建国祝賀祭襲撃事件
主な登場人物
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指している。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト(セレンディーネ)…エレンツ帝国の皇女。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしている。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な女性。 十九歳。
シリウス(レオフィリウス)…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ティティス…セネトの腹違いの妹。 とても傲慢で自分勝手な性格。 家族内で立場の弱いセネトの事を見下している。 十七歳。
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
ルフト…宮廷魔術師長サリアを母に持ち、魔術師の一家に生まれた青年。 ロナードたちとの従兄弟に当たる。 二十歳。
ナルル…サリアを主とし、彼女とその家族を守っている『獅子族』と人間の混血児。 とても社交的な性格をしている。
ネフライト…第一側妃の息子でティティスの同腹の兄。 皇太子の地位にあり、現在、次のエレンツ帝国皇帝の座に最も近い人物。
エルフリーデ…宮廷魔術師をしている伯爵令嬢で、ルフトの婚約者。 ルフトの母であるサリアの事をとても慕っている。
カルセドニ…エレンツ帝国の第一皇子でセネトの同腹の兄。 寺院の聖騎士をしている。 奴隷だったシリウスとハニエルを助け、自由の身にした人物。
この日は、エレンツ帝国の建国を祝う式典が行われる。
式典には、アルマースに住まう多くの人々をはじめ、皇帝とその家族、政治や軍部の幹部等を中心に、この国を担う錚々たる顔ぶれが一同に会する。
「流石に、皇太子とティティス皇女は、式典には間に合わなかったみたいね」
黒を基調として、銀色の糸で細やかな刺繍が施された、帝国軍の軍服に身を包み、何時も以上に凛々しい姿のルチルが、周囲を見回しながらセネトに告げる。
「転送装置が停止しているのもあって、本土へ渡れないのかもな」
セネトは、苦笑いを浮かべながら言う。
「良い気味」
ルチルは、意地の悪い笑みを浮かべながら、嬉しそうに言う。
近くには、何の集まりなのか分かっていない、幼い皇子や皇女たちが声を上げて、楽しそうに、無邪気に追いかけっこをしている……。
「皇太子と皇女が揃って欠席では、第一側妃も大きな顔は出来ないだろう」
背後から、若い男の声がしたので、セネトは徐に振り返ると、そこには、黒色の短髪、灰色掛った青い双眸、この国の者としては背も高く、ガッチリとした体付き、良く日に焼けた赤銅色の肌が特徴的な、精悍な顔立ちをした、年の頃は二十代半ばと思われる、白を基調とした軍服を着た人物が姿を現した。
「兄上!」
セネトは、嬉しそうな表情を浮かべつつ、同腹の兄を見る。
「久しいな。 セティ。 元気そうで何よりだ」
セネトの同腹の兄カルセドニ皇子は、穏やかな笑みを浮かべ、セネトにそう挨拶をして来た。
寺院の聖騎士である兄カルセドニは多忙なため、新年の祝賀祭で顔を合わせて以降、公の場で顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。
「そちらこそ。 相変わらず忙しいと伺っています。 無理などはなさっておられませんか?」
セネトは穏やかな口調で、カルセドニ皇子に問い掛ける。
「忙しいのはお互い様だ。 お前の方こそ無理をしてないだろうな?』
カルセドニ皇子は、苦笑いを浮かべながら問い返す。
「ご心配なく。 ご覧の通り、至って健康ですよ」
セネトはニッコリと笑みを浮かべ、カルセドニ皇子に答えた。
「お久しゅう御座います。カルセドニ殿下」
ルチルは恭しく首を垂れながら、カルセドニ皇子に挨拶をする。
「ルチルか。 久しいな。 妖光花の被害に遭われた母君の具合はどうか?」
カルセドニ皇子はニッと笑みを浮かべ、穏やかな口調でルチルに問い掛ける。
「周囲の者たちが適切に対処してくれたお蔭で、健康を取り戻しました。 その節は、、多くの方々にご迷惑とご心配をお掛けし、大変申し訳ございませんでした」
ルチルは首を垂れたまま、真剣な面持ちで、カルセドニ皇子に言った。
「気にするな。 普通は毒花とは思わないだろうからな」
カルセドニ皇子は、穏やかな口調でルチルに言う。
「仰る通りです」
ルチルは、苦笑いを浮かべながら返す。
「母君は、白粉にまで手を出していなかったから、回復が早かったのだろう。 花と白粉の両方ともだった第一側妃は未だに体調が思わしくないらしい。 今日も式典だけ参加して、夕方からの建国祝賀バーディーには来ないそうだ」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で語る。
「第一側妃は人一倍、美に対して貪欲な人ですからね」
セネトが苦笑いしながら言うと、
「全くだ」
カルセドニ皇子は、頷きながらそう答えてから、
「見て見ろ。 あんな幼い皇女でさえ、自分を美しく飾り立てる事に余念がない。 第一側妃ともなれば、誰よりも人の目を気にするのは当然だろう」
自分の近くで、他の皇子たちと遊んで居る、幼い妹皇女に目を向けながら、語った。
「そうですね」
セネトは、複雑な表情を浮かべながら言う。
「そう言えば、レオンの弟と婚約をするらしいな?」
カルセドニ皇子は、ふと思い出した様にセネトに言うと、
「まあ、お互いの利害が一致した結果です」
セネトは、苦笑いを浮かべながら、少し歯切れ悪く答える。
「私はまだ、レオンの弟を知らないが、お前の意志で選んだ相手ならば、とやかく言う気は無いのたが……何も婚約までしなくても良かったのではないか?」
カルセドニ皇子は、少し心配そうにセネトに言う。
「今回の婚約式の一件もあります。 のんびり構えていはまた、何処の誰かも分からぬ、第一側妃の息の掛かった者と婚約させられるかも知れません。 そうなった時、上手く逃げられる保証はありませんから」
セネトは、真剣な表情を浮かべながら語る。
「可哀想なのは寧ろ、セティの都合に付き合わされる羽目になったロナードの方だわ」
ルチルは、チラリとセネトを見てから、意地の悪い表情を浮かべながら言う。
「なっ……」
ルチルの言葉に、セネトは思わずたじろぐ。
「セティが困っていると知って、『嫌だ』とは言えなかっただけかも知れないのに」
ルチルは相変わらず、意地悪な表情を浮かべたまま、戸惑っているセネトに言うと、
「そんな事は……」
彼女は歯切れ悪く、口籠らせながら言う。
(確かに、そこまで考えもしなかった)
セネトは、複雑な表情を浮かべながら、心の中で呟く。
「『そんな事は』……なに?」
困っているセネトの様子を見て、ルチルは益々、意地の悪い表情を浮かべながら言う。
「そう言うルチルはどうなのだ?」
カルセドニ皇子は、ニッコリと笑みを浮かべながら言うと、それを聞いたセネトは思わず、表情を引き攣らせ、その場に固まる。
ルチルは男勝りな性格である為、昔から『女らしくあれ』とか『美しくあれ』などと言うニアンスな言葉を向けられる事に抵抗を持って居た。
騎士になってからは、ドレスなど似合いそうも無い筋肉質な体付きであるが故に、益々そう言う言葉に反発心を持つ様になって居た。
カルセドニ皇子は今、ルチルにとっての地雷を踏んだのだ。
「そう言うカルセドニ様は、どうなのですか?」
ルチルは、ピキピキと顔を引きつらせながらも、笑顔を浮かべながら問い返す。
相手が皇子だから我慢しているだけで、部下の兵士たちなどが、その様な事を言った途端、忽ち怒りの形相になり、拳で思い切り殴られる案件だ。
「ふむ。 私も多忙を理由に、その辺りを疎かにして婚期を逃しつつあることは認めよう。 しかし、こればかりは、相手が居るからな。 私一人で決められる事では無い。 何処かに良い相手が居れば良いのだが」
カルセドニ皇子は、特大の溜息を付くと、『やり切れない』と言った様子で愚痴る。
(あわ――ッ! 兄上っ! 『婚期』とか『良い相手』とか、そう言う事を、ルチルの前で言っちゃ駄目だ!)
セネトは青い顔をして、アタフタしながら、心の中で呟くと、恐る恐るチラリとルチルの方へと目を向けると、案の定、彼女は更に怒りのオーラを漲らせて居た。
カルセドニ皇子が態と言っている訳では無い事は、彼女も分かって居るので、必死に堪えている様だが、今にも爆発しそうな感じだ。
(ヤバイ。 ヤバイ! 誰か~!)
セネトは、焦りの表情を浮かべ、心の中でそう絶叫しながら、助けを求める様に周囲を見回して居ると、ギベオンが此方へ向かって駆け寄って来るのが見えた。
「お話中、失礼致します」
ギベオンは、カルセドニ皇子らにそう声を掛けて来た。
「どうした?」
セネトは心なしかホッとした顔をして、ギベオンに問い掛けると、
「皇帝陛下と第一側妃様がそろそろ、ご到着なされるそうです」
ギベオンは、事務的な口調でそう報告する。
「そうか。 ならば父上を出迎えねばなるまい」
ギベオンに、父である皇帝の到着を教えられ、カルセドニは穏やかな口調でそう答えると、
「では。 セティ。 ルチル。 私はこれで失礼する」
セネトとルチルにそう挨拶をすると、足早にその場から立ち去った。
次の瞬間、ベキッという鈍い音がして、近くに植えられていた木が大きく揺れ、葉がハラハラと舞い落ちる。
セネトは驚いて振り返ると、ルチルがものすごい形相で木の幹に拳を叩き込んでおり、心なしか、木が傾いている様に思える。
近くで遊んでいた、幼い皇子たちもそれに恐怖し、顔を青くしてその場に固まってしまっている。
(み、見なかった事にしよう……)
セネトは、背中に得体の知れぬ冷や汗を流しつつ、心の中でそう呟くと、カルセドニ皇子の方へと目を向けた。
皇太子である第一側妃の実の息子である、ネフライト皇太子では荷が勝ちすぎると言う声は、以前から至る所から聞こえて来ていたが、今回、勝手に皇帝の転送装置の鍵を持ち出し、帝国本土から抜け出していた事に加え、アルスワット公爵家の縁者に危害を加えたと事は、周囲から大きな批判を受けている。
幼い頃に帝位継承権の破棄を、第一側妃らに一方的に迫られ、それを飲まざるを得なかったカルセドニ皇子だが、彼を皇太子に推す諸侯らの働きかけにより、無効になる可能性すら出て来た。
そう言う世間の流れを読み取り、カルセドニ皇子は本来の地位を取り戻そうと、以前以上に精力的に動き回っている。
こういう公の行事に頻繁に顔を出す様になったのは、出来の悪いネフライト皇太子よりも、年齢的にも皇太子に相応しい人物がここに居るのだと、周囲に知らしめる為でもあろう。
そうこうして居る内に、一台の黒塗りの馬車が会場に到着した。
黒塗りに金の彫刻があしらわれた馬車の横側には、頭上に王冠を頂いた、右手には杓、左手には本を持つ、黄金の双頭の獅子が描かれている。
これが、エレンツ皇家の家紋でもある。
因みに、エレンツ帝国の国旗は、赤地に中央には世界樹と呼ばれる木が配され、それを挟む様に黒い獅子と白い竜が向かい合う構図になっている。
獅子は言わずと知れた、この大陸に古より住まう獅子族を意味し、竜は魔法帝国を統治していた皇族の家紋に由来している。
そして、世界樹の様に力強く世界の大地に根を張り、世界を覆う程に天に向かって枝葉を広げている様に、末永く国家があり続ける事を願う事を意味している。
馬車が壇上の近くに横付けされると、馬車の扉が開き、中から白髪混じりの黒髪、灰色掛った青い双眸、立派な鼻髭を生やした、この国の者としては背も高く、元・軍人と言うだけの事はあり、ガッチリとした体付の赤銅色の肌が特徴的な、精悍な顔立ちをした人物が姿を現した。
この人物こそ、セネトたちの父、ランサイト・ヴァン・ルーカス・エレンツ皇帝である。
その後に続いて、皇帝に手を差し伸べられて出て来たのが、ゼフィール第一側妃である。
ゼフィール第一側妃は、長い少し癖のある黒色の髪、深い緑色の双眸を有し、陶器の様に白く滑らかな肌に中肉中背、気品の漂う、御年四〇歳には見えぬほど若々しく、とても綺麗な女性である。
まだ、妖光花の毒の影響が残っているのか、顔色は化粧で誤魔化しているが、やつれている様に思える。
皇帝が姿を現した途端、会場からは割れんばかりの歓声と共に、『皇帝陛下、万歳』『エレンツ帝国、万歳』『帝国に栄光あれ』と、皇帝と帝国を称える人々の声が響き渡る。
皇帝は、民衆たちの歓声に応える様に、片手を挙げる。
他の皇族たちも、皇帝と第一側妃の後に続き、壇上へと向かい、皇帝が壇上の上に上がってしまうかしまわないかと言う時……。
何処からか悲鳴が起き、瞬く間に会場に緊張が走った。
会場は瞬く間に大混乱に陥り、集まった人々は悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らしたかの如く、四方八方に逃げ惑う。
「皇帝陛下をお守りしろ!」
護衛の兵たちの緊迫した声が、会場に響く。
「何が、どうなっている?」
波のように押し寄せて来る人々を押し退けながら、少し離れた場所に居たギベオンは、必死に壇上の側に居たセネトを守ろうと進む。
「ギベオン!」
人々に揉みくちゃにされつつ、ルチルが少しフラフラしながら、ギベオンに近付いて来た。
「大丈夫か?」
ギベオンは、人々に押し流されそうになって居るルチルの腕を掴むと、彼女に向かってそう言った。
「私は大丈夫。 それより、セティや陛下たちを守らないと……」
ルチルは息を整えながら、ギベオンにそう言った。
「と言われても……これでは身動き取れない。 大体、何が起きたんだ?」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべ、自分たちの前をまるで濁流の様になって逃げ惑う人々を見ながら、ルチルに問い掛ける。
セネト等が居る壇上は直ぐそこだと言うのに、とても近付ける様な情況ではなかった。
「私も分からないわ。 急に何処からか悲鳴が上がったと思ったら、こんな騒ぎに」
ルチルは、戸惑いを隠せない様子で、ギベオンにそう答えた。
今、この場で何が起きているのか、正確にそれを把握出来ている者は、殆ど居ないだろう。
集まった聴衆たちは、皆が逃げるので、自分も逃げなければならないと言う集団心理に陥り、訳が分らぬまま、ただ我武者羅に逃げ回っている様であった。
「ギベオン!」
不意に、ルチルが何かに気付いて声を上げたので、ギベオンはとっさに彼女が指差した方向に目を向けた。
どう言う事か、舗装されているレンガの下から、ボロボロな鎧を纏った骸骨兵士たちが現れ、別の所からは人々に紛れ、獅子族たちが雪崩れ込み、誰振り構わず片っ端から殺している!
会場に集まった人たちは、それを見て悲鳴を上げ、逃げ回っていのだ。
「何なのこれ!」
ルチルは驚愕の表情を浮かべ、青い顔をして呟いた。
そして、何処からともなく、若い男の声が響いて来た。
「はっはっは! 今日でエレンツ帝国も終わりだ!」
そう謎の声が言い終わると、会場に集まった人々の頭上を巨大な両翼を有した、黒いドラゴンが旋回し、ゆっくりと、人々の中に降り立った。
突如降り立った黒いドラゴンのその巨大さと迫力に、集まっていた人々は、ただ圧倒され、その場に立ち尽くしていた。
その背の上には、赤いマントを翻し、ライオンの鬣の様な真っ赤な髪を有した、二メートル近い長身、鍛え抜かれた鋼の鎧の様に屈強な体付き、ネコ科の動物の耳を生やし、髪と同色のライオンの尾を有した、顔や体に刺青がある大柄な男が、自分の胸の前に両腕を組み、仁王立ちして居た。
「あ、あれは獅子族?」
「アイツは、前にクーデターを起こしたゲオネスでは?」
「馬鹿な! 獅子族が我ら帝国に再び牙を向けると言うのか!」
近くに居た兵士たちが、戸惑いの表情を浮かべ、口々にその様な事を言っている。
「マズイ。 一番、恐れていた事態になってしまった」
ギベオンは、黒いドラゴンの背の上に居る人物を見ながら、焦りの表情を浮かべ呟いた。
「奴がゲオネス……」
セネトは、突如黒いドラゴンの背に乗り、自分たちの前に姿を現した獅子族の男を見ながら、表情を険しくして呟く。
このゲオネスと言う男は、獅子族の族長の息子の一人で、獅子族の中でも血気盛んな若者たちを纏める立場にあったが、彼等を御するどころか、自ら率先して人間の村や町で大暴れをしたり、傷害事件など問題行動を起こしていた問題児で、見かねた族長から一族を追放された後、血気盛んな若い獅子族を率いて、帝都で謀反を起こし、人々を混乱と恐怖に陥れた大罪人である。
「確か……国外の離島に収監されていたた筈では……」
近くに居た兵士が、戸惑いの表情を浮かべ、呟く。
「事もあろうに、建国祭と言う祝いの式典で、この様な暴挙を行うとは」
壇上の近くに居たカルセドニ皇子が、憤慨した様子で呟く。
「ゲオネスが脱獄したと言う知らせは聞いていたが、まさか、こうも早く、しかも前回と同じく、こうも堂々と宣戦布告をしてくるとは……」
セネトは、ゲオネスたちを見据えたまま、忌々し気に呟く。
集まった人々が物凄い勢いで逃げ惑い、行く手を阻まれてしまっている為、護衛の兵士たちが皇族たちや要人たちの下に来る事が出来な様だ。
獅子族はその名の通り、巨大な獅子に変化する能力を持っており、その身体能力は人間の比にならない程に高い。
兵士たちが右往左往している間に、人々の頭の上を飛び越え、皇帝や皇族たちの喉笛に食らいつく事など、そう難しい事では無い。
獅子族たちに周囲を取り囲まれてしまっては、逃げ様も無く、殺されてしまう事は明らかだ。
セネトとカルセドニ皇子は、近くに居た幼い皇族たちや、その母親である側妃たち、護衛の兵士達に声を掛けながら、急いで会場から脱する事にした。
「逃がすな! 皇族は一人残らず殺せ!」
セネト等の動きに気付いたゲオネスが、大声で近くに居た獅子族たちにそう命じる。
「行け! セネト! 弟たちを頼む!」
カルセドニ皇子は、背中越しにセネトに向かって叫んだ。
「すまない。 兄上」
セネトは沈痛な表情を浮かべ、カルセドニ皇子に言うと、
「弟妹を守るのは兄たる私の務めだ。 私に気にせず行け!」
カルセドニ皇子は、不敵な笑みを浮かべながら、セネトに言った。
カルセドニ皇子に促され、セネトたちが会場からの脱出を試みて移動していると……。
宮廷魔術師たちが控えていたテントの近くで、ガウンの様なゆったりとした服を羽織った、黒髪の背の高い若者が、呆然とした様子で立ち尽くして居るのがセネトの視界に入った。
「ロナード?」
セネトは思わずその足を止め、そう呟いた。
「どうしたの?」
自分の前を行くセネトが不意に足を止めたので、何とか人混みを抜け、ギベオンと共に彼の側に駆け付ける事が出来たルチルは戸惑いの表情を浮かべ足を止め、彼にそう声を掛ける。
「あれ、ロナード……じゃない?」
セネトの視線の先に、ロナードが居る事に気付いたルチルは、戸惑いの表情を浮かべたまま、呟く。
ロナードも宮廷魔術師長のサリアに同行して、この会場に来ていた様だ。
ロナードはどう言う訳か、石像の様に虚空を見つめたまま、突っ立って居る。
「ロナード!」
セネトは、一点を凝視したまま、恐怖に顔を引き攣らせ、石像の様に動けなくなってしまって居るロナードを見て、苛立った口調で呟くと、とっさに彼の方へと駆け出す。
「ロナード! 何をして居る! 死にたいのか!」
セネトは、ロナードの元へ歩み寄ると、彼の腕を掴み、怒鳴り付けるが無反応だ。
ロナードは一点を見つめている様だが、その視点は定まっておらず、顔からはすっかり血の気が失せ、恐怖に顔を引き攣らせ、微かに身を震わせ、立ち尽くしてしまっていた。
「おいっ!」
セネトは堪らず、ロナードを怒鳴り付ける様に声を掛けると、ガッと彼の肩を掴んだ。
すると、彼はハッとした表情を浮かべると、慌てた様子でセネトの方へと顔を向け、
「セネト……」
微かに声を震わせながら、掠れた声でそう呟いた。
「大丈夫ですか?」
ロナードの様子を見てギベオンは直ぐに、彼が普通の状態では無いと察して、心配そうに彼に声を掛ける。
「あ、ああ……。 だいじょう……」
ロナードは顔を青くしたまま、ギベオンにそう言い返そうとした瞬間、急に体の力が抜けた様にフッと足元から崩れ落ちた。
「ロナード!」
近くに居たセネトが慌てて、倒れそうになったロナードの腕を掴み、何とか顔から地面にぶつかるのを阻止した。
「済まない……幼い頃の事を思い出してしまって……。 体が動かないんだ」
自分を支えているセネトの腕を掴み、弱々しく語るロナードの手は酷く震えており、呼吸も浅く、早い……。
「行きましょう。 ここは危険です」
ギベオンは周囲を警戒しつつも、すっかり腰が抜けて立たなくなってしまって居るロナードを支えたまま、戸惑って居るセネトに声を掛ける。
「嫌かも知れませんが、緊急事態ですのでご容赦下さい」
ギベオンは、ロナードが自力で歩く事が難しいと判断すると、そう言うや否やヒョイと彼を軽々と抱え上げた。
お姫さま抱っこをされたロナードは、一瞬だけ驚きはしたものの、その事に対して文句を言う訳でも無く、自分を抱えて居るギベオンに小さな子供の様に縋りつき、相変わらず、酷く何かに怯え、顔からはすっかり血の気が失せ、身を震わせている。
獅子族と、何処からか現れた骸骨兵士たちは手当たり次第に人々を殺し、会場は凄惨を極めた。
何とかして、会場から少し離れた場所まで逃げる事が出来たセネトたちは、近くの馬小屋の中に身を隠し、やり過ごす事にした。
今、下手に馬車などを出せば、それこそ、獅子族たちの恰好の標的にされてしまい、忽ち取り囲まれて殺されてしまう……。
実際、判断を誤って軍の高官が近くに停めていた馬車に乗ってその場から逃げようとしたところ、忽ち獅子族たちに取り囲まれ、馬車を破壊され、中に居た人物は引き摺り出され、無残に殺される光景を目の当たりにしたばかりだ。
「大丈夫ですか?」
ギベオンはロナードの体を近くにあった積藁に凭れ掛けさせる様にして、彼をゆっくりと座らせながら、心配そうに声を掛ける。
ギベオンが、ここまで運んで来る間、ロナードは物凄く震えていて、目の前の光景を見たくないのか、彼の胸元に顔を埋めて、震える手で縋り付いていた。
怖くて、怖くて、堪らない……。
そんな彼の気持ちが、他の者にも手に取る様に伝わって来ていた……。
「ああ……」
力なく答えるロナードは、先程よりは幾分か顔色が良くなっている様に思えるが、まだ、恐怖心があるのか、その手は微かに震えている。
「……思い出したのは、『血の粛清』の時の事か?」
セネトは、複雑な表情を浮かべつつも、落ち着いた口調でロナードに問い掛けると、彼はとても辛そうな表情を浮かべ、頷き返した。
以前、ロナードの所在を探していた時、彼が幼い頃に『血の粛清』を経験した事を、セネトは知っていた。
『血の粛清』とは、クラレス公国で起きた、ルオン王国軍による市民への大虐殺事件で、その凄惨さは遠く離れた帝国にも知れ渡っている。
事の発端は、国民主権へ体制を変えようと試みていた、亡きクラレス公国の領主レヴァール大公の意志を継ぐ、大公の妻や友人、若手の政治家や諸侯らが、主国であるルオン王国からの再三の現状体制の維持の通知を無視し、国民主権への移行を続けていた事に怒ったルオン国王が、大公夫人を、国家転覆を企む罪人として逮捕しようとした事であった。
それに怒ったクラレス市民が、ルオン国王を批判する大規模なデモを起こし、デモ隊の規模は日に日に大きくなり、やがて彼等はルオン王国へ向かって行進をはじめた。
デモ隊は、隣国のマイル王国に迫る勢いであった為、ルオン国王は止む無く、自国の軍をクラレス公国に送り、暴動の鎮圧を命じた。
これが、惨劇の始まりである。
自国民であるデモ隊を守ろうと、クラレス公国の軍隊がマイル王国との国境近くで軍を展開。
隣国のマイル王国の軍隊と一触即発の事態になり、事態を重く見たイシュタル教会がクラレス公国の首都へ聖騎士団を派遣したが、首都へ入る事を拒むクラレスの兵たちと衝突。
聖騎士団はそのまま、クラレス公国の首都マケドニアへ雪崩れ込み、大罪人である大公夫人の拘束と言う大義名分を掲げ、それを阻止しようとした市民たちを虐殺。
事態を知り、首都へ舞い戻ろうとしたクラレス軍を、マイル王国の許可を得てルオン軍が、デモ隊と共に攻撃。
僅かに戻ったクラレス軍を、待ち構えていた教会の聖騎士団が壊滅させてしまう。
その後、統制が取れなくなった、聖騎士団とルオン王国の兵士達は、首都マケドニアで略奪と殺戮の限りを尽くし、罪のない多くの市民が犠牲となり、その混乱下で大公夫人も死亡。
首都のマケドニアは大火により、壊滅的な被害を受けた。
……と言うのが、十数年前にクラレス公国で起きた、後に『血の粛清』と呼ばれる、ルオン王国軍と教会の聖騎士団による、マケドニア市民の大虐殺事件である。
『血の粛清』の凄惨さは、人伝いに伝え聞いているが、実際にそれを経験した人たちにとっては、今も尚、心の奥深くに刻まれた、決して忘れる事の出来ない惨劇であろう事は、セネトらも容易に想像出来る。
ましてや、当時五歳くらいの幼い子供が、その時に受けた衝撃は計り知れない……。
当時見た光景、受けた衝撃は、幼かった彼の心を深く傷付け、心の奥底で決して消えない深い傷としてあり続け、何かの拍子にそれを思い出させては、彼の心を蝕んでいるのだろう。
「大丈夫だ。 僕たちが付いて居る。 ゆっくり深呼吸をして、心を落ち着かせるんだ」
セネトはロナードの前に来ると身を屈め、優しく彼を抱きしめながら、とても優しい口調でそう言うと、まだ微かに体が震えている彼の頭を優しく撫でる。
その直ぐ側で、ルチルも心配そうな顔をして、ロナードの側に身を屈め、震えている彼の手を優しく包み込む様に握っている。
ロナードのその尋常になく怯えている様子から察するに、人から伝え聞いている通り、正にこの世の地獄を見て来たのだろう……。
セネトに優しく抱きしめられ、その温もりに安堵したのか、徐々にロナードの体の震えが収まり、酷く乱れて居た呼吸も少しずつ収まって来た。
彼の表情も安堵した様子に代わり、恐怖の余り、目元に溜めていた涙が、静かに頬を伝った。
ルチルも心配そうな顔をしながら、ロナードの背中を優しく摩っている。
当時、目の前の光景に身を震わせ、死の不安に駆られ、煤けた匂に混ざり、血の匂いが漂い、煙や炎が至る所で挙がる街の中を、ただ必死に逃げ惑う事しか出来なかった幼い彼を、こんな風に優しく抱きしめてくれる人は、居なかったのだろう……。
その後も……惨劇を目の当たりにして傷付いた彼の心に寄り添い、支えてくれる人も……。
彼はずっと、消えない心の傷を抱え、教会の影に怯えつつも、周りに求められるがまま、必死に強い自分を演じ続けて居たのだろう……。
「何時も言って居るだろう? 無理をする必要は無い。 そのままのお前で居ろ。 僕はどんなお前でも見限ったりはしない」
セネトは、ロナードに向かって優しく言うと、
「殿下の仰る通りです。 大丈夫ですよ。 ロナード様。 自分たちが居ます」
ギベオンも、優しい口調で彼に声を掛けると、彼は小さな子供の様に頷き返した。
「さて……。 この事態をどうしたモノか……」
セネトは、座って居るロナードの傍らに積まれた藁の束の上に腰を下ろし、呟く。
「私達が王宮へ戻るだろうという事は、相手も予測済みの筈よ」
ルチルは相変わらず、ロナードが落ち着く様、彼の隣に座り、優しく彼の背中を摩りつつも、王宮が有る方へ目を向け、神妙な面持ちで呟く。
「ですが、ここも何時見付かるか分かりません」
ギベオンは不安に満ちた表情を浮かべ、セネトに言い返した。
「なら一層の事、全て蹴散らしてしまっては如何ですの?」
セネトとは反対側に積み上げられた藁の上に座り、退屈そうに藁の穂先に僅かに残っていた実を取って遊んで居たエルフリーデが言った。
「なっ……お前、何時の間に?」
セネトは、驚きと戸惑いの表情を浮かべ、彼女を見る。
「私たちも、ロナードの近くに居ましてよ?」
そう言ったエルフリーデの側には、宮廷魔術師長のサリアと、その息子のルフトが居た。
「そうなのか?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべたまま、ギベオンに問い掛けると、
「はい」
彼は間髪置かずに答えた。
「気付いて無かったのは、セティくらいよ」
ルチルは呆れた表情を浮かべ、セネトに言った。
「すまない。 ロナードの事が心配で、周りに目を配る余裕が無かった」
セネトは、申し訳なさそうな表情を浮かべ、サリア達に向かってそう言った。
「そうでしょうね」
サリアは、苦笑いを浮かべながら言い返した。
「だが、お前たちが居るならば話が変って来る。 具体的に反撃する策を練るぞ」
セネトは、嬉々とした表情を浮かべ、サリアとルフトに向かって言うと、
「はい」
サリアは真剣な面持ちで頷き返す一方で、
「自信はないですが、まあ、出来る限りの事はしますよ」
ルフトは、苦笑いを浮かべながら、ちょっと自信なさそうな様子で答えた。
「誰かが、奴らを退けねば大惨事になる事は明らかだが……相手は獅子族。 会場に残った兄上たちも今は、辛うじて耐えている様だが、それも何時まで持つか……。 だが、獅子族たちが街へ放たれる様な事だけは、何としても避けねばならない。 だが、それに対抗しうるだけの装備と兵力を整えるだけの時間は、我々にはない」
セネトは両腕を自分の胸の前に組み、落ち着いた口調でそう語る。
「言わんとする事は分かりますが……。 具体的にはどうするのですか? 我々は必要最低限の武器しか持って居ないのですよ? 普通の剣で獅子族の鋼の体を貫く事は出来ないのに……」
ルフトは戸惑いの表情を浮かべつつ、セネトに問い掛ける。
「例えばの話ですが、結界で獅子族たちを一カ所に閉じ込めて、私たちの魔術で一網打尽にする……と言うのは如何でしようか?」
サリアは、真剣な表情を浮かべ、セネトにそう提案する。
「案としては悪くありません。 ですが結界を作るには時間が掛りますし、獅子族たちに見付からずにそれをするとなると、かなり無理がある様に思えます」
サリアの意見を聞いて、ギベオンは苦々しい表情を浮かべ、彼女にそう指摘する。
「そういうのならギベオン卿は、この策の他に何か妙案でもあるの?」
サリアは、ムッとした表情を浮かべ、強い口調でギベオンに問い掛ける。
「それは……」
ギベオンは、困った様な表情を浮かべ、思わず口籠らせる。
「確かに獅子族も厄介ですが、骸骨の兵士を召喚して居ると思われる、あの黒いドラゴンもどうにかしなければないでしょう?」
ルフトは、真剣な表情を浮かべ、そう指摘する。
「確かにそうね」
ルチルも、何とも言い難い禍々しい空気を纏い、恐怖を撒き散らして居る黒いドラゴンの姿を思い出しながら呟く。
只単に、兵力不足を補う為、骸骨の兵士を召喚するだけが役目では無い筈だ。
「あれを倒すのはある意味、獅子族たちを相手取るよりも厄介だぞ」
セネトは、苦々しい表情を浮かべながら言った。
ドラゴンは古の時代から人々に畏怖されている事は、小さい子供でも知って居る。
『神の代弁者』、『世界の管理人』……。
その呼び名の通りに、竜種はこの世界の生物の中で最強な種族だ。
これまでの歴史上、彼等の怒りをかい、世界地図から一夜にして消え去った国は数知れない。
その爪痕は今も、世界中の各地に見られ、特に、南半球の中央の島々も元は、西の大陸と陸続きの一つの大きな大陸であったのだが、古の戦いの際に、竜種たちの力によって大地を削られ、現代の姿になったと言われている。
ただ元々、種として少なかった事に加え、同族間の戦や疫病など様々な事情からみるみる数を減らし、現在、人々が存在が確認出来ている竜種は、世界中で両手に収まる程度だ。
それでも、その存在が脅威である事には変わりない。
今、帝都に現れている黒いドラゴンは、古のドラゴンたちの魂が異界へと渡り、幻獣と言う違う生き物である可能性が高いが、それでも元はドラゴンである。
幻獣と呼ばれる異界の獣たちの中でも、最上位種である事は疑いようも無い。
幻獣に何をさせるかにもよるが、最上位の幻獣を召喚するとなると、僅かな時間であっても、相当量の魔力と高い技術、召喚するに際しての対価(供物)など、普通の術師が一人で召喚出来る代物では無い。
ただ、例外として召喚師が居るのだが……。
彼等もまた、竜種並みに稀有な存在であり、その力のメカニズムは明らかにはされていない。
普通に考えれば、複数人が召喚に関わっている事は明らかで、魔術を使えぬ獅子族がそれをやるのは不可能で、獅子族たち以外の、別の種族の協力者が居ると見るべきだ。
この場合は、人間の魔術師である可能性が高いだろうが……。
「一番確実なのは、術師を殺してしまう事です」
サリアは、複雑な表情を浮かべながら語る。
「それはあまり、現実的じゃない」
セネトは、気乗りしない様子でサリアに言うと、
「セネトの言う通りだわ。 現状からして、術師を探している時間なんてないわよ」
ルチルも、神妙な表情を浮かべ、重々しい口調で言った。
「でしたら、どうしろと仰るのです!」
エルフリーデが戸惑いの表情を浮かべ、ルチル達に言うと、
「さっきの……サリアの案を獅子族に対してではなく、黒いドラゴンに使ったらどうだ?」
落ち着きを取り戻し、顔色も幾分か良くなったロナードが、落ち着いた口調で言った。
「獅子族を結界に閉じ込めるのでは無くて、ドラゴンを結界にって事?」
ルフトは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに問い掛ける。
「そうは言いますけれど、私(わたhし)たちの攻撃が効くかも分からないですし、だからと言って、あんなのずっと結界の中に閉じ込めておくのは無理なのではなくって?」
話を聞いて、エルフリーデは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに言い返す。
「……結界内に閉じ込めた後、強制的に幻獣を異界へ帰らせれば良い」
ロナードは、落ち着いた口調で言うと、
「は?」
ルフトは戸惑いの表情を浮かべ、思わず間抜けな声を上げる。
「なにを仰って居まして? 貴方」
エルフリーデも思い切り眉を顰め、怪訝そうな顔をしてロナードに言った。
「成程。 召喚する事が出来るのだから、逆送り返す事も可能だろうと言う事か……」
セネトは、両腕を自分の胸の前に組み、落ち着いた口調で言うと、
「理屈は分かるけれど、召喚者でも無い者がそんな事が出来るの?」
ルチルは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに問い掛ける。
「召喚術と言うのは、異界と此方の世界を行き来する門を開いて、幻獣を招き入れる作業だ。 門が開いて居る間は、幻獣は異界から魔力が供給され、此方に居る事が出来るが、門を閉めると異界からの魔力の供給が途切れ、幻獣は此方の世界で形を保つ事が出来なくなる。 それは即ち、此方の世界に居る幻獣たちにとっては死と同じ事だ。 大抵の幻獣は閉門に合わせて自分達の世界に帰る」
ロナードは落ち着いた口調で、自分の提案に戸惑って居る様子のルチル達に説明する。
「なるほど……。 そう言う絡繰りだったんだ……」
ロナードの話を聞いて、ルフトがしみじみとした口調で呟く。
「お前なら、それが出来るのか?」
セネトが真剣な表情を浮かべ、徐にロナードに問い掛けると、
「は? 何を仰って居るの? そんな事、召喚師でも無い限り、一人で出来る訳が無いですわ!」
それを聞いたエルフリーデが驚いて思わず、セネトに言い返したが、
「やった事は一度も無いが、理屈的には多分……出来る」
当のロナードは、落ち着いた口調でセネトにそう答えた。
「はあ? 貴方、私の話聞いていまして? その辺の術師では出来ませんのよ! 召喚師でなくては!」
ロナードの言葉を聞いて、エルフリーデは思い切り顔を顰め、彼に向かって強い口調で説明をする。
「その召喚師なら、出来るんだろう?」
ロナードは、苛立って居る様子のエルフリーデに、落ち着いた口調で言うと、
「へ?」
彼女は、キョトンとした表情を浮かべ、理解が追い付いて居ないのか、目をパチクリする。
「無理をしない方が……」
ロナードの言葉を聞いて、ギベオンが心配そうな表情を浮かべ、言った。
「そうよ。 強制閉門なんて、どんなリスクがあるか分からないのに!」
サリアも心配そうな表情を浮かべ、ロナードの腕を掴むと、強い口調で言う。
「恐らく、あのドラゴンはあれはニーズヘッグだ。 冥府に住まう血肉を好む、幻獣の中でも異質な存在だ。 もし、召喚に応じた対価が、この街に居る全ての人間の血肉だったら、アイツはここに居る人達を殺し尽くすまで消えないぞ」
ロナードは、真剣な表情を浮かべながら、重々しい口調でサリア達に語ると、
「なっ……」
「わ、笑えない冗談ですわ」
ルフトとエルフリーデが恐怖に顔を引き攣らせ、思わずそう呟くと、言葉を失った。
「召喚者も全員、既にアイツに食われた後かも知れない」
ロナードは、苦々しい表情を浮かべ、そう続ける。
「それは、つまり……アイツは今、野放し状態って事……なのか?」
ロナードの言葉を聞いて、セネトは戸惑いの表情を浮かべ、彼に問い掛ける。
「その可能性は十分に考えられる」
ロナードは、神妙な表情を浮かべ、重々しい口調で答えた。
彼のあままりに突拍子の無い言葉に、その場に居合わせた者たちは驚き、一様に絶句する。
ロナードの雰囲気などからして、これが冗談などでは無く、真剣に言って居るのだと言うのは、皆、直ぐに理解出来た。
「そんな事が有り得えまして?」
暫くの沈黙ののち、エルフリーデがおずおずと、妙に思い詰めている様子のロナードに問い掛けた。
「……有り得るから、俺が生まれ育った街は、召喚された幻獣によって滅んだんだ」
ロナードは重々しい口調で語ると、沈痛な表情を浮かべ、俯いた。
「は? なにを……仰って居るの?」
エルフリーデは額に冷や汗を浮かべ、『理解不能』と言った様子で、ロナードに向かって言う。
「それは……クラレス公国であった『血の粛清』のことを言っているの?」
サリアが、複雑な表情を浮かべながら、おずおずとロナードに問い掛けると、彼は俯いたままであったが、ハッキリと頷き返して来た。
「……『血の粛清』は、イシュタル教会の聖騎士団たちとルオン軍による、市民の大量虐殺とされていますが……真実は異なると言う事ですか?」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべつつ、ロナードに問い掛ける。
「ああ……。 市民も教会の聖騎士たちも、ルオン軍も関係なく、建物も何もかも皆……、突然現れた青白い炎の狼たちに襲われて、その炎に包まれて一瞬で炭になって消えた」
ロナードは、当時の光景を思い出したのか、俯いたまま、両手を自分の前でギュッと握りしめ、声を震わせながら答えた。
ロナードの話に、その場に居合わせた者達の殆どは、それがどう言う事なのか、想像する事が難しかったが、ただ……自分たちの想像を超える様な出来事により、多くの何の罪も無い人たちの命が一瞬の内に失われ、ロナードはそんな惨状を目の当たりにしながらも、運よく助かったと言う事だけは理解出来た。
当時、幼い子供であったであろうロナードからしてみれば、この世の恐怖以外の何ものでも無かっただろう。
「青い炎……」
サリアは、複雑な表情を浮かべながら、呟く。
「本当に……あの炎に包まれたものは何も残らない。 だから皆、狼の形をした青い炎に掴まらない様に、城門が閉ざされ、出口の無い街の中を只管、足を休める事無く逃げ回るしかなかった。 ただ只管に……狼たちが消えてしまうまで……」
ロナードは俯いたまま、声を震わせながら語ると、両腕で自分の膝を抱える様にすると、顔を膝元に埋めた。
その両肩が、微かに震えていた……。
「なんで……そんな事を……」
ロナードの話を聞いて、ルチルは半ば呆然とした様子で呟く。
「……」
ロナードは、自分の膝に顔を埋めたまま、何も答えずに居る。
「ロナード。 お前は少し休め」
セネトは徐に、ロナードの前に来ると身を屈め、優しい口調でそう言うと、そっと彼を自分の胸元に抱き寄せ、ポンポンと彼の背中を叩いた。
「でも……」
ロナードは、セネト皇子に抱きしめられた格好のまま呟くと、
「良いから! 少し寝ろ!」
セネトは、ロナードを抱きしめたまま、彼に言い聞かせる様に強い口調で言う。
「……分かった」
ロナードはそう答えると、積藁の上に静かに身を預け、ゆっくりと目を閉じた。
「……ス。 ユリアス」
自分の頭の上から、聞き覚えのある若い男の声がして、優しく肩を揺らされたので、ロナードはゆっくりと目を開けた。
「気分はどうですか? 少しは、楽になりましたか?」
ハニエルが身を屈めつつ、まだ少しボンヤリとして居る様子のロナードを覗き込みながら、優しい口調で問い掛けると、持って居た革の水袋を彼に差し出した。
「ハニエル?」
ロナードは、自分が眠ってしまうまでは、此処にはいなかった筈のハニエルの姿がある事に驚き、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「大丈夫か?」
頭の上から、聞き覚えのある声でそう声を掛けられ、ロナードは其方の方へと目を向ける。
「兄上……」
ハニエルと同様、いなかった筈の兄シリウスの顔を見て、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「落ち着いたか?」
シリウスは優しい口調で、ロナードに問い掛ける。
「どうして此処に? いや、それ以前にどうして此処が?」
ロナードは、ゆっくりと体を起こしながら、戸惑いに満ちた表情を浮かべながら、シリウスに問い掛ける。
「サリアの魔法蝶で、この事態を知って、蝶に案内をさせてここへ来たのです」
ハニエルは落ち着いた口調で、ロナードの疑問に答えた。
「そうだったか……」
ハニエルの説明を聞いて、腑に落ちたロナードはそう呟いてから、
「俺は、どのくらい眠っていた?」
近くに居たルチルに問い掛けると、
「そんなに眠って無いわ。 二、三〇分ってところかしら」
ルチルはニッコリと笑みを浮かべ、優しい口調で答えた。
「起きたばかりのところを悪いが、時間が惜しいから、決まった作戦の内容を話しても良い?」
背中や尻に付いた穂屑などをハニエルから取って貰っているロナードに、サリアは真剣な面持ちで声を掛ける。
「えっ。 あ、うん。 はい」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべつつも、彼女に返事をする。
「……藁が付いている」
セネトがそう言うと、ロナードの髪に付いて居た藁屑を取る。
「通りで、何かムズムズすると思った」
ロナードは、セネトが取り払った藁が付いて居た辺りを片手で抑えつつ、苦笑混じりに言った。
「良く眠ったようですから、しっかり、貴方にも働いて頂きますわよ!」
その様子を面白く無さそうに見ていたエルフリーデが、ムッとした表情を浮かべつつ、何処か険のある口調でロナードに言った。
「……鬼だね。 エフィ」
ロナードに対するエルフリーデの態度を見て、ルフトは苦笑いを浮かべながら言うと、
「五月蠅いですわ!」
彼女は両腕を自分の胸の前に組み、ギロッと、座って居たルフトを彼の視線の上から思い切り睨み付けながら、強い口調で言い返す。
「……説明したいのだけど?」
サリアは、ちょっとイラッとした様子で、額に青筋を浮かべつつ、ルフトとエルフリーデに言った。
「あ、はい。済みません……」
「御免なさい……」
サリアの迫力に、ルフトとエルフリーデはビクッと身を強張らせ、オドオドした口調で返した。
「あのドラゴンは貴方に一任する事になったから。 要領はさっき貴方自身が提案した通り、結界の中に閉じ込めたら、貴方が送り返すって方法ね」
サリアは、事務的な口調で、ロナードに物凄く簡潔に説明すると、
「分かった」
ロナードは、落ち着いた口調で返事を返した。
何と言うか、その様に言われる事を予想はして居たとしても、『あ、いいよ~』みたいに軽く答えたロナードに、ルフトやエルフリーデは戸惑う。
そんなあっさり、引き受けて良い様な内容でも無いと言うのに……。
「済まない。 お前に無理はさせたく無かったんだが……」
セネトは、申し訳なさそうにロナードに言うが、
「構わない。 結局、俺が適任と言う事になったのだろう?」
ロナードは、実にサラッとそう言って退けた。
「その通りなのだが……」
セネトは、苦笑いを浮かべながら答える。
「セレンディーネ様が気遣う必要などありませんわ。 言い出したのは他でもない、彼自身なのですから!」
恐ろしく落ち着いているのロナードを見て、エルフリーデは軽い苛立ちを覚え、思わず、セネトに抗議する。
「そうは言うけどね……。 かなり危ない事をさせるんだぞ?」
それには思わすルフトが、困った様な表情を浮かべながら、エルフリーデに言い返すと、彼女は複雑な表情を浮かべ、黙ってしまった。
「兎に角、無茶な事だけはするなよ?」
セネトは、心配そうな表情を浮かべたまま、ロナードにそう言って念を押す。
「そんなに心配しなくても、あんな薄気味悪いドラゴンと心中する気は更々無い」
ロナードは、自分の事を心配して居るセネトに向かって、穏やかな口調でそう言うと、ニッコリと笑みを浮かべた。
「私たちがそんな事はさせないが」
シリウスが、不敵な笑みを浮かべながら言うと、ハニエルも真剣な表情で頷くと、
「獅子族の方は、私たちに任せて下さい。 貴方がドラゴンを相手取って居る間、絶対に近付けさせはしません」
ロナードに言った。
「了解した。 頼りにしている」
何時もより増して、真剣な顔をして自分を見ているハニエルとシリウスに対し、ロナードはフッと笑みを浮かべ、穏やかな口調で返した。
「任せろ」
シリウスはそう答えると、不敵な笑みを浮かべる。
「獅子族は、サリアの雷の術を付与した武器で攻撃するわ」
ルチルが、事務的な口調で説明すると、
「成程。 幾ら鋼の様な体の獅子族と言えど、生物である事には変わりない。 俺たちと同じ様に汗はかくし、血も流れている……。 雷耐性では無い限り、内部へのダメージは与えられるだろうと言う魂胆か」
ロナードは、落ち着いた口調でそう言うと、
「流石。 理解が早くて助かるわ」
サリアは、ニッコリと笑みを浮かべながらロナードに言ってから、
「どう? 名案だと思わない?」
嬉々とした表情を浮かべ、更に彼にそう問い掛けた。
「ええ……あ、はい」
彼は、妙にテンションの高いサリアに少し戸惑いつつ、返事をするが、
「何よ。 もう少し称賛してくれても良くない? 『流石、師匠! 冴えていますね!』とか」
サリアは不満そうな表情を浮かべ、口を尖らせてロナードに言い返す。
「拗ねるから、言ってあげた方が良いと思う」
側に居たルフトがボソッと小声で、ロナードの耳元でそう言った。
「さ、流石は師匠。 冴えていますね 凄いです」
ロナードは、何とか笑顔を作ろうと顔を引き攣らせつつ、棒読みでサリアに言った。
「うふふふ。 そうでしょ? そうでしょ? まあ、魔術の中でも高位の光の魔術を使える私ならではの発想よねぇ?」
サリアは満足げな様子でそう言った。
「いや……お前が無理矢理、言わせたんだろ……」
「完全に棒読みだったじゃない……」
ロナードが、無感情で言い放つのを見て、セネトとルチルが、呆れた表情を浮かべながら呟く。
(俺も、少しは使えるけど……)
ロナードは、ドヤ顔をしているサリアを見ながら、心の中で呟いた。
「何にしても、こんな場当たり的な作戦で、上手く行くかどうか云々すら、言って居る場合では無い。 申し訳ないが、皆、頼む」
セネトは、軽く溜息を付いてから、複雑な表情を浮かべ、ロナード達にそう言った。
「必ずや、勝利を御手に」
ギベオンは、片手を自分の胸の前に添え、セネトにそう言うと、にこやかに笑みを浮かべる。
「大丈夫ですわ! セネト様が立てた作戦ですもの。 上手く行きますわ!」
エルフリーデはやる気満々と言った様子で、セネトに言う。
「まあ、私たちが居れば、問題無いだろう」
シリウスは、淡々とした口調で言うと、その物言いに対し、ハニエルとロナードは思わず苦笑いを浮かべるが、今は、その発言が心強い。
一方、皇帝と兄弟たちを逃す為、襲撃して来た獅子族たちを兵士たちと共に引き付けていたカルセドニ皇子は窮地に陥っていた。
「くそっ……キリがない……」
「獅子族だけでも厄介だと言うのに、あの骸骨共、何とかならないのか?」
カルセドニ皇子を守る様にしながら、兵士たちが口々に呟く。
「皇子。 これ以上は危険です! 退却を」
カルセドニ皇子の側に居た兵士が、真剣な面持ちで言うと、
「退却だと?」
彼は俄かに表情を険しくし、その兵士をギロリと睨み付けながら、ドスの利いた声で凄む。
「この状況は不利です。 このまま一方的にジワジワと戦力を削がれていくだけです」
「皇帝陛下を含め、他の皇子や国の要人たちも大方、会場から逃げる事が出来ました。 後は我々が引き受けます故、皇子もお逃げ下さい」
カルセドニ皇子に凄まれ、兵士たちは一瞬ひるんだが、直ぐに真剣な表情で彼にそう諭す。
「止むを得ぬか……」
カルセドニ皇子は、周囲に目を向けながら、苦々しい表情を浮かべる。
「兄上っ!」
そこへ、他の兄弟たちと共に逃げた筈のセネトが、自分の部下と宮廷魔術師長のサリア、その部下たちを引き連れ、戻って来た。
「なっ……セティ? なぜ戻って来た?」
カルセドニ皇子は、戻って来たセネトに、戸惑いの表情を浮かべ問い掛ける。
「他の兄弟たちは、無事に逃がしました」
セネトは、落ち着き払った口調で、戸惑っているカルセドニ皇子に告げた。
「いや……そう言う事では無く!」
カルセドニ皇子は、戸惑いの表情を浮かべつつ言い返す。
「僕たちに妙案があります。 手伝ってくれますか? 兄上」
セネトは、不敵な笑みを浮かべながら、戸惑っているカルセドニ皇子に言った。
「なっ……」
彼女の言葉に、カルセドニ皇子は、戸惑いの表情を浮かべる。
「殿下たちの協力が不可欠です。 お願いします」
サリアが、真剣な表情を浮かべ、カルセドニ皇子に言うと、
「……分かった。 お前たちの作戦に乗ろう」
カルセドニ皇子は、真剣な表情を浮かべ、セネトたちに言った。
「避けろ!」
何処からか、そう叫び声が響き、半ば、カルセドニ皇子に誰かが体当たりする様に、して、思い切り彼を横へと押し飛ばす。
カルセドニ皇子は訳も分からず、自分を突き飛ばした相手と共に横へと転がった次の瞬間、黒いドラゴンの口から黒い霧の様なプレスが吐かれた。
とっさの判断が出来ず、そのプレスに包まれ兵士たちが、次々とバタバタとその場に倒れ、水から引き上げられた魚の様に苦しそうに、口をパクパクとさせ、次々と絶命していく……。
「やはり、ニーズヘッグか……」
間一髪のところで、カルセドニ皇子を助けたロナードは、身を起こしつつ、表情を険しくして呟いた。
『ニーズヘッグ』と言うドラゴンは、死者の死肉を食らい、その血を啜ると言われる、冥府……『闇』に属する幻獣で、そのプレスには一瞬にして、人間を死に追いやる呪いが込められていると言われている。
ガイア神教の神話では男神ガイアが、人々を恐怖に陥れ、世界を死者の国と化そうとしたニーズヘッグを倒し、冥府の世界に送り返したと言われている。
ニーズヘッグは、『死霊使い(ネクロマンサー)』や『妖術師』、闇落ちしてしまった魔術師たちにとって、『闇』の象徴であり、自分たちの力を誇示する上で、欠かせない存在だ。
同じ様に、死者の国の住人である、ケルベロスやデュラハンと言った、モンスターよりも格上で、召喚する事はかなり難しい相手だ。
それだけで、相手の術師がどれ程の使い手か、同じ召喚師であれば、嫌でも分る。
だが、獅子族はその鋼の様に強靭な肉体を得た代わりに、他の亜人の様に魔術を扱う事が出来ない。
(これは、時間との勝負だな……)
ロナードは素早く周囲を見回しながら、心の中で呟く。
「大丈夫ですか?」
とっさに近くに居たセネトとルチルを庇う様にして覆い被さり、先程のブレスから難を逃れたギベオンが、ゆっくりと身を起こしつつ、セネト等に声を掛ける。
「あ、ああ……」
「恩に着るわ」
セネトとルチルはそう言うと、彼の下から這い出る。
そんな事をして居る間にも、ニーズヘッグの手下と思われる、骸骨の兵士たちと獅子族たちが、彼等にジリジリと詰め寄って来ている。
(手筈通り、まずはシルフを召喚だ!)
ロナードは心の中でそう呟くと、両目を静かに閉じ、召喚の為の言葉を口遊む。
いつの間にか、ロナード達を守る様にして、サリアが繰り出した光の壁が現れており、骸骨兵士たちの攻撃を防いでいる。
「来い! シルフ!」
ロナードがそう叫ぶと、彼の近くの地面に巨大な緑色の魔法陣が浮かび上がり、物凄い勢いで風が巻き起こり、蜻蛉の様な跳ねを生やした、全身が緑色に光る、小さな人型の生き物が無数に現れ、無邪気に笑う幼女たちの声と、フワリ甘い香りが漂ったかた思った瞬間、周囲に居た獅子族たちが強烈な睡魔に見舞われ、バタバタと倒れてしまった。
「んなっ……」
それを目の当たりにしたカルセドニ皇子は驚き、思わずロナードに見惚れててしまう。
急に仲間がバタバタと倒れたので、他の獅子族たちは驚き、戸惑う。
「守備力、攻撃力の増強オッケーだ! 補助は僕に任せろ!」
遅れてやって来たセネトが、不敵な笑みを浮かべながら、ロナードに言う。
「準備万端です! これで、先程のプレスを防げます! 何時でもどうぞ!」
宮廷魔術師長のサリアが、光の魔術でロナードたち一人一人を虹色の光の膜で覆うとそう言った。
「あなた達は、これでも食らってなさい!」
エルフリーデは、汚物でも見るかの様な、嫌悪に満ちた目で骸骨の兵士達たちを見て、そう叫びながら、次から次へと、骸骨の兵士達に向かって氷の礫を見舞っている。
「何だか楽しそうだね。 エフィ……」
この際と言わんばかり、情け容赦のない攻撃をしているエルフリーデを見て、ルフトは呆気に取られつつ、呟く。
ロナードも、エルフリーデが何だか楽しそうに、骸骨の兵士たちの頭を目掛け、氷の礫を見舞っているのを見て、ドン引きしてしまっている。
「あなた達は、私たち宮廷魔術師とカルセドニ皇太子殿下たちの死守よ!」
サリアは、浮足立って居る、味方の兵士たちに向かって命じる。
「よし! 反撃だ!」
セネトは腰に下げていた剣を抜き、自分の側に居たロナードとルチル、ギベオンにそう声を掛けると、三人は真剣な面持ちで頷き返し、少し離れた場所に居たシリウスとハニエルも、真剣な面持ちで頷き返す。
ロナード達の予想通り、ニーズヘッグは現れたシルフを相手取り、派手に暴れている。
シルフは小さくて素早い為、ニーズヘッグはすっかり翻弄されてしまっている。
流石に振り落とされては敵わないと思ったのか、ニーズヘッグの背に乗って居た獅子族のゲオネスは、そこから離れた場所に数人の同族の部下たちと共に居た。
まず、当初の計画通り、ニーズヘッグとゲオネスを引き離す事には成功した。
「五月蠅い蠅どもめ! 蹴散らせ!」
ゲオネスは、ロナード達が武器を手にして自分に迫って来ている事に気付くと、ニーズヘッグにそう命じるとニーズヘッグはセネト達に向かって、口から黒い霧のプレスを吐いた。
「セネト!」
それを見たカルセドニ皇子は青い顔をして、は思わず、大声を上げて叫ぶ。
だが、ニーズヘッグのプレスが直撃した筈のセネトたちの前に、虹色の光の膜が現れ、黒い霧のプレスを阻むと、彼等はその場で絶命する様子も無く、戸惑っている獅子族たちに一斉に切り掛った。
「なっ……。 どうなっている?」
ニーズヘッグのブレスが利かないと分かり、ゲオネスは戸惑いの表情を浮かべ、驚きの声を上げる。
そこに、彼の死角から、シリウスが勢い良く踊り掛る。
ゲオネスは、慌ててそれを避けるが、直ぐ側でバチバチッと言う、電気が走る様な嫌な音が聞こえたので、驚いて自分の左腕を見ると、シリウスの攻撃を避けた筈なのに、左腕が微かに焦げ、手が痺れて居る事に気付いた。
「貴様っ!」
ゲオネスは激しく怒り、思い切り拳をシリウスに突き出すが、彼はそれを難なく避ける。
良く見ると、シリウスが手にしている大剣は雷を帯びている。
「ま、魔法剣だと?」
ゲオネスは戸惑いながら呟いていると、シリウスがダンッと勢い良く地面を蹴り、彼に躍り掛かる。
「くそっ!」
ゲオネスは慌てふためき、二、三歩後退りし、間合いを取ろうとするが、シリウスは冷やかな表情を浮かべたまま、ゲオネスが間合いを取るよりも早く地面を蹴り、あっという間に間合いを詰めると、思いっ切り大剣を振り下ろす。
恐ろしい事に、鋼の様に強靭である筈の彼の右腕が、まるで鋭利な包丁で大根を切る様に、ザックリと切り落としてしまった。
「流石っ!」
ルフトたちの護衛をして居た兵士が、嬉々とした表情を浮かべ、そう呟く隣で、カルセドニ皇子は、シリウスの立ち振る舞いに見惚れてしまっている。
「よしっ!」
シリウスに強化系の魔術を施したセネトもそう言って、思わずガッツポーズを取る。
「すげぇ……」
「あの獅子族の腕をバッサリと……」
遠目からその様子を見た兵士は唖然とし、思わずそう呟くと、ゴクリと息をのんだ。
セネトは、シリウス自身に腕力強化の術を施し、サリアは大剣に雷の術を纏わせ、剣の強度も上げる事で、期待通りの攻撃力を発揮した。
そうで無くともシリウスの強さは化け物染みており、呆然と立ち尽くして居た、周囲の獅子族たちもバッサバッサと切り倒していく……。
「素晴らしい! 流石はレオン!」
その様子を見て、サリアは嬉々とした表情を浮かべ、声を弾ませる。
「ちょっと、ちょっとぉ……。 私達の出番、ないじゃない!」
シリウスがゲオネスだけでなく、近くに居た獅子族たちを切り倒してしまったので、ルチルは不満に満ちた表情を浮かべ、呟きつつ、近くに居た獅子族を切り倒す。
「その様だな」
側に居たギベオンは苦笑いを浮かべつつ、ルチルにそう言い返す。
「三人とも、後ろに退いて!」
宮廷魔術師長のサリアが叫ぶと、シリウス達はとっさに素早く後ろに飛び退くと、雷の帯が彼等の横を掠め、片腕を失い、発狂寸前のゲオネスに直撃した。
雷の帯が直撃したゲオネスは、全身から煙を上げ、その場に立ち尽くしたまま動かない……。
「やったか?」
それを見て、セネトが戸惑いの表情を浮かべ呟いて居ると、シリウスはゆっくりとゲオネスの前に来ると、何の躊躇も無く彼の首を持っていた大剣で叩き落とした。
獅子族たちは、自分たちを先導していたゲオネスたちが、殆ど何も出来ずにシリウスに叩き切られたのを見て、すっかり戦意喪失している。
「ゲオネスの首を討ち取ったぞ!」
セネトが、獅子族たちを先導していたゲオネスの首を叩き切った事を見届けると、右手に握っていた剣を振り翳し、周囲に居た敵味方に聞こえる様に大声で叫んだ。
シリウスが大立ち回りをしてくれたお蔭で、周囲の注意はすっかり彼の方に向き、結界を作る為の魔力が籠った石を、ロナードとエルフリーデは気付かれる事無く、ニーズヘッグの周囲に置く事が出来た。
準備が整うと、ロナードが静かに歩み寄り、掌をニーズヘッグに向けると、集中する為に両目を閉じ、術の詠唱を始めた。
それを見て、ロナードの意図を理解したのか、シルフたちが全力でニーズヘッグの動きを封じようと試みる。
「上手くいって」
それを見て、サポート役にまわっているハニエルは、祈る様にそう呟く。
「ロナード。 頼むぞ」
セネトも、祈る様な気持ちでロナードを見守る。
「だ、だ、誰か早く、ロナードの側に行って! あんな無防備の状態では、攻撃されたら終わりだわ!」
サリアは、ロナードが術の詠唱に集中してしまっているのを見て、焦りの表情を浮かべ、自分の周囲に居た兵士たちに向かって叫ぶ。
だが、流石の兵士たちも、巨大で凶暴極まりないドラゴンに近付く事は恐ろしい様で、皆、サリアの声は聞こえているが、一様に青い顔をして立ち尽くしたままで、誰もロナードのフォローに向かう様子が無い。
ギベオンとルチルは、ロナードに近付かない様に、残った獅子族を牽制しているが、心許ない。
見かねたカルセドニ皇子とシリウスが思わず、ロナードの元へと駆け出した。
そうこうしている内に、銀色の輝く巨大な魔法陣が浮かび上がり、シルフ達に完全に翻弄され、身動きが取れないニーズヘッグは、シルフ達と共にズルズルと、その魔法陣の中にゆっくりと身を沈め始めた……。
「ルフト! 急いで風の壁でユリアスを覆って!」
宮廷魔術師長のサリアは、とっさに側に居たルフトにそう声を掛ける。
「う、うん!」
ルフトは促されるまま、魔術の詠唱を始める。
「セレンディーネ様も!』
宮廷魔術師長のサリアは、真剣な面持ちでセネトにもそう言った。
「分かった」
セネトは頷き返し、魔術の詠唱を始めた。
ロナードの周囲を二重の風の壁で覆い、物理的な攻撃からも、魔術的な攻撃からも彼を守ろうと言う手に出たのだ。
やがてサリアの思惑通り、セネトとルフトが作った、二重の風の壁がロナードを覆った。
「よ、よし……。 これで大丈夫だ!」
それを見て、セネトはホッとした表情を浮かべ呟く。
ロナードの元へ駆け出したカルセドニ皇子とシリウスも、彼の下へ辿り付くと、彼の背後に立ち、剣を手に身構え、忙しく周囲を見回し、警戒する。
風の壁でロナードを覆ったのは良いものの、ニーズヘッグを魔法陣の中に完全に沈めて、異界へ強制的に送り返してしまうまでは、セネトとルフトは、ロナードを守る壁を維持し続けなければならない。
徐々にではあるが、二人の魔力と体力を奪い取って行く……。
「ロナード……頑張ってくれ……」
セネトは歯を食いしばり、祈る様な気持ちで、ロナードが完全にニーズヘッグを異界へ送り返すのを見守る。
どの位の時間を要したか分からないが、セネトや兵士たちが固唾を飲んで見守って居る中、ニーズヘッグは完全にシルフ達と共に、魔法陣の中に体を沈め、最後は半ば、シルフ達に押し込まれる様にして、何とか無事に異界へ強制的に送り返す事に成功すると、流石に幻獣を二体も送り返したからか、ロナードはフッと糸が切れた様に、その場に崩れる様に倒れた。
「ユリアス!」
獅子族たちを牽制して居たシリウスが声を上げ、力なく地面の上に倒れ込んだロナードを慌てて抱き止める。
「流石にちょっと……無理をし過ぎたかも……」
シリウスに上半身を抱き支えられたままロナードは、疲れ果てた顔をして、力なくそう呟く。
「お蔭で上手くいったぞ」
シリウスは、穏やかな口調でロナードに言い返す。
「大丈夫か?」
その様子を見てカルセドニ皇子が駆け寄り、ロナードに声を掛ける。
「悪い……あと……頼む……ねむ……い……」
ロナードは、意識が朦朧としている様子で、側に居たシリウス等に力なく言うと、そのままスッと両目を閉じた。
「お、おい!」
それを見て、カルセドニ皇子は焦り、思わずロナードの肩を揺らしながら、強い口調で声を掛ける。
「落ち着け。 魔力を消耗し過ぎて眠っただけだ」
シリウスは、ロナードを抱き支えたまま、焦るカルセドニ皇子に落ち着いた口調で説明すると、
「そ、そうか……」
シリウスの言葉を聞いて、カルセドニ皇子は安堵の表情を浮かべ、そう呟いた。
「だ、だ、大丈夫でして?」
エルフリーデが心配そうな顔をして駆け寄って来て、シリウス達に問い掛ける。
「心配ない。 魔力を一度に大量に使った所為で眠っただけだ」
シリウスは、死んだ様に眠って居るロナードを見下ろしつつ、落ち着いた口調で答えた。
「よ、良かったぁ……」
その言葉を聞いて、遅れて駆け寄って来たセネトは気が抜けたのか、ヘナヘナとその場に崩れ込んだ。
「残りは我々が引き受ける。 セティ。 お前は彼と仲間を連れ、先に王宮に戻れ」
カルセドニ皇子は、真剣な面持ちでセネトに言うと、
「分かりました。 後はお願いします。 兄上」
セネトは落ち着き払った口調で答えると、シリウスは軽々と眠っているロナードを肩に担ぎ上げる。
「持ち方!」
ロナードを雑に扱うシリウスを見て、セネトは怒って声を荒らげ、そう抗議する。
「両手が塞がれては戦えんだろ」
シリウスは、淡々とした口調で返すと、
「いや、だからって、それは可哀想だろ。 頭に血が上るぞ」
ルフトは呆れた表情を浮かべながら言う。
「その位のフォローはする。 もう少し丁寧に扱ったらどうだ?」
カルセドニ皇子も、苦笑いを浮かべながらシリウスに言うと、彼は渋々と言った様子で、ロナードを両腕で抱える。
そんなやり取りをしている周囲では、先程までの勢いが嘘だったかの様に、獅子族たちはガックリと肩を落として、地面の上に座り込み、項垂れている。
その日の夜、昼間の襲撃事件が嘘だったかの様に、多くの貴族や軍人、植民地から要人たちなどが、宮廷内にある大ホールに集った。
ホールの中央には煌びやかに光り輝く大きく立派なシャンデリア。
その下に、色とりどりのドレスに身を包んだ、様々な年代の女性たちは、美しさを競い合う花々の様に見える。
豪勢な食事に、高価な酒、会場の雰囲気を盛り上げる為の楽団……。
様々な話に花を咲かせる人々であったが、突然、高らかにファンファーレが鳴り響くと、会場は水を打った様に静まり返った。
「エレンツ帝国、第一皇子カルセドニ・ヴァン・アレス・エレンツさま並びに、第三皇女セレンディーネ・ヴァン・リアン・エレンツ様。 ご入場です」
会場の入り口に居た執事が、声高らかに告げると、カルセドニ皇子がセネトをエスコートしながら会場に姿を現した。
やがて、皇帝夫妻が座る椅子の側に二人が来ると、それを待って居たかのように、貴族の令嬢令息たちが甘い菓子に集る蟻の様に、二人に押し寄せる。
二人とも、令嬢令息たちに揉みくちゃにされていたのだが、楽団の演奏が止み、高々と皇帝の入場を知らせるファンファーレが鳴り響くと、周囲は水を打った様に静まり返り、集まった人々は、会場に入って来た皇帝が通れる様に、まるで竹を真っ二つに割った様に左右に避ける。
皇帝は今回、第一側妃が体調不良を理由に欠席したため、第二側妃をエスコートしながら周囲よりも少し高くなっている、赤い絨毯が敷き詰められた壇上に立つと、ゆっくりと周囲を見回し、
「昼間の一件、一時はどうなるかと思ったが、世の自慢の息子たちが見事、獅子族たちの襲撃を鎮圧してくれた。 建国祝賀の宴に先立ち、混乱を収めた息子たちに感謝を述べたいと思う」
皇帝は、会場に集まった人々にそう告げると、
「その様な事が?」
「知らなかったわ」
「広場が騒がしかったのは、その所為だったのか……」
事件を知らない、貴族の令嬢たちを中心に口々にしながらざわめく。
「まあ、私たちだけの功績では無いが、レオン兄弟が陛下直々に表彰される事を辞退したのだから止むを得まい……。 弟の方はまだ、目が覚めないのか?」
カルセドニ皇子は、苦笑いを浮かべながら、セネトに問い掛けると、
「いや、小一時間ほどで目を覚ましました。 その辺に居る筈です」
セネトは、落ち着き払った口調で答えると、ロナードの姿を探す。
「それを聞いて安心した。 後で改めて礼を言いに行く事にしよう」
カルセドニ皇子は、ホッとした表情を浮かべ、そう言った。
「おっと……乾杯の様ですよ。 兄上」
セネトは、シャンパンが入ったグラスをお盆に乗せた使用人や侍女たちが、次々と出席者にそれを配って居るのを見て、カルセドニ皇子に言った。
皇帝が乾杯の音頭を取り、人々が想い想いに近くに居た相手とグラスを軽く打ち合わせ、注がれていたシャンパンを飲み干すと、会場は一気に華やかな雰囲気になる。
「カルセドニ殿下。 私と一曲踊って頂けませんか?」
「何をおっしゃるの! 私が先ですわ!」
「いいえ。 私が!」
あっという間に、再びカルセドニ皇子の下に、彼等とダンスを踊ろうと、年頃の貴族の令嬢たちが凄い勢いで集る。
令嬢たちは我先にと、色々とやらかしてしまい、皇太子の座も危ぶまれている、この場に居ないネフライト皇太子ではなく、皇太子として名前が急浮上しているカルセドニ皇子をダンスに誘い、皇子に気に入られ、皇太子妃の座を得ようと必死だ。
「やれやれ……。 兄上、頑張って下さいね」
セネトは苦笑いを浮かべながら、令嬢たちに揉みくちゃにされ、戸惑っているカルセドニ皇子に言うと、自分が小柄である事を利用して、上手い具合に令息たちの波を潜り抜け、そそくさとその輪から離れる。
「おい! セティ!」
自分を貴族の令嬢たちの輪の中に置き去りにし、自分だけ逃げ出した妹に対し、カルセドニ皇子は抗議の声を上げるが、彼女は聞こえない振りを決め込む。
「皆、節操が無いですわ。 少し前まではネフライト皇太子殿下に取り入ろうと必死だったのに、彼が落ち目になった途端、カルセドニ皇子に取り入ろうとするなんて……」
その様子を遠くから見ていたエルフリーデは、冷ややかな視線を令嬢たちに向けながら、淡々とした口調で呟く。
「仕方が無いよ。 彼女たちは君と違って、婚約者がいないのだから」
ルフトは苦笑いを浮かべながら、エルフリーデに言い返すと、
「頼りない婚約者が何を言っているのかしら」
エルフリーデは、冷ややかにルフトを見据え、氷の様に冷たい口調で容赦なくそう言い放った。
彼女の容赦ない一言に、ルフトは今にも泣き出したい気持ちになる。
「そう言うな。 今はサリアが当主をしているから、甘えているだけの話で、その時が来れば嫌でも、しっかりする様になる」
エルフリーデの愚痴を聞いて、セネトが苦笑いを浮かべながら言う。
「殿下……」
セネトの登場に、ルフトは慌てて首を垂れる。
セネトは、髪が短いので鬘を被って髪を結いあげたスタイルになっており、何時もの男装姿ではなく、ドレスに身を包んでいるので、何だか見慣れず、ルフトは変な気分になる。
何時もは、可愛らしい青年と言った雰囲気だが、こうして化粧をして、美しく着飾ると、この辺の令嬢に引けを取らぬ、かなりの美女である事を思い知らされる。
「あら。 あはユリアスではなくって?」
エルフリーデは、会場の片隅で誰かを探して居る様子のロナードを見付け、そう呟いた。
「何処に?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべそう言うと、エルフリーデは指差すと、ルフトが見付け易い様に手を挙げると、それにロナードが気が付いて、こちらへ小走りに駆け寄って来た。
黒を基調とした銀色の刺繍が施された衣装で、前髪を軽く掻き上げ、良く似合っていた。
そもそも、出席する予定など無かったのに、急遽、カルセドニ皇子がロナードを招待したので、衣装の準備やらで時間が掛り、入場が遅れてしまったのだ。
「無駄に広いな。 何処に居るか探すのが大変だった」
ロナードは、ホッとした表情を浮かべ、ルフトたちに向かって言った。
「似合っているじゃないか。 見違えたぞ」
セネトは、意地悪な笑みを浮かべながら、ロナードに言うと、彼はキョトンとした顔をして、彼女を見ている。
「どうした?」
ロナードの反応を見て、セネトは戸惑いの表情を浮かべ、彼に問い掛ける。
「えっと……何方様?」
ロナードが戸惑いの表情を浮かべながらそう言うので、それを聞いてルフトとエルフリーデは思わず吹き出す。
ロナードの発言を聞いて、セネトは額に青筋を浮かべ、怒りで身をプルプルと震わせながら、
「僕だ」
そう言い返すと、ロナードは鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をして、
「えっ……セネト?」
おずおずと、そう問い返してきた。
「そうだ」
セネトは、両腕を自分の胸の前に組み、ムッとした表情を浮かべながら答える。
「えっ……」
ロナードは、驚きと戸惑いを隠せない様子で、じっとセネトを見ている。
「何だ? そんなに似合わないか?」
セネトは、ムッとした表情を浮かべながら言うと、
「あ、いや……。 そういう訳ではなく……」
ロナードは、思わずセネトから目を逸らし、微かに顔を赤らめ、片手で口元を覆い、ゴニョゴニョと言っているので、
「何だ? 聞こえないぞ!」
セネトは苛立ち、口元を覆っていた彼の腕を掴み、それを乱暴に取り払うと、ズイッと顔を近付け、強い口調で言う。
「せ、セネト……。 顔、近い……」
ロナードは顔を真っ赤にし、アタフタしながらセネトに言い返す。
鼻先と鼻先が、触れてしまいそうな距離なので、ロナードは慌てて彼女から少し身を離した。
「何だお前。 そんなに顔を赤くして……熱でもあるのか?」
セネトは、ロナードの反応にキョトンとした表情を浮かべながら、不思議そうに問い掛ける。
(鈍感過ぎ)
セネトの言動に、エルフリーデは思わず心の中で呟き、気の毒そうな視線をロナードに向ける。
「ユリアスは、殿下があまりにお綺麗なので、戸惑っていらっしゃるのです」
ルフトがニッコリと笑みを浮かべながら、さりげなくフォローをすると、ロナードは顔を真っ赤にしたまま、コクコクと頷いている。
「へっ?」
ルフトの言葉と、ロナードの態度を見て、今度はセネトが素っ頓狂な声を上げ、顔を真っ赤にする。
(あ~。 ご馳走様……)
エルフリーデが、少し冷めた視線をセネトとロナードに向けながら、それぞれに心の中で呟いた。
「式典の時は、どうなるかと冷や冷やしましたが、大事にならずに済んで何よりでしたね。 殿下」
お互いに顔を真っ赤にし、次にどうしたら良いのか分からず、固まっているロナードと横目に、ルフトは実に爽やかな笑みを浮かべながら、顔を真っ赤にしたまま、戸惑っている様子のセネトに言う。
「え、ああ……」
ルフトに話を振られ、セネトは少し焦りながらも、苦笑混じりにそう返していると、前を見ていなかったのか飲み物をお盆に乗せた侍女が、ルフトの側に居たエルフリーデの肩がぶつかり、侍女はお盆に乗せていた飲み物を床の上に落とし、グラスが割れる音と共に、高価な絨毯が敷き詰められた床の上に、グラスに入っていた液体が零れる。
「あら……大丈夫てして?」
エルフリーデは驚いた様な表情を浮かべ、自分とぶつかってグラスを落としてしまった侍女に声を掛ける。
「も、も、申し訳ございません! ご無礼を!」
侍女は慌てた様子でバッと頭を深々と下げ、声を震わせながらエルフリーデに謝る。
そんなやり取りをしている側で、ロナードが身を屈め、割れたグラスを回収し始めたのを見て、
「いけません!。 若様。 御召し物が汚れてしまいます! どうか、この様な事は無さいませんよう……」
侍女は慌てた様子で身を屈め、ロナードに向かってそう言うと、
「良いからさっさと拾え。 誰かが踏み付けたら大変だ」
ロナードは淡々とした口調で、アタフタして居る侍女に言うと、拾い集めたグラスの破片を床に転がって居たお盆の上に乗せる。
「済みません。 申し訳ございません」
侍女はアタフタとしながらも、ロナードに礼を述べると、急いで落ちたグラスを拾い集める。
「……申し訳ございません
その様子を近くで見ていた、中年の執事が側に来てそう言って、ペコペコとセネトたちに謝ってから、慌てて割れたグラスを拾う為、身を屈める。
周囲が戸惑って見守っている中、ロナードを含めて、執事と侍女の三人は黙々と割れたグラスを片付けていたのだが……。
「いたっ……」
硝子の切り口で指を切ったのか、不意に侍女がそう呟くのが聞こえたので、ロナードが不意に顔を上げた次の瞬間、彼と向かい合う様に身を屈めて居た執事がとっさに、割れたグラスを手に取り、欠けて鋭く尖った方をロナードの目を目掛けて突き出して来た。
「ロナードっ!」
それを見て、近くに居たセネトが悲鳴に近い声を上げ、遠巻きにその様子を見守って居た人々の間からも悲鳴が起きる。
ロナードがとっさに避けようとした際、近くのテーブルの脚にぶつかり、ガシャンと音を立て、上に乗って居た食器などが次々と床の上に落ちる。
「何事だ!」
騒ぎを聞き付け、カルセドニ皇子が駆け付けると、割れたグラスを手にした執事が、仰向けになって後ろに倒れたロナードの上に馬乗りになり、欠けて鋭く尖ったグラスを彼の目に向けており、ロナードがその手首を掴み、必死に抵抗していた。
彼は、最初に襲われた際に避け損ねたのか、左目を怪我したのか片目を閉じており、そこから血を流している。
ロナードは暫く、自分の上に馬乗りになっている執事の手首を掴んで抵抗していたが、駆け付けたカルセドニ皇子が、ロナードの上に馬乗りになっていた執事の肩を掴み、ロナードから引き離すと、目にも止まらぬ速さで片方の手で執事がグラスを手にしている方の腕を捩じり上げ、床の上にねじ伏せた。
「大丈夫か?」
「目から血が!」
近くに居て、驚きのあまり、その場に立ち尽くして居たセネトとエルフリーデが、揃ってハッとした表情を浮かべると、慌てた様子でそう声を掛けながらロナードの側に来ると、彼は切り付けられた目元を片手で覆いつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「こ、これ! 使って頂戴。 血が出ていますわ!」
エルフリーデはとっさに、自分が持って居たハンカチをロナードに差し出すと、
「済まない」
ロナードは、差し出されたハンカチを受け取りつつ、出血する自分の左目にそれを押し当たる。
「早く手当を!」
セネトはすっかり動転しているのか、青い顔をしてロナードの元に来て、彼を庇う様に手を回しつつ、そう声を掛ける。
「この不届き者め!」
憤るカルセドニ皇子は、自分が押さえつけている執事に対し、怒りの形相でそう言うと、持っていたサーベルの柄に手を掛ける。
「待ってくれ! コイツは操られていただけだ」
ロナードは慌てて、カルセドニ皇子の肩を掴み、そう言って止める。
「何だと?」
自分の肩を掴み、引き留めたロナードの方を見ながら、カルセドニ皇子は戸惑いの表情を浮かべて、そう呟く。
「主犯は別にいる」
ロナードは、真剣な面持ちでカルセドニ皇子に告げる。
「わ、分かった。 兎に角、お前は急いで傷の手当てを。 後は私たちに任せろ」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調でロナードに言うと、彼は頷き返した。
「行こう」
セネトが優しい口調でロナードにそう言うと、会場の外へと彼を連れて行く。
「わ、私も同行致します!」
エルフリーデが、そう言って後に続く。
「瞼とその周辺を軽く切っている程度で、傷はそんなに深く無い。 目の中にガラス片も入っても無いし……」
騒ぎを聞いて、会場に居合わせた宮廷魔術師長のサリアが、続き間になっている控室に連れて来られたロナードの手当てをしながら、落ち着いた口調で説明しながら、急いで持ち込まれた救急箱の中からガーゼを取り出し、それを怪我したロナードの左目に添える。
「良かった……」
「肝を冷やしましたわ」
サリアの言葉を聞いて、ロナードに付き添ったセネトとエルフリーデは、ホッとした表情を浮かべ、口々にそう呟いた。
「傷口は術で軽く塞いだので、傷跡が残る事も無いとは思うけれど……念の為に、塗り薬を出すから、それをちゃんと塗って、暫く養生することね」
サリアは、慣れた手つきで包帯を巻きながら、ロナードに言った。
「すみません……」
ロナードは、申し訳なさそうに言った。
「貴方もとんだ災難ね。 目を潰されなくて良かったわ」
サリアは、苦笑いを浮かべつつも、ロナードの傷が浅かった事にホッとしている様で、優しい口調でそう言った。
「ですが何故、ユリアスが?」
エルフリーデは、戸惑いの表情を浮かべ、自分の中に渦巻いて居る疑問を口にした。
「確かに。 狙うのなら兄上や僕たちか、父上だろうに……」
セネトも、腑に落ちないと言った様子で呟く。
「……セネト殿下やカルセドニ殿下、皇帝陛下は狙われるかも知れないと常に周囲の者も、当人たちも思っているので警戒をしているでしょうけれど、ロナードはそうでは無いから……。 私達の心理を逆手に取っての事かも知れません」
救急セットを片付けながら、サリアは、落ち着き払った口調で言った。
すると急に外側から扉からノックをする音がして、セネトが返事をすると扉が開き、宴の会場から騒然としている雰囲気が漂ってきた。
そこへカルセドニ皇子が入って来て、落ち着いた口調で言ってから、徐にロナードの方へと目を向け、
「目は、大事ないか?」
心配そうにそう声を掛ける。
「お蔭様で……」
ロナードは、落ち着いた口調で答えると、
「そうか。 それを聞いて安心した。 だが、お前が昼間のドラゴンを退けた術師である事は、世間に広まりつつある。 これから様々な思惑を抱いた輩がお前と接触しようと試みて来るだろう。 中には今回の様に、お前を害そうとする者も現れる。 十分に気を付ける事だ」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調でロナードにそう忠告する。
「忠告痛み入ります。 これからは、その様に心掛けます」
ロナードは、落ち着いた口調で、カルセドニ皇子に答えると、
「そうしてくれ。 さっきのは流石の私も肝を冷やしたぞ」
カルセドニ皇子はそう言うと、苦笑いを浮かべる。
「わざわざ、それを言うだけの為に、ここへ来たのでは無いですよね? 兄上」
セネトが真剣な面持ちで、カルセドニ皇子に言うと、
「先程の騒ぎで宴はお開きになった。 落ち着いた頃を見計らって自分の宮に帰る様にと、陛下からのお達しだ」
落ち着いた口調で語る。
「俺の所為で宴を台無しにして、申し訳ない……」
カルセドニ皇子の言葉を聞いて、ロナードは申し訳なさそうに言うと、
「気にするな。 昼間、あの様な事があったにも関わらず、宴を強行したのが悪い。 お開きは当然だろう」
セネトが、落ち着いた口調でロナードに言うと、カルセドニ皇子も頷きながら、
「同感だ。 被害に遭ったお前には悪いが、この程度で済んで寧ろ良かったと言うべきだろう」
落ち着いた口調で言った。
「確かに……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべつつ、呟いた。
あのまま、昼間の様な惨劇が起きても可笑しく無かったが、どうやら、執事に操作術を掛けた相手は、ロナードを仕留め損なった事で諦めた様だ。
「何にしても、今日は良く休め。 私も色々とあり過ぎて疲れた」
カルセドニ皇子は、穏やかな口調でロナード達に言うと、
「そうですね……」
セネトも溜息混じりに答えた。
「私で役に立てる事がるのならば、遠慮なく言ってくれ。 お前たちへの借りは返さねばならぬからな」
カルセドニ皇子は真剣な面持ちで、セネトたちにそう言った。
「頼りにさせて貰います」
セネトは、真剣な面持ちで返すと、
「兎に角、今後暫くは用心する事だ」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調でロナードに言うと、彼は神妙な面持ちで頷き返した。
「私は先に出るが、お前達は人が少なくなるのを待った方が良いだろう」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調でそう言うと、踵を返し、部屋を後にした。
セネトは複雑な表情を浮かべ、立ち去る兄の背中を見送った後、複雑な表情を浮かべながらロナードを見る。
彼も、何とも言い難い複雑な表情を浮かべていた。