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訃報


 新緑の時期が過ぎ、王都より涼しいウィンターハーンにも本格的な夏が近づいている。


 不作続きのウィンターハーンでは、備蓄していた種子を領都の南側を中心に蒔いた。アルマが春の波が届いたと判断した地域だ。

 領内では家畜も飼料不足で痩せ細っており、狩猟や採集に頼るが、それも限界がある。不安が拭えない領民たちの中には、祈祷師など王都の詐欺師ではないのかと疑う声もある。春の祈祷は秋の収穫を左右するものだと説明しても、直後の収穫量が思わしくなかったことが不穏な噂話に拍車をかけた。


 どんよりとした雲が空を覆い、常には鮮やかな緑が彩るウィンターハーン城砦の庭園も燻んだ風貌を晒している。

 先ほど使用人から渡された手紙を握りしめて、アルマはジグルドの書斎の前で佇んでいた。

 城の中にはジグルドの執務室とは別に書斎がある。書斎はジグルドのプライベートな空間で、ウィンターハーン城砦ではその扉は余程の用件でなければ叩かないのが暗黙の了解だった。


「アルマ様。どうされました?」


 通りがかったマークが声をかけてくれる。

 アルマはばくばくと心臓が鳴っているのを自覚しながら努めて平静を装った。


「―――あの、お金……じゃ、なくて、休暇、……休暇と、お金、ほしいの。どれくらいか、分からないんだけど、あの、王都に行きたくて」


 呼吸の浅い上司の妻に、マークは怪訝な顔をした。


「アルマ様? 王都で何かあったんですか」


「……あの、手紙が……じゃなくて、」


 王都のラウルから手紙が届いた。

 文書日付は五日前。


 カイヤ師匠が病床で息を引き取り、身内と親しい知人で葬儀を済ませるとの知らせだった。

 簡潔な文章の他には、埋葬予定の王都の北の墓所の情報だけが記されていた。


「ちゅ、中央神殿でお世話になった人が、亡くなったの。お墓に、手を合わせに行きたくて……ジグルドに、お金の相談、しても、いいと思う……?」


 その事実を口にしただけで奥歯がカタカタと鳴る。手紙を握りしめる手が震えることを止めることができない。

 マークが軽く握った左手を額にあてる。ドレイン教の弔意の仕草だ。


「それは……お悔やみ申し上げます。王都への旅費くらいなら全然心配なさることないですよ」


 そう言って書斎の扉を躊躇なく叩く。


「閣下。アルマ様がお話があるそうです。今よろしいですか」


 許可の返事が聞こえて、マークはアルマのために扉を開き、去り際に軽く背中を叩いてくれた。

 書斎ではジグルドがソファで寛いで本を捲っていた。


 入室して、扉の前で立つ。師匠の死を知ってからずっと足に力が入らない。


「あの、一度、王都に戻りたいのだけど、行ってきてもいい?」


 一瞬怪訝な顔をしたジグルドの視線が、アルマの握りしめていたラウルからの手紙に留まった。


「………その手紙の相手はラウル・ハーガーか」

「え、あ、はい」


「まだ続いていたのか」


 冷たい声にびくりと肩が震える。

 どういう意味か直ぐに呑み込めなくて、少し経ってから不貞を疑われているのだと思い至る。


「―――ラウルは、友達です」

「別に、祈祷さえしていれば、あなたの交友関係に口を出すつもりはない。好きにすればいい」


 反論さえ許されないことに頭が混乱する。

 ジグルドにとっては、ラウルは婚約者を寝取った男だ。やりとりが続いているだけでも不愉快なのかもしれない。


「……ジグルドが、不愉快なら、もうやめます……」

「好きにすればいいと言っている」


 断腸の思いで言った申し出をけんもほろろに跳ね返されて、震える下唇を噛む。

 今は、そんなことを言い訳するために来たのではない。


「……あの、それで、………一度王都に戻りたいの。暫くお休みもらえないかしら」


「それが祈祷よりも重要な用件なら好きにしろ。子どもが出来たら使用人として養育してやる」


 王都に男遊びをしに行くと思われている。

 ―――仕方ない。わざとそんな噂を流したのはアルマ自身だ。

 ウィンターハーンに来てから男遊びなどしたことはないが、まだたった四ヶ月。仕方がない。


 好きにしろと言われてもアルマには路銀がない。私的な旅行に領主夫人の予算を使っても良いのか、相談したかった。


「………もう、いいわ。忙しいのに、ごめんなさい……」



 力の入らない足で書斎を後にし、中庭を通る。ラウルの手紙をくしゃくしゃに握りしめたまま、呆然と中庭のベンチに座った。


 不快な耳鳴りが止まない。

 立ち上がる気力もなくて、太陽を隠す厚い雲をぼんやりと見る。


「アルマ」


 耳当たりの良い声に視線を向けると、息を切らせたクリスが心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「……アルマ、泣いてるの? どうしたの?」

「クリス………」


 自分の頬に触れると手が濡れた。自分は泣いているのか。部屋に戻らなければ。師匠にもラウルにも、公の場で泣くものではないと言われている。


「ありがとう。大丈夫。部屋に戻るわ」


 手紙を固く握り込むアルマの手を、クリスの手が優しく包んだ。


「アルマ、何があったか教えて?

 僕が泣いてた時、アルマはこうしてお話聞いてくれたでしょう? 大事なアルマが、ひとりで泣いてるなんて、僕は嫌だ」


「クリス………」


 クリスの優しさに、心が凍えていたことに気付く。部屋に戻るための元気を、クリスの言葉が充填してくれているように感じた。


「ありがとうクリス。あのね、クリスの霊脈って、わたしとすごく相性が良くて、手を繋いでると落ち着くの。ありがとう。もう大丈夫……」

「まだ、大丈夫じゃないよ」

「大丈夫よ。授業始まっちゃうわ。わたしも、神殿に、行かなきゃ……」


「大丈夫じゃないよ。今日はお休みしよう。

 今アルマが元気になることより、大事なことなんてないんだよ。気付いてる? アルマ、お顔が真っ青だよ。手がすごく冷たい。

 落ち着くなら、僕、ずっと手を握っててあげる」


 クリスが両手でアルマの手を握り直した。

 その柔らかさに、辛うじて保っていた心の形がぼろぼろと崩れた。

 可愛いクリスの心配そうな顔が涙で歪んで、胸の奥を激しい痛みが覆う。


「―――ふぐぅ……っ」


 喉から汚い嗚咽が漏れる。


「………ぅえっ、………ぅぇえ、あっ、ぅぁぁああああ…………!」


 栓が抜けたように止まらなくなった涙に、無様なほど呼吸が乱れる。身体が胸の痛みに強張って丸まってしまう。たったひとつのよすがに縋るように、クリスの手にしがみつく。



 ―――師匠が死んだ。

 死んでしまった。


 もう会えない。

 もう、この世界のどこにもいない。


 師匠。カイヤ師匠。


 もう無茶をして鼻血を出したアルマに不味い薬草茶を淹れてくれる師匠はいない。

 仕事が上手くいったら頭を撫でてくれる師匠はいない。

 寝癖が酷いと笑って直してくれる師匠はいない。

 もう、泣いているアルマのためにパンケーキを焼いてくれる師匠は、どこにもいないのだ。どこにも。


 どうしてわたしはこんなところにいるの。


 師匠から、こんなに離れたところに。

 師匠が死んだことを、五日も経ってから知らされる場所に。

 お墓に行くこともできない場所に。


 どうしてわたしは師匠がいない世界で生きているの。



 どうして。





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