一、愛
和歌山県那智勝浦町、狼煙山遊園にはその石碑はあります。ノルマントン号事件が起きてから50年の節目に、亡くなられた方の娘さんが建てたものです。地元の人たちでさえ、その存在を知っていても、どうしてここにその碑があるのか考える人は少ないのが現実です。この物語は、あの日、あの時代の人たちの未来へ馳せる思いを紡ぎ、その碑にしっかり刻まれた一人の男の足跡を伝えるものです。
良千代さん、あなたがこの手紙を読んでいるということは、元気に成長されたのでしょう。とても嬉しく思います。穏やかな波の音が聞こえる狭く暗い部屋の中、小さいろうそくの火をたよりに私は今手紙を書いています。
こんにちは。私はあなたの叔父、八谷太一郎です。数カ月前まで、あなたを毎日見ていました。私からは「はじめまして」というのが変ですが、未来のあなたにとってはしっくりくるでしょう。
私はもう長くありません。兄、いや日本国民の無念を晴らすため、和歌山、そしてその後ここ横浜へ来ました。私のことを応援してくれる人が増えてきた一方、イギリスを敵に回す気かと命を狙うものも現れました。昨日は、刃物を持った知らない男たちに囲まれてしまったところを、地元の漁師さんたちに助けてもらいこの部屋にたどり着きました。しかし、また見つかるのも時間の問題でしょう。
書き終えたら明日の朝早くに、おたえさんのところに送ります。彼女は厳しい人ですが、心の優しい女性です。そして、種次郎の死を私の父と同じように悲しんでいました。あなたが、この手紙の意味を分かるようになったら渡してもらうよう言づけておきます。
あなたの成長したその姿は見られませんが、親愛なる良千代さんに、あなたの父であり、私の兄・種次郎の足跡を伝えるため、筆をとります。
明治一八年、兄は肥前鉄鋼の御令嬢、いとさんと結婚しました。あちこちで大きな船が造られるようになり、その部品を作っているようでたいそう儲かっている会社の娘さんでした。それはそれは美しい人で種次郎にはもったいないと近所で話題になっていたほどです。
兄は佐賀を出たがっていたため、結婚するつもりはありませんでしたが、私たちの父、つまりあなたの祖父である庄兵衛が強引に話を進めました。
良い縁談が結べたと、父は喜んでいました。結婚式の日、町は祝賀ムードに包まれ、色とりどりの提灯が飾られ、どこからともなく聞こえる祝いの音楽が人々を楽しませていました。しかし、兄の表情はどこか暗く、周囲の喧騒が彼の心の中の葛藤を消すことはできませんでした。ただ、この結婚を機に家業の八谷服飾履物店を継ぐとしぶしぶ決意することになったのです。
町の大通りに目を引く木造の建物があり、ヒノキの扉と店名が掲げられています。中には色とりどりの袴と草履が並んでいました。周りに同業者が増え売上は落ちましたが、裕福な暮らしをしていました。
それからまもなくして、良千代さん、あなたが生まれました。いとさんは、あなたを初めて抱いた時涙を流して喜びました。毎日頭を撫でながら「大きゅうなりなっせ」とほほ笑んでいたのが忘れられません。
そして兄にも変化が訪れました。あれほど家業を継ぐのが嫌だと言っていた彼が
「この店ば大きゅうして良千代ば立派に育てる」
と語るようになったのです。その姿を見て私は兄を頼もしく思いました。
もともと佐賀一ではないかと思うほど高い技術をもっていた兄。精を込めて作った彼の草履は飛ぶように売れました。お店の先を案じていた父にとっても、それは一筋の希望の光だったのです。
しかし、そんな幸せに満ちた時間は長くは続きませんでした。いとさんが流行り病で亡くなってしまったのです。あなたが生まれてから三ヶ月後のことでした。
兄は深く落ち込み、それまで何十、何百と作り上げてきた素晴らしい草履を、あの日以来全く作る気を失い、何をするでもなくただ横になって過ごす日々。
「おい、いつまでそこで寝とるとか。それでいとさんが帰ってくっとや?」
父は怒鳴り、ほうきで背を向けている兄を何度も叩きました。兄は叩かれるたびに体をびくっとさせますが、痛いとも言わず、ただお店の奥でうなだれています。父の気がすんで叩くのをやめると、そのまま何もなかったかのように薄暗いその場所で兄は寝続けるという日々が続きました。
そんなある日、常連の四郎さんが店に来て父に言いました。
「庄さん、あの川んほとりの商売人んとこばもう行ったとかい?」
「変わった魚でも売っとるとかい?」
父は興味なさそうに答えます。
「いや、それが変わったもんっちゅうのはあってんばってんよ、なんでも東京から来た男だっちゅうて、ここいらじゃ手に入らんもんば売っとるらしかばい」
「そうね」
とそっけなく返したその時、店の奥から川のほとりへ飛び出していく男が目に入りました。
兄の種次郎です。
「おい、そげんとこへ行くなら、草履ば作れ!」
父は聞いたことがないほどの大きな声で言いましたが、兄は一直線に向かって行ったのでした。
しばらくして兄は何か考え事をしている様子で下を向きながらゆっくりお店に帰ってきました。父はさらに大きな声で問い詰めます。
「どこに行っとった! 他人の商売が気になるくらいやったら、おめぇは草履ば作れ!」
兄は父を見つめ、ゆっくりとひざまずきました。涙をためながら、震える声で
「東京へ行かしてくれんね」
と言いました。
何か腹をくくったように言うと、多くの人が行き交うその場所で頭を黄色い砂利につけました。その裏には深い悲しみと不安が隠れていたと思います。
「何ば言っとるとか。店はどうする? それに良千代は? 東京に行くっちゅうていくら金がかかるとか? そげん遠くに行ってお前、それに……」
兄は父の話をさえぎり、顔を上げながら言いました。
「一年の時間ばください。店は必ず継ぎます。良千代には乳母のおたえがおります。帰ったら、しっかりと面倒ば見んもんやけん」
「お前は父の言うことが聞けんっちゅうとか?」
そう言う父はがたがたと震えています。
「先ほど、東京から来たっちゅう商人の履物ば見ました。草履やなか靴っちゅうもんば履いとりました。今、日本には多くの外国人が入ってきてこれまでの生活と変わってきよるっちゅうことです。いずれ草履はいらん時代が来るかもしれません。このままでは、その時に良千代に幸せな生活ばさせてあげられません。どうか父上、一年。一年だけ」
「何を申すか」
兄は厳格な父の教えを守らなかったことはただ一度もありません。そんな兄が言った言葉を聞き、私はこの後の悲劇を想像すると胸が苦しくなりましたが、何もできず、ただ黙って目を閉じるしかありませんでした。
またほうきを手に取った父は、やはりそれを大きく振り上げました。
次の瞬間、聞こえたのはほうきが兄の背中をたたく鈍い音———
ではなく厳格な父の涙ながらの声でした。
「わかった。必ず一年以内に帰ってこい」
これまで見ていた父とは異なる姿でした。少なくとも私が父と接してきた中で自分の考えを変えたのは後にも先にもこれが最初で最後です。
いとさんの死、生気を失った息子の姿、経営が傾きはじめた家業、老いる自分の体、そして息子への信頼や期待……
どんな思いで父はああ言ったのでしょう。そんなことを聞けるはずもなく、ただただ私も泣いて東京に行く兄を見送ることとなったのです。
あの時、必死に兄を止めていたならば……そう後悔しなかった日は、この三ヶ月で一日たりともありません。そうすれば憎き悪魔が船長のノルマントン号にも……
良千代さん、申し訳ない。
これが、兄・種次郎が東京に行くことになった背景と経緯です。