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トンプソン先生の授業


 ―――やらかした。


 メイドのノックで目を覚ましたアルマは、ベッドの上で頭を抱えた。

 昨夜ジグルドの部屋に謝罪に行って、途中から記憶がない。眠かったことしか覚えていない。おそらく途中で寝た。部屋まで運んでくれたのはジグルドなのか、使用人なのか。服を着替えさせてくれたのはメイドだと信じたい。


 朝の支度と朝食を済ませて、ジグルドの部屋を恐る恐るノックする。通りかかった使用人にジグルドは既に出かけたと教えられた。



 肩を落として参加したトンプソンの授業で、アルマはまた頭を抱えることになった。


「―――でありますから、このユラ川流域では、定期的な洪水が発生し、農地や住居に被害をもたらしてきました。被害を軽減するため、地域ごとに様々な治水施設が整備されています」


 やばい。

 メモをとりながら聴いていたがトンプソンの口調が速くて振り落とされる。

 正直、六歳の授業だと思って舐めていた。


「このように治水は先人の探究と試行錯誤によって少しずつ進んできました。ハーゲンの排水路の失敗についてご記憶ですかしら、クリストファー様?」


 鞭を手のひらでパンッと鳴らしてトンプソンがクリスを名指しする。クリスはアルマの隣でびくりと肩を震わせ、下を向いて固まってしまった。


「だんまりですか。結構! 本日もわたくしの講義を受けるおつもりはないようですね」


 あぁあ〜違う、違うのよ先生ぇ……。


 トンプソンの言葉は速い。

 講義の口調も速いし、質問してから切り上げるまでも速い。


「ではアルマ様―――には、このような基礎的なことは不要でしたかしら?」

「すみません、全然分かりません」

「なんですって?」

「すみません。ええと、ユラ川はウィンターハーン西部を縦に流れる川ですよね。ハーゲンはどの辺りか分かりませんけど」

「アルマ様……それがお分かりでないということは、初めから全くお分かりでなかったということかしら?」

「うう………すみません……」


 黙り込むトンプソンの手の中で鞭がパシパシと音を出している。

 しゅんと小さくなったアルマを、鞭でぶたれると思ったのか、クリスが庇うように抱きしめた。

 

「ハ、ハーゲンの排水路の失敗とは、カジョウなアンキョ排水による地下水位の低下や土のヒヨク性が失われたことです!」


 涙の滲んだ目で真っ直ぐにトンプソンを見ている。

 トンプソンが吊り目眼鏡の奥の目を丸く開いた。


「……左様です。復習はきちんとなさっているようですわね」

「えっなに、クリス、すご……ちょ、ちょっと待って……過剰なアンキョハイスイの、アンキョハイスイってなに」


 トンプソンが首を傾げる。


「アルマ様。ウーリクが、アルマ様は農政にお詳しそうだと言っていたのですが」

「えぇ? お詳しくないですよ?」

「気候情報と作付けの資料から祈祷のご計画を」

「それは、計画を考えるのに必要なので……神官たちはもっと細かくいろんなこと組み込んでますけど、わたしはそんなに頭良くないので最低限です。

 ていうかクリス凄くないですか? 貴族の六歳ってみんなこんなですか」

「クリストファー様は王都にいらした頃から聡明で評判の御子様でしたわ」


 まじか。クリスすごい。


「アルマ様がそのご様子では、同じ授業は難しいですわね」


 まじか。初日で作戦失敗!?


 愕然とするアルマとトンプソンをあわあわと見比べて、クリスが涙目でアルマを庇う。


「だって、だってアルマは今日が初めてだもの! 知らないの、仕方ないです!」

「クリストファー様。これはクリストファー様のための時間でございます。クリストファー様の授業の妨げとなるならアルマ様にはご退席いただかなくては」


 まずい。

 まさか初日で勧告が出るとは。


 どうしよう。

 明日の授業のために予習をすると言ってみようか。いや、無理だ。恐らく今日は祈祷を終えたら風呂に入れるか否かの瀬戸際だ。正直、今の時間だって本当は寝ていたい。


 どうしよう。

 クリスの心はきっと、出会ったばかりのアルマの存在を測っている。子どもはいつも、相手が自分を一番に守ってくれるかどうかを厳しく見ている。アルマが今クリスを後回しにすれば、もしかするとクリスはアルマを諦める。来週から、ではだめなのだ。そうでなければ子どもの心は簡単に人を切る。

 他に誰かいるならいい。だがクリスにはおそらくこの城に親しく話せる大人がいない。その状態で諦めることを繰り返すのは良くないし、クリスにそんな思いをさせたくない。


 どうするんだ。

 祈祷の手を抜くか。

 ―――それは、絶対にできない。


 視界が滲む。


「………ごめ、……」


 祈祷の手を抜くことは、絶対にできない。


 一旦、クリスの心を諦めるしかない。

 来週から、予習して復帰させてもらおう。クリスには切られてしまうかもしれないが、時間をかけて挽回する。


「ごめん、クリス……わたし、来週から予習して、受けさせてもらうから……」


 一度取られた手を放されることは、幼いクリスをどれだけ傷つけるだろう。

 泣きたいのはきっとクリスの方だ。


 泣いてしまったアルマに、トンプソンとクリスがぎょっとなった。

 慌てて涙を拭う。


「違う。違うの。

 疲れてて、堪え性がなくなってるだけなの。ごめんなさい……」

「アルマ! 泣かないで。僕、大丈夫だよ。アルマの分も頑張るから泣かないで。作戦会議も待てるよ。来週しよう? ね?」

「クリスぅ………!」


 どばっと涙があふれ出る。


 ひしと離別の抱擁を交わすふたりに、暫く気圧された風だったトンプソンが、しどろもどろに言う。


「………と、とりあえず、では、本日は復習の時間といたしましょう。クリストファー様、アルマ様に、そうですね、ウィンターハーンの気候について説明することはできますでしょうか? クリストファー様の理解度を確認するために、アルマ様のご協力が、必要と思われます」


 抱き合ったままクリスと目を丸くする。トンプソンを見上げると、困惑した顔で何度も眼鏡の位置を直している。紅潮した頬。彼女が慣れないフォローを捻り出していることが分かる。


 悲しい涙がぴたりと止まって、嬉しい涙があふれた。


 先生! 好き!



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