家出は00:30まで
手首から口を離すと白く刻まれた歯形の中に赤い鬱血痕が残った。数えるのも億劫な程の痕点のような噛み跡が、皮膚病の様にみっしりと裏表関係なく刻まれている。白くもなく日焼けしてもない、傷だらけの汚い腕はここ半年でだいぶ見慣れた。
月明かりの差し込む乱雑な部屋は、マニッシュ寄りのシンプルなデザインの家具や小物で溢れ、部屋の隅とベッドの間の半畳の隙間に少女が隠れるように踞っている様子は、見ていて痛々しい。
部屋の中に秘密基地を作ったかのように背の高い家具で囲まれた少女の目には生気がなく、腕を噛んでは痕をつける行為をしていなければ死体と見間違えてしまいそうだ。
少女が涎と噛み跡で汚れた腕から顔を上げる頃には、既に日付けが変わっていて、一階で眠る両親の寝息が聞こえてくる程の静寂だった。
少女が照明の電気を付け、彼女に染まり切っていない部屋が照らされる。お下がりといつの間にか増やされた服が9割を占める服。部屋を与えられた頃からある大きすぎて部屋を圧迫するベッドに、両親からのお下がりのマットレス。勿体ないからと与えられた兄と姉の趣味色の家具や雑貨類。通ってる理由すら分からなくなった大学の教材が散らばった床。リビングに置けないからと押し付けられた体操着やら記念Tシャツやらが押し込まれた箪笥。
両手数える程昔に初めて自分一人でお店に行って買った、薄い水色のワンピースを頭から被る。月明りの柔い光でも透けてしまいそうな、風通しが良すぎる薄い水色のワンピース一枚じゃ風邪をひくと分かっていても、これが良かった。背が伸びて、踝まであったスカートがひざ丈に変わったけれど、それでも自分の意思で初めて手に入れた、これだけを着たかった。
スマホを充電に繋いで、裸足のまま外に出る。寝ていると分かっていても、やっぱり両親と居たくなかった。玄関を開けた瞬間に吹いた肌を突き刺す秋の夜風が心地良い。自分以外の温もりが無いって、冷たく優しく教えてくれる、この寒さが欲しかった。裸足で履いたスニーカーがしっくりこない。靴下を取りに行くのも面倒だから軽く蹴って後ろに避ける。癖毛を縛るゴムも取って鍵のフックに引っ掛けたら、生まれて初めて、本当に自由な気がした。
風が強くて寒いけれど、鳥肌が立つこの寒さが落ち着いた。皮膚の冷たい感覚がボヤけても、風に煽られて二の腕を擽ぐる髪の感覚だけはよく分かって、幸せだとは思えないけど、やっと安心できた。
ぺたぺたと、ひとりぼっちの世界が心地良くて、ただアテもなく足を運ぶ。緩やかな下り坂、日が沈み切った塾帰りの時間帯と暗さは変わらないから街灯ひとつない田舎でも、肝試しでもなんでも無く、安心とはまた違う、無害な日常の様に夜道が歩けた。怖いモノはもう寝てる。足の裏の痛みが現実だと教えてくれるから、夢じゃない喜びが私の足を運んでくれる。
脇に逸れ、田んぼに囲まれた古いアスファルトを踏み締める。自転車で通るべきじゃない穴ぼこ道でも、今は大事な家出道。稲が刈られた寂しい景色は、遮る物がないから風が良く突き刺さる。二の腕を掴めば、自分の体温がよく分かって、生きてる実感が湧いた気になった。言われたことしか出来なくても、言われた事すら出来なくなっても、生きてるんだって思える、自分の体温が分かる冬が、もうすぐそこまで来ている。
いっそ温もりが奪われた世界で凍死してみたいと思う私は、多分健全じゃない。きっと、本当は自殺志願者だとか、精神病だとか、メンヘラだとか、発達障害だとか、なんでもいいからレッテルを貼ってほしいだけ。出来ないって言うことすら出来ない怖がりで、逃げるのも出来ない生きた生ゴミ。
そんな都合の良いことなんて無いけれど、誰かに出来なくて良いよ、って言われたいだけの穀潰し。もう、ずっと昔から分かりきった事。努力の仕方が分からない出来損ないじゃぁ、今更何もできやしない。
坂を登る。一人だけの世界を見下ろしたくて。家々の明かりが消えて、静かな住宅街を。ひとりぼっちのレッテルが貼られた私だけの世界を。風に背中を押される。応援されているようで、自然と足が速くなった。足の痛みも忘れて坂を登れば、月と目が合って、その白さに引き寄せられる。
坂の天辺に出ると、見慣れた通学路。ああ、そうだ。此処は、私が通ってきたこの道は、自主練用のランニングコースだ。私は、やっぱり、決められた道しか歩けない。
後は下るだけだと言わんばかりに風が私の背中を押す。自然に人間の意思なんて関係ないと分かっていた筈なのに、頬を伝う水から奪われる温もりばかりが憎らしくてたまらない。坂の途中にある我が家の明かりが付いている事に気が付いて、歯形がまだらに残る腕を強く握り締めた。