クリスの学友
夕刻、神殿から帰ってきたアルマは、疲れた身体を叱咤してジグルドの部屋を訪ねる。
「クリスに、ご学友をつけてあげることはできないですか」
脈絡もなくそんなことを言い出したアルマにジグルドは眉を顰めた。
「祈祷の成果を聞けると思っていた」
「祈祷は、精一杯やっています。
閣下。クリスの教育は厳しいものなのでしょう。ひとりなのは可哀想です」
トンプソンの鞭はクリスに痛みを与えるためではなかった。トンプソンが鞭を必需品と思っているなら、できれば取り上げるようなことはしたくない。ひとりではなく何人かで授業を受ければクリスも鞭の音に怯えずに済むのではないか。
「……クリスの学友は探している。
側近とは絶対服従するだけの者では務まらない。主人と志を共にし、肩を並べ、主人とは違うことを成す者でなければ。探して、ある程度教育し、見極めるには時間がかかる。
貴族の子がいれば早いが、損得なしで次男三男をくれるようなあてがない」
「マークは平民じゃないんですか」
「マークたちは、私と弟のために赤子の頃から選抜され教育されている。本来なら、私に子ができれば同じように信の厚い者の子から選ぶはずだった」
そうか。確かに普通の平民の子では隣に並べない。
「じゃあ、わたしが一緒に授業を受けます」
「なに?」
「わたしも、領主の妻なのにこの土地のことを全然知りません。トンプソン先生の午前の授業を、クリスと一緒に受けさせてください」
「クリスの教育は土地のことだけではない。祈祷をする余裕がなくなるだろう」
「わたしは領主夫人なんだから、土地以外のことも知ってた方が良いと思います」
「あなたには祈祷以外は期待しない」
「でも」
では、泣いているクリスを放っておけと言うのか。
「今のあなたには他に専念すべきことがあるはずだ」
「それはそうかもしれませんけど、」
「余計なことを気にしている余裕があれば、少しでも祈祷の効率を上げろ」
……カッチーン!
カチンときた! こいつ! 義理とはいえ父親のくせに! 余計なことだと!?
あの天使の涙を、余計なことだと!?
「―――自分は弟も学友もいたくせに」
「なんだと?」
「閣下には、学友がいたじゃないですか。つらいときに支え合う相手が。同じように厳しい教育を、クリスにはひとりで受けさせるなんて不公平です。それとも閣下はクリスを憎んでるんですか」
「どういう意味だ」
「わたしと結婚したせいで、自分の子どもは跡継ぎにできないから、クリスを虐めて憂さを晴らしてるんですか、って聞いてるんです」
「私を侮辱するか」
「そうじゃないなら、わたしの同席くらい、大したことじゃないじゃないですか! 大人の都合で子どもを振り回しておいて配慮もないなんて無責任です!」
「それはあなたが―――」
ジグルドは何かを言いかけて口を噤む。
ぎろりと射殺すような眼光を、精一杯の虚勢で睨み返すアルマに、ジグルドは冷ややかに言い放った。
「―――勝手にしろ。ただし、クリスの教育の妨げになるようならすぐにやめてもらう。
用件がそれだけなら出ていけ」
「それだけですよ! 出ていきますとも! お許しいただき! どうもありがとう! ございます!」
行儀悪く扉を乱暴に閉めて、アルマは足音荒く廊下を突き進む。
苛々が治まらない。
―――気が短くなっている。
疲れている。当たり前だ。中央神殿には交代要員が沢山いた。連日こんな全力の祈祷をすることなど滅多にない。
早くクリスと話をして、今日も早めに寝よう。明日は午前のクリスの授業に参加させてもらって、午後にはまた神殿へ行く。春が来るまで、おそらくあと四日か五日。上手くいってもいかなくても一旦そこまでだ。
夕食までの小休止をしているクリスの部屋に足を運ぶ。この後夕食後の一時間のみが自由時間で、夜は夜で勉強らしい。えぐい。
「クリス! 今日お勉強頑張ったんですね! 昨日、つらかったのに、頑張れるのかっこいいです」
努めて明るい声を出す。
クリスはぱっと笑顔になって、アルマの足に抱きついた。
可愛い。
守りたい、この笑顔。
「すみません。トンプソン先生の鞭はやめられませんでした」
「そうなの? ………大丈夫だよ、僕、がんばるよ」
「鞭はやめられないけど、明日から、午前の授業はわたしも一緒に受けて良いことになりました!」
「ほんと!?」
淡い青い目がきらきらと輝く。
憂い顔も可愛いけれど、やはり子どもは幸せそうに笑っているのが別格だ。
「閣下はクリスのお勉強を大事だと思ってらっしゃるので、わたしがクリスの邪魔にならないって条件付きです。
クリス。トンプソン先生の鞭は、絶対にクリスをぶたないので、わたしと一緒に怖くなくなる練習しましょう。
わたしも頑張りますね。わたしが授業についていくのと、クリスがトンプソン先生を怖くなくなるのと、競争です」
「………アルマが先にいなくなっちゃったらどうしたらいい?」
六歳のカリキュラムに付いていけない危惧をされるわたし。つらい。
「そのときは、また作戦会議です。
ふたりで泣きながら考えましょう。
真夜中の罪深いパンケーキが必要ですね」
「………はちみつ、のったやつ?」
「クリームものるべきですね。
わたしがまた、閣下を脅して手に入れます」
クリスが驚いた顔でアルマを見つめる。
英雄を見る目だ。
アルマはもう元気百倍だった。
「アルマ、夕食のあと、お部屋に遊びに行っていい?」
「ごめんなさい、明日もお仕事なので、夕食を食べたら早めに寝ます」
「そう………明日は?」
「今週いっぱいは難しいです。午前の授業、起きられなくなっちゃう」
「アルマ、忙しいの? 僕のために無理してる?」
優しい。天使か。天使だわ。
こんなところに天使の生息地があったとは知らなかった。
「ちょっとだけ無理してるわ。
クリスが今大変なのは、閣下とわたしが身分が釣り合わないのに結婚したせいなの。クリスはわたしのこと恨んでてもおかしくないのに、仲良くしようって言ってくれるから、わたしも頑張りたいの。
わたしもクリスと遊びたいわ。来週は遊んでくれる?」
「いいよ!」
「クリストファー様。夕食の時間です」
振り向くと戸口にメイド頭が立っていた。
名残惜しくアルマを振り返りながら若いメイドに連れられていくクリスに笑顔で手を振る。
クリスの姿が見えなくなってから、メイド頭がアルマに寄ってきた。
「奥様。閣下がクリストファー様をご養子になさったのは、奥様のご身分のせいではありません」
「え? そうなの?」
アルマが平民出身の男爵家養女だからではないのか。
「ウィンターハーンは王都との社交から遠い土地です。お相手の家格よりも、当主に選ばれて当主を支える方であることが大切なのです。
クリストファー様が迎えられたのは、その、実は、奥様のお輿入れ前に………悪い噂があって…………その……」
「わたしが性悪で男にだらしないっていう?」
「………はい」
なるほど。産まれてくる子が、ジグルドの子とは限らないと懸念されたのだ。
「そういう話がなければ、平民出のわたしの子どもを跡継ぎにするはずだったの?」
「おそらく。閣下のお父君のレイフ様も、元は平民でした。大旦那様が買われた子爵位を賜ってウィンターハーン家に入られました」
「………そう……」
「差し出口を失礼いたしました」
「ううん。言い難いことを教えてくれてありがとう」
メイド頭に礼を言って、自分の部屋に向かう。
祈祷の疲れで眠さのあまり吐き気がする。
体力のために多少無理しても食事をと思っていたがとても無理だ。
階段を登りながらアルマは疲れた頭を回す。
アルマが悪評をふれまわらなければ、クリスは今頃、王都の母親の元で弟妹たちと子どもらしい生活をしていたのだろうか。たったひとりで、誰もいない部屋のクローゼットで泣くことなどなかったのかもしれない。
寝耳に水の縁談をアルマはずっと断っていたし、相手に諦めてほしくて、できそうなことは何でもやった。それについて後悔はない。
それでもクリスには、これからアルマがしてあげられることはできるだけしてあげようと思った。
(……………謝りに、いかなきゃ)
部屋に向かっていた足を止めて、アルマは踵を返す。こんなに眠いのに、もうひとつやることができてしまった。