第一話
気付いたときにはすでにここにいたからどうやってそれ以前のやりとりを咲夜は知らない。
おマヌケにも運ばれている間ずっと意識を失っていたということだろう。わからないが身体も冷えてるし、白衣も少し汚れているから、突然ここに降って湧いたわけじゃなさそうだ。
さてさてどうしたもんかしらね~。
ため息をつきながら壁に寄りかかる。背中にはひんやりした感触が拡がった。寒さをしのごうと身体を小さくし膝を抱え込む。こんなことならパンツスタイルの白衣を着とけば良かった。今着ているのはワンピースタイプだ。パンツタイプと比べるとやっぱり動きづらい。
おそらくは変質者扱いだったんだろうな。よくわからないが、ぱっと見この世界は中世ヨーロッパの様に感じる。考えたくないが自分の働いている病院で地震があったことは確かだ。そこで助け出された記憶はないし、何より海外旅行に出た覚えはない。まっ、それはすでにここで白衣を着ている自分が証明している。
ひょっとして、、、と思うところはあるもののなるべく考えたくない。あぁこれが夢オチだったらどんなに素敵だろう。
そんなことを考えながら咲夜はもう一度膝を抱えなおした。
・・・寒い。
膝に額を押し付けるとなんだか涙が出そうだった。涙をこぼさぬように目を閉じる。
-異分子だな。この世界のものではない。-
顔を伏せていた咲夜が暖かな気配を感じると同時に頭に声が響いた。それは高すぎず低すぎず、男の声のようであって女の声にも聞こえた。
ビックリして顔を上げるとそこには真っ白な獣がいた。狼の様でもあり、ライオンの様にも見える。
美しい藍色の瞳が真っ白な体躯の中でひきたっていた。さらに身体を包むように淡く白色に周囲が光っている。
何も言えず咲夜が見つめる中、獣は緩やかに頭を垂れると咲夜との距離を縮める。
-ここはそなたの生きる世界とは違う。空間の狭間に落ちたな。よくつぶれずにこの世界にたどり着いたものだ-
声はするのに獣の口元は一切動かない。まるで頭の中に他の誰かがいるように咲夜は感じていた。
-さて、どうする? ここにはお前を知る者はいない。だれも慈悲をかけてくれる者はいないぞ。本来ならばここには存在してはならない異分子だ。お前は偶然にも空間の狭間に落ち、新たな空間に渡ってきた。これはあくまで偶然が成したこと。もう元の世界には戻れまい。死を望むより厳しい世界が待っているやも知れぬ。それでもここで生きるか?-
獣の表情は変わらない。まるで彫刻の様に微動だりせずたたずんでいる。
咲夜は自分の血が逆流するような熱を感じた。身体の芯は熱いのに、喉をとおる空気は恐ろしく冷たく、声が出なかった。
戻れない。
その現実は大きな衝撃となって押し寄せる。なぜだか解らないが獣の語ることは紛れも無く事実だと確信した。しかし咲夜はまだそれを受け止めることができなかった。
ただひとつだけ解ることがある。
「私は自殺はしないわよ。」
ようやく出た言葉は震えていたが、しっかり音となって出た。その言葉にわずかながら獣の表情が動いたように見える。
咲夜は母を幼くして亡くした。娘を置いて死ぬ苦しさは母の瞳から感じることができた。泣きじゃくる咲夜の頭をなでながら、か細い声で「がんばれ、がんばれ咲夜。」そうささやいた母の言葉を忘れない。そしてまた甥もとある事情で先立たれ、咲夜の心に深い傷となっていた。
看護師になってからもたくさんの永遠の別れを見て来た。
生きたいと望みながらも去っていくその想いを何度も目にした。世の中には多くの人が自らその命を絶つ。でもその一方で、望みながらも願い届かずその命を落としていく人がいる。なぜ人は平等ではないのか、その問いに対する答えは永遠に得られない。
自殺は自分を創ってきたその全てを裏切る行為だ。
だから決してしない。それは昔からずっと考えていたこと。
もう戻れないというならば、この想いだけは決して忘れてはいけないのだ。それがきっとあの世界で生きてきた証拠なのだから。
「たとえすぐに殺されることになったとしても自ら死は選ばない。」
今度は上擦ることなく声が出た。ぎゅっと咲夜が白衣を握り締めるとその手に獣が口元を寄せた。
「なっ何?!」
-手を伸ばせ-
言われるがままに咲夜が手を伸ばすと、まるで撫でるように指先から肩にむけて右腕を獣の口元がなぞる。その口先は触れてはいない。触れるか触れないかのわずかな距離を保ちながら暖かな空気が咲夜の右腕を包んだ。