忍び寄る影(下)
主な登場人物
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指している。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト(セレンディーネ)…エレンツ帝国の皇女。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしている。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な女性。 十九歳。
シリウス(レオフィリウス)…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ティティス…セネトの腹違いの妹。 とても傲慢で自分勝手な性格。 家族内で立場の弱いセネトの事を見下している。 十七歳。
カメリア…トロイア王国に拠点を構える、宝石の採掘、加工、販売を手広く手掛ける女性実業家で大富豪。 トスカナの取引相手。 三十歳
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
ルフト…宮廷魔術師長サリアを母に持ち、魔術師の一家に生まれた青年。 ロナードたちとの従兄弟に当たる。 二十歳。
ナルル…サリアを主とし、彼女とその家族を守っている『獅子族』と人間の混血児。 とても社交的な性格をしている。
ネフライト…第一側妃の息子でティティスの同腹の兄。 皇太子の地位にあり、現在、次のエレンツ帝国皇帝の座に最も近い人物。
アイリッシュ伯…ロナードがイシュタル教会の孤児院に在籍していた頃、彼に魔術の師事をしていた人物で、ロナードに呪詛を掛けた張本人。
セネリオ…ロナードがイシュタル教会の孤児院に居た時に親しくしていた青年。 アイリッシュ伯を師と仰ぎ、彼の研究に協力している魔術師。
リリアーヌ…イシュタル教会で『聖女』と呼ばれている召喚術を使えるシスター。 ロナードが教会の孤児院に居た頃、親しくしていた。 ロナードに対する恋心を拗らせている。
ラン…イシュタル教会に所属している、槍術を得意とする猫人族の女性。
カリン…イシュタル教会に所属する魔獣使いの少女。 カリンの相棒で、ロナードが持っている幻獣を狙っている。
エルフリーデ…宮廷魔術師をしている伯爵令嬢で、ルフトの婚約者。 ルフトの母であるサリアの事をとても慕っている
「面倒な事になりました」
サリアは、ゲンナリとした表情を浮かべながら、セネトにそう報告する。
「貴女が言う『面倒な事』とは、一体どれの事を言っているのか、見当がつかないのだが」
セネトは、苦笑い混じりに、自分の部屋に訪れ、テーブルを挟んで向かいのソファーに座っているサリアに言う。
「イシュタル教会の者たちの事です」
サリアが真剣な面持ちで答えると、セネトの表情が強張り、表情を険しくする。
「どうやら、ネフライト皇太子が持っていた転送装置の鍵を奪い、追い駆けて来ている様です」
サリアは真剣な面持ちで続けると、セネトは思い切りテーブルに自分の拳を叩きつけ、
「あの馬鹿! 何をしているんだ!」
怒りを顕わにし、声を荒らげる。
「全くです。 しかも、どうやら皇帝陛下の物を無断で持ち出していたようです」
サリアは大きな溜息を付くと、ゲンナリとした表情を浮かべながら語る。
「重ね重ね、何をしているんだ……。 陛下の物を無断で持ち出すなど……幾ら親子でも許されない事だぞ」
セネトもゲンナリとした表情を浮かべ、自分の額に片手を添えながら呟く。
「盗難防止の為に、転送装置の鍵となる魔道具に、位置を知らせる術式を組み込んでいて正解でした。 急ぎ、その鍵を使えぬ様に対処した上で、念の為、転送装置の使用を当面の間、停止させました。 ですから、彼等がこれ以上、転送装置を使って移動する事は出来ない様にしましたが……問題が一つありまして……」
サリアは、真剣な面持ちで説明をすると、セネトは彼女が物凄く歯切れが悪い事に、嫌な予感を覚えた。
(ネフライトが、奴等に掴まっているのとか言うなよ)
セネトは、一抹の不安を胸に抱きつつ、心の中で呟く。
「ティティス様が、彼等に囚われているそうです」
サリアが、ゲンナリとした表情を浮かべながら言うと、
(そっちか!)
それを聞いたセネトは、思わず心の中で呟いた。
(まあ、ネフライトは一応、武芸の心得はあるし、攻撃魔術もそこそこ使えるしな……。 それに比べれば、治癒魔術しか取り柄の無いティティスの方が遥かに御し易い。 抵抗をされても、小柄な彼女ならば、魔術師でも容易に抱えて運ぶ事が出来るだろう)
セネトは、自分の顎の下に片手を添え、真剣な面持ちでそう思慮する。
「異変に気付き、駆け付けた者の話では、ネフライト皇太子は、身分証と有り金を全て取られ、護衛の兵士たちと共に放置されていたそうです」
サリアは、事務的な口調で続ける。
(ネフライト……)
セネトは、ゲンナリ表情を浮かべ、心の中でそう呟くと、思わず両手で頭を抱える。
「ティティス皇女を引き合いに出し、ユリアスの身柄を渡す様に、皇帝陛下や第一側妃様を脅す可能性があります」
そんなセネトを前にしても、サリアは顔色一つ変えず、淡々とした口調で語る。
「確かに。 これまで、真正面からロナードを捕まえようとして、悉く失敗して来たからな。 ロナードが教会の要求に従う他ない状態に持っていくのは、至極当然の流れだろう」
サリアの指摘に、セネトは神妙な面持ちで言う。
「まあ、私がそうはさせませんが」
サリアは、不敵な笑みを浮かべながら言う。
アルスワット公爵家は代々、寺院の権力の中枢を担う老子や、宮廷魔術師長など、優秀な魔術師を輩出して来た一族だ。
祖父は寺院の老子、父は宮廷魔術師長、母は宮廷魔術師。
そんな家庭に生まれた彼女は、周囲の期待通り、とても優秀な魔術師に成長した。
彼女の祖父は、自分の後継者として、寺院の老子になる事を強く望んだが、彼女はそれを断固拒否し、父と同じく宮廷魔術師の道を選んだ。
宮廷魔術師と言う響きこそ良いが、優秀な魔術師は皆、寺院へ行く事が当たり前だった時代では、宮廷魔術師は寺院の選別から振るい落とされた、落ちこぼれの魔術師たちが行き付く先であった。
故に、その世代で最も優秀な魔術師であったサリアが、寺院の誘いを断って、宮廷魔術師になる道を選んだ事は、世間に大きな衝撃を与えた。
彼女が宮廷魔術師を選んだ事に対し、世間体を気にする彼女の祖父を中心に親戚たちからも、強い批判を受けた。
それでも彼女は、自分の意志を曲げる事は無かった。
そんな彼女の姿勢は、彼女の後に続く魔術師たちの考えに、少なからず影響を与えた。
最近は、古臭い慣習に縛られ、自由のない生活を強いられる、寺院の修道士や修道女などは、若い世代に忌避されている。
つまり、今の若者たちは名誉や権力、世間体などよりも、安定した生活と高額な給与を求めているのだ。
近隣諸国に侵略戦争をしていた一昔前なら兎も角、戦争をしなくなった昨今、宮廷魔術師ほど理想的な職種はないと言う訳だ。
故に、サリアの世代では考えられない様な、優秀な若い魔術師が何人も入って来ると言う事態になり、皇帝や第一側妃も彼女の事を無視出来ない状況になっている。
「しかし、ティティスが交渉の道具にすらならないと知れば、教会は彼女を殺しかねないぞ」
セネトは、深刻な表情を浮かべながら、サリアに言う。
「その可能性は低いと思われます。 皇族を害した罪人を帝国が逃がす筈がありません。 帝国本土とその植民地に、重犯罪者として指名手配される様な事になれば、困るのは彼等の方です」
セネトの指摘に、サリアは落ち着いた口調で返した。
「ふむ……。 それは一理あるな……」
セネトは、自分の額に片手を添え、何とも言えぬ表情を浮かべながら、サリアに言った。
「それともう一つ。 レオンが急ぎの仕事の為、帝都を離れる事になりました。 ですので、レオンが不在の間、私の目の届く範囲にユリアスを置いておきたいと思って居るのですが、許可を頂けるでしょうか?」
サリアは落ち着いた口調で、セネトに問い掛ける。
「シリウスが……」
セネトはそう呟くと、何やら思慮に耽る。
元々、自分専属の護衛騎士はギベオンくらいで、その時々によって兵士は貸し与えられるが、ギベオンほど信用出来る者と言えば、ルチル位だが、彼女も他の仕事がある為、何時も自分の護衛をさせる事は出来ない。
だからと言って、ロナードに誰も付けないと言うのも不安が残る。
「お願いしたい。 正直、ギベオンだけで僕とロナードの護衛と言うのは難しいので」
セネトは。真剣な面持ちで言うと、
「分かりました。 ユリアスの護衛に付いては、急ぎ公爵家から用意する事にします。 今回は緊急措置として私の側に置く事にします。 呪詛の事も気になりますし」
サリアは、落ち着いた口調で言うと、セネトは頷き、
「分かった」
そう返した。
「この際、心行くまで勉強して行って下さい」
宮廷魔術師たちの最高責任者であるサリアは、ニコニコと笑みを浮かべ、ロナードを自分たちの詰所と研究所がある部屋へ案内しながら、そう言った。
宮廷魔術師は、寺院の魔術師たちと混同されぬ様、黒いローブを纏うのが基本だ。
下位の宮廷魔術師は黒地のローブ、次が黒地に緑の縁取りが施されたローブ、赤、黄、緑、青、紫、銀、金の順でローブの袖や裾、襟元などに縁取りがある物になっていき、上位の魔術師になれは成る程、施される場所も増え、刺繍なども豪華になる。
それ以外にも、ブローチも階級を示している。
上から、白・紫・青・緑・黄・赤となっている。
因みにサリアは、最上位の宮廷魔術師長なので、襟や裾、袖などに金色の刺繍が施された、胸元にもダイヤモンドに金の台座と鎖が付いたブローチを付けている。
「はい」
魔術師たちが行う研究などに関心があるロナードは、期待に胸を弾ませながら、嬉しそうに返事をした。
「そもそも、紫の瞳と言うのは、『魔女の瞳』『魔眼』などと言われ、その瞳自体に凄い力を秘めて居る事は有名な話で、その所有者が術師となれば、強い魔力を持っている事は一目瞭然」
サリアは、ニコニコと笑みを浮かべつつ、ロナードに語ると、
「それは聞いた事がありますが……。 俺の場合はその力が何なのか分からないのですが」
ロナードは戸惑いの表情を浮かべつつ、彼女に問い返す。
「大丈夫。 力が発現しない人も珍しく無いですから」
サリアはニコニコと笑みを湛えたまま、穏やかな口調でロナードに言った。
「……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべつつ、彼女の話に耳を傾ける。
「紫と言うのは、古来より魔力と神秘の象徴。 アメジストと同じで、特に貴方の様に深い紫色と言うのは、とても高貴な色とされてきた歴史があるのです」
サリアは、ロナードが自分がしている事に興味を示した事が嬉しかったのか、とても饒舌に語る。
(前から思っていたが、この人……良く喋るな……)
ロナードは、ずっと上機嫌で喋って居るサリアのテンションにやや引きつつ、心の中で呟いた。
「私の下でしっかり勉強し、修練に励めば、きっと素晴らしい魔術師になれますよ。 貴方はまだ魔力のコントロールに波がありますからね」
サリアは、ニコニコと笑みを湛えたまま、ロナードに言った。
「そう言って頂けると、心強いです」
ロナードは、少し苦笑い混じりに、サリアにそう言い返した。
「さあ。ここが私たちの詰所と研究所です」
サリアは重厚な黒い扉の前に足を止めると、後ろから付いて来たロナードに言った。
「あ、お帰り」
「お帰りなさいませ」
扉を開き、中に入ると、大きな木の長テーブルが中央に鎮座しており、そこに椅子に座った、ローブを着た若い男女が、向かい合う様に座っており、サリアが戻って来た事に気が付くと、そう言って彼女を迎えた。
「只今」
サリアはニコニコしながら、自分に声を掛けて来た二人に返事をした。
「此方の方は何方ですか?」
少し癖のある背中まである黒い長い髪を下ろした、少し目尻が上がった緑色の双眸を有した、紫の糸で刺繍を施されたフード付のローブに身を包んだ、色白で小柄な、可愛らしい顔立ちの少女が、何かの薬草の葉を毟りつつ、サリアの後ろに立って居るロナードに気付き、サリアに問い掛ける。
「紹介します。 彼はユースティリアス。 ランティアナ大陸の出身で、こちらに来てまだ間が無いから、帝国の言葉はあんまり分からないの。 たまに、手伝いにここも来るから仲良くしてあげて」
サリアはニコニコと笑みを浮かべながら、物凄く嬉しそうに二人にロナードの事を紹介した。
「話には聞いていたけど、昨日の今日で来るとはね。 君も物好きだな」
先に来て居たルフトは、苦笑いを浮かべながらロナードに言った。
「物好きではなくて、勉強熱心と言いなさい!」
サリアは苦笑いを浮かべながら、ちょっと不満そうにルフトに言い返すと、
「はいはい」
ルフトは五月蠅そうな顔をしながら、肩を竦め、そう返す。
「ちょっと貴方」
長い黒髪を有した少女が、ランティアナ大陸の公用語で、何故か敵意を含んだ鋭い眼差しを向け、ロナードに声を掛けて来た。
「えっ……」
彼女の鋭い視線に、ロナードは戸惑いつつも、彼女の方へと目を向ける。
「幾らアルスワット公爵家の分家とは言え、貴方の様な異国人が図々しく、宮廷魔術師長の助手だなんて冗談ではありませんわ! どうせサリア様に強請ったのでしょ?」
鋭くロナードを睨み付けながら、強い口調で一方的に彼にそう言い放つ。
(くぅうう……悔しいけど、私より美人なのは認めるわ)
長い黒髪を有した少女は、ロナードを見つめながら心の中でそう呟くと、ボキッっと、先程まで丁寧に葉を摘んでいた植物の茎をへし折った。
「えっ……いや……えっと……」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべ、助けを求める様にサリアの方を見る。
「この子は、伯爵家の令嬢でルフトの婚約者のエルフリーデよ」
サリアは、穏やかな口調で彼女の事をロナードに紹介した。
「えっと……初めまして……?」
ロナードは、何と言って良いのか分からないので、差し当たり、エルフリーデに向かって、苦笑い混じりに挨拶をした。
「私は、貴方の様な方と慣れ合う気はありませんわ!」
エルフリーデは、ムッとした表情を浮かべ、強い口調と、物凄く険のある物言いをロナードにすると、プイと彼から顔を背けた。
(冗談じゃないわよ。 ルフトの婚約者として、彼の地位を脅かしそうな輩と仲良くなど、出来る訳が無いでしょ)
エルフリーデは、ロナードをチラチラと見ながら、心の中で呟く。
「……」
エルフリーデの態度に、ロナードは物凄く困った様な顔をして、その場に立ち尽くす。
「え、エフィ……」
サリアもロナードに対し、不愉快さを剥き出しにして居るエルフリーデの態度に、困った様な表情を浮かべて居る。
「エフィ、その態度は、あんまりじゃあ……」
テーブルを挟んで向かいに座って居た、ルフトも戸惑いの表情を浮かべ、エルフリーデに言った。
「五月蠅いですわ! 私はサリア様に取り入って、この伝統ある宮廷魔術師の地位まで用意させる様な、厚顔無恥な輩と仲良くする気なんてありませんの!」
エルフリーデは、ギロリとルフトを睨み付けると、強い口調でそう言い放った。
(アンタには、プライドってものが無いの?)
エルフリーデは、ルフトを睨み付けたまま、心の中で叫ぶ。
「大方、母上の提案なのだろう?」
ルフトは、すっかり気分を害して居る様子のエルフリーデに戸惑いつつ、徐にロナードに問い掛けると、彼は真剣な面持ちで何度も頷く。
まだ知り合って間もないが、ロナードがそんな事をサリアに頼む様な性格では無い事は、ルフトも何となく理解して居た。
「ほら。 母上にお強請りなんてして無いって、言ってるぞ」
ロナードの反応を見て、ルフトは彼を指差しながら、エルフリーデに言った。
(馬鹿なの? そんな事を尋ねたところで、『お強請りしました』って素直に認める奴が、何処に居るって言うのよ!)
エルフリーデは、ルフトに対して苛立ちを覚え、心の中でそう呟いた。
「そんな図々しい人間の言う事を信じる方が、どうかしていますわ」
エルフリーデは、チラッとロナードの方へと目を向けると、両腕を自分の胸の前に組み、軽蔑を含んだ様な物凄く棘のある物言いをルフトにした。
「俺は、魔術の勉強と修練が出来れば良くて、別に助手になりたかった訳では……」
自分の出現で、すっかり気分を害してしまって居るエルフリーデに向かって、戸惑いの表情を浮かべつつ、彼女に言った。
「でも、ルオンに居た時は、宮廷魔術師だったのでしょう?」
サリアは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに問い掛けると、
「いいえ。 カタリナ王女直属の組織で、魔物退治をしていました」
ロナードは、淡々とした口調で答えると、
「うわぁ……滅茶苦茶ハードな事してたんだな……。 エリート職なんだろうけど、僕は絶対に嫌だな」
それを聞いたルフトが、物凄く嫌そうな表情を浮かべながら言う。
「そんな危ない事をしているとは、思わなかったわ」
サリアも驚きを隠せない様子で言う。
「元々、傭兵をしていたので、魔物と戦う事に抵抗が無かっただけです」
ロナードは、苦笑いを浮かべながらそう説明する。
(なに? 可哀想な子アピール? 私はそんな事で騙されないわよ)
エルフリーデは、ロナードを思い切り睨み付けながら、心の中でそう呟く。
「兎に角、私は貴方が宮廷魔術師になる事も、サリア様のお側に居る事も認めなくってよ!」
そして、椅子から徐に立ち上がると、ロナードを指差しながら、嫌悪感を剥き出しにして、強い口調で言い放った。
(皆、コイツの見た目に騙されているんだわ!)
エルフリーデは、ロナードをギロッと睨み付け、心の中で呟く。
「……」
エルフリーデの雰囲気にロナードは圧倒され、戸惑いの表情を浮かべたまま、彼はすっかり返す言葉を失う。
(私が本性を暴いてみせるわ!)
エルフリーデは、ロナードを睨み付けながら心の中で呟いた。
「さっさと歩け!」
背後から来ている兵士にそう言われ、乱暴に背中を押されたその人物は思わずよろけて、前のめりになって扱けそうになる。
「無礼者! 私を誰だと……」
その人物はキッと兵士を睨み付け、表情を険しくし、怒鳴り付ける。
「何を偉そうに。 亡国の王子がそんなに偉いのかよ」
「そんなに粋がったって、只の負け犬だろ」
「尻尾を振る相手を真剣に探した方が、身の為だぜ」
彼を連行して居た兵士達は、口々にそう言うと、彼の事を嘲笑った。
彼等の言う通り、彼の一族は帝国からの脱却を企て、国民を率いて反乱を起こした。
それが一年ほど前の話だ……。
だが、圧倒的な軍事力を誇る帝国軍は、あっという間に彼等の国を軍艦などで包囲すると、他国との交易路を絶った。
漁師は海上を帝国軍に占拠されている為、漁に出る事が出来ず、農民は労働力である男たちを兵士に取られ、田畑を満足に耕す事も、作物を収穫する事もままならず、じりじりと追い詰められていった……。
半年が経つ頃には、領土の2/3が帝国に占領され、多くの兵士は勿論、前線で兵士たちを率いていた王太子が戦死し、その首が王都の城門に晒されると、日に日に徴兵した兵士たちを中心に、帝国へ降伏する者が増え始めた。
それでも、北部の密林地帯に逃げ込み、ゲリラ戦を繰り返し、何とか善戦して来たが……。
高齢だった国王が、蚊が媒介する疫病により死去。
他にも高齢な要人、幼い王族たちが、長引く戦の所為で満足な食事を取る事が出来ず、栄養失調で命を落とし、劣悪な環境下の中で次々と病や負傷した傷が原因で、多くの兵士や民間人たちが命を落としていった……。
降伏する二か月前からは、崩れ落ちた古代遺跡に立て籠もって居たが、帝国軍に居場所がバレてそこから離れる事を余儀なくされた。
その時にはもう僅かな兵士と、彼を含め、王族は二つ年上の姉と三つ年下の弟の三人しか残って居なかった。
弟は『最後に一矢報いる』と言い残し、戦える兵士達を率いて死地へ。
逃げられないと悟った姉は、生きて辱めを受ける位ならと、彼の目の前で自らの首を短剣で掻き切り自刃した。
彼自身も、持って居た短剣で命を絶とうとして居た所、追い付いて来た帝国の兵士に取り押さえられ、自刃をする事を阻止され、囚われの身となり、今に至る……。
今思えば、帝国の属国ではあったが、それ程、酷い扱いは受けて居らず、決して暮らしは豊かでは無かったが、国民が食べて行くには困らなかった。
嘗ての栄華を忘れられない亡き国王や、帝国の役人が目を光らせていて、何かと制約が多く、昔の様な贅沢な暮らしが出来ない事に不満を積もらせた貴族たちの浅ましい考えが、この様な悲惨を引き起こす根底となった事は否定できない……。
彼自身もまた、嘗ての栄華を忘れる事が出来ず、現状に不満を抱き、人々に武器を手にし、戦う事を様に呼び掛けた、愚か者の一人なのだから。
『祖国の威厳と権利を取り戻す』
耳触りの良い大義名分を振り翳し、駐在して居た帝国軍に対し、国内の至る所で反乱を起こしたが、結局は多くの罪も無い民を犠牲にし、美しかった国土は戦火で荒れ果て、反乱を先導した王家の者も彼一人を残し、皆、死んでしまった……。
(私は……何の為に此処に居るのか……)
兵士達に促され、歩みを進めながら、彼は何とも言い難い虚しさを覚えつつ、心の中でそう呟いた。
大きく開け放たれた、巨大で分厚い鉄の観音開きの扉を潜ると、目の前には、赤い絨毯が敷き詰められた恐ろしく広い空間が広がって居て、階段状に高くなって、その最上段には大理石だろうか、重厚で威厳が溢れる、それでいて美しい、とても立派な玉座があった。
「跪け!」
兵士が強い口調でそう言うと、持って居た槍の柄で、彼の背中を乱暴に押した。
彼は足を縺れさせつつ、その場で両膝を床に付けた。
両手には鉄製の手錠、片方の脚には逃げられぬ様に鉄の重りが付いた足枷……鉄の首輪を付けられ、逃げられぬ様に、そこから延びた鎖を後ろに居る兵士が握っている。
我ながら、何と情けない姿だろうか……。
石で出来た階段の上から、恐らく皇帝の側近と思われる男の口から、彼と彼の一族の罪状が淡々と読み上げられた。
本来ならば、極刑を言い渡されるところであるが、彼の伯母は先帝の側妃であった為、特別に恩赦が与えられた。
だが、彼は二度と祖国の地を踏む事は許されず、皇帝と帝国に忠誠を書面だけでなく、ガイア神の前で宣誓をさせられ、一族が犯した罪を生涯掛けて償う事を命じられ、彼が奇妙な気を起こさぬ様に監視が付けられた。
これは、他の帝国の植民地に対する見せしめでもあった。
もし、帝国に逆らえばどう言う事になるのか……。
彼を使って皇帝は、世間に知らしめた訳である。
そんな彼は、武芸としての才覚が無かった為、祖国では薬師として薬草学を学んでいた。
流石に帝国では、帝国に反旗を翻した国の王族と言う立場であるので、彼が復讐の為に毒物を混ぜる事が無い様、薬の調合などをする事は許されず、野草園の草取りや水やり、薬草の植え替え、宮廷内の図書館から本を借りて来たり、借りて来た本の書写などの雑務をこなしていた。
祖国では、研究室に居る事が多かったが、ここでは強い日差しに毎日晒され、彼の肌はすっかり日焼けをし、爪の間には土が入り込み、薬草と土の香りを纏う様になっていた。
その日も、何時もの様に朝早くから野草園で草取りをしていた。
色とりどりの美しいドレスを身に纏った令嬢たちや、重そうな鎧に身を包んだ屈強な兵士たちなどが行き交う様を遠目で見ながら……。
その時ふと、彼の目の前を宮廷魔術師である事を示す黒いローブに身を包んだ、背の高い、目鼻立ちの整った、明らかに異国人と思われる容姿の青年が、炎の様な全身が赤い毛に覆われた獣を従え、静かに通り過ぎて行った。
(異国人?)
彼は、髪の色こそエレンツ帝国本土の人間に良く見られる黒髪を有した、北半球の大陸の人間に見られる容姿の青年を目で追いながら心の中で呟いた。
良く見ると、その青年は瞳の色は濃い紫色で、何とも言い難い、不思議な雰囲気を纏っていた。
彼の脳裏に、幼い頃に乳母から聞いた話が過ぎった。
『紫の瞳を持つ者は、人であって、人であらず』
乳母が言うには、紫の瞳を持って居る人間は非常に稀で、その瞳には、とても恐ろしい力があって、混沌とした時代に現れては、ある者は人々を導き、国を興し、ある者は人々を粛清して国を滅ぼし、また、ある者は人々の盾となり、国を守る……。
そう言う、常人ならぬ力を持って居るのだと……。
彼は、単なる絵空事だと思って居たのだが……。
(実際に存在するのか……)
彼は、紫色の瞳を持つその青年を目で追いながら、心の中で呟いた。
この者なら……もしかすると、この不遇な状況下にある自分を解放し、自分の望みを叶えてくれるのではないか……。
彼は、見ず知らずの、名前すら知らぬその青年に対して、何故かその様に思った。
「紫色の瞳の方……ですか?」
彼の監視役兼専属侍女の二十代前後の若い女性は、ティカップに香りの良いお茶を注ぎつつ、問い返す。
「ああ。 宮廷魔術師たちが着る黒いローブを着ていて、背の高い、紫色の瞳を持った、綺麗な顔立ちをした二十歳くらいの、異国人の青年なのだが……」
彼は、ソファーに腰を下ろしたまま、侍女に言うと、彼女はティポットを徐にテーブルの上に置くと、暫く思慮した後……。
「ロナード様……の事でしょうか」
徐にそう呟いた。
「ロナード?」
彼は、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
思いの外、インパクトの無い、女の様な名前に拍子抜けする。
「はい。 何でも、視察に行かれていたセレンディーネ様が旅先で出会った方らしく……。 そのまま宮廷へお招きなさったとか何とか……」
侍女は、人から聞いた話を思い出しながら、彼にそう語った。
「旅先……やはり異国人と言う事か?」
彼は身を乗り出し、興味津々と言った様子で侍女に問い掛ける。
「ええ。 北の大陸の方だと聞いて居ます」
侍女は、ティポットを片付けながら、淡々とした口調で答える。
「そうか」
彼は、ソファーの背凭れに身を預けつつ、何処か嬉しそうに呟いた。
「確かに、この国の者とは異なる、綺麗なお顔立ちをされた方ですよね」
侍女は、彼の様子を見て、ニッコリと笑みを浮かべながら言った。
同性の彼から見ても美人だと思うのだから、異性から見れば尚更、魅力的に映るに違いない。
「だからって、ちょっかいを出し手は駄目ですよ」
侍女はニッコリと笑みを浮かべたまま、そう付け加えて来た。
「?」
彼は、侍女が何を言いたいのか理解出来ず、目をパチクリとして居ると、
「セレンディーネ皇女様の恋人だと、専らの噂です」
侍女はニッコリと笑いそう言うと、彼は口に含んで居たお茶を思い切り噴き出した。
「なっ……。 彼女は数か月前に婚約式をボイコットしたと言うのに、もう別の男を連れ込んだと言うのか?」
彼は、軽く何度か咳き込んでから、口元を手の甲で拭い、驚きを隠せない様子で侍女に問い掛けた。
「そもそも、その婚約式が嫌で逃げ出したそうです」
侍女は、彼がテーブルの上に噴射したお茶を、布巾で拭きながら、落ち着いた口調で答えた。
「な、成程……」
彼は、気恥ずかしさに顔を赤らめつつ、そう呟いた。
「それらしい理由を付けては、ロナード様をご自分の下にお呼びになり、良く、夕食やお茶の時間も一緒に過ごされているとか」
侍女は、一頻りお茶を拭き終わると、落ち着いた口調で言った。
(だから、皇女の宮の近くに居たのか……)
侍女の話を聞いて、彼は妙に納得した。
「つまり、周囲に怪しまれぬ様に、宮廷魔術師の形をしているたけと言う事か」
彼は、淡々とした口調で言うと、
「そうではない様です。 ロナード様は普段、宮廷魔術師長のサリア様に師事して頂いていると聞いています」
侍女は、持って来たケーキをナイフで切り分けつつ、落ち着いた口調で答える。
「宮廷魔術長に?」
彼は、驚き、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
宮廷魔術師長と言えば、寺院の老子には及ばないにしても、この国でもトップクラスの魔術師である事は間違いなく、そんな相手から直接、師事を受けるなど、幾らセレンディーネ皇女の口添えがあったとしても、当人がそれに見合うだけの力が無ければ、袖にされてしまうだろう。
少なくともロナードは、宮廷魔術師長自身も、自らが師事するに値する相手であると見做されていると言う事だ。
(やはり、話に聞いて居た通り、人並みならぬ力を持って居ると言う事か……)
彼は、真剣な表情を浮かべ、心の中で呟いた。
それから、二週間近くが経過した頃、彼は王宮の外れにある、宮廷魔術師たちが管理している野草園で、目的の相手を見付ける事に成功した。
目的の相手は、日中の暑さに耐えかね、羽織っている黒いローブを脱ぎ、紐で交差して居る胸元が大きく開いた白い薄手の服に、黒の七分丈のカーゴパンツに、革の紐で編み上げたサンダルと言う、物凄くラフな格好をしており、木陰の下にあるベンチに腰を下ろして、分厚い本を読みながら、涼んで居た。
その側には何時もの様に、全身が炎の様な赤い毛に覆われた獣が、俯せの状態で居た。
その脇には、宮廷内にある兵士や使用人たちなどが使う食堂で販売している、サンドイッチなど、ちょっとした軽食が入った籠の弁当箱があって、本を読みながら、サンドイッチを口に運んでいるので、少し遅い昼食を取って居るのだろう。
(やっと見付けたぞ……。 この数十日間、彼の一日の動きを聞いて回った甲斐があった……)
やっとの事で発見した相手を、植木の陰からそっと見ながら、彼は心の中で呟いた。
「あの……」
そして、意を決し、休憩中の相手に徐に声を掛けると……。
「ここは、部外者は立ち入り禁止だ。 表の立札が見えなかったのか?」
思いがけぬ事を言われた。
「えっ……」
彼は戸惑い、周囲を見回すと、確かに野草園の入り口の辺りに、割と大きめの立札があった。
(あ――……。 ホントだ)
本来の入り口では無く、植木の隙間から入り込んだ彼は、その立札の存在に気が付かなかった。
「す、済みません。 この国では珍しい容姿なので……ずっとお声を掛けたくて……』
変な所から現れた彼を、物凄く警戒した様子で見ている相手に、おずおずとした口調で言いながら、少しずつ距離を詰める。
「……アンタか。 俺の事を探っていた奴は」
相手は、相変わらず警戒した様子でそう言うと、膝の上に広げていた分厚い本を閉じた。
相手は本を小脇に抱え、ベンチから軽く腰を浮かせ、何時でもその場から逃げられる態勢だ。
「誤解です! 私はただ、異国の話を聞いてみたかっただけでして……。 疚しい気持ちを持って貴方の事を聞いて回って居た訳では……」
このままでは、話をする前に逃げられると思い、彼は慌てた様子で、両手を左右に振りながら、必死にそう弁明する。
「……そう言うお前も異国人だろう?」
相手は相変わらず、何時でも逃げられる態勢のまま、警戒した様子で言い返して来た。
「あ、はい。 私はツバル王国の王族で、この国には人質として来ました。 名は、カナデと申します」
彼は自分の胸元に片手を添え、敵意が無い事を示そうとニッコリと笑みを浮かべながら言った。
「……」
相手は、相変わらず警戒した様子で、無言で彼を見据えている。
「えっと……ロナードさま……で宜しいですよね?」
カナデは、おずおずと、今にも逃げ出しそうな相手にそう問い掛けた。
「そうだが」
相手は完全にベンチから立つと、淡々とした口調で答えた。
(困った……凄く警戒されている……どうしよう……)
明らかに、カナデが妙な真似をしようモノなら、その場から逃げ出し、人を呼ぶ気満々な相手を見て、彼は心の中で呟く。
「……用が無いのなら行くが?」
彼は、ベンチの上に置いてあった、籠の弁当箱を手にすると、淡々とした口調で言った。
「ちょっ……待って下さい!」
カナデは慌てて、思わずそう言って呼び止める。
ロナードは思いの外、カナデが大きな声で呼び止めたので、驚いた顔をして彼を見ている。
「す、済みません……」
カナデは、自分でも思いがけず、大きな声を出した事に気恥ずかしくなり、謝った。
「休憩時間が終わる。 手短に言え」
ロナードは相変わらず、警戒した様子で、カナデに言った。
「お、お願いです! 私に力を貸して下さい!」
カナデはグッと両手に拳を握りしめ、勇気を振り絞り、真っ直ぐにロナードを見据え、そう切り出した。
「は?」
ロナードは、『何を言っているんだ?。コイツ』と言う様な顔をして、思わず間の抜けた声を出す。
「ええっと……私は何れ国へ戻り、国王として国を立て直したいと考えて居まして……。 ロナード様のお力添えがあれば、とても心強いなぁと思いまして……』
カナデは、両手を自分の腹の前に持って来ると、モジモジと忙しく動かし、俯きつつも、時折、チラリとロナードを上目遣いで見ながら言った。
「何故、見ず知らずのアンタの為に俺が?」
ロナードは思い切り、怪訝そうな顔をして、冷たく言い返した。
(ですよね――……)
ロナードの反応を見て、カナデは心の中で呟くと、苦笑いを浮かべる。
「えっと……ロナード様は旅先で無理矢理にセレンディーネ皇女に連れて来られたと聞いています。何れは、私と同じ様に自国に戻り、本来の地位で手腕を振るいたいと、お考えなのでは?」
カナデは、愛想笑いを浮かべながら、ロナードに言うと、
「……違うが」
ロナードは思い切り、白けた口調で言い放った。
「え……」
ロナードの、氷の様に恐ろしく冷たい態度と口調に、カナデは一瞬にして凍り付いた。
(ええ――……)
予め集めた情報と違っていた事に、カナデは混乱し、心の中で絶叫する。
「何処から、そんな事を聞いたのか知らないが、俺は俺の意志でここに居る。 無理矢理に連れて来られて訳ではない。 人質のアンタと違ってな」
ロナードは、此処から逃げ出す事に手を貸す見返りに、カナデが国王として返り咲く事を手伝わせようと思って居た事を見抜いてしまった様で、その目は完全に、軽蔑と怒りが入り混じり、口調こそ穏やかだが、ドスの利いた低い声で言った。
(やらかした!)
ロナードの言動を見て、カナデは心の中で呟くと、両手で頭を抱える。
今日はただ、お近付きになって、徐々に親交を深めていき、信望を得てからこの話を持ち掛けようとして居たのに、ロナードの予想外の返答に動揺して、すっかり自分の企みを暴露してしまい、彼にすっかり警戒心を抱かせてしまった。
「俺が、何も知らないとでも?」
ロナードは、顔面蒼白になり、右往左往して居るカナデを、面白そうな顔をして見ながら、苦笑混じりにそう言った。
(ええ――……。 私は嵌められたのか?)
カナデは、恥ずかしさのあまり顔を赤らめつつ、両手で頭を抱え、心の中で叫ぶ。
「……今回は、聞かなかった事にしてやるが、次また同じ様な事を俺に言って来た時は……」
ロナードは、やれやれと言った様子で肩を竦め、首を左右に振ってから、徐にカナデの方へと静かに歩み寄り、動転して居る彼の肩に手をポンと置くと、淡々とした口調でそう言ってから、
「セネトに仇なす輩と見做し、躊躇なく排除する」
研ぎ澄ました刃の様に鋭く冷たい双眸で彼を見据えると、ドスの利いた低い声でそう凄んだ。
殺される―――。
ロナードに凄まれ、カナデは全身から滝の様に冷や汗を流し、蛇に睨まれた蛙の様に微動だに出来ず、ただその場に立ち尽くした。
「だ、黙れ! 皇女の愛犬如きが偉そうに! 私は決して、お前たちには負けない!」
カナデはありったけの勇気を振り絞り、表情を険しくし、強い口調で言い返すと、踵を返し、足早にその場から立ち去った。
「やれやれ。 王女の番犬の次は、皇女の愛犬か……。 犬にも色々あるんだな」
ロナードは、カナデが立ち去った方を見据えたまま、ポリポリと自分の頭を掻きながらそう呟いた。
「……と言う事があった」
カナデと出会った野草園から戻って来たロナードは、何食わぬ顔をしてルフトに、休憩時間を過ぎてここへ到着する羽目になった理由を語った。
「いやいやいや。 それ、絶対に誘いに乗っては駄目なヤツだぞ!」
ロナードの話を聞いて、ルフトは焦りの表情を浮かべながら言う。
「俺もそう思って、ちゃんと断った」
ロナードは、淡々とした口調でそう返すと、午前中にやり掛けていた、魔法帝国時代の魔導書の解読の続きを始めた。
「貴方、この前も変な輩に絡まれていた記憶があるのですけれど?」
エルフリーデは、呆れた表情を浮かべながらロナードに言うと、
「宮廷魔術師ともなると、そう言う良からぬ事を企む輩からも、声が掛かり易くなるんだろうか」
ロナードは、自分の顎の下に片手を添え、物凄く真剣な面持ちで言った。
「いやいやいや……僕は一度たりとも、そんな経験は無いぞ」
ルフトは、苦笑いを浮かべながら言うと、
「ルフトはほら、アルスワット公爵家の公子だから、滅多な事は言えないが、俺は何と言うか……素性が良く分からないから、そう言う輩に目を付けられ易いのかもな」
ロナードは、真剣な面持ちで、自分なりに分析した事を述べる。
「まあ、確かにそうですわね。 異国人で、セレンディーネ様の婚約者候補と言う事くらいしか、周りは知りませんものね」
エルフリーデも神妙な面持ちで言うと、
「それってあんまり、良い事では無いのではないか?」
ルフトが、焦りの表情を浮かべながら言うと、
「何故? 皇帝や皇族に対して、良からぬ事を企んで居る輩を炙り出せるのに」
ロナードはキョトンとした表情を浮かべ、真剣にルフトに言う。
「それはそうかもだけど、普通に危ないだろ!」
ロナードの物言いに、ルフトは軽い眩暈を覚え、片手を自分の額に添え、大きな溜息を付いてから、表情を険しくし、強い口調で言い返す。
「そうですわ。 セレンディーネ様が貴方がその様な考えを持っていると知ったら、ショックで卒倒してしまいますわよ」
エルフリーデも呆れた表情を浮かべ、ロナードに言う。
「うーん……。 そうか」
ロナードは、物凄く真剣な顔をして、両腕を自分の前に組み、そう言った。
「『そうか』じゃない! お前はどうしてそう、危なっかしい事ばかりするんだ!」
ロナードの反応を見て、ルフトは軽い苛立ちを覚え、声を荒らげる。
「別に、俺が好き好んでやっている訳では無いが」
ロナードは、ムッとした表情を浮かべながら、ルフトにそう言い返す。
「それは分かっている」
ルフトは、自分の額に片手を添えたまま、ゲンナリとした表情を浮かべながらロナードに言い返してから、
「そもそも、ナルル。 お前は側に居ながら何をしていたんだ?」
ルフトは、ロナードの護衛をしているナルルに問い掛けると、
「お昼寝をしていたゾ」
彼女は無邪気な笑みを浮かべながら、そう答えたので、それを聞いてルフトは強い脱力感を覚えた。
「はあ……。 母上に言って、君の護衛を替える様に言おう」
特大の溜息を付いて、何処か酷く疲れた様子で呟いた。
「それが良いと思うわ」
エルフリーデは、気の毒そうな視線をルフトに向けながら言う。
「別に、護衛なんてつけなくても、大丈夫なのに……」
ロナードは、不満そうな表情を浮かべながら呟くと、
「何処が!」
ルフトは物凄い形相でロナードを睨み、研究室中に響き渡る程の大声で言い返した。
それには、研究室の奥に居た他の宮廷魔術師たちも、『何事か』と言う顔をして、揃ってルフト達の方を見ている。
それに気付いたルフトは、気恥ずかしくなり、業とらしく咳払いをしてから、
「兎に角、お前は一人で出歩くな! ロクにな事にならない」
ルフトは、ロナードの鼻先に自分の人差し指を突き付けながら、物凄く真剣な顔をして言った。
その後ろで、エルフリーデが物凄く真剣な顔をして、何度もウンウンと頷いている。
「そんな大袈裟な……」
ロナードは、何故か物凄く怒っている様子のルフトに戸惑いながら言うと、
「『大袈裟』じゃない! 少しは危機感を持て!」
ルフトは表情を険しくし、強い口調でロナードに言うと、彼の鼻を掴んで思い切り抓った。
そんなやり取りがあって、数日もしない内に……。
カシャーン。
パリーン……。
陶器の様な物が、床の様な硬い物に思い切りぶつかって割れる様な音が辺りに響き渡った。
その音を聞いたルチルは、部下達と午後の予定を確認していた事もすっぽかし、急いで音がして来た方へと駆け出した。
「何だ! その反抗的な目はっ!」
誰だかわからないが、若い男のヒステリックな声が次に聞こえて来た。
辺りに、先程音を立てて割れたと思われる、大きな壺の破片と、その中に入っていた水、そして、無残に散った花が廊下一面に散乱していた。
その直ぐ側に、清潔そうな白の襟付きのシャツの上に、緑色の生地にフリルがふんだんに使い、金の糸で細やかな刺繍が施された、如何にも高そうな、しかしながら、少し悪趣味なジャケット、ジャケットと揃いのスラックス、黒革の靴と言った出で立ちの、長い茶色の髪を後ろで一つに束ねた、あまり高くない団子鼻の周りには雀斑、意地悪そうな目つきの中肉中背の若い男が、貴族の令息と思われる青年たち数人と共に、向かい合う様に立っている相手を睨み付けていた。
(あいつ……確かセティの……)
ルチルは心の中でそう呟きながら、野次馬たちに紛れて様子を見守る。
「卑しい異国人の分際で、殿下の婚約者だと? オレは認めんぞ!」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男はそう怒鳴ると、徐に、床に散っていた花の束を手にし、向かい合っていた相手に思い切りそれを投げ付ける。
「貴様の様な輩がこの宮に居る事自体が間違いだ! 不愉快だ極まりない! 即刻、ここから出て行け!」
取り巻きと思われる、別の貴族の令息が嫌悪感を露わにしながら、自分たちと向かい合っている相手にそう怒鳴り付ける。
その相手は、身を屈めているのか、足元は革のサンダル、紺色のローブの様な裾がチラリと見えた。
「何があったの?」
ルチルは、戸惑いの表情を浮かべ、自分よりも先に来ていた、近くに立っていた兵士に声を掛ける。
「る、ルチル隊長……」
「それが良く、分からないのです」
「自分たちが来た時にはもう、ギベオン様が床に倒れていて……」
兵士たちも、困惑を隠せない様子で、ルチルの問い掛けに答えた。
(ギベオンが?)
ルチルは、心の中でそう呟くと、別の角度からその様子を見ようと、集まった野次馬たちの隙間から覗き見る。
兵士たちの言う通り、ギベオンがどう言う訳か、ずぶ濡れになって床の上に倒れており、その彼を庇う様に紺色のガウンの様にゆったりとした衣を着た人物が身を屈め、片手を広げ、令息たちと対峙していた。
「ロナード?」
令息たちと対峙して居たのがロナードだと分かると、ルチルは思わず、素っ頓狂な声を上げる。
すると、その場に居た者たちの視線が一斉に自分に注がれたので、彼女は気恥ずかしくなって、咄嗟に自分の両手で自分の口元を覆う。
(これ、どう言う状況?)
ルチルは、心の中でそう呟きながら、その様子を見守る。
ロナードは、令息の一人に床の上に落ちて居た花を投げ付けられたのに、どう言う訳が、花弁一つ付いておらず、その周囲の床の上に彼に投げ付けられた花が無残に散っていく……。
ロナードは物凄く険しい顔をして、令息たちを見据えている。
「聞こえないのか! 目障りだと、言っているんだ!」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男がそう叫ぶと、ヴォンと言う音共に、水色の魔法陣が浮かび上がり、ロナードに目掛けて勢い良く水鉄砲が放出された。
柱の様に太い水鉄砲が、勢い良くロナードに向かって炸裂する。
(こんなモノをまともに食らったら、一溜りも無いわ!)
それを見たルチルは、焦りの表情を浮かべ、心の中で叫ぶと、思わずロナードの方へと目を向ける。
避ければ、後ろに倒れているギベオンに直撃し、大怪我を追うのは明らかだ。
哀れ、ロナードは水鉄砲をまともに食らい、数メートル後方に吹っ飛ばされるかと思われた次の瞬間、どう言う訳か、水鉄砲はロナードの前で四散し、無数の粒になってフワフワと宙を漂い、天井にまで到達すると、雨の様に勢い良く、その場に降り注いだ。
「んなっ……」
それを見た、緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、戸惑いの表情を浮かべ、思わず後退りをした。
「すげぇ」
「魔術の詠唱も無しに……」
それを見た兵士たちは、思わず感嘆の声を上げる。
貴族の令息たちは、緑色のジャケットを着た意地悪そうな男が繰り出した水の魔術が、ロナードの魔術の介入を受け、雨の様に頭上に降り注いだ所為で、ずぶ濡れになってしまっていると言うのに、ロナードは全く濡れていない。
貴族の令息たちはロナードの仕打ちに、ワナワナと肩を震わせ、怒りを顕わにしている。
「失せるのは貴様等の方だ」
ロナードは、怒りを顕わにしている貴族の令息たちに向かって、冷ややかな口調でそう言った。
「何を!」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、怒りで拳を震わせながら、ロナードを睨みながら呟く。
「自分の足で出て行かないと言うのなら、俺が宮の外まで送ってやろうか?」
ロナードが、不快さを隠せない様子で、ドスの利いた低い声で令嬢たちに凄んだ途端、彼の足元から勢い良く、鎌鼬の様に風が巻き起こる。
その風は勢いを増し、床の上に敷いてあった絨毯を勢い良く剥がし飛ばしただけでなく、その下にあった切り出した石を敷き詰めた床に亀裂が入り、今にも吹き飛ばさんばかりの勢いだ。
近くの壁にも無数の亀裂が走っている。
こんなモノを食らったら、貴族の令息たちはこの宮の外へ吹き飛ばされる前に、原型を留めない程の肉片にされてしまうだろう。
ロナードの怒りは相当なものである事は、嫌と言う程に伝わってくる……。
その場に居合わせた誰もが怒りを顕わにし、貴族の令息たちに対し殺意すら向け、尋常では無い魔力を振るうロナードに圧倒され、指先一つは勿論、息をのみ込む事すら出来ず、呆然と立ち尽くしていた。
ロナードを怒らせた貴族の令息たちも、流石にヤバイと思っている様で、顔を青くしてその場に立ち尽くして居る。
ロナードが繰り出した風の魔術が、貴族の令息たちに襲い掛かるのも、時間の問題だと思われた瞬間、
「何をしている!」
肌がヒリヒリする様な、緊迫した空気を打ち破るかのように、凛とした声が廊下に響き渡った。
「せ、セレンディーネ様……」
「で、殿下……」
声がした方へ思わず振り返った者たちが、戸惑いの表情を浮かべ、口々にそう呟く。
彼等の言う通り、セネトが表情を険しくして、堂々とした足取りで、ツカツカとこちらへと歩いて来ている。
「こ、これは、セレンディーネ皇女殿下」
それまで、ロナードと対峙していた貴族の令息たちは、まるで金縛りが解けたかの様に、焦りの表情を浮かべながらそう呟くと、慌てて彼女に向かって首を垂れる。
「お前達、その形はどうした?」
セネトは、自分に首を垂れている貴族の令息たちが揃って、滝に打たれたかのようにずぶ濡れである事に驚き、戸惑いの表情を浮かべながら、徐に彼等に問い掛けた。
「あ、あの者が! 我々に危害を!」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、何食わぬ顔をして、怖い顔をして自分達を睨んで居るロナードを指差しながら、セネトに言うと、他の貴族の令息たちも揃って頷く。
これでは、ロナードが悪者だ。
彼等は、そうなると確信しているのか、セネトには気付かれぬ様、こっそり勝ち誇った様に、ほくそ笑んだのを、ルチルを含め、その近くに居た野次馬たちは目撃した。
「ロナード。 これはどう言う事だ? 何故、この者たちがずぶ濡れになっているのか、僕に分かる様に説明をしてくれ」
セネトは、険しい表情を浮かべ、ロナードの前に歩み出ると、強い口調でそう言った。
「退け」
ロナードは、自分の前に立ち塞がったセネトに向かって、突き放す様な冷たい口調でそう言い放った。
「何だと?」
ロナードの態度に、セネトはカチンと来て、額に青筋を浮かべながら、彼に問い返す。
「お待ち下さい殿下!」
何の前触れも無く、野次馬たちの間から侍女がそう言って、セネトの前へと歩み出ると、彼女の前に片膝を付け、深々と頭を下げてから、意を決したように顔を上げ、
「ロナード様は何も悪くありません! 悪いのは全て其方のご令息たちです!」
その場に居合わせた誰もが分かる程、物凄くハッキリとした口調で、セネトを見上げながら言った。
「なに?」
侍女の告白を聞いて、セネトは俄かに眉を顰め、徐に自分の背後にいた貴族の令息たちへと目を向ける。
「セレンディーネ様。 この様な身分卑しき輩の戯言など、真に受けないで下さい」
戸惑う他の令息たちに対し、緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、落ち着いた口調でセネトにそう言うと、他の貴族の令息たちも、慌てた様子でコクコクと頷く。
「構わん。 証言せよ」
セネトは、落ち着いた口調で、自分の前に歩み出て来た侍女に、何が起きたのかを話す様に促す。
「この方たちは、すれ違いざまにロナード様を男娼と侮辱し、その発言を聞いて撤回する様に求めたギベオン様に対し逆上し、近くにあった壺を魔術で吹き飛ばし、それをギベオン様の頭部にぶつけ、更にギベオン様をも侮辱したのです」
侍女は、自分に厳しい視線を向けている貴族の令息たちに一瞬たじろいだが、意を決して、セネトに事情を語り始めた。
「ロナード様は、ご自分だけでは無く、ギベオン様をも侮辱したご令息さまたちにご立腹され、ご令息さまたちはその態度に怒り、魔術を使ってロナード様に危害を加えました」
彼女は、貴族の令息たちの無言の圧にも負けず、真剣な面持ちで語る。
「……この者たちがずぶ濡れなのは?」
セネトは、自分の背後に立って居る令息たちに徐に目を向けつつ、侍女に問い掛ける。
「それは自業自得よ。 そこの奴がロナードに向けて繰り出した水鉄砲の魔術を、ロナードに御されて、それを頭から浴びただけよ」
ルチルはとっさに、勇気を出して事実を証言した、若い侍女を援護する様に、セネトにハッキリとした口調で言った。
「……」
それまで、踏ん反り返って居た貴族の令息たちは、顔を青くし、身を小さくして押し黙っている。
「お前達」
セネトは、険しい面持ちで貴族の令息たちの方へと振り返り、彼等にそう声を掛ける。
「は、はい」
貴族の令息たちは、おずおずと返事をする。
「宮廷の敷地内では、私闘は御法度である事は勿論、知っているな?」
セネトは真剣な面持ちで、貴族の令息たちに問い掛ける。
「そ、そ、それは……」
貴族の令息の一人が、バツの悪そうな表情を浮かべ、口籠らせていると、
「この者が己の身分を弁えず、私達に対してあまりに反抗的でしたので、躾の為にしたのです! 決して、私闘などでは御座いません!」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男が、堂々とした口調でそう言い放った。
「『躾け』……だと? お前がロナードをか?」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男の物言いに、セネトは俄かに表情を強張らせ、唸る様な低い声で呟く。
「違います! ロナード様は何もして居ません! こちらの方が一方的に因縁を付け、ロナード様に危害を加えたのです! ロナード様からは何もしていません!」
セネトに事情を説明していた侍女が、真剣な面持ちでそう訴える。
「それは、私も証言できます!」
「私も!」
「自分も見ていました!」
あと一押しと思ったのか、周囲に居た侍女や騎士、使用人たちが口々にセネトに訴えはじめ、その様子に、貴族の令息たちは完全に自分たちがアウェイな状況にある事を悟った。
それには、ロナードも驚き、戸惑いの表情を浮かべて見ている。
この貴族の令息たちは以前から、その横柄な態度が侍女や兵士たちの間で問題視されており、彼等の事を嫌う者たちが大勢いた。
ただ、彼等たちがそれなりに高位の貴族の令息と言う事で、嫌がらせを受けても、それを訴える事が出来ない者たちが殆どであった。
「随分とお前達の言い分とは、違う様だが?」
セネトは表情を険しくし、貴族の令息たちに向かって言うと、彼等はみるみる顔を青くする。
「そもそも何故、ロナードとギベオンが、お前たちにこの様な仕打ちを受けなければならないのだ?」
セネトは、貴族の令息たちの仕打ちに怒り心頭と言った様子で、ドスの利いた低い声で彼等に言った。
「説明をするも何も……。 この者は、卑しい身分にも関わらず、自分の恵まれた見目を使って殿下に取り入ったと聞き及んでおります。 その様な者、この宮には相応しくありません。 ですから、排除をしようとしたまでの事です」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、当然と言わんばかりに、堂々とした口調で答える。
「その様な話、何処から聞いたのか是非とも知りたいものだ」
セネトは、不愉快さを顕わにしながら、貴族の令息にそう言い返した。
「同感だわ」
ルチルも、自分の胸の前に両腕を組み、淡々とした口調で貴族の令息に向かって言った。
「そ、それは皆が言っている事でして……」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、焦りの表情を浮かべつつ、口籠らせながらセネトに言った。
「皆とは、誰の事を言っているのかしら?」
ルチルが真剣な面持ちで、彼に問い返す。
「そ、それは……」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、焦りの表情を浮かべたまま、口籠らせる。
「大方、自分たちはセティに取り合ってもらえないのに、当たれ前の様に側に居るロナードに嫉妬心から、真偽を確かめもせず、出所も知れない噂話を信じて、ロナードがセネトを誑かす悪者だと決めつけたのでしょう?」
その様子を見て、ルチルは大きな溜息を付いてから、呆れた表情を浮かべ、彼に言い返した。
「と、当然ではありませんか! 彼はセレンディーネ様と婚約式を挙げようとしていたのですよ? それなのに、婚約式の前日に逃げられただけでなく、こんなどこの馬の骨かも分からぬ輩をお側に置いていると知って、黙って居られる訳がありません!」
別の貴族の令息が、そう言って緑色のジャケットを着た意地悪そうな男を擁護する。
「ほう。 お前が僕と婚約式を挙げる予定だった奴か?」
セネトは、淡々とした口調で問い掛けると、
「ご、ご存知なかったのですか?」
貴族の令息は、戸惑いの表情を浮かべながら、セネトに問い掛ける。
「あの婚約式は、第一側妃さまが勝手に決めた事だ。 僕は一週間前まで、自分が婚約式をする事すら知らなかったのだぞ。 あまりに唐突過ぎて、逃げ出す以外に何も思い付かなかった程だ」
セネトは、淡々とした口調で答えた。
「そんな筈は……ゼフィール様は、殿下も了承済みだと仰っておられました」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、動揺の色を浮かべながら言う。
「僕は、了承した覚えはない」
セネトは、冷ややかな視線を彼に向けながら、淡々とした口調で言う。
「そうだとしても、こんな仕打ちはあんまりではないですか!」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、不満に満ちた表情を浮かべ、強い口調でセネトに抗議する。
「それで、僕と婚約すると噂になっているロナードに圧力を掛け、婚約する事を辞退させようと、この様な暴挙に出たと言うのか?」
セネトは、冷ややかな口調で彼に言うと、
「そうでもしなければ、殿下は私にお会いになられないでしょう?」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、自分の行いを正当であるかのように主張する。
「会うか会わないか決めるのは、僕であってお前ではない。 何の根拠に、その様な判断に至ったのか、理解に苦しむ」
セネトは、冷ややかな視線を彼に向けたまま、淡々とした口調で返す。
「何にしても、馬鹿な事をしたわね」
ルチルは、呆れた表情を浮かべながら言う。
「全くだ。 彼は僕の兄の友人ノヴァハルト伯の弟だ。 ノヴァハルト伯が彼を迎え入れるに当たり、手続きなどを済ませる必要がある為、その間、預かっているに過ぎないと言うのに……」
セネトも呆れた表情を浮かべ、額に片手を添えながら言う。
「預かっているだけ……」
貴族の令息の一人が、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「そうだ」
セネトは、ゲンナリした表情を浮かべたまま返す。
「い、いや、しかし……。 とても親しげだと……」
緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、戸惑いの表情を浮かべながら言う。
「そりゃ何カ月も一緒に旅をして、寝食を共にしていれば、嫌でも親しくもなるわよ」
ルチルが、呆れた表情を浮かべながら、彼にそう言い返す。
「そ、そんな……」
ルチルの言葉を聞いて、緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、そこで初めて、自分がいかに身勝手な解釈をして、行き過ぎた行為をしてしまったのか気付いた様であった。
「お前たち、ギベオンを医務室に」
セネトは落ち着いた口調で、近くに居た兵士たちに声を掛けると、彼等は慌てて、気絶して床の上に倒れているままのギベオンの側へと駆け寄る。
「ロナード。 もう大丈夫だ」
相変わらず、険しい表情を浮かべたまま、貴族の令息たちの事を警戒しているロナードの前にセネトは身を屈めると、彼の肩に手を添え、優しい口調で声を掛ける。
「済まない。 セネト。 こんな事に手を煩わせてしまって……」
ロナードは、沈痛な表情を浮かべながら、セネトに言う。
「気にするな」
セネトは、優しい口調でロナードに言うと、彼の手を取り、
「立てるか?」
そう問い掛ける。
「ああ。 大丈夫だ」
ロナードは落ち着いた口調でそう返すと、スクッと立ち上がる。
「その者たちは纏めて、地下に留置しておけ」
セネトは、ロナードの手を借りながら、ゆっくりと立ち上がり、別の兵士たちにそう命じる。
「お、お許し下さい。 殿下」
自分たちを連行しようと詰め寄って来る兵士を見て、緑色のジャケットを着た意地悪そうな男は、焦りの表情を浮かべながら、セネトにそう懇願する。
「謝るべき相手は僕ではなく、ロナードとギベオンだ」
セネトは、表情を険しくし、淡々とした口調で言い返すと、彼はチラリとロナードを見る。
「謝罪を受け入れる気は毛頭ない。 宮廷内の規定を軽んじ、俺だけでなく、殿下の忠臣であるギベオン卿を侮辱し、一方的に暴行を働いたのだから、それ相応の罰を受けさせねば、殿下も周囲にも示しがつかない」
ロナードは、冷ややかな視線を緑色のジャケットを着た意地悪そうな男たちに向け、淡々とした口調で言った。
「流石。 分かっているわね。 そこの馬鹿たちとはえらい違いだわ」
ロナードの発言を聞いて、ルチルはニッコリと笑みを浮かべながら、彼に言う。
「一緒にするな」
ロナードは、ムッとした表情を浮かべ、ルチルに言い返す。
「兎に角、お前も一緒に医務室に行け」
セネトが、落ち着いた口調で言うと、
「俺は何とも無いが……」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべながら返す。
「良いから」
セネトは、何故か険しい表情を浮かべながら言う。
「……分かった」
ロナードは、そう言ってセネトの指示に従う事にした。
(大変だわ! サリア様に教えないと!)
コッソリとその様子を離れた場所から見ていたエルフリーデは、こころのなかでそう呟くと、慌ててサリアを呼びに向かった。
「う……」
ギベオンは意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けると、
「ギベオン!」
「大丈夫か?」
そう言って、左右からロナードとセネトが身を乗り出し、一斉にそう問い掛けて来たので、ギベオンは戸惑いの表情を浮かべる。
どうして自分がベッドの上に寝ているのか、ギベオンには理解出来なかった。
「良い。 そのまま横になっていろ」
セネトは、身を起こそうとしたギベオンを手で制しながら、穏やかな口調で言った。
「痛む所はありませんか?」
ギベオンは徐に、宮廷魔術師長サリアに問い掛けられると、
「いえ……別に……」
戸惑いの表情を浮かべつつ、サリアに答えた。
「軽い脳震盪を起こして居たので、今日一日は安静になさって下さい」
サリアは真剣な面持ちで、ギベオンに言った。
「済まない。 ギベオン。 俺の所為で……」
ロナードは沈痛な表情を浮かべ、ギベオンにそう謝罪する。
(ああ……そう言えば……ロナード様を庇って……)
ギベオンは何となく、自分が気を失う前の事を思い出し、ボンヤリとした表情を浮かべながら、心の中で呟く。
「お気になさらず。 ああ言った輩は何処にでも居ますので。 それよりも、お怪我は御座いませんか?」
ギベオンは苦笑いを浮かべ、穏やかな口調でロナードに言うと、彼は沈痛な表情を浮かべたまま、頷き返した。
「お前たちを襲ったのは、僕と婚約式を挙げる話が出ていた奴だ」
セネトは、近くの空いていた椅子に腰を下ろすと、両腕を自分の胸の前に組み、淡々とした口調でギベオンに語る。
「通りで……。 ですが、ロナード様を目の敵にするのは、どうかと思います」
ギベオンは、落ち着いた口調で返すと、セネトは頷き返し、
「婚約式をボイコットしたのは僕だ。 ロナードは新たな婚約者と言う噂が出ているだけで、それを理由に目の敵にするのは可笑しな話だ」
セネトは、憤りを隠せない様子で言う。
「ロナード様も、突然の事で訳も分からず、さぞ怖かったでしょう?」
ギベオンは、自分の傍らに座り、沈痛な顔をしているロナードに優しい口調で声を掛ける。
「あ、いや、俺は大丈夫……」
ロナードは、思いがけずギベオンに優しい言葉を掛けられ、戸惑いながらもそう返した。
「本当に?」
セネトは、心配そうにロナードに問い掛ける。
「ああ。 本当に驚いただけだ。 もし、怖いと思う瞬間があったとしたら、それは、俺の所為でギベオンが巻き込まれて、目を覚まさなかった事に対してだ」
ロナードは落ち着いた口調で返した。
「ロナード様……」
ロナードの言葉に、ギベオンは何とも言えぬ表情を浮かべる。
「済まない」
セネトは、沈痛な表情を浮かべ、ロナードに言うと、彼は驚いた様な表情を浮かべる。
「お前を僕の事に巻き込むつもりは無かったのだが、考えが甘かった様だ」
セネトは、沈痛な表情を浮かべたまま言うと、
「婚約者になる話を引き受けた時点で、俺もある程度の覚悟はしていた。 それでも、メリットの方が上回ると判断して引き受けた。 だから気にする事は無い」
ロナードは、落ち着いた口調で返すが、セネトは納得していない様であった。
「それでも、貴方が危ない目に遭うのは頂けないわ」
サリアが真剣な面持ちで言う。
「問題ない。 俺が代わりに不満を買う役になれば、誰がお前の味方で誰が敵なのか、ある程度は分かる。 まあ、兄上やサリアに対する当てつけの方が、多いかも知れないが……。 それに俺にも同じ事が言える。 そうすれば今後、どの様な対策を取れば良いのかも明瞭になる。 悪い事ばかりじゃない」
ロナードは、落ち着いた口調で返すと、セネトは戸惑いの表情を浮かべる。
(確かに。 これまで殿下は、第一側妃等に目を付けられぬ様、息を押し殺して来たが、良くも悪くも状況が変わった。 ロナード様の呪いを解く為、自分自身の立場を守る為、活発に動き出す様になるだろう。 それに対する周囲の反応を知る必要はある)
話を聞いていたギベオンは、真剣な表情を浮かべながら、心の中でそう呟く。
「自分の方が上だと誇示したい者、単純に俺を生理的に受け付けられない者、他にも色んな理由で自分を良く思わない輩は、何処にでも必ず一定数は居る。 腹の中でそう思って居るのは別に良い。 大事なのは、その敵意や悪意が表面に現れた時、どの様に対処するかだ」
ロナードは、落ち着いた口調で語る。
(正論だ)
ギベオンは、心の中でそう呟きながら、ウンウンと頷く。
「……お前、大人だな」
ロナードの発言を聞いて、セネトは戸惑いと呆れが入り混じった様子で言うと、
「まあ伊達に、傭兵として各地を転々としていた訳ではないからな。 嫌でも悟さ」
ロナードは、複雑な表情を浮かべ、苦笑い混じりに語る。
「まあ、敵意や悪意を向けてくる相手は排してしまえば良いですが、問題なのは寧ろ、好意を向けてくる相手ですね」
サリアが、真剣な面持ちで言うと、ロナードも真剣な面持ちで頷き返す。
「純粋に殿下に好意を抱いての事ならば、問題は無いのですが、何かの意図を持って、好意的に接していた場合は危険です。 ですが、何方なのか見極める事はとても難しい……」
ギベオンは、真剣な面持ちで語ると、ロナードも真剣な面持ちで頷き、
「俺たちの様に互いの利害が一致して、尚且つ、敵対する理由が無い場合は物凄く分かり易いが、大抵はそうでは無いからな」
重々しい口調で言う。
彼の言葉を聞いて、セネトの心はズキッと痛んだ。
確かに、ロナードの言う通り、自分たちは互いの利害が一致していて、尚且つ、敵対する理由も持たない。
だから偽りの婚約者と言う関係が成立した。
少なくとも、ロナードはそう思って居る。
けれど、自分はそれだけが理由ではない事を、セネトは気付いている。
単純に呪詛に蝕まれている彼の心身が心配であるし、呪いから解き放ってやりたいという気持ちも強くある。
母性とか庇護意欲と言うべきなのだろうか。
自分がロナードの事を強く意識している事は理解している。
「セネト?」
ロナードは、急に神妙な顔をして押し黙ってしまったセネトに対し、不思議そうな顔をして、彼女の顔を覗き込みながら、そう声を掛ける。
「あ……済まない。 それで?」
セネトは、ハッとした表情を浮かべながら、ロナードに問い掛けると、彼はキョトンとした表情を浮かべ、
「いや、別に何も言ってないが」
「あ……」
ロナードの返事を聞いて、セネトは少し気まずさと、恥ずかしさを覚えた。
「大丈夫か? 何処か具合が悪いのでは……」
ロナードは、心配そうな表情を浮かべ、セネトに問い掛ける。
「あ、いや、大丈夫だ。 そう言うのではないから」
セネトは、苦笑いを浮かべながら返す。
「本当に?」
ロナードは、心配そうな顔を浮かべたまま、セネトに問い掛ける。
「ユリアス! 大丈夫か?」
そんな事を叫びながら、ルフトが物凄い勢いで扉を開き、医務室の中に駆け込んできた。
「ルフト?」
血相を変えて駈け込んで来た息子を見て、サリアは戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「あ……。 何だ。 母上も来ていたのか……」
サリアの姿を確認するなり、ルフトは拍子抜けた様子で呟く。
「何故、貴方までここに?」
サリアが不思議そうに、ルフトに問い掛けると、
「エフィから聞いて……」
ルフトは戸惑いの表情を浮かべながら答えると、チラリと自分の後ろに居たエルフリーデの方へと目を向ける。
「エルフリーデ……。 サリアを呼んでくれたのは君だったのか」
セネトが穏やかな口調でエルフリーデに言うと、
「ぐ、偶然、居合わせただけです。 殿下は困っているのではないかと思いまして……」
エルフリーデは、視線をセネトから外し、気恥ずかしそうにしながら答える。
「君のお陰で助かった。 礼を言う」
セネトは穏やかな口調で言うと、深々とエルフリーデに頭を下げる。
「お、お止めて下さい。 殿下。 私などに頭をお下げにならないで下さい」
セネトの言動にエルフリーデは驚き、慌ててそう言った。
「私からもお礼を言わせて。 エフィ。 助かりました」
サリアは、戸惑っているエルフリーデに向かってそう言うと、頭を下げる。
「そ、そんな! サリア様まで止めて下さい!」
エルフリーデは、アタフタしながら答える。
「有難う」
ロナードも素直に礼を述べると、彼女は顔を真っ赤にし、
「べ、別に、貴方の為ではなくってよ」
そっぽを向きながら、ぶっきら棒にそう答えた。
「ロナードは新参者である事に加えて、あやふやな立場な所為で、今回の様に色んな輩から心無い仕打ちを受けて困っている。 正直、僕とギベオンだけではフォローし切れていない。 ルフトもエルフリーデも、気に掛けてやってくれ」
セネトは真剣な表情を浮かべ、エルフリーデとルフトに説明する。
「相手が直接、実力行使に出てきた場合については、僕は何も心配はしていませんが、ここは宮廷ですから、嫌がらせの手段が毎回そうだとは限りませんからね。 妙な事に巻き込まれない様に、僕がしっかり見ておきますよ」
ルフトは、何処か上から目線でそう言うと、それを聞いてセネトは苦笑いを浮かべながらも、
「その辺りの事も含めて、頼む」
そう返した。
それから二週間ほどが過ぎた頃、シリウスはハニエルを伴ってセネトを訪ねて来た。
見目麗しい二人の登場に、侍女たちは色めき立ち、シリウスにボコボコにされた事がある兵士たちは皆、顔を青くして、彼に見付からぬ様に慌てて身を隠した。
「兄上!」
部屋のノックをし、返事がしたとほぼ同時に、ロナードが物凄い勢いで部屋の中に駆け込んできた。
それには、部屋の中に居た侍女や兵士たちは驚いた。
普段の彼はとても物静かで、自分の感情を全面的に押し出す事は少ないのだが、今のロナードは誰の目から見ても、兄との久々の再会に心から喜んでいる様に見える。
シリウスもまた、見た事が無い程に優しい顔をして、ソファーから立ち上がると、自分の下へ駆け寄って来たロナードを優しく抱きしめた。
「済まん。 ユリアス。 こんなに長くお前を放って置くつもりは無かったんだが……」
シリウスは、自分に抱き付いて来たロナードに対し、申し訳なさそうな表情を浮かべながら言う。
「大丈夫です。 セネトは勿論、ギベオンや他の人達にも良くして貰っていましたから」
ロナードはニッコリと笑みを浮かべ、シリウスにそう言い返す。
「そうか」
ロナードの言葉に、シリウスはホッとした表情を浮かべながら返す。
「シリウスは貴方が臍を曲げて、口を利いてくれないのではないかと、とても心配していました」
ハニエルは、穏やかな口調でロナードに言うと、
「正直に言うと、少しは腹が立ったが、仕事だから仕方がない」
ロナードは、落ち着い嫌った口調で言うと、シリウスは申し訳なさそうな表情を浮かべ、
「本当に悪かったと思って居る」
そう言って、ロナードに心から許しを請う。
「まあ、何の説明も無しに、俺の事を放って飛び出した位だから、大変な事が起きたとであろう事は容易に想像が出来る」
ロナードは、落ち着いた口調でそう言うと、それを聞いたシリウスは、ホッとした表情を浮かべる。
「その『大変な事』について、今から話すところです」
ハニエルは、落ち着いた口調でロナードに言う。
「それを俺が聞いても大丈夫なのか?」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべながら、セネトたちに問い掛ける。
「問題が無いから呼んだんだ。 まあ座れ」
セネトは落ち着いた口調でロナードに言うと、彼に座る様に促す。
セネトに促され、ロナードはシリウスたちが座っているソファーと、セネトが座っているソファーの中間にある、空いていたソファーに腰を下ろした。
「帝国本土の北に、重犯罪者を収監している離島があるのだが、そこから『ゲオネス』という犯罪者が、複数の子分たちを連れて逃げ出したとの知らせを受けた」
「ゲオネス?」
ロナードは、聞いた事のない名前に戸惑う。
「ゲオネスですって?」
その言葉に一番敏感に反応したのはギベオンで、その表情を忽ち険しくした。
「その流刑地って三方は断崖絶壁の孤島でしょ? しかも、一番近い有人島から三日も掛るし、海上の難所として有名な場所よ? どうやって逃げたのよ?」
ルチルは、テーブルの中央に置かれて居た皿から、クッキーを一つ抓みながら、不思議そうに問い掛ける。
「恐らく、外部から逃亡を手助けした者が居る」
シリウスは、侍女が注いでくれた紅茶を一口飲んでから、落ち着いた口調で答えた。
「それが事実だとしたら、一大事だぞ」
セネトは、紅茶が入ったティカップを手にし、神妙な面持ちで呟く。
「そうね。 前の時は、物心が付くか付かないか位の話だったから、事件の事は良くは覚えてe
ないけれど、お父様や軍の幹部たちが、殺気立った顔をして、屋敷に来ていた事だけは鮮明に覚えて居るわ」
ルチルは、自分が幼かった頃に起きた、ゲオネスを中心とした、獅子族の若者たちによる反乱事件の時の様子を思い出しながら呟く。
帝都には戒厳令が敷かれ、日中も外出する事を厳しく規制され、突如として帝都に乗り込んで来た凶悪極まりない、武装した獅子族たちの若者たちが、街の至る所で繰り広げる破壊活動と虐殺に人々は怯える日々を過ごして居た。
獅子族の暴挙を鎮圧する為、帝都内外から多くの兵士たちが集められ、一カ月近い戦闘の末、首謀者であるゲオネスが、軍に捕えられた事により、戦意喪失した獅子族たちは敗走し、事態は収束した。
しかしながら、帝国軍の兵士たちを中心に、市民たちにも多くの犠牲が出て、美しかった帝都は、獅子族たちの手によって、滅茶苦茶にされてしまった。
元々、粗野で好戦的だって獅子族は、この事件を切っ掛けに、益々人間たちから忌み嫌われる様になり、多くの獅子族たちは人間たちの報復を恐れ、都市部を避け、辺境の土地へ逃れる様に移り住んだ。
「そんな危険極まりない奴が帝都に侵入してみろ。 あの出来事の再来になるぞ」
セネトは、深刻な表情を浮かべながら呟いた。
「更に質が悪い事に、彼等の脱獄に有力貴族、若しくは皇族が関わっている可能性もあるとの事です」
ハニエルは、神妙な表情を浮かべ、重々しい口調でそう語る。
「誰だ! そんな馬鹿な事をする奴は!」
セネトは怒りを顕わにし、バンと強くディスクを叩くと、そう叫んだ。
「そこまでは分かりませんが……」
ギベオンは、申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、答える。
「何にしても愚かな事だわ。 帝都を血の海にしたいのかしら」
ルチルは、嫌悪感を顕わにしながら、重々しい口調で言った。
彼女は、父親が将軍であるが故に、獅子族たちからの襲撃を受け、屋敷は半焼し、幼かった彼女と彼女の母を守る為、私兵たちを中心に多くの犠牲者を出した。
その中には、ルチルが大好きだった、彼女の乳母も居た。
彼女は、ルチルたち母子を逃がす為、自らが夫人に扮して囮となり、獅子族の手に掛り、命を奪われた。
その事を知ったルチルはショックを受け、何日も部屋に籠って、食事もまともに取る事が出来ず、昼夜を問わず泣き腫らした。
その事は、幼かったルチルに獅子族たちへの憎しみと憤り抱かせ、乳母の様な人を一人でも減らす為、そして、将軍の娘として自ら剣を手にし、人々を守る道を選ぶ理由の一つにもなった。
「その話が事実だとしたら、見過ごす事は出来ないな……。 ギベオン。 一刻も早く父上と軍の上層部にこの事を伝えろ」
セネト皇子は、事態の深刻さを理解し、真剣な面持ちでギベオンにそう命じた。
「御意」
ギベオンは自分の胸元に片手を添えると、セネト皇子に対し深々と頭を垂れ、返事をした。
「皇帝側の説得はお前たちに任せる。 私は急ぎ寺院へ赴いて事を知らせ、協力を仰ぐ」
シリウスは、真剣な面持ちでセネトに言うなり、ソファーから立ち上がる。
「兄上……」
ロナードが、戸惑いの表情を浮かべながら、シリウスを見上げ呟くと、
「済まん。 ユリアス。 この一件が片付かないと、お前を屋敷に迎え入れられそうにない。 この埋め合わせは必ず後でする。 だから、セネトの側に居ろ」
シリウスは、真剣な表情を浮かべ、ロナードに言い聞かせる様に言った。
「分かりました。 ご武運を」
ロナードは、真剣な面持ちで頷き返すと、シリウスにそう答え、彼を部屋から送り出した。
(もう二度と、帝都を血の海になどさせはしない)
セネトは、険しい表情を浮かべ、心の中で呟いた。