悪妻アルマ
上級使用人たちの紹介が終わったところで、クリストファーが勉強の時間だと連れていかれる。アルマはイェンスに外出を願い出たが、ジグルドから許可を得ないと駄目だと断られた。
本日午後からジグルドの側近であるマークが付くので、領や城のことで気になることは何でもマークに聞けば良いらしい。
メイドから新しいお仕着せをもらって着替える。ドレスよりも余程動きやすくて、ほどほどに可愛くて、アルマは大層気に入った。なんとセットの靴まで貰えた。
イェンスにざっくりと教えられた城内を散策する。
ウィンターハーン城砦は複数の棟が内廊下や内階段で繋がっている。アルマは方角を見失わないほうだが、それでも気をつけなければ迷ってしまいそうだ。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろから声をかけられた。
「すみません、リネン室はどっちでしたっけ?」
振り向くと、丸めたシーツを山盛りにした籠を抱えて、若いメイドが立っていた。
「知らないけど、リネン室なら使用人棟じゃない? ここは主棟よ」
「えっ、えぇー…? もう、今どこだか、分からない……」
メイドは籠を床に置く。
途方に暮れた声音が可愛くて、アルマはくすりと笑ってしまった。
「使用人棟までなら、多分分かるから、案内しましょうか?」
「えっ、いいの? あなたの仕事は大丈夫?」
「うん、わたしの仕事は今日はできないみたいなの。だから大丈夫よ」
「助かる! あなたも最近勤めはじめたの?」
新しいメイド服を着ているせいかアルマも新人メイドだと思われている。まあ、祈祷の仕事をしにきているので、お勤めといえばお勤めか。
「うん、昨日着いたところ。貴女は?」
「私は先週から。お城、迷路みたいで、階段登ったらもうどっち向いてるか分かんなくなっちゃう……」
人懐こいメイドは歩きながら、出身の町や、怖い上司や、かっこいい男使用人の情報をくれた。私語をしながら廊下を歩いても叱られないので、ウィンターハーン城砦は中央神殿より随分緩そうだ。
ふと思い立って、アルマは質問する。
「ねぇ、この城に移民の女性っている?」
「移民の? マリールイーズ様のことかしら」
「大奥様が、あまり城にいてほしくないようなことを言ってたんだけど、どんな人?」
「私はまだ領主さまたちと接する許可は貰ってないから知らないわ。一度見かけたけど、とても可愛い方よ。領主様の恋人でしょ?」
「へぇ、恋人」
「私、先月まで領都で働いてたの。裏通りにゴーツ人のすごい綺麗な子がいて、領主様が何度かお忍びで来てるって噂があったのよ。その子は一緒に住んでたお母さんが亡くなって、どこかへ引越しちゃったって……きっとマリールイーズ様のことよね。お城に迎えられてたんだわ」
「ゴーツの人なのね」
やはりジグルドの囲っている女性だった。
とても可愛いのか。
王都の社交場に連れてきていた娼婦も大層美人だったというし、当のジグルド自身があの美貌だ。
アルマは少なくとも美女と呼ばれる範囲にはいない。もしかしたら真面目に祈祷だけしていれば放っておいてもらえるかもしれない、と心に留める。
ゴーツ王国はアルデンティア王国の西の隣国だ。二十年ほど前から軍事力の拡大を国是としている。最近では国境を犯してもやんわりと窘めるだけのアルデンティア王国を侮り、国土の拡大を目論んでいると専ら評判だ。ゴーツ王国は祈祷師の育成は行っておらず、霊流の大きな乱れには祈祷の能力者を生贄として殺すことで対応していると聞く。
アルデンティア王国では、ゴーツ王国は敵国であると同時に蛮習を残す未開人の国であり、嫌悪と侮蔑の対象だ。特にアルデンティア国教であるドレイン教徒たちの間でその傾向が強い。
ウィンターハーン辺境軍も十年前の国境の紛争に駆り出されており、従軍した親族を失った領民たちの心もまだ癒えてはいなかった。そんな状況で領主がゴーツ人の娘を恋人として城内に囲っているのは、イゾルデにしてみれば頭の痛い問題なのかもしれない。
王都で聞いたジグルドの噂を思い出し、『女を囲っている』に◯印をつけておく。
「領主様ってすっごい美形だし、美男美女でお似合いよね! 身内の反対を押し切って政略結婚の悪妻から愛する人を守る夫………ロマンスだわ!」
「あ、あくさい」
「王都から来た奥様のことよ!
聞いた? 男遊びが激しくって、お金遣いが荒くって、すっごく性格悪いんだって。しかも領主様の贈り物を、気に入らないって全部捨てちゃったの」
婚約破棄を目指して悪評を広めていたアルマは耳が痛い。
「男は千人斬り、古今東西の魔術を操り、社交場では自分より可愛い女の子に片っ端からワインをかけるそうよ! 領主様がお可哀想だし、子どもが産まれたって誰の子だか分かったものじゃないわ」
えっ、わたし、そんなことになってるの??
放流した噂が、尾鰭どころか背鰭に胸鰭までつけて帰ってきた。
一方的な悪者はつらいので、反論を試みる。
「でも、領主様だって、女性を何人も囲ってる、怖い人だって噂よね」
「罪人には厳しいってだけで、理不尽なことなんてなさらないわ。女性の噂だって私が聞いたことあるのはマリールイーズ様だけ。ここの先輩たちを見てても働きやすそうな職場だから、心配いらないわ。
そもそもあの美貌だけで私たちに日々の潤いを与えてくださるわ!」
「………着いたわ、ここから使用人棟よ」
「あっ、ありがとう! 助かったわ! 今度何かお礼するわね!」
にこやかに階段を降りてゆくメイドが見えなくなってから、アルマは溜め息を吐く。
これは圧倒的に分が悪い。
もう汚名返上するより、しっかり悪妻をする方が簡単なのではなかろうか。魔術ってどこで勉強できるんだろう。
実際のところ、アルマはまだ処女である。
破談のためにその辺で済ませてしまおうと画策していたら、兄弟子のラウルが苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔で茶番に付き合ってくれたのだ。
ラウルは中央神殿の神官だ。
専ら祈祷をする祈祷師とは違い、神殿の業務全般に携わる。霊流を見ることのできる神官は計画的に王都から各地に派遣され、異状があれば報告をあげる役割も担っている。
アルデンティア王国では祈祷師や神官の能力は若いうちに訓練により伸ばしてゆくべきもの。アルマも神殿に入ってすぐにカイヤ師匠に宛てがわれた。そこに兄弟子としていたのがラウルだった。
アルマが下町で行きずりの男をひっかけようとしていることを聞いて、ラウルは乱暴にされる危険や感染症の危険をこんこんと説教してきた。せめて信用のおける知人にしろと言われて、ラウルより信用できる男なんかいないと返したら、心底嫌そうな顔をしたので笑えた。
ラウルは破談を目論むアルマに酒を盛られて一夜を共にした。そういう体で話を合わせてある。結果として意味がなかったとはいえ枢機卿―――ひいては教皇に虚偽報告をしたと知られれば、即刻鞭打ち、悪ければ追放だ。この秘密は墓まで持っていかねばならない。
虚偽報告をするくらいなら実際にしてしまった方がいいんじゃないかと提案すると、アルマが相手では勃つものも勃たないと一蹴された。失礼な男である。
アルマは今でも、ラウルがそんなリスクをとることはなかったのにと思う。
貧民街で生きていた頃に下働きに行っていた花屋で、十四になったらアルマも商品として並ぶはずだった。貫通こそしていないが既にこの身体は男の手垢だらけ。勿体ぶるような価値などない。
―――そう言ったら、強めのチョップが頭上に落ちた。
その痛みを思い出して、ふふ、と笑みがこぼれる。
この世界に、カイヤ師匠とラウルがいる。
それだけで、アルマにとってこの世界は前を向いて生きるに値するのだ。
カイヤ師匠が導いてくれた目で窓の外を見る。
流れの悪い霊気が澱んでいる。
その土地に許され、霊脈を整える。大抵の場合、それは人々への恵みとして実る。それは祈祷師たちの誇りであり、カイヤ師匠が、何人もの求婚者を断って神殿の祈祷師であり続けた理由だ。
そしてカイヤ師匠とこの誇りを共にすることが、アルマのたったひとつの自尊心だった。