トンプソン先生
翌朝アルマが目覚めると、目の前に天使の寝顔があった。実に気分の良い目覚めである。
クリスは洗顔のお湯を持ってきたメイドに身支度を整えられて連れて行かれた。朝食の前に勉強時間があるらしい。
アルマは部屋でひとりで朝食を済ませた。
朝食後、客室のある南塔でトンプソンを捜す。申し入れた面会はあっさりと受け入れられた。
トンプソンの部屋は壁一面の本棚に整然と本が並んでいる。クリスの教育のために王都から呼んだと聞いていたが、部屋は最近動かしたようには見えない。マークたちの教育も担っていたそうなので、その頃からここはトンプソンの部屋だったのかもしれない。
中央のテーブルの脇に姿勢よく立つ六十くらいのふくよかな女性がいた。
「お初にお目にかかります。アストリッド・トンプソンと申します。この度、閣下よりクリストファー様の教育を命ぜられ、王都より罷り越しました」
美しい所作で頭を下げるトンプソン。鞭を振り回す粗野なおじさんを想像していたアルマは拍子抜けした。
何気ない時候の挨拶を交わしてからテーブルに座り、アルマは昨夜クリスと話したことをやんわりと伝える。トンプソンは吊り目の眼鏡をくいっと引きあげた。
「そんなのはクリストファー様の演技ですわ。アルマ様はあの可愛い顔に騙されているのです」
「えっ」
その可能性は考えていなかった。
「アルマ様。お子様をお持ちでないアルマ様には分からないかもしれません。ですが―――六歳の男児など動物なのです! いえ! 言葉でコマンドが入るだけ、犬の方が余程賢い!」
おおぉ? 実感の籠ったお言葉。
「しかもクリストファー様はあのラース様の御子息……エリックを落とし穴に落とし、隙あらばベンジャミンの筆箱に虫を詰め込み、マークとふたりで城から脱走し、散々悪戯をした挙句にイングリッド様の膝で泣き真似をしてみせる………あのラース様の! 殊勝なお顔に騙されて鞭を手放したが最後、悪夢の再来が待っていますわ!」
おぉお………? クリスのおとうちゃん? やんちゃ!
「か、閣下も動物だったんですか?」
「ジグルド様は………」
トンプソンの表情が曇る。
「閣下は、良くできた……できすぎたお子様でした。ラース様が反抗する度に取り乱すイングリッド様に、自分がしっかりするから大丈夫だと……あの頃はわたくしも若く、お子様方の状況が見えていませんでした。厳しすぎるカリキュラムにイゾルデ様が何度か苦言を呈されましたが、イングリッド様は誰かに何かを言われるたびにますます頑なになられて……」
この辺の話はマークからも少し聞いた。
ジグルドの母親は、そんなジグルドに教育の成果以外を問うことは殆どなかったという。そして父親は、申し訳なさそうな顔で遠巻きに見ているだけで、ジグルドに声をかけているのを見たことがないと言っていた。
「閣下は当初クリストファー様に、御自身と同様の教育をお考えでした。流石にそれは厳しすぎる。普通のお子様では耐えられません。
夕食後一時間の休息と安息日を捩じ込んだのはわたくしです。今の閣下に物申すなど、マークたちの後押しがなければ、恐ろしくてできなかった………」
記憶を反芻したのか、トンプソンは小さく震える手で胸元を摩る。
どうせジグルドはあの冷たい目でトンプソンを睨んだのだろう。怖かったに違いない。
アルマはほわりと心があったかくなる。
この人は、身体を張ってクリスを守ろうとしてくれたのだ。
「トンプソン先生。クリスはきっと、鞭がなくても真面目に授業を受けます。一度、試してみてもらえませんか?」
アルマの言葉にトンプソンは目を瞬き、それからにっこりと笑った。
「……アルマ様。わたくし、王都では学院で研究をさせていただいておりましたの」
「えっ、すごい」
「学術に於いて、この歳でも若者に引けをとるつもりはございません。ですが、貴族のお子様方の教師をしているうちに、分かってしまったのです」
「なにを」
「わたくしの授業は、つまらない、ということを………!」
かっと目を見開くトンプソン。
「数多の生徒に逃げられ、寝られて、わたくしは悟った。六歳男児にわたくしの授業で座らせておくには、鞭が必要だということを!!」
「せんせい……!!」
切なくてアルマは顔をわっと手で覆った。
泣ける。
先生、きっと、子ども好きなのに!
「………噂など、あてにならないものですね」
そんな呟きに顔を上げると、トンプソンが穏やかに微笑んでいた。
「アルマ様。悪い噂のことでアルマ様に色々申し上げる者もいることでしょう。どうか、そんな輩は気にせず、ウィンターハーンをお救いください。
祈祷師様は、ウィンターハーンの希望でございます」
過大な期待にアルマは身を縮こまらせる。
「………本来、祈祷なんて、そこまでのものじゃないはずなんです。中央神殿の記録では、収穫が増えると言っても良くて一割ほど。全く効果の無い土地もあるそうです。
祈祷を全くしていなくても問題なく人が住んでいる地域はあります。どうしてウィンターハーンばかりがここまで乱れてしまっているのか……」
そもそも二十年祈祷をしないだけで収穫が半分近く落ちるということにアルマは驚く。
トンプソンは城壁の向こうの大森林を見るように窓に視線を向けた。
「ウィンターハーンは………というより、バルスク大森林は、大陸の中でも一際霊脈の崩れやすい場所なのだそうです」
「そうなんですか」
「魔獣が多く、実りが少ない。元々そういう土地だった。そこを、十二代前のアルデンティア王が祈祷によって安定させ、開拓した。長い時間をかけて祈祷を続け、霊脈が整うに従って収穫も増え、今のような都市になった。
祈祷をやめれば、昔の姿に戻るのは必然。他の領と違い、ウィンターハーンは祈祷をし続けなければならない土地なのです」
知らなかった。
確かに昨日の祈祷でびくともしなかった固さは、この何年かで溜まったものというには違和感があった。初めての土地だから難しいのかと思っていたが、違う。きっと何千年もの間、この土地にとっては澱んだ状態こそが常態だったのだ。
耳を傾けるアルマに、トンプソンが続ける。
「霊気とは、何なのか。なぜ見える者と見えない者がいるのか。霊流が乱れるとなぜ魔獣が増えるのか……分からないことだらけです。
祈祷を、寧ろ神聖な神の計画を狂わせる所業として禁じている国もあれば、祈祷師を神の使いと崇める国もある。霊流が乱れると、祈祷の能力者を生贄にする国も」
「ゴーツ王国ですね」
「そうです。祈祷師を殺して、どうして霊流が落ち着くのでしょう?」
「……祈祷は、無茶をすれば心身に負担がかかります。逆に、命の危機に瀕すれば、がむしゃらに大きな力を暴走させるのでしょう。それはきっと、通常の祈祷以上に霊脈を整える……」
アルデンティア王国の中央神殿では、祈祷師を集め師弟制度によってその能力を伸ばすことに成功した。ひとりひとりの力を伸ばし、数の力で解決する方針である。それは他国の祈祷師の扱いに比べれば穏当なものだ。
祈祷師は貴重で、霊脈を整えるばかりではなく、乱すこともできる。また、実は霊脈とは土地に限らず、生きとし生けるもの全てにある。熟練の祈祷師たちはそれを乱すことで指一本触れずに人を害すことができる。そんな祈祷師を誘拐してでも手に入れたい人間は後を絶たない。
まともな祈祷師たちが質素な神殿の生活を甘受しているのは、神殿はそれなりに祈祷師を尊重し、守ってくれるからだ。
ウィンターハーンに祈祷師が不可欠なら、ジグルドの父親は、例えどれだけ心惹かれても中央神殿の宝と言われたソフィアにだけは手を出すべきではなかった。アルマは当時を知っているトンプソンに聞く。
「この国で中央神殿を怒らせて祈祷師を確保することは難しい。祈祷が不可欠なら、閣下のお父様は、どうしてあんな軽挙を」
「さぁ……男女のことは、外からは分かりません」
もしかして婿養子のレイフは、そのことを知らなかったのだろうか。
怖いな、とアルマは肩を縮める。
アルマもウィンターハーンのことを殆ど知らない。肩書きだけとはいえ領主の妻になってしまった今、無知であることでレイフと同じような過ちを犯さないとは限らないのだ。