ラースの帰還
庭園の若葉が青葉に変わりつつある陽気の中。ウィンターハーン城砦の主棟に、ぱたぱたとふたつの軽い足音が響く。
ホール中央で執事に上着を預ける城主を見つけて、アルマは階段の手摺から身を乗り出す。
「おかえりなさいジグルド!」
プラチナブロンドの端麗な顔をあげて、美貌の辺境伯がこちらを向く。アルマとクリスはひらひらと軽く手を振って、足取り軽く階段を降りる。
ジグルドが少し首を傾げた。
「何だ」
「え? 何が?」
「何か用件があるんじゃないのか」
「どうして?」
「………私の帰りを、待っていた風だった」
アルマとクリスは目を合わせてから、ふはっと吹き出す。
「待ってたわよ。二週間ぶりに帰ってくるんだもの。ねぇ、クリス」
「うん! 父上、僕、マグナスが手綱を引いてくれて、並足で乗っていられるようになりました」
「そうか」
無表情の夫の目の前にアルマは人差し指を立てる。
「ジグルド! もう一声!」
「…………領の視察に馬術は必要だ。引き続き精進するように」
「はい!」
嬉しそうなクリスを見てアルマの頬も緩む。
おそらくジグルドはクリスに言葉をかける意味はよく分かっていない。アルマがクリスのためにとお願いするから応えてくれている。
王都での会合から二週間ぶりに帰ってきた残忍酷薄の辺境伯様が、変わらずアルマの言葉に耳を傾けてくれることに嬉しくなって、アルマは自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう。おかえりなさい」
「……ただいま」
「これが例の股の緩い女か」
急に声がした方を見ると、ジグルドの後ろに若い男が立っていた。
輝くような金髪に意志の強そうな青い目。整った目鼻立ち。近頃美形を見慣れてきたアルマでも一瞬目を奪われる、ジグルドによく似た美しい顔。
「あからさまに弟」
アルマの口からうっかり感想が滑る。
あからさまな弟は腕を組んでアルマを見下ろす。頭のてっぺんから爪先までをじろじろ眺めてから、鼻で笑った。
「その程度の容姿でどれだけの男を咥えてきたのか知らないが、兄さんはお前ごときに手を出す男とは違うんだよ。
こんな婚姻は、俺が何をしてでも撤回させてやる。荷物を纏めて王都へ帰れ」
唐突な暴言にアルマはきょとんと目を見開いた。
ジグルドが眉間に皺を寄せて男の肩を掴む。
「ラース」
咎める声に、男は自分に似た顔を睨め付けた。
「だいたい、何で事前に俺に相談がないんだ! 領主の結婚なんか、社交に関わってくる重大事だろ!」
「お前は以前、問題が起きても絶対に何とかするから、どんな相手でも自由に結婚しろと言わなかったか」
「それは兄さんに好きな女ができた時はって話だろ!! こんな悪評のあばずれと政略結婚するくらいなら金くらい俺がどうにでもした!
だいたい、俺に話もなくクリスを連れて行くなんて何考えてるんだ!」
「おじ様方が言い出して、フレイヤがサインした。お前の不在時にはフレイヤが全権を預かっていると言っていた」
「そうだけども!」
「我が領に限っては、金を積めば祈祷師を派遣してもらえるという確証もなかった。このままずっと食糧を買い続けるわけにはいかない」
「なにもこんな女じゃなくても良かっただろう! 祈祷師なら他にいくらでもいる。ちゃんと実家に根回しすれば」
「それにどれだけの時間と費用がかかるんだ。これが一番早くて安上がりだった。私は祈祷さえしてくれればそれでいい」
「産まれてくる子どもが、どこの馬の骨の種か分からなくてもか!」
ラース様。その話はもうベンジャミンさんの二番煎じでございますよ。
もー、なんなのこの兄弟。
そういうのは本人のいないところでやってくれるか。
気持ちは分からなくもない。ウィンターハーンにはアルマの流した悪評でどれほど気を揉ませたか知れない。辺境伯が格下の男爵令嬢に贈った婚約指輪を売っぱらわれて、体面も傷ついただろう。アルマはその自覚があるので、こういう言われ様も仕方がないと流している。
それでも、友人になろうと言葉を交わした人にこんな言われ方をして、傷つかないわけではない。
「アルマ」
クリスの小さな手がアルマの手を握る。
「アルマ、僕の部屋に戻ろう? アルマの心を踏みつけても平気な人たちの言葉を、聞く必要なんてない」
「クリス」
ああ。
冷たくされても笑っているのは簡単なのに、優しくされると泣きたくなるのはなんでなのかな。
「クリス。ありがとう。嬉しい。
でも、久しぶりに会ったお父様でしょ?
わたしは大丈夫だから、お話ししてくるといいわ」
そっと背中を押すと、クリスは少し口を尖らせてラースの足元へ進み出て、丁寧なお辞儀をしてみせた。
「お久しぶりです、お父様」
「クリス! すまない、お父様がいない間に……この女のことはどうにかする。クリスはお父様と王都に帰ろう」
「お父様。アルマは僕の大事なお友達です。僕はアルマを傷付ける人とお話ししたいことはありません。失礼します」
固まったラースからくるりと踵を返して、クリスは再びアルマの手をとる。
「行こう、アルマ」
「えっ、クリス、あの、えっ、いいの?」
ぐいぐいとひっぱられて階段を上がり、呆然とする美貌の兄弟を残して、アルマはホールを後にした。