教育
「今度は何だ」
読みかけの手紙から視線を外して、ジグルドは不愉快そうな灰色の目をアルマに据える。
「何度も邪魔してすみません。さっきのこと、謝りたくて。クリスのこと、閣下のせいばかりにして責めてしまって、すみませんでした」
深く頭を下げ、疲れでぐらりと視界が歪むのを耐える。
ジグルドからの返事はない。
ジグルドは辺境伯。本来なら直言も難しい相手だ。高位貴族で、肩書きだけの夫で、アルマの能力をどうしても必要としている相手。そんな相手に、かっとなって言いたいことを言ってしまった。
距離感が分からない。
仕事上の必要性なら判断できるが、プライベートな立場で何をどこまで許されるのか、アルマにはとんと見当がつかなかった。
下げたままの頭が重い。
じわりと面倒臭さが広がって、不敬と切って捨てられるならそれも別に構わない気がしてくる。
いや、だめだ。
万が一それが師匠の耳に入ったら、悲しませてしまう。
「閣下を侮辱するような発言も申し訳ありませんでした。クリスを大事にしてないのかと思って、煽ってしまいました」
「……赦す。頭を上げろ」
冷たい口調に赦罪される。
重い頭を持ち上げようとして、そのまま柔らかい絨毯に座り込んでしまう。
「どうした」
「すみません。眠くて」
「なら、わざわざくだらない話をしにくるんじゃない」
切って捨てるような物言いに、アルマは溜め息をつく。
「閣下、もしかしてクリスにもそんな態度を?」
「そんなとはなんだ」
「クリスは、ひとりで王都から来たんですよ。もう少し、愛情が伝わるように接してくれないと、クリスはずっとひとりぼっちです」
「私はクリスに愛情をかけるつもりはない」
予想外の返答にアルマは目を見開く。
アルマと結婚してまで守ろうとした領地を継がせるつもりなのに?
アルマの授業の同席も、なんだかんだ許可してくれたのに?
トンプソンの言葉を容れて、クリスには自分にはなかった休息日をあげたのに?
「うそ」
「嘘じゃない。クリスの教育に愛情など不要だ」
「なんでまたそんな頓珍漢な結論を」
「頓珍漢とはなんだ。
私がしてきたことは、人の心がないと言われてきた。領のためには全て必要なことだったし、クリスもしていかなければならないことだ。
厳しく育てなければ耐えられない。甘やかして、将来辛い思いをするのはクリスだ」
座り込んだまま怪訝な顔を向けるアルマに、ジグルドは眉を顰める。
「……ひとりで泣いているようだというのは知っている。クリスは普通に育った子だ。突然重いものを背負わせることになった。強く、育ててやらなければ、ラースにも面目が立たない……」
ジグルドの手の中の紙が小さく皺を寄せた。
―――閣下。
それを、愛情というんじゃないんですか。
「厳しさは、愛情と矛盾するものではありません」
中央神殿に入った時、アルマは十四だった。
貧民街にいた頃は父親という名の主人に、男爵家にいた頃は家庭教師という名の主人にずっと鞭打たれる環境で、折檻から逃れることばかり考えていた。
中央神殿でカイヤ師匠につけられた時も、ただ主人が替わっただけだと思った。
師匠はそれなりに厳しかった。それまでは課題が上手くいけば痛い思いをすることはなく、褒美が出ることもあった。だが師匠のつらい修行は、成功すると更に苦しい課題がくる。褒められるタイミングが成果と結び付いていないことも多かった。当初アルマは混乱したものだ。
自分本位な命令をしない師匠の相手は、父親や家庭教師の相手よりも難解で、アルマは命令されていないことを試行錯誤しなければならなかった。
アルマが自分の身体を労るとなぜか師匠が嬉しそうにする。アルマが自分の心の声を拾うとなぜか師匠は喜んだ。アルマの背中の傷に、師匠は何度も怒ったり泣いたりした。愛情を注がれて、アルマはその頃やっと人間になったのだと思う。好き嫌いを認識するようになってから、きれいなものだけ覚えたいと思うようになった。なのに、きれいなものときたないものはいつもセットになっていて、怖くて泣いてしまった夜は師匠とラウルと三人で枕を寄せて寝た。
大雑把で温かい師匠と口の悪い兄弟子が、ずっと根気強く教えてくれたのは、アルマの主人はアルマ自身だということ。そうしてアルマは理想を持つことを知り、大切なもののためなら痛みから逃げないことを知った。それは、愛情を注がれた人間にしか分からないことだと、アルマは思う。
「愛情は、人を弱くはしません。
愛された心は弱くなるわけじゃない。柔らかくしなやかに育つんです」
「柔らかいものはすぐに傷付く」
「傷付いても大丈夫です。つらい時はたくさん泣いて、泣き終わったら立ち上がる。それが愛された人間の強さです。
閣下。クリスに、泣きも笑いもしない強さより、泣いて笑って、失敗してもやり直せる強さを、望んではいただけませんか。
厳しいだけの環境で、幸せになれる人は、きっと、とても少ない……」
幼い頃のアルマのように、現実には、子どもの心が壊れることなど構わず教育している大人はいる。彼らにとってはそういう教育こそが正しいのだ。
だがアルマの目には、ウィンターハーン家はもう少し温かいものに映る。
なぜジグルドがそんなに厳しい幼少期を過ごしていたのか分からないが、彼が今まともな大人であるのは、たまたま彼が強かっただけで、思いもよらない結果になっていた可能性が高い。
「少し、マークから閣下のことを聞きました。優しくしてくれる大人もいない環境で閣下のような教育をされると、普通の人間は壊れます」
「……私の受けてきた教育が間違っていたと言いたいのか」
「閣下にはセーフだったかもしれませんが、常識的な子どもにはアウトです」
「……あなたは、少し、失礼だな」
「閣下はお強いですね。
……すごい、ことだと、思う………」
イゾルデたちはきっと、ジグルドが多少ブリキ気味ではあっても優秀に成長したから、クリスにも同じようにしようとしているのだ。
ジグルドはきっと、クリスの心を守るために、自分が知りうる最良のものを与えようとしているのだ。
ジグルドは確かに人の心の機微には疎いかもしれない。だがおそらく、アンダースがアルマを傷付けると言ったから、ジグルドを一方的に責めたアルマに「お前が男にだらしないせいだ」とは言わなかった。
きっと、周囲の大人の善意が伝わっていたこともあるだろう。それでも、厳しすぎる子ども時代を抜けたジグルドが他人を虐げないのは、彼の強さだと思う。
「………ちっちゃい頃の閣下に、偉かったねって、言ってあげたい………」
師匠がアルマにしてくれたみたいに、頑張ったねって、頭を撫でてあげたい。
そうすればきっと、こんな無愛想な魔王ではなく、笑顔の輝く大天使に………もはや誰それ……
取り留めのない思考が睡魔に溶かされて、アルマはそのまま柔らかな絨毯に沈んだ。