妻と恋人と馴染みの娼婦と
ジグルドはその日一日ラースを含む側近たちと部屋に篭り、翌日は朝から何人もと面会していた。
二日続けて夕飯時にクリスの機嫌をとることに失敗したラースは神殿から帰ってきたアルマを恨めしそうに睨んでいた。
忙しそうなジグルドが、基本的には家族と食事しているというのは意外だ。以前ジグルドがアルマも大食堂で一緒に食べないかと誘ってくれたが、アルマは部屋でひとりで気軽に食べたいと断っていた。マナーを気にしながら食事をしても味がしないし、同じ食事が運ばれて肉料理を残してしまうのが嫌だった。
メイドの運んでくれた夕食を済ませ、ウーリクから借りた地図を眺める。ひと月以上神殿で祈祷を続けて、アルマはウィンターハーンの霊脈にだいぶ馴染んできた。色々と気づいたこともあるし、そろそろもう一度エリックに相談したい。
指で地図の河川をなぞっていると扉がノックされる。扉を開けるとジグルドが立っていた。
アルマは暖炉の前のティーテーブルで覚えたての紅茶を淹れる。
ジグルドはただ黙って座っているので、今日も何をしにきたのか分からない。ジグルドは夕食前まで入れ替わり陳情や報告を受けていた。そういえばアルマは「他の側近」枠の一番最後だったことを思い出す。呼ばれた覚えはないけど、実は呼ばれていたのだろうか。
何か報告できることあったかしら、と考えていると、ジグルドがぽつりと呟いた。
「……黙っていては分からない」
「はい?」
え? なに?
もしかして今、わたしの心を代弁したの?
「言いたいことがあるなら言え」
「ないです」
ジグルドの眼光が鋭くなる。
なんなんだ。
言いたいことがあるなら言ってくれ。
このブリキ人形は、人間言語をどこに置いてきたんだ。アルマ以外の人間と話している時は普通にやり取りしているのに。いや、そういえばアルマとも祈祷の話はスムーズにできる。なにかプライベートなことを話しにきたのだろうか。ジグルドとわたしのプライベートな話題なんて、クリスのことくらいしか思いつかない。特に今言いたいことはない。
「……どうして、何か言いたいことがあると思ったんですか」
「クリスが、私たちがあなたを傷付けたようなことを言った」
きょとんとなって、昨日の玄関ホールのことを思い出す。
「―――今更??」
ジグルドの眉間に皺が寄った。
「え? 昨日のことですよね? 今?」
「纏まった時間が、今空いた」
「あっ、そうですか……それは、どうも、……お仕事お疲れ様です……」
「ラースがあばずれと呼んだからか。二度と言うなと言っておいた」
「いえ、それは別に」
「では何だ」
ラースやベンジャミンに何を言われてもアルマは別にどうでもいい。アルマにとって、アルマのことを嫌いな人物の言葉は軽い。
ジグルドとは仲良くなるつもりで接している。昨日傷ついたのは、ジグルドのせいだ。
だけど具体的に単語を示せと言われても困ってしまう。悪気もないのだろうと思えば怒る気にもなれない。
「昨日のことなんて忘れてました。その程度のことだから、気にしないで」
「…………あなたの心を踏みつけて、平気なわけではない。何がいけなかった」
ウィンターハーンの頂点にいるジグルドが、アルマを気遣って自省してくれる。凄いことだし、嬉しい。
でも顔が怖い。
第三者がこの光景を見たら、おそらくアルマが尋問されてるようにしか見えない。
「ごめんなさい、説明するの難しいわ」
「なら次はその場で主張しろ。祈祷に支障が出ては困る」
へたくそがすぎる。
わたしが傷ついて困るのは、祈祷の効率のためか。
今。まさに今傷付いたわ。
………いや、うん、そんなもんだ。
それはしょうがない。
今貴方の言葉に傷ついたよ、なんて宣言は、余程仲良くないとしないって、いつか教えてあげたい。
「ラース様の言うとおり、わたしはマリールイーズみたいに可愛くもないし、ヴァレンティナさんみたいに美人でもないもの。それで評判も悪いんだから、ラース様の気持ちも分かるわ」
笑って誤魔化すと、アルマを見る灰色の目が軽く開いた。
「―――その名前を、誰に聞いた」
「えっ」
ジグルドの声色が一段低くなる。
「何故あなたがヴァレンティナを知っている」
「えっ、せ、先月ジグルドがいない時にお城に来てて、ばったり会ったの」
「……アルマ、ヴァレンティナのことは追及するな。あなたは私の妻だから、いずれ話すこともあるかもしれないが、それまでは言えることはない」
地を這うような声にアルマの内臓が竦みあがる。
娼婦を買ってるって、秘密だったのかしら。金のある男なら珍しいことでもないだろうに。もしかしてヴァレンティナは超高級娼婦で、財政に負担をかけてまで女遊びを? 領主夫人としては「節約してもっと安いコで我慢しませんか」とか言うべきか。
意に染まぬ回答をすれば首を落とすと言わんばかりの冷たい瞳。最近見ないので油断していた。震えそうになる指先をぎゅっと握り込む。
はっ!
もしかして、妻に娼婦のことを隠そうとしてる?
確かに、妻が住む城に娼婦を呼ぶのはどうかとは思う。だがジグルドはアルマの意思を尊重してアルマには手を出さない。
厳しいウィンターハーンの状況を打開するために、ジグルドはアルマを娶るしかなかった。そしてマリールイーズはまだ子どもだ。金も身分もある若い男が、抱けない妻と恋人を抱えていたら、娼婦を呼ぶくらい仕方ない。
「あの、大丈夫よ。彼女のお仕事くらい想像つくし―――わたしだって子どもじゃないんだから、ウィンターハーンのためには彼女のような人も必要だって、分かってるわ」
フォローしたつもりなのに、ジグルドはますます渋い顔になる。
「喋ったのはマークか」
「えっ、違う違う! 確かにマークが慌ててたから確証は得たんだけど、昔、似たような仕事してる人を見てたから分かっちゃったの。流行にも詳しいし、わたしの評判も調べてるみたいだったし―――そりゃあ、彼女の立場ならわたしがどんな人間か気になるわよね。
大丈夫、口出ししないわ」
暫く見定めるようにアルマを睨んでから、ジグルドは視線を外した。
「………結婚したら、城に呼ぶのはやめるつもりだった」
「えっ、別にいいわよ。ジグルドは忙しいんだから、毎回街まで降りるの大変でしょ?」
「周囲に、あなたを軽んじていると思われるのは不本意だ」
確かにまあ、妻のいるところに娼婦を呼ぶのはちょっとアレかもしれないけど。地位のある男が女遊びをするのは普通のことだ。素人さんに手を出さないだけ良心的ですらある。
「わたしとも仲良くしてれば、そんなにヤイヤイ言われないと思うわ。ジグルドが忙しいのは皆知ってることだもの」
「あなたは不愉快ではないのか」
「わたし? わたしのことは気にしないで。言ったでしょ、ああいうお仕事も必要だって、分かってるわ」
ジグルドは少し悩んだ様子を見せてから軽く息をついた。
「……正直、助かる。
彼女のことは誰にも喋るな。どこで誰が聞いているか分からない。いいか。これは、違えたら場合によってはあなたといえども処罰する」
「はい」
ひぇぇ。
別に、領主が娼婦のひとりやふたり城に呼んだところで、噂になって困ることなんて―――
―――あったわ。
そうだ。
この城には最愛のマリールイーズがいるんだった。ジグルドのことを、妻だけを大事にする、おっぱいに興味ない王子様だと信じている、マリールイーズが。
あの年頃の女の子にとって、女を買う時点で彼氏としてはアウトだ。
ヴァレンティナもマリールイーズには秘密にしてると言っていた。
ペラペラ喋ってて、うっかりマリールイーズの耳に入ったら大変だ。
「分かった。誰とも喋らない」
「…………信じる」
わぁい。信じてもらえた。
………………。
何でわたし、王都からこんな遠くまで来て、夫の恋人に対して夫の女遊びの隠蔽工作してんだろ……。