人のフレイヤの好みなのだろうか、ウィンターハーン城砦の庭園より明るく色彩が鮮やかだ。

 タウンハウスはずっと慌しい。ジグルドと面会予定だった人たちへの挨拶と贈り物の用意に追われているようだった。


 目を覚ました時に怒鳴られてから、ジグルドは顔を出さない。

 ジグルドは優しい。きっとアルマのことも心配してくれていた。

 それでも、大事なのは祈祷なのだ。ウィンターハーンが祈祷師を失うかもしれなかったことに、ジグルドは怒っていた。

 当たり前の事実に落ち込む自分が浅ましくて、みっともなくて、アルマはベッドの上で膝を抱えた。


 しっかりしろ。弁えろ。

 大丈夫。わたしには、親しく話してくれる人も助けてくれる人もたくさんいる。それだけでも過ぎた幸運だ。


 ―――例え一生、誰の一番にもなれなくても。



 発見された時の酷い有様にも関わらず、アルマには性的な暴行の痕は見られなかったらしい。喜ぶべきなのか悲しむべきなのか分からない。エバはアルマのせいで乱暴されてしまったのに。エバは、師匠の一番大切な女の子なのに。師匠が生きていたら、なんて言うだろう。


 あり得ない想像に背筋が寒くなって肩を抱いているとノックの音がして扉が開いた。

 入ってきたジグルドはいつも通りの表情の薄い顔で、怒っているのかいないのか、よく分からない。


「体調はどうだ」

「だいぶ、まし、です」

「マークが矢鱈と急かしてくる。何か私に話でもあるのか」


 ―――ああ、そうだ。その話もしないといけなかったんだ。


「―――あの、」


 花屋で小間使いをしていたわたしの話を。


「……ごめんなさい」

「何がだ」

「昔、その、そういう店にいたの、黙ってて……あの、隠してたわけじゃなかったの。昔のことは、なんていうか、覚えてるんだけど他人事みたいで」


 ジグルドからの返事はない。冷たい灰色の目がじっとアルマを見ている。


「け、結婚前に話すべきだったよね! ごめんなさい。うっかり、してて、……今からでも交換してもらう? わたしも証言するし、ラウルにも頼んでみるわ」


 ジグルドの眉が不愉快そうに歪むのを見て、胸が押し潰されたように痛む。


 ジグルドは知らなかったのだ。自分が嫁に迎えた女が、下層育ちの、神殿に入る頃には既に男の手垢にまみれた女だったことなど。


 全部知っているカイヤ師匠とラウルが、ずっと普通の女の子のように扱ってくれたから―――アルマもうっかり、自分が汚れた女だということを忘れていて、説明していなかった。

 最初に婚約させられた時に説明しておけば、ジグルドだって流石に他の祈祷師を要求しただろうし、神殿もアルマを推したりはしなかっただろう。処女であろうが十分に不適格だった。それを失念してラウルを茶番に巻き込んだんだから笑えない。


 きっとジグルドはこんな女を家に迎えてしまったことを後悔している。ラースなんかは、この話を聞けば中央神殿にカチコミしてしまうかもしれない。


 ジグルドが怒りを逃すように溜息をつく。


「………ウィンターハーンの祈祷には、あなたが合っているんじゃなかったのか」

「えっ、うん、そうだけど。そこまで合ってなくてもできないわけじゃないし」

「祈祷さえしてくれればいい。初めから神殿にも、他の事は問わないと言ってある」

「…………あっ、……そう……?」


「食事をとらないと聞いた。傷が痛むなら医者に痛み止めを出させる」

「や、違うの、何か口に入れると、思い出して気持ち悪くなるから」


 そう言葉にするとまた記憶が蘇って、口の中全体が気持ち悪い。口周りを袖でごしごしと擦る。唇も舌も擦り取ってしまいたい。


 汚い。


 貧民街で生まれ育った自分が汚い。

 男の身体を舐めて生き延びていた自分が汚い。

 ―――人が処刑されて安堵しかない自分が汚い。


 ジグルドの視界の中で汚い存在であることが恥ずかしくて、目頭が熱くなる。


「あんなことくらい、慣れてたはずなのに……久しぶりだと、忘れちゃうものね」


 へへ、と笑ってみせる。

 上手くできなくて無様に口元が歪む。


 ジグルドから形の良い手が伸びてきて、アルマは咄嗟にその手を払った。


「あっ、あの………触らない方が……汚い、から」


 視線から隠れるために顔を逸らす。


 口元だけでなく、自分の全てが汚いような気がして、身体中の痣が無性に痒い。

 痣をごしごし擦るアルマを、ジグルドが怒ったような声で制止する。


「医者の助手が、きちんと清拭している。汚くない。擦るな。傷が開く」

「汚いよ! あんな、………」

「ちゃんと洗っている」

「洗ったって、綺麗になんか、」


 ―――恥ずかしい。


 なんだ。

 なんなんだ。


 そんなこと、何年も前に割り切ったはずだ。

 きれいな女の子というものには縁がなかったのだと、とうに飲み込んだはずだ。


 それでもそのままのアルマを大切に思ってくれる人はいると、師匠とラウルが教えてくれた。

 ならば自分はちゃんと幸せになれると思った。

 それで、十分だったのに。



 ―――この人の目に、汚く映ることが、恥ずかしい。



 ラウルのせいだ。

 ラウルが、変なこと言うから。


 涙が滲む。

 泣いてはだめだ。優しいジグルドはきっと、アルマが泣けば心配して城に留めようとする。笑え。


「あは、ありがとう。大丈夫だよ、汚くても祈祷の能力には影響ないから。

 ―――えっと、戻ったら、すぐ荷造りするね。住むところ、領都の神殿の近くに貰えると助かるな」


 喋りながら口をごしごしと擦るアルマの手首を、力強い手が引き剥がす。ジグルドはアルマの手首を掴んだままベッドに腰掛け、もう片方の手でアルマの顔を上げさせた。


 アルマの目に、秀麗な男の顔が写る。


 ふいにその顔が近付いて、唇がアルマのものと重なった。


 軽く押し付けられた唇は、切れたアルマの唇から滲む血を拭うようにしてそっと離れる。



「………え………」



 鼻先が触れるほどの距離で、灰色の瞳がアルマの目を覗く。

 間近で見ると、色素の薄い睫毛は印象よりも長い。繊細な線が美しい硝子に淡い影を落としていた。



「――――――…………え…っ?」



 アルマは唖然として打ち上げられた魚のように口をぱくぱくと動かす。


「な゙っ……? え゙っ? …………」


 漸く事態を把握して、顔が熱くなる。

 何かを訴えなければと口を動かすが音にならない。


 ジグルドは親指で、傷に触れないようにそっとアルマの唇を撫でた。


「汚くない」


 鳥肌が立つほど良い声が低く囁く。


「そんなことで、人は汚れない。

 あなたは疲れている。身体を労われ」


 それだけ言って立ち上がり、怒ったような顔のまま部屋を後にした。



 呆然と彼の出ていった扉を見つめる。

 湯気が出るほど顔が熱い。

 アルマはのぼせた頭を支えきれず、ぱたりとベッドに沈んだ。



 ……………………



 汚く、ないですか。

 あっ、はい、それは、どうも………



 ……そう、そうよね、ジグルドは娼館のお得意様で、ヴァレンティナともキスしたりとか、してるはずで。ヴァレンティナはその前に、他の男の相手をしたり、してるはずで。


 娼館を利用する男は多い。男の人にとってはたいした問題じゃないのかしら?


 そうだ、わたしだって、ヴァレンティナを汚いなんて思わない。お仕事してるだけだもの。ヴァレンティナは相手を選べるから汚くないのか? いや、下町の姐さんたちも、汚くなんかなかった。つらい中で誰もが精一杯、生きてた。他人事のような遠い記憶の中に、彼女たちの優しさを覚えている。


 じゃあ、いいのか。わたしなんかが、ジグルドとキスしても…………


 ……………


 ………ジグルドと、キス………



 あ゙あ゙…………?


 あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙―――!?



 イケメンめぇ!!


 百戦錬磨のイケメンめぇ――――!!




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