貴方の呼び名
口を尖らせて睨んでいるとジグルドが気まずそうに話を変えた。
「………クリスのことだが」
おっ、なんだ、怒られるか?
正直クリスの勉強については足を引っ張っている自覚はある。しかしやめる気はない。
いざとなれば地面に寝転んでじたばたとゴネる準備がある。
ふふ、お育ちの良い閣下に耐えられるかな?
最近のクリスは授業が楽しそうなのだ。このまま、成長することは義務ではなく権利なのだと知ってほしい。クリスの健やかな成長は領の利益に反しないはずだ。
「トンプソン先生が、あなたの授業の参加はクリスにいい影響だと評価した」
前向きな言葉を貰って、身構えていたアルマは拍子抜けする。
「………それは、これからも参加して良いということ?」
「祈祷とクリスの教育に支障のない範囲で、トンプソン先生と相談してくれ」
「ありがとうございます! 感謝の握手していいですか!」
「必要ない」
即答かよ。
「それに、あなたの影響でクリスが随分元気になったと聞いた。礼を言う。
………正直、クリスにとって本当に良いことなのか、まだ抵抗はある。私が他の人間より多くのことに心揺れないのは、厳しい教育の賜物だと思っている」
それはそうかもしれない。厳しさは人を強くする。それでも、厳しいだけの中から引き上げられたアルマは知っている。
「閣下。厳しいだけの教育を受けても、傷付かなくなるわけではないです。わたしはクリスに、誰にも気付かれないような傷付き方をしてほしくない」
領主としては弱さを見せられない時はあるだろう。その時にクリスを支えるものは、愛情であってほしい。
クリスを心配できるということは、ジグルドは傷ついてきたということだ。誰も、ジグルド自身すら、気づいていないとしても。
「閣下。貴方にもです。
いつか、どうしようもなく傷ついたとき、閣下の傍には閣下の幸せを願っている人がたくさんいることを思い出してください。マークなんかいつも閣下アゲアゲだし、アンダースも閣下が好きじゃなきゃ主人にあんな態度とらないんですよ。
わたしも一応妻ですから閣下の幸せを願ってます。思い出してください! ね!」
ジグルドが眉を下げる。困ったような呆れたような顔。少し表情を崩すだけで、近寄り難さが薄れて容易く人の視線を奪う。イケメンはずるい。
もっと社交的な性格ならこの美貌を有効活用できただろうに、ジグルドの気性では持て余してるんじゃないだろうか。
持て余しているジグルドを想像すると、なんだか可愛い。
ジグルドは悪い人ではないと思う。
家臣にも慕われ、努力家で、アルマ程度の身分の者の主張をちゃんと聞いてくれる。
ちゃんと良い関係を築いて、ウィンターハーンのために協力したい。
「閣下。わたし、クリスとお友達になったんです」
「聞いた」
「閣下も、わたしとお友達になりませんか?」
「夫婦で友達になれるのか」
「なれますよ! 贅沢な両方取りです。
ほら、夫婦としては……ねぇ? わたし、配偶者には一途な人が好みですし、今はまだ難しいというか」
頭では、政略結婚が当たり前の立場であるジグルドが他に恋人を持つことは普通だと理解できる。だがアルマの心は、恋人も馴染みの娼婦もいる男を夫として慕うことはできない。
もう少し慣れて、慣れて慣れて慣れれば、他に恋人がいても妻にも優しい夫は素敵、と思えるかもしれないけど。今はまだ無理。
「夫婦としては、時間がかかるか」
「すみません」
「では、とりあえず友人として、精進する」
生真面目な返答に笑みがこぼれる。
「………なんだ」
「いえ。閣下と仲良くなれたらいいなと思って」
これから長い期間顔を合わせる人なのだから、仲良くやっていけたら嬉しい。
アルマをじっと見ていたジグルドは、一度外した視線をもう一度アルマに向け、言いづらそうに言葉を選ぶ。
「………名前を、」
「はい?」
「あなたがいつまでも私を閣下と呼ぶのは、友人としても、……妻としても、他人行儀と思われるが、どうか」
探るような視線。
アルマを見つめる灰色の目が木漏れ日を弾く。
近くで見ると、神々に愛されたその容貌は瞬きのひとつすら魔法のようで、アルマは軽く息を呑む。
「…………ジグルド、様?」
「様も要らない。母上もお祖母様もそうしている」
春先の陽光の中、ジグルドの色素の薄い輪郭が白く透ける。その美しさはまるで中央神殿にあった神秘的な彫刻のようで、なんとも現実味がなかった。
「………ジグルド」
「うん」
ほっとしたように、ジグルドの整った唇の端が僅かに上がる。
初めて見る微笑みに、アルマの心臓が大きく跳ねた。
くっそ………! イケメンの攻撃力! くそー!





