春の波
祈祷には、祈祷師ごとの癖がある。
アルマはとにかく霊流をよく見て霊脈を把握し、細かく整えることを得意としている。それは織物の糸を解して編み直すような祈祷で、修練により上達していく方法だった。
春の波は、土地の霊脈に沿って大地を巡る。
だから波が来る前に、流したい場所へ霊脈の道筋をつけておきたかった。だがアルマの説明をひととおり聞いて、エリックとウーリクは、今年の波は捨てると言った。
二十年前はウィンターハーンの穀倉と呼ばれた南のレイバン地方。レイバン地方の小麦の収穫量は、霊流が澱んだ影響を受けて半減していた。まずはこれを改善する。
レイバンは領都から遠い。一週間では難しいと回答したが、エリックは今年が駄目でも来年の足しになるのであれば、優先すべきはレイバンと結論した。今年は捨てて、来年の春の波を確実にレイバンへ誘導する。
昼下がり、神殿でこつこつと霊脈を整えていたアルマは、唐突に世界の咆哮を聞いた。
―――間に合わなかった。
この一週間、こんな短期間では無理だと思いつつも、アルマは精一杯澱みを削った。中長期的に考えれば、優先すべきはレイバン。―――それは、来年、より多くの命を守るために、今年は諦めると言うことだ。今年の収穫を優先するならば助かるはずだった命を。
その方が助かる命は増える。それはアルマにも理解できたし、だから反対しなかった。でも、来年助かる命は、今年失われる命と同じものではないのだ。
食糧を求めてアルマの馬車を止めた痩せ細った女の姿が浮かぶ。
もし間に合えば、今年助かる命は大きく増える。間に合わなかったとしても、その道程の土地に春の波が届けば届くだけ、秋の収穫は改善するだろう。
タイムリミットがきたのを知って、アルマは身構える。
一瞬にして形なき衝撃が迫りくる。
―――これが、ウィンターハーンの春。
人間如きが手を出すものではないと叩きつけるように、轟然とアルマを飲み込む。
間に合わなかった。
この流れは、きっとレイバンまでは届かない。
エリックたちに説明された領地図を頭に広げる。南のレイバンの次。もっと近いところ。西だ。ライ麦畑の広がるミルタ。
澱みに捕まって散ろうとしている波に意識を集中させる。
アルマは季節の波を捻じ曲げるような、生まれ持っての力量に左右される力技は得意ではない。
身体の肉を削がれるような衝撃に意識を失いそうになる。砕けそうな集中力をかき集めて激流に逆らう。流れの殆どが南へ下るなか、アルマに弾かれた一部が西に抜けていく。
まだいける。
まだ踏ん張れる。
『収穫の多寡は民の命を左右すると肝に命じろ』
ジグルドの台詞が耳の奥に響く。
耐えろ。
一秒でも長く、耐えろ。
わたしが耐えた分だけ、誰かが飢えなくて済むかもしれないのだ。
ふと意識を取り戻すと、木枠の六芒星が視界に映った。暫くぼんやりと見つめて、それが祈祷室の天井だと気づく。
起きあがろうと背中に力を入れると、ぶちぶちと身体の中で何かが千切れた。そこからこぼれ出すようにじわりと痛みが広がり、煩いほどの己の心音と痛みで、また意識を飛ばしそうになる。
悲鳴をあげる身体とは裏腹に、思考は凪いでいる。とにかく、息を吸って吐くことに集中する。
……はー、つっかれた………
間に合わなかったなぁ。
どこまで行くかな。半分くらいか。うーん、あんまりなんもない一帯だなぁ、もったいない。
今のアルマに、できるだけのことをした。残念ではあるが、後悔はない。
たぶん一週間ほど寝込むことになるだろう。
呼吸が整ってくると、周囲の音が聞こえ始める。誰かがアルマを呼んでいる。
「…………マ様。アルマ様。大丈夫ですか」
今日も護衛として付いてきてくれたマークだ。
「アルマ様。聞こえますか」
半開きの目の眼球だけ動かして、視界にマークを捉える。
「あの、お顔を」
マークが手拭いをアルマの顔にそっと押し当てる。離れた手拭いが赤く染まっている。鼻血が出ている。座った方が良いんだろうけどそんな力も残っていない。
マークが振り向きざまに立ち上がる。
「ヤコブ。アルマ様を壁に座らせておいてくれ。神殿長に挨拶して馬車の準備をしてくる」
「はい」
えっ? いやいや、今は触らないで!
心の中で念じたが声にならない。
ヤコブがアルマを起こそうとアルマの手首を掴んだ。
「うわぁ!」
声にならないアルマの悲鳴の代わりに、ヤコブの悲鳴が響く。階段を降りかけていたマークが慌てて戻ってくる。
「どうした」
「マークさん! なんか、おかしいです、………アルマ様の腕が、………」
ヤコブに放られた腕がアルマにも見える。手首に赤くヤコブの手形が浮いている。触られた刺激で血管が切れた。
やめて、手形の内出血とか、オカルト案件じゃん………
痛みで涙が滲む。触らないでとか、明日になれば起きられるとか、色々言いたいことがあるが呼吸を整えるのが精一杯で言葉を紡ぐ余裕がない。ここまで無茶する予定じゃなかったので、後のことを準備していなかった。
マークが荒い呼吸をするアルマの横に膝をついて顔を近づけた。
「アルマ様。こちらの言ってることは分かりますか? これは想定内のことですか? イエスなら、二回瞬きしてください」
あっ、へぇ! なるほど。マーク賢い。
感心しながら二回、目を瞬く。
幾つも矢継早にされる質問に瞬きだけで返事をしていく。マークはヤコブに口早に指示を出して、あっという間にアルマの神殿泊が決まる。軽くて暖かい掛け布団が掛けられ、祈祷室に持ち込まれた簡易マットに絨毯ごと乗せられる。僅かな刺激にうっと眉を顰めると、マークのお説教が降ってきた。
「こんなことになるなら、事前にご説明ください。医師を同席させるとか、最初からマットの上でなさるとか、準備できることがあったのに」
ぶつぶつとお説教しながら、マークはアルマの口に吸飲みをあてる。少しずつ口を湿らせてくれる水が美味しい。飲み込む動きに喉が痛む。
「神殿の共用のものしかなくて申し訳ありません。準備させてくれなかったアルマ様も悪いんですからね。
夕飯は食べられないでしょうから、城から蜂蜜を持ってきてもらいます。アルマ様が甘いものがお好きなので、料理長が新しく良いやつを仕入れてました」
凄い。至れり尽くせりだ。
以前中央神殿でひっくり返った時など、寧ろ師匠の特大のお説教に加えて一ヶ月おやつ抜きの刑だった。今回の無茶は意味のあるものだと認められたようで、アルマは身体の痛みを誇らしく感じた。
マークとヤコブは一晩中アルマについて、アルマが目を覚ます度に少しずつ水を飲ませてくれた。ふたりとも騎士で、マークはそのうえ辺境伯の側近なのに、小間使いのような真似をさせてしまっていることが申し訳なかった。





