エバからの手紙
無事にタウンハウスへ戻ると、アルマのために湯船が準備されていた。
メイドたちが複雑怪奇なドレスの脱衣を手伝ってくれる。オイルに浸した柔らかな布で顔を拭かれると、アルマの魔法は解けてしまった。大鏡に写る慣れ親しんだ十人並みの女。残念な気持ちが半分、ほっとする気持ちが半分。
久しぶりの王都の夏は暑く、ドレスを汗から守るための下着を着込まされていたアルマは半日ぶりに締め付けを解かれて大きく息を吸う。思いっきり肺を膨らませられることがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。
世の中の貴族のお嬢さんたちはお出かけの度にこれを着ているのか。大変だな。
いい香りの湯船に生き返る心地がした。
履き慣れない靴でぱんぱんになった脹脛をメイドが揉んでくれる。魔法をかけてくれたことも含めてお礼を言うと、嬉しそうに笑ってくれた。
メイドに勧められて踵の低いサンダルで庭園に散歩に出る。
裏庭を通りかかると剣呑な声が聞こえてくる。
建物の死角でマークとヤコブが言い争っていた。
付いてきてくれていたメイドと忍び足で立ち去ろうとすると、打撃音とヤコブの短い呻き声がして、アルマは肩を竦める。拍子に枝を擦ってしまい、葉擦れの音にマークがこちらを向いた。
いつもと同じ笑顔で駆け寄ってくる。
「アルマ様。見苦しいところをお見せしてしまいました。この辺は物陰が多いので、散策なら表の庭園にしてください。
君、アルマ様は気安くても閣下の夫人だ。警備と安全には最大限配慮してくれ」
「も、申し訳ありません」
マークに正面玄関までエスコートされる。アルマはマークの姿が見えなくなってから、メイドに頼み込んでまたこっそりと裏庭に戻った。
お腹を抱えて蹲っていたヤコブをメイドとふたりで支えてアルマの部屋に連れ込む。
「大丈夫?」
「……はい。すみません……」
恐らく、昼間に持ち場を離れたことを叱られたのだろう。
床に座り込んでお腹を摩りながらヤコブはアルマを見上げた。
「あの、アルマ様。お手紙を預かってるんです」
「手紙?」
「はい。プレゼテン通りを歩いていたら渡されて」
「仕事サボって、そんなところで何してたの?」
プレゼテン通りは王宮よりは中央神殿に近い。王宮で離脱するくらいなら中央神殿で離脱すればよかったのに。あとはタウンハウスに帰るだけ、という状況ならまだお仕置きも軽かっただろうに。
「いえ、その、行きたいところがあって……
それで、俺の紋章を見た人が、これをアルマ様に渡して欲しいって」
受け取って開くと、困ったことがあるのでどうか相談に乗ってほしい、できる限り早く話がしたいので実家を訪ってほしい、と女性らしい文字が綴られている。右下にはエバの署名。アルマが知っているエバという女性はひとりしかいない。師匠の一人娘だ。
エバは師匠が王都へ呼び寄せたご両親と三人で、中央神殿の近くに住んでいた。二年前の秋に結婚して、今は隣の区の夫の家に入っている。
師匠が病で倒れた折、中央神殿でも看護は受けられたが、師匠は最期の時を家族と過ごしたいと中央神殿を出た。アルマは休日のたびにせっせとお見舞いに通った。
エバとはその時に初めて会った。
重い相談をされるほど親しくはない。
アルマひとりにできることなら何でもしてあげたいが、ウィンターハーンの資産を当てにしているなら、それは無理だと断らなければ。
時刻を見るとまだ夕刻だ。
アルマは風呂上がりの部屋着からいつものお仕着せに着替え、廊下にいたジグルドを捕まえる。
「ちょっと出かけてきてもいい? 馬車を貸してほしいの」
「今から? どこへ」
「会いたい人がいるの。夜には戻るわ」
ジグルドの眉が僅かに寄る。
「……あの男か」
「あの男?」
アルマは昼間の中央神殿でのことを思い出す。
「もしかしてラウルのこと?」
「……いや。好きにすると良い。護衛はつけさせてもらう」
ジグルドの勘違いを、アルマは慌てて否定する。
「違うわ、エバに会いに行きたいの。師匠の娘さんなの」
エバはアルマよりふたつ歳下だ。アルマにとってかけがえのない師匠との時間は、エバが母と会えないつらさを我慢していた日々の上に成り立っている。師匠が弟子に迎えたアルマを可愛がってくれたのは、少なからず、休日にしか会えない娘と重ねていたからだ。
そうでなくても、何より大切な師匠の忘れ形見。何か困りごとがあるなら、話だけでも聞きに行きたい。
そんな説明をしたアルマに、ジグルドは呟くように言った。
「私にとっての、ヤコブのようなものか」
「そうなの?」
「あれはヘルムートの初孫だ。私の幼い頃、ヘルムートは私的な時間の殆どを私の鍛錬に充てていた。それは本来なら彼らのものだった」
「そう……」
ジグルドはヤコブが騎士の誓いをするにあたって甘い判断をしてしまったと言っていた。それは、ヘルムートへの義理だけでなく、ヤコブへの申し訳なさもあったのかもしれない。
「何を要求されたのか後で報告しろ。私にできることなら力になる」
「えぇ? ジグルドには関係ないことよ。
わたしができる範囲でしか力になれないって、ちゃんと言うわ」
「あなたはひとりでは無茶をする気がする。ウィンターハーン領主家の人間に誰が何を要求しているのかを把握する必要もある」
「だけど、個人的なことかもしれないし」
「アルマ。あなたが黙秘しても、護衛から報告させる。無駄なことはやめろ」
過保護な言葉に、アルマは複雑な気分になる。
(わたしは、ひとりでは何も判断できないように見えるのかしら)
ジグルドたちのように有能ではなくとも、一人前の大人のつもりなのに。
それ以上の抵抗は無駄と悟って、アルマは納得のいかないまま頷いた。