クローゼットの天使
翌朝アルマはメイドに新しいお仕着せを渡された。昨日まで着ていたものとは色も形も違うが、これも動きやすくて可愛い。心なしか今までのものより肌触りがいい。
ドレスを嫌がるアルマのために当面の衣装として用意されたものだ。濃紺のお仕着せを着ているメイドたちの中で、臙脂色のこの衣装は目立つ。城の使用人たちにはこれを着ているのは領主夫人だと周知してあるとのことだった。
午前中いっぱいかけて、エリックとウーリクと相談し、大雑把な目標を定める。細かく考える時間もないし、決めたところで実行できないからだ。
午後からは神殿で祈祷をした。
反省を活かして慎重にやったので捉えることはできたが、頑固でびくともしない。日が暮れる頃にへとへとで城に帰ってきた。
城の中がばたついている。
クリストファーが授業をさぼってどこかへ隠れたと使用人たちが慌てているのを、アルマは働かない頭でぼんやりと聞いた。
汗だくの身体を湯船で洗い、多少無理をして夕食を流し込む。メイドに用意が整ったと言われて、アルマは塔の最上階の部屋から城主の妻のための部屋へ移った。
領主夫人の部屋はジグルドの部屋の主寝室と扉続きになっている。先日気付いたが、主寝室の扉は薄い。ジグルドはマリールイーズには手を出していないようだが、ヴァレンティナという女性も部屋には連れ込まないのだろうか。それとも高貴なお方は傍聴されることなど気にしないのだろうか。
適当に鞄に詰めた少ない荷物を解く。子どもの頃にカイヤ師匠にもらった小さなぬいぐるみを箱から出して確認し、また仕舞う。箱を撫でて遠くの王都に思いを馳せる。
恋愛ごとについて夢見がちな師匠は、アルマが美形の高位貴族に望まれて嫁ぐことに、珍しくはしゃいでいた。病に倒れてから一番のはしゃぎっぷりだった。その姿を思い出すと少し元気になる。アルマは師匠のあんな楽しそうな顔が見られたこともジグルドに感謝しているのだ。頑張ろう、と思う。
脱ぎっぱなしだったメイド服を掛けようと、そぐわない瀟洒なクローゼットを開いて、アルマは目を丸くした。
扉の中に天使が眠っていた。
身体を小さく折り曲げて寝息を立てている。
丸い頬。ふわふわの淡いブロンドの髪。
「………クリストファー様?」
この家の嫡子のクリストファーだ。
ウィンターハーンの夜は寒いのに、こんなところで寝ていては風邪をひいてしまう。
起こそうと近寄ると、目元に涙の跡が見える。
「クリストファー様」
優しく肩を叩くと、小さな天使は驚いたように跳ね起きた。
ベビーブルーの大きな目がアルマを見る。
「ア、アルマ、様……?」
「クリストファー様。こんな所で寝てはお身体を冷やします」
「えっ……アルマ様、どうして、ここに」
「お部屋を移ったんです。クリストファー様こそ、どうしてここに? 皆が捜してましたよ」
クリストファーはびくりと小さな肩を震わせて目に涙を溜める。
「ごめんなさい、だれも使ってない部屋だと、思って……」
誰も使っていないけど、廊下をくるっと回ったジグルドの部屋と扉続きなことは知らないのだろうか。
「ごめんなさい、皆には、言わないで」
「でも、皆、心配してますよ」
「いや……!」
大きな目からぽろぽろと涙がこぼれる。クリストファーの両手はぎゅっとお腹を押さえている。
「クリストファー様、お腹が痛いんですか?」
「痛くないよ! 絶対痛くなんかない!」
「じゃあ、どうして泣いてらっしゃるんですか? 閣下になら、お話できますか?」
「やめて! ジグルド様には、絶対に言わないで!」
悲痛な叫びにアルマは困惑する。
ジグルドは子どもを虐げるような人間には見えない。だが「ジグルド様」という呼び方を聞いて、親しく接しているとも思えない。初対面の時の様子から、イゾルデにも萎縮している可能性がある。
誰か、甘えられる大人はいるのだろうか。
「お願い、アルマ様、お願い。
先生が、ジグルド様は優秀だったのにって、いつも言うの。授業がいやで、おなかが痛くなるなんて、知られたくない……!
知られたらきっと、僕のこと、呆れて、もう要らないって思う……。お母様が、僕なら大丈夫って、信じてるって言ったのに」
クリストファーは、ジグルドがアルマを娶るから、後継者として連れてこられた子どもだ。結婚相手がアルマと決まってからまだふた月。ジグルドがもっと家柄の良い妻を迎えたなら、今頃王都の母親のもとにいたはず。
こんな小さな身体で孤独と重圧に耐えているのかと思うと胸が痛んだ。
「………皆が心配するので、こちらにいらっしゃることだけお話してきます。クリストファー様、皆に会いたくない気分なら、今日はわたしとここで一緒に寝ますか?」
「えっ」
「どうしたいですか?」
「えっ………でも、そんなの、いいの? アルマ様、ごめいわくじゃない?」
「わたしも初めてのお部屋で落ち着かないので、クリストファー様が一緒にいてくれると嬉しいです」
「……そうなの?」
「そうなのです」
「でも、イゾルデ様が、きっと、だめって」
「大丈夫です。お話すれば分かってくださいます」
きっと大丈夫。祈祷しねぇぞ、と言えば大概の我儘は通る。
あまり使いたくない手だが、こんな小さな子がお腹が痛いと泣いているのを放っておくことなどできない。
「クリストファー様、ごはんもまだですよね。色々貰ってくるので、待っててください」
立ち上がると、クリストファーの潤んだ目が、行かないで、と訴えている。
アルマは鞄に仕舞った箱からぬいぐるみを取り出してクリストファーの手に握らせた。
「クリストファー様。このぬいぐるみ、わたしの宝物なんです。初めての部屋に置いておくのは心配なので、しっかり持っててください。お願いしますね」
部屋を出て手近な使用人にクリストファーの所在を伝え、着替えを依頼して厨房に向かう。料理長にパンケーキを焼かせて欲しいと交渉していると、視察から帰ってきたジグルドが顔を出した。
「イェンスが、あなたの暴走を止めてくれと言ってきた。なんの騒ぎだ」
「閣下」
あからさまにほっとした様子の料理長はジグルドに泣きつく。
「その、奥様が、こんな時間にクリストファー様とパンケーキを食べると」
「お願いします! どうしても今パンケーキが食べたい気分なのです!」
「奥様、ですので、奥様の分だけならわたくしどもが。ぼっちゃまの夜食は、ローラ様の許可がないと」
「わたしが! 焼きたいの! ふたり分!」
ごねるアルマをジグルドが諌める。
「アルマ。料理人を困らせるものではない」
「閣下。可能なことなら何でもしてくださるってお言葉は嘘ですか」
「こんな時間に厨房を漁られることを想定しての言葉ではない」
「嘘ですか」
「だいたい、クリストファーは勉強の時間のはずだ」
「今日はもうお終いです。わたしとパンケーキ食べて寝るので」
一歩も引かないアルマの態度に、ジグルドは不愉快そうに溜め息をつく。
「……………トーマス。望むものを何でもくれてやれ」
「はぁ……」
「ありがとうございます! あと、今日はわたしの部屋でふたりで寝ますので、よろしくお願いします」
厨房の隅で料理人たちがひそひそとアルマを見遣っている。今日も意図せず我儘な妻を絶賛爆進中の自分が少し可哀想になった。