肩書きだけの妻
それから、いつどうやって中庭から離れたのか思い出せない。
クリスの部屋のソファで目が覚めたアルマの手は、隣で毛布に包まって眠るクリスにしっかりと握られていた。
意識が戻るにつれて、また哀しみの波がアルマを飲み込む。頭ががんがんと痛む。涙がこぼれ鳩尾が痛んで、また汚い音が喉から漏れた。
目を覚ましたクリスが抱きしめてくれる。クリスの霊脈の心地良さに慰められて、胸の痛みが少し軽くなる。
それから半日を、アルマはまた泣いて過ごした。
翌日、昼前にやっと起きて二日ぶりの食事をクリスと一緒にとった。散々泣いて沢山寝たので頭がぼんやりと痛い。クリスもずっとアルマについていて、殆ど何も出来なかったらしい。申し訳なさに謝ると、元気になってくれることが一番嬉しいと笑ってくれた。
師匠を思うと哀しみは尽きないが、押し潰されるような痛みは過ぎた。クリスのおかげだ。
午後から神殿に向かう支度をしているアルマをマークが訪ねてきた。
「アルマ様! この通り! 赦してくれとは言いません! ジグルドにせめて、謝罪させてやってくれませんか!」
土下座する勢いで頭を下げられてアルマは戸惑う。
「えっ……? 何? ジグルドに?
謝罪されるようなことに、覚えがないんだけど」
「そんな冷たいこと仰らず! お願いします。あいつが感情表現が下手なのはあいつのせいばかりじゃないんです」
「いや、あの、ほんとに……何のこと?」
そんなあ、とマークは情けない声を出す。
「一昨日、中庭で大泣きしてたじゃないですか。ジグルドがアルマ様を泣かせたって、もう城中で知らない奴いませんよ」
「ええ? 違うわ!
マークには言ったじゃない。中央神殿でお世話になった人が亡くなったの。ジグルドは関係ないわ。ジグルドに泣かされたんだったら、ひとりで部屋でこっそり泣くわよ」
いくら説明してもマークが引かないので、とりあえずジグルドに会いに行くことになった。
執務室にアルマを迎えて、アンダースがお茶の用意をしてくると席を外す。
ジグルドはいつも通りの無表情でアルマの向かいに座った。
「用件は何だ」
「用件、っていうか……マークが、ジグルドが何か謝りたいって言うから」
「………私が何か謝罪するようなことをしたのか」
「……してないわ」
ほれみろ! マーク! ほんとバカ!
重い沈黙に、心中でマークを簀巻きにして窓から投げ捨てる。
扉をノックする音にジグルドが入室の許可を出すと、アンダースがワゴンにティーセットと大きなケーキスタンドを載せて入ってきた。
ジグルドの眉が不愉快そうに歪む。
「アンダース。誰がこんなものを持ってこいと言った」
「閣下。奥様の好みそうな、などという唐突なご命令で、厨房は夜遅くまで試行錯誤していたのですよ。奥様に召し上がっていただかなければトーマスの努力が浮かばれません」
ぎろりと睨みつけるジグルドを無視して、アンダースは応接テーブルにティーセットを並べ始めた。
ふわりと紅茶の良い香りが漂う。目の前に広がる豪華なケーキスタンドには色とりどりの小さなスイーツが美しく並んでいる。アルマはその美味しそうな光景に思わず息を呑んだ。
アンダースが退室し、アルマはそろっとジグルドを窺い見る。
「これ、わたしのために用意してくれたの?」
「違う。何か、………撤回できるようなことがあれば、詫びの品を渡せると思って、………あなたは宝石もドレスも要らないと言うし、甘いものなら喜ぶかと、」
珍しく言い淀むジグルドと視線が合わない。
「だが、撤回するようなことは何もなかった。あなたは祈祷をしている限り誰と何をしようが自由だし、どこへ行くのも自由だ。あなたに子が出来たなら誰の子であろうと養育する。そのためにクリスがいる。
詫びる理由がなかったので、出す予定ではなかった」
「え、じゃあ、これ、食べちゃダメなの?」
ジグルドは残念そうなアルマを見て、少し眉を下げた。
「………食べていい」
了承をもらって、鮮やかなベリータルトに手が伸びる。サクサクのタルト生地と甘酸っぱいベリーのコンビネーションが絶妙で、一口ごとに口の中に幸せが広がる。次は滑らかな食感のレモンメレンゲパイ。酸味が爽やかでいくらでも入りそうだ。紅茶はオリジナルブレンドのダージリンだった。華やかな香りとまろやかな味わいが、スイーツとの調和を奏でる。
あまりの美味しさに頬が緩む。
さっすが。さっすが、トーマス料理長!
ふと見ると、ジグルドの視線が幾分和らいでいる。
「先日の用件は、休暇のことか。祈祷に影響の少ないように、自由にとれ」
「それはもういいの。王都までの路銀がないから」
「もう予算を使い切ったのか?」
「領主夫人の予算は領のお金だもの。使えないわ」
「あれはあなたの金だ。自由に使えばいい」
「ううん。あれは、ウィンターハーンのお金よ。わたしの私的なことに使うべきじゃない」
「お祖母様も私的に使っている。個人につく予算なのだから構わない」
「イゾルデ様はジグルドのお祖母様だもの」
「あなたは私の妻ではないのか」
「そんなの肩書だけの話じゃない。泣くだけ泣いたら落ち着いたわ。新しい祈祷師が来てくれて、ウィンターハーンが落ち着いたら、その時になんとかして帰るわ。急ぐ必要はないんだもの」
今、無理してお墓に行ったって、師匠に会えるわけではない。師匠ならきっと、仕事を放り出して何しに来たのって言うはずだ。
偲ぶことは、どこでだって、ここでだってできる。
「―――帰る……?」
「あ、うん。いつか、わたしが要らなくなったらね」
「何故だ。私が、夫として不合格だからか」
「え、不合格ってなに? もちろん、すぐじゃないわよ? 新しい祈祷師が来てくれて、ふたりがかりで何年か祈祷して、ほんとにウィンターハーンが落ち着いたら」
ジグルドが新しい妻を迎えて、クリスも大きくなって、領が落ち着けば、肩書だけの人間が家族の中にいることに違和感を覚えるようになるだろう。
「そしたら、わたしは要らなくなるでしょ」
「要らなくなどならない」
「え? そ、そう?」
「アルマ、あなたは、失敗してもやり直せると言ったはずだ」
ん?
「私は何を間違えた」
「間違ってなんかないわ」
「何かを失敗したんだろう」
「ジグルドは、何も失敗してなんかないわ」
「では何故あれほど泣いていた。
失敗したのでなければ、あんなに泣いていたあなたの手を握っていたのは、私でも良かったはずだ」
……んん?
まるで、泣いてるわたしを慰めたかったような言い方。
もしかしてジグルド、クリスに嫉妬してる? わたしが仲良くしてるから?
失敗してもやり直せるって、女心検定の話? 気を引きたい女って、もしかしてマリールイーズじゃなくてわたしのことだった?
灰色の美しい目が真っ直ぐにこちらを見ている。あまりのカッコ良さに顔が上気する。
もしかしてジグルド、……わたしと、本当の夫婦として向き合おうとしてる……?
ぐるぐると考えていると、慌しいノックがした。
「閣下。恐れ入ります。至急お伝えしたいことが」
ジグルドが声をかけると騎士が飛び込んできてジグルドに何かを耳打ちした。灰色の目が軽く見開かれる。
「―――ヴァレンティナが?」
アルマには聞こえない声で遣り取りした後、ジグルドは席を立った。
「急用ができた。私は行くが、ゆっくり菓子を食べていくといい」
「あ、はい、いってらっしゃい……」
扉の向こうにジグルドが消える。
…………………。
…………………………。
何の話だっけ……あっ、そうそう、平民の恋人とお付き合いを続けるための女心検定の話。なのに、娼婦に呼び出されてそそくさといなくなってしまった。おーい。
紛らわしい。わたしと夫婦愛を育みたいのかと勘違いしちゃった。
いや、そんなわけなかった。自分で練習台を買って出たんだった。まだまだジグルドはクソ唐変木だもの、練習台がいなくなると困るもんね。
あの美貌の辺境伯だぞ。ほぼ平民で十人並みのわたしなんか相手にするわけなかった。
自惚れたわ!!





