初夜というかなんというか
その日、部屋で夕飯を済ませたアルマは、メイドたちにふやけるほど丹念に風呂に入れられ身体中を手入れされた。
イゾルデの侍女のローラに、月の障りがあったことを確認されて、妊娠していないことがばれたからだ。今晩から夫婦の寝室に放り込まれる。
フォルマン男爵の屋敷でひたすら鞭打たれたアルマの背中は、皮膚が裂けた痕が汚く残っていて、洗ってくれたメイドたちは眉を顰めていた。
(分かる分かる。
あんなお綺麗な閣下が抱くのに、そぐわないよね)
女などよりどりみどりであろうジグルドがこんな身体にその気になるだろうか。アルマも別にしたいわけでもない。
誰も得しないのに、何の意味があるのか分からないが、まあ結婚したのだからそんなものだろう。
つやつやに磨かれ終わったアルマは脱がせやすい夜着の上に厚手のナイトガウンを着せられた。領主の妻の部屋から、扉続きのジグルドの主寝室に入って寝台で待機する。
初めては痛いと聞くがアルマは痛みには強い方だし、幼少の頃そういう店で働いていたのでなんとでも誤魔化せる自信はある。
ジグルドの部屋はほんのりと良い匂いがする。深みのあるムスクの中に穏やかに溶けるサンダルウッド。書斎も同じ匂いがした。香油というやつかな、と、ぼんやり座っていると、隣の部屋からなにやら口論の気配がする。耳を澄ますと薄い扉からジグルドとイゾルデが言い合っているのが聞こえる。
「―――の娘は、いつ追い出すの。甘い汁を啜る上手さはあの卑しい男そっくりだこと」
「お祖母様の言う通り、父親のせいで苦労してきた娘です。
正式に迎えることが難しいのは理解しています。だが私はマリーを追い出すつもりはない。当主として、それくらいの裁量はあると思っている」
「わたくしが不愉快だと言っているの。だいたい、あの、悪魔のような気味の悪い目……ただでさえ困難なウィンターハーン領に、これ以上縁起でもないものを増やさないで頂戴」
「お祖母様、言葉が過ぎます」
「あの悪魔の娘の次は、辺境伯家のなんたるかも分かっていない嫁。あの男のせいで由緒あるウィンターハーン家は汚れるばかりだわ」
「お祖母様。アルマは私たちの要望を受けて来てくれた祈祷師ですよ」
「失礼しまーす」
扉を開けて顔を出したアルマをふたりの鋭い視線が刺す。
「………アルマさん。盗み聞きなど、淑女のすることではありません」
「はい。そう思いまして、丸聞こえなのを進言にあがりました」
「………寝室から、許可もなく夫の部屋の扉を開けるなんて、無作法ですよ。我が家に入った以上、最低限のマナーは身につけていただくわ」
「はい、ご指導ご鞭撻よろしくお願いします」
へらっと笑ってみせると、イゾルデは不愉快そうな顔で部屋を出ていった。
ジグルドと部屋に二人残され、沈黙が降りる。
暖炉のケトルがしゅんしゅんと湯気をあげている。おそらく口論が始まってからメイドが部屋を出されてそのままなのだろう。
「お茶、淹れましょうか?」
そう提案すると、ジグルドは頷いてソファに身体を沈めた。
「みっともないところを見せた。
……マリールイーズについては、聞いているか」
「あ、はい。……北棟にいらっしゃる方ですよね」
閣下のガチのアレですよね、と言いそうになって、アルマは言葉を選んだ。
ジグルドが反論を許さない口調で言い放つ。
「そうだ。聞こえていたようだが、私はこれからもマリールイーズを城に住まわせる」
「はい」
「あなたの一存で追い出したりはできない。仲良くやれとは言わないが、虐待は許さない」
「承知しました」
そんなことは、夫に懸想しているか、夫の財産に執着している妻の仕事である。アルマは祈祷師として働きに来ているのだ。そんな暇はないし、可愛い女の子を虐める趣味もない。
ジグルドが訝しげな顔をする。
「…………何か言うことはないのか」
「言うこと? なにかありましたか」
わたしという妻がありながら、とかそういう?
「………あれの母親は、ゴーツ王国からの移民だ。聞いていないのか」
「マリールイーズはゴーツ王国に繋がりが?」
「そんなことはないはずだが」
「施政に口を出してくるんですか?」
「そんなことはしない」
「じゃあ、構わないんじゃないですか?」
アルマが首を傾げながらカモミールティーを差し出すと、ジグルドは拍子抜けしたようにそれを受け取った。
「………………そう、か」
なるほど。神殿出身のアルマがゴーツ人を忌み嫌うと心配したのか。
いやあ、閣下。
普通はなに人かとかより、夫の恋人というのが問題だと思いますよ。大丈夫ですか?
「わたしもお茶、頂いてもいいですか」
「ああ」
予備のカップに同じものを淹れる。
甘い香りが鼻に抜ける。
美味しい。蜂蜜欲しいな。
ハーブティーは中央神殿でもよく飲んでいて、蜂蜜をたっぷり入れるのがアルマの贅沢のひとつだった。
しばらく暖炉の火を眺めていたジグルドがアルマに向き直る。
「……子はできていなかったんだな」
「はい」
うん。こういう情報が筒抜けって最悪だな。
「今日から寝室を共にする。
……………その前に、あなたに言っておくことがある」
そう言ってから、ジグルドは長い睫毛を伏せた。また部屋に沈黙が降りる。
何か逡巡しているジグルドの様子に、アルマはぴんときた。
ははーん!? あれだな!
僕には他に愛する人がいる的な!
君を愛することはできない的な!
「………その、こんなことを言われても、あなたは戸惑うだけかもしれないが―――」
つい先程「剣の露と消えろ」とまで言い放ったジグルドが、もごもごと言葉を濁している。
妻を大事にするはずだと言ったマークやマリールイーズの言葉が頭に浮かぶ。もしかして、一応妻だし、傷つけると思ってくれてるのだろうか。
考えてみればジグルドだって気の毒なもんだ。顔も良くて身分もあって、なにが悲しくてアルマと結婚せねばならんのか。
二十年近く祈祷を放棄したこの土地はおそらく、祈祷さえ再開すれば元に戻るという状態ではない。実りが少なくなって放棄された畑は荒れ、鉱山が閉鎖されて技術者は減り、食糧の行き渡らない地域の治安は荒れてしまっただろう。
それでも、父親の尻拭いをさせられているこの若き辺境伯は、いま打てる手を、ひとつずつ、必死に打っているのだ。その一環が、アルマとの結婚。
責務に真摯な人の姿勢は、いつもアルマの好感度を容易く押し上げる。
「閣下」
口元を右手で押さえていたジグルドの視線が上がる。
「わたしも閣下にお話しておきたいことがあります」
「なんだ」
「ウィンターハーン家は、クリストファー様が継がれます。ということは、わたしは跡継ぎを期待されていないということですよね?」
「………そうだ」
アルマは、男が女を抱くのに愛情など要らないことくらい知っている。祈祷を目的に迎えられたついでとはいえ、肩書きが妻になるのだから、この身体も好きにすればいいと思っていた。だが―――
「子どもが必要ならまだしも、そうでないなら、愛もないわたしたちには意味のない行為です」
「………意味のない行為か」
国教であるドレイン教は一夫一婦制を定めている。原則として離婚はできず、太いコネと多額の献金により結婚を白紙撤回するか、伴侶が死亡するかしなければ、新しい伴侶を迎えることはできない。体面を気にする王侯貴族には厄介な規範だ。
ただし王侯貴族は三年の間に子が産まれない場合に限り二人目を娶ることができる。アルマが子どもを産まなければ、この男は女性をもうひとり正式な妻にできる。
三年待てばマリールイーズは十八だ。
こんな百戦錬磨な顔で、本命の女の子には手を出さず成長を待っていたのだ。チャンスくらい残っていなければ気の毒ではないか。
「………私の相手をするのは嫌なのか」
「そんなことないですよ。お代はたっぷり頂いてますので」
「………………」
「閣下は超絶イケメンですしね!」
笑顔で親指を立てるアルマに、ジグルドの顔が険しくなる。
なんで。褒めたのに。
嫌かどうかって言われたら嫌なのに、大人だから我慢して笑顔キープしてるのに。
だって結納品を全部換金して嫁いできたのだ。閨を拒むなど、信義に反する。
笑顔キープのアルマに、ジグルドは苦々しく言った。
「………………あなたは、どうしたいんだ」
「はい?」
「夫婦らしいことをしたくないのなら、あなたは、私の何になりたいんだ」
「何って………」
えっ? いや、閣下がお義理でわたしを抱く必要はないってだけで……
えっ、わたしに決定権あるの??
「あなたには、快く祈祷をしてもらわなくては困る。私の一存で与えられるものなら与えるつもりだし、譲歩できることはするつもりだ」
「………そうですか……」
まだ一日しか一緒にいないけれど、会う前から失礼極まりなかったアルマに、ジグルドは誠実に対応していると思う。
アルマは、できるなら結納品の代金分は働きたいし、誠実さには誠実さで返したい。
―――本当は、結婚したのだから妻としても心砕こうと思っていた。他に女がいないなら。
「どういう関係になりたいかは、今は思いつきませんけど……とりあえず、できるだけお話する時間をとっていただくことは可能ですか」
ジグルドは多分、噂ほど怖い人ではない。
アルマはこの土地のことを殆ど知らないし、きっとジグルドも祈祷のことはよく分からない。ちゃんと話し合って、良い計画を立てて、この土地がもっと暮らしやすくなるといい。
目的が同じなんだから、そこそこ良好な関係を築けるのではないだろうか。
「……分かった。そうだな。私たちはお互いのことを知らなすぎる」
「はい」
過ぎた要望だと切り捨てられなかったことにほっとして、顔の筋肉が緩む。
「じゃあ、わたし、自分の部屋に戻りますね。
おやすみなさい」
「………おやすみ」
ブリキの人形などと言ってしまったが、ジグルドはちゃんと挨拶を返してくれる。
初対面の人間としては上々だと、アルマはその日は上機嫌で眠りについた。