忍び寄る影(上)
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指している。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト(セレンディーネ)…エレンツ帝国の皇女。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしている。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な女性。 十九歳。
シリウス(レオフィリウス)…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ティティス…セネトの腹違いの妹。 とても傲慢で自分勝手な性格。 家族内で立場の弱いセネトの事を見下している。 十七歳。
カメリア…トロイア王国に拠点を構える、宝石の採掘、加工、販売を手広く手掛ける女性実業家で大富豪。 トスカナの取引相手。 三十歳
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
ルフト…宮廷魔術師長サリアを母に持ち、魔術師の一家に生まれた青年。 ロナードたちとの従兄弟に当たる。 二十歳。
ナルル…サリアを主とし、彼女とその家族を守っている『獅子族』と人間の混血児。 とても社交的な性格をしている。
ネフライト…第一側妃の息子でティティスの同腹の兄。 皇太子の地位にあり、現在、次のエレンツ帝国皇帝の座に最も近い人物。
アイリッシュ伯…ロナードがイシュタル教会の孤児院に在籍していた頃、彼に魔術の師事をしていた人物で、ロナードに呪詛を掛けた張本人。
セネリオ…ロナードがイシュタル教会の孤児院に居た時に親しくしていた青年。 アイリッシュ伯を師と仰ぎ、彼の研究に協力している魔術師。
リリアーヌ…イシュタル教会で『聖女』と呼ばれている召喚術を使えるシスター。 ロナードが教会の孤児院に居た頃、親しくしていた。 ロナードに対する恋心を拗らせている。
ラン…イシュタル教会に所属している、槍術を得意とする猫人族の女性。
カリン…イシュタル教会に所属する魔獣使いの少女。 カリンの相棒で、ロナードが持っている幻獣を狙っている。
エメラルドグリーンが眩しい、サンゴ海を船で行くこと三日……。
鬱蒼とした木々が生い茂る、大小の島々が点在する、複雑に入り組んだ地形を進んで行くと、周りの島よりも大きい島に辿り着く。
周囲は、ほぼ断崖絶壁で、安易に島に上陸出来そうにないのだが、鬱蒼と生い茂っている木々を目隠しの様にして、島の中に石造りのかなり大きな建物と、複雑に入り組んだ入り江の奥には港があり、十隻近い軍艦が停泊している。
知らなければ、誰もここに軍事施設があるなど、気付く事が無い程、巧みな造りになっている。
『お待ちしておりました。 殿下。 ご無事で何よりで御座います』
セネトたちを出迎えた兵士たの代表として、この基地を任されている司令官がやや緊張した面持ちで、下船して来たセネトに恭しく首を垂れながら挨拶をする。
整然と整列している基地の兵士たちを前に、セネトは落ち着いた口調で、
『出迎えご苦労。 皆、それぞれの持ち場に戻れ』
そう答えると、出迎えた兵士たちは、片手を胸元に添え、恭しく首を垂れると、司令官の合図でそれぞれの持ち場へと散って行った。
相変わらず、酷い船酔いに苛まれているルチルは、人目を避ける様に船の陰に隠れ、身を屈め、胃の中の内容物を海へ放出し、そんな彼女の背中をギベオンが律義に摩っている。
『レオ~ン♥』
旅の疲れの色を伺わせる彼等の下に、能天気な声を発しながら、中肉中背、緑色の双眸を有した、長い黒髪を後ろに一つに束ね、右の顎に黒子がある、黒地に金色の刺繍が施された、フード付のローブに身を包んだ、三十代前半と思われる優しそうな雰囲気の女性が、自分の声に振り返ったシリウスに抱き付く。
『ああ。 無事で何よりです。 怪我などはしていませんか?』
いきなり自分に抱きついて来た事に、戸惑いの表情を浮かべているシリウスに対し、その人物は優しい口調で問い掛ける。
『あ、ああ……』
シリウスは、ややドン引きしながらそう答えると、自分に抱き着いて来たその人物を自分から引き剥がす。
『ハニエルも無事で何よりです』
シリウスの傍らで、彼等の様子を苦笑混じりに見ていたハニエルにも、満面の笑みを浮かべながら、その人物はそう声を掛けてから、シリウスから少し離れた場所に立ち、その様子を戸惑い気味に見ていたロナードに気付くと、
『ああ。 貴方がユリアスですね?』
その人物は、ニッコリと笑みを浮かべてそう言うと、戸惑っているロナードの下へ歩み寄り、
「初めまして。 ユリアス。 私は宮廷魔術師長をしているサリア。 貴方たちの母親の従姉です。 会えてとても嬉しいです」
満面の笑みを浮かべ、ランティアナ大陸で用いられている公用語でそう名乗ると、戸惑っている彼の手を掴み、勢い良くその腕を上下させる。
「えっ。 あ、はい……」
完全に意表を突かれたロナードは、戸惑いの表情を浮かべたまま、そう返事をした。
「一目で、ローザの息子だと分かりましたよ」
サリアは、相変わらず戸惑っているロナードに、笑みを浮かべたまま言っていると、少し離れた所に居たルフトが、業とらしく咳払いをし、
『実の息子を差し置いて、分家の者に声を掛けるなんて、少し酷くはありませんか? 母上』
ルフトは、不満に満ちた表情を浮かべながら、サリアにそう声を掛けた。
『私に黙って勝手をしたのに、心配して貰おうなど、都合が良すぎはしないですか? ルフト』
サリアは、物凄く冷めた視線をルフトに向け、淡々とした口調で返すと、ド正論を返された彼は、何とも言えぬ顔をして押し黙る。
そんな息子を横目に、サリアは目の前に立っているロナードの方へ向き直ると、
「歓迎しますよ」
ニッコリと笑みを浮かべて言う。
「……有難う御座います」
ロナードは、チラリとルフトに気の毒そうな視線を向けてから、やや戸惑いながら返す。
「さて。 それでは、転送装置で一気に帝都を目指しましょうか」
サリアは、ニッコリと笑みを浮かべながら言うと、
「転送装置?」
ロナードは、疑問に満ちた表情を浮かべながら、セネトに問い掛ける。
「帝国の領内には、一定間隔を置いて、装置間での行き来が出来る、魔道具が設置されている。 無論、誰でも使えると言う訳でもないし、一度に転送出来る量や人数にも限りがある」
ルフトが、事務的な口調で説明する。
「つまり、各所に設置されている転送装置を経由して、最終的に帝都近くの転送装置にまで、一気に移動すると言う事だ」
セネトがそう付け加えると、
「そんな物が……」
ロナードは、驚きを隠せない様子で呟く。
「数日の内に帝都に着くと思います」
サリアは、穏やかな口調でそう付け加える。
「教会の連中が、ここを突き止める前に、さっさと帝都へ行くぞ」
シリウスは、淡々とした口調で言うと、
「一つ……思ったんだが、それを使えば、俺を追っているクリストファー達も、帝国本土へ来る事が出来るんじゃないのか?」
ロナードは、恐る恐るそう指摘すると、
「それは無理だ」
セネトが落ち着いた口調で、キッパリとそう断言する。
「何故?」
ロナードは不思議そうに問い掛けると、
「装置を利用するには、寺院の老子、宮廷魔術師長、皇帝の何れかから、使用の許可を得る必要があります。 そして、使用許可を証明する許可証と一緒に、装置を起動させるカギとなっている魔道具が渡されるのです。 その魔道具が無ければ、装置を使う事は出来ない仕組みになっています」
セネトは落ち着いた口調で、ロナードにそう説明すると、
「理屈は分かったが、リリアーヌとが操っている、ネフライト皇太子がそれを持っていれば、意味は無いだろう?」
ロナードが、真剣な面持ちでそう指摘すると、
「幾ら、皇太子の連れとは言え、素性の知れない連中を簡単に通す訳が無いだろ」
ルフトが、呆れた表情を浮かべながら言い返す。
「力押しでいけば済む話だ」
ロナードが、落ち着いた口調で言うと、
「例え、そこの施設を力で制圧したとしても、転送先の施設が受け入れを拒否して、転送装置を停止してしまえば移動する事は出来ない。 幾つかの施設を経由せねば、帝都には辿り着けない構造だと言うのに、 その経由地の全ての施設を力押しでと言うのは、聊か無理があると思うぞ」
セネトは、落ち着いた口調で説明する。
「そんなに心配ならば、私と殿下が連名で、今回、貴方たちを襲った輩を最重要危険人物に指定して、帝国本土へ入れない様にしましょう」
サリアは、落ち着いた口調でロナードにそう提案する。
「確かにそれならば、幾ら皇太子とは言え、危険人物を国内に入れる事は出来なくなるが……ただ、向こうが僕たちよりも先に帝都へ辿り着いていたら、何の意味もなさないぞ」
セネトは、複雑な表情を浮かべながら、そう指摘する。
「その可能性は低いと思います。 あなた方が居た島から、最も近くに転送装置を置いてある施設は此処です。 私は数日前からここに滞在していますが、皇太子殿下は来られていません。 その次に近い施設は、最低でも船で五日は掛かる場所にあります。 ですから、十分に有効な手段となりえます」
サリアは、落ち着いた口調でセネトに説明すると、
「成程。 ならば、何も迷う事は無いな」
彼女は落ち着いた口調で言うと、サリアはニッコリと笑みを浮かべながら頷く。
「何も……そこまでして頂かなくても……」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべながらサリアに言うと、
「遠慮する必要はありません。 ローザは私にとって妹も同然でした。 彼女の息子の貴方たちは、私の息子も同然です。 家族を危険から守る為に打てる手は全て打つ。 一門の長として当然の事をしているだけの事です」
彼女は真っ直ぐにロナードを見据え、落ち着いた口調で言った。
「有難う御座います」
サリアの有無も言わせぬ雰囲気に、やや圧倒されたロナードはそう言う外なかった。
ロナードの素直な感謝の言葉を聞いて、サリアはニッコリと笑みを浮かべた。
『私は、帝国の皇太子だぞ! この私の命令が聞けないと言うのか!』
後日、転送装置を使おうと、別の施設を訪れたネフライト皇太子の不満に満ちた声が、部屋中に響き渡った。
『申し訳ございません。 殿下。 幾ら皇太子殿下に使用のが許可がありましても、最重要危険人物に指定されている者を、帝国本土に入れる事は出来ません』
転送装置を管理している責任者の魔術師が、ネフライト皇太子に深々と頭を下げたまま、そう答えた。
『最重要危険人物だと? この私がか?』
ネフライト皇太子は、怒りに満ちた表情を浮かべながら、その者に問い掛ける。
『滅相も御座いません! 最重要危険人物に指定されているのは、皇太子殿下のお連れのお嬢様です』
その者は、怒鳴り付けるネフライト皇太子の声に、ビクッと身を強張らせ、声を震わせながら、そう答えた。
その場に居た者たちの視線が、一気にリリアーヌに注がれる。
『リリアーヌの何処が、最重要危険人物だと言うのだ! こんなに美しく、愛らしいと言うのに!』
ネフライト皇太子は、不満に満ちた表情を浮かべ、施設の者たちを怒鳴り付ける。
『先日、ノヴァハルト伯の弟君を誘拐し、使用を禁止されている操作系の術を掛け、セレンディーネ皇女様とノヴァハルト伯、そのお連れ様たちを襲わせた為、事態を重く見たアルスワット公爵さまが、セレンディーネ皇女様と連名で、お連れのお嬢様と仲間数名を最重要危険人物に指定されました』
転送装置の管理の責任者は、頭を下げたまま、声を震わせながら、簡潔に事情を説明する。
『なっ……』
説明を聞いたネフライト皇太子は、動揺の色を浮かべる。
『アルスワット公爵さまは、この暴挙に協力なされた、皇太子殿下も訴える姿勢の様です。 その事について、公爵様から伝言を預かっております』
転送装置の管理の責任者が静かに告げると、
『伝言だと?』
ネフライト皇太子は、思い切り眉を顰める。
『此方になります』
別の施設の職員がそう言って、掌程の大きさの綺麗な石が嵌め込まれた魔道具を、ネフライト皇太子に手渡す。
『これは、映像装置……』
ネフライト皇太子は、出された魔道具を見て、戸惑いの表情を浮かべながらも受け取ると、徐に幾つかあるボタンの中で、赤色のボタンを押すと、嵌め込まれていた美しい石が光り出し、その光はローブを着た女性の姿を映し出した。
『ご無沙汰しております。 ネフライト皇太子殿下。 この度は、殿下のお連れ様の所為で、私の可愛い従妹の息子が酷い扱いを受け、大怪我を負わされたと聞いております。 実際、彼と会ってその傷の酷さを目の当たりにして、大変、心を痛めております。 つきましては、殿下には然るべき場で、何故この様な事態に至ったのか説明と謝罪を求めたいと考えております。 私共は一足先に帝都に戻ります。 殿下もくれぐれも道中お気を付けてお帰り下さい。 帝都でお待ちしております』
魔道具の光を近くの白い壁に向けると、ほぼ実物大の大きさの、宮廷魔術師長でアルスワット公爵の現当主であるサリアの姿が映し出され、彼女は口調こそ丁寧であったが、笑みを浮かべているその顔は引き攣っており、全身から怒りのオーラを漲らせていた。
その背後には、アルスワット公爵のの分家であるノヴァハルト伯爵家の当主であるシリウスが、怒りの形相で無言で睨んでいるのが見えた。
(ヤバイ。 これはヤバイぞ! 今回の事が公になってみろ! アルスワット公爵の一門だけでなく、他の三大公爵家からも批判を受けるのは必至。 そうなれば、私の皇太子としての地位だけでなく、母上の地位も揺らぎかねない!)
この映像を見て、ネフライト皇太子はみるみる顔を青くし、心の中で呟く。
その場に居合わせた、多くの者たちも同様に思った様で、顔を青くしてその場に固まってしまっている。
『お、お兄様……』
同腹の妹であるティティス皇女も、青い顔をしてネフライト皇太子を見る。
(どうにかして、これは私の一存ではない事を証明しなくては!)
ネフライト皇太子は、焦りの表情を浮かべながら、心の中で呟いてから、
(そうだ。 リリアーヌ!)
ふと、自分の脳裏にリリアーヌの顔が浮かび、心の中でそう呟くと、自分の側に居た彼女の方へと視線を向けた。
だが、どう言う訳か、先程まで自分の側に居た筈のリリアーヌの姿が無いではないか!。
『おい。 リリアーヌは何処だ?』
ネフライト皇太子は、自分の護衛の兵士たちにそう問い掛けると、
『リリアーヌ?』
『何方の事を仰っておられるのでしょうか?』
兵士たちは、キョトンとした表情を浮かべながら、ネフライト皇太子に言う。
『何を言って……。 先程まで私の側に居た……』
兵士たちの反応に、ネフライト皇太子は戸惑いの表情を浮かべながら、そう言っていたのだが……。
(あれ? リリアーヌって誰だ? 私は此処で何をしていた?)
何だか、フワフワとした気持ちと共に、頭の中がボンヤリとしてきて、瞼がとても重く感じる中、ネフライト皇太子は心の中でそう呟きながら、ゆっくりと深い眠りに落ちていった。
(皇太子と言うから、使えるかと思ったのに、とんだ誤算だわ)
転送装置がある部屋を出て、廊下から中の様子を伺っていたリリアーヌは、部屋の中に居た者たちがバタバタと倒れていく様を見ながら、心の中で呟く。
やがて、部屋の中に居た者たちが皆、強烈な睡魔に見舞われ、深い眠りに落ちた事を確認すると、リリアーヌはゆっくりと部屋の中に入って行き、床の上に倒れているネフライト皇太子の側に来ると、徐に身を屈め、彼の懐を探り始める。
(あったわ)
リリアーヌは、ネフライト皇太子の懐から、転送装置の鍵となる魔道具を見付け出す。
「皇太子か何だか知らないけど、こんな馬鹿に、こんな重大な物を持たせては駄目でしょ」
何時の間にか現れたのか、リリアーヌの仲間であるセネリオが、床の上に倒れ、深い眠りの中にあるネフライト皇太子を見下ろしながら、呆れた表情を浮かべながら言う。
「けど、その馬鹿のお陰で、ウチ等は帝国本土へ行けるんや。 そこは感謝せな」
遅れて部屋に入って来たランが、皮肉たっぷりにそう言った。
「ほ~んと。 アリガト。 おバカな皇太子さま」
カリンは、深い眠りに落ちている、ネフライト皇太子の頭を足蹴にしながら、馬鹿にした様な口調でそう言った。
「ほら。 遊んでいないで行きますよ」
最後に部屋に入って来たアイリッシュ伯が、落ち着いた口調でリリアーヌたちに向かって言った。
「ほな。 ウチ等も帝都へ行こうやないか」
ランは、ニッと笑みを浮かべながら言う。
建物も白色に統一され、砂漠のど真ん中だと言うのに、街の中は緑に溢れ、街の至る場所に水路が張り巡らされている、とても美しい都市。
特に、熱帯地域であったトロイア王国などとは違い、同じ気温でも湿度が低い分、空気はカラリとしていて、建物の中や木々の下などでは、遥かに過ごし易い。
ただ、やはり砂漠と言う事で、日が沈むと一気に冷え込む。
この『アルマース』と言う都市は、ウエディングケーキの様に中心に向かって、土地が階段状に三層になっており、中央には下層が見下ろす様に、皇族たちが住まう王宮と、その周囲に政権や軍部の中枢を担う大貴族たち、寺院の上層部の屋敷が立ち並び、ガイア神教の本部である寺院もその一角にある。
この都市では、下の層から上の層へ上がる時は、その区画の責任者の許可書が無くては、自由に出入りする事が出来ず、人々の出入りは検問兵が居る、その層へ通じる階段を登り、検問兵の検閲を受けなければならない。
旅行者も基本的に、最上層には上がれない。
ただ最上層に住む貴族とその子弟たち、寺院の上層部、軍の上層部などは例外で、何ら制約を受けないが、寺院に住み込みで生活をしている修道士や修道女たちは、許可なく寺院の敷地から出る事は許されない。
更に、寺院への参拝者も、寺院の敷地以外の区画に立ち入る事は禁じられている。
特に、王宮の近くは、警備が厳重で、許可なく立ち入った者は捕えられ投獄されるか、その場で切り捨てられてしまう。
安易に立ち入る事が出来ぬ、謎のベールに包まれた、エレンツ帝国の皇帝の一族が住まう王宮に、セネトを先頭に、ロナード達は踏み込んだ。
巨大に聳え立つ、左右対称の白亜の王宮……。
王宮の手前には、美しく手入れが施された庭園が広がり、色とりどりの花々が咲き乱れ、その中央には瓶を抱えた美しい乙女の姿を象った噴水がある。
木々も青々と茂り、とても砂漠のど真ん中にある場所とは思えぬ、とても美しい場所だった。
その浮世離れした空間に、初めて訪れたロナードは圧倒される。
「何時見ても、圧巻ね」
カメリアは、初めてここへ訪れた時の感動が忘れられず、自分のトロイアにある屋敷を、この王宮を模して作ったと言うのに、その壮観さには毎回、圧倒されてしまう。
ランティアナ大陸でも、これ程までに壮大で美しい王宮は、存在しないのではないだろうか……。
正に、帝国の権威の象徴そのものであった。
「凄く……綺麗だ」
ロナードも、周囲を見回しながら、思わず感嘆の声を漏らした。
何カ月ぶりに、この王宮に戻って来たセネトとその一行を、行き交って居た人々が興味深そうに見ている。
ロナードの事は、周囲にその存在を出来るだけ伏せたいと言うセネト等の意向で、迎えに来たサリアと同行していた宮廷魔術師たちと同じ格好をさせられ、彼等と共に深々とフードを被り、誰が誰なのか、分からない様に紛れさせられていた。
これだけ大所帯では、出掛けた時に比べて一人や二人、増えたとしても分からないだろう。
『殿下。 私共は転送装置の点検の結果などを報告書に纏(js)めねばなりませんので、これにて失礼させて頂きます』
ここまで一緒に来てくれていた宮廷魔術師長のサリアは、セネトにそう言うと、恭しく首を垂れる。
すると、他の魔術師たちも一斉にそれに倣う。
「じゃあ、また今度ゆっくり会いましょうね。 ユリアス。 レオン」
サリアは優しい口調でロナードに声を掛けると、ニッコリと笑みを浮かべる。
「あ、はい。 色々とお世話になりました」
ロナードは、少し戸惑いながらも、サリアに答える。
「さて。 私もここでお別れね」
カメリアは穏やかな口調でそう言うと、少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「そうか……色々と世話になった」
ロナードは、複雑な表情を浮かべつつ、カメリアに言うと、
「気にしないで。 前にも言ったでしょ? 私は帝都には用事があって、貴方たちを乗せたのはそのついでだと」
カメリアはニッコリと笑みを浮かべ、穏やかな口調で答える。
「それでも、世話になった事には違いない。 直ぐには無理かもしれないが、この借りは何れ必ず」
ロナードは、真剣な面持ちでカメリアに言うと、
「ホントにもう。 律儀なんだから。 まあ、そこが貴方の良い所なのかも知れないけれど、もう少し、気楽に生きる事を覚えなさい」
彼女は、苦笑混じりにロナードに返した。
「善処する」
ロナードも苦笑混じりに答えると、カメリアは少し寂しそうな笑みを浮かべ、
「元気でね」
「カメリアも」
ロナードはそう返すと、微かに口元を綻ばせる。
「行こうか」
セネトは、穏やかな口調でロナードにそう声を掛けると、彼は頷き返し、セネト等の後に続く。
『ねぇ、聞いた? セレンディーネ殿下、婚約式が嫌で国外へ逃げ出したのに、帰って来た時に、誰か連れ帰ったらしいわよ』
『知ってる。 若い男だって話でしょ? それも凄く綺麗な』
『婚約式をドタキャンしたって言うのに、婚約者でもない若い男を連れ込むなんて、どういう神経しているのかしら』
廊下を歩いているギベオンの耳に、侍女たちがその様な話をしているのが聞こえてきた。
「……」
侍女たちが噂話好きなのは、今に始まった事ではないが、既にロナードの事がここまで広まってしまっている辺り、彼女たちの情報の速さには、ギベオンは毎回感心する。
(また、頭痛の種が一つ増えてしまった……)
ギベオンは、ゲンナリとした表情を浮かべ、心の中でそう呟くと深々と溜息を付いた。
シリウスは一旦、ハニエルと共に自身の屋敷に戻り、屋敷の警備状況などロナードを受け入れる体制が整っているかの確認、ロナードを自分の弟として迎えるのに必要な法的な続きなどをする為、ロナードは暫くの間、セネトの下に滞在する事になった。
(昨日は、良く眠れたのだろうか……)
ギベオンは、そんな事を思いながら、ロナードの様子を見に彼に貸し与えている部屋へと向かう。
すると、彼の身の回りの世話をさせる為、セネトが付けた三人侍女たちが、彼の部屋の前に立って居て、何やらクスクスと笑って居る。
その笑みには、明らかな悪意が感じ取られ、ギベオンは思わず眉を顰めた。
『着替えが無いから、きっとまだ寝間着のまま、困り果てた顔をして私たちが来るのを待っているに違いないわ。 フフフッ』
『無駄に顔だけが良いだけだもの』
『ホントよ。 体付きも凄くヒョロヒョロで、死人みたいに色が白くて気味が悪いわ。 殿下もあんな、女の様な男の何処が良いのかしらね」
侍女たちは下品な笑みを浮かべながら、口々にロナードの陰口を言っている。
ロナードが異国人で、しかも十数年前まで帝国と敵対し、戦争をしていたランティアナ大陸の者だと言う話は、既にこの宮の者には知れ渡っている様で、その所為で、彼に対して悪意を抱く者もいるだろうとは、セネトもギベオンも予想はしていたが……。
まさか、こうも露骨に嫌がらせをするとは、思いもしていなかった。
『こんな所で何をしている?』
ギベオンは落ち着き払った口調で、部屋の前に立っていた三人の侍女たちに声を掛ける。
『ぎ、ギベオン様……』
侍女たちは、ギベオンの登場に一瞬たじろいだが、その中で年長の侍女が何食わぬ顔をして、
『朝の御仕度を手伝おうと来たのですが、ランティアナの文化が良く分からず、どうしたモノかと思っておりまして……』
尤もらしい理由を付けて、そう答えてきた。
『ここは帝国だ。 帝国のやり方でと殿下も昨日(GK4)仰った筈だ。 ロナード様も了承していらっしゃる』
ギベオンは、落ち着き払った口調で侍女たちに言うと、扉をノックした。
「ギベオンです。 ロナード様。 お目覚めですか?」
そして、部屋の中に向かってそう声を掛けるが、中から返事がない……。
ギベオンと侍女たちは、戸惑いの表情を浮かべ、互いの顔を見合わせてから、
「失礼します」
ギベオンが慌てた様子でそう言うと、急いで扉を開いて部屋の中に入ったので、侍女たちも戸惑いながらも彼の後に続いた。
部屋に入って直ぐの広めの空間には、来客者の応対の為のローテーブルやソファーなどが中央に配置されているが、そこにロナードの姿は無い。
ギベオンはそのまま、奥の続き間に足を運ぶ。
案の定、天蓋の掛った寝台の上に、ロナードはまだ横になって、爆睡しているではないか。
(えっ……。 有り得ないんですけど……)
(マジで?)
(寝間着で居るだろうとは思ったけど、まさか、私たちが起こしに来るまで寝てるなんて……)
自分たちが入って来たにも関わらず、爆睡して居るロナードを見て、侍女たちは心の中で呟く。
ギベオンは『はぁ』と壮大な溜息を付いてから、額に片手を添える。
「ロナード様。 起きて下さい」
仕方なく、眠って居る彼の下へと歩み寄ると、そう言って、彼の肩を掴み、軽く体を揺らす。
「ん……」
ロナードはそう言いながら、ゆっくりと目を開けた。
「おはようございます。 お目覚めの時間は当に過ぎておりますよ」
ギベオンは、穏やかな口調でロナードに言うが、彼はまだ眠いのか、ボンヤリとした表情を浮かべ、彼を見つめたままボーとしている。
「あの……」
惚けた顔をして、自分を見ているロナードに、ギベオンは戸惑いの表情を浮かべつつ、声を掛けるが、無反応だ。
(これは……目は開けているが、寝ているのと同じ状態なのでは?)
ロナードの様子を見て、ギベオンは心の中で呟いている端から、彼がまたウトウトとし始めたので、
「起きて下さい!」
ギベオンは慌てて、ロナードの肩をガッと掴むと、彼はキョトンとした表情を浮かべ、彼を見つめ返す。
(無防備過ぎだろ……)
ロナードの間抜け過ぎる顔に戸惑いながらも、ギベオンは心の中で叫ぶ。
「兎に角、体を起こして下さい」
ギベオンはそう言いながら、ロナードの背中に腕を回し、彼を起き上がらせようと試みる。
「ん……」
ロナードは、気怠そうな様子でそう言いながら、ゆっくりと身を起こす。
少し大きめの寝具であった為、眠っている間に着崩れして肩が顕わになり、大きく開いた襟元からは、チラリと胸元が顕わになっていて、上着の裾の一部が捲れて、腰の辺りが顕わになり、その姿が何とも言えぬ色気があって、それを見た侍女たちが当てられ、思わず鼻血を吹き出しそうになる。
(こ、これは……。 朝から色んな意味で目に毒だ! とても殿下に見せられない!)
ギベオンも顔を真っ赤にしたまま、心の中で叫び、慌ててロナードから目を逸らした。
周囲の反応など気にしていない様で、ロナードは寝台の上にチョンと座ったまま、相変わらず、ぼーとして居る。
(前から思って居たが、本当に寝起きが悪いな……この人……)
ギベオンは、心の中で呟くと、ゲンナリとした表情を浮かべる。
ここまで移動を一緒にしている間、ロナードが朝、決まった時間に起きて来た事はなく、朝食も平気で抜く事は知ってはいたが……。
「あの……起きてます?」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべながら、ロナードに問い掛ける。
「一応は……」
ロナードは、ぼーとした表情を浮かべたまま、ギベオンにそう答えてから、
「済まない。 朝は滅茶苦茶弱いんだ……」
ロナードは、眠たそうな顔で、気怠そうにギベオンにそう言いながら、徐に片手で前髪を掻き上げると、『はあ』と溜息を付いてから、
「水を持って来てくれるか?」
ロナードは徐に、侍女たちに向かってそう言うと、ロナードを見入って居た侍女たちは揃って、ハッとした表情をうかべ、
「は、はい」
「只今」
そう言って、隣の広い部屋に水差しに水が入っているので、急いで取りに行く。
『ヤバイ。 ヤバイ。 ヤバイ……』
『朝から刺激が強過ぎよ!』
『殿下のお客人じゃなきゃ、直ぐに押し倒してるわよ』
侍女たちは口々にそう言いながら、中央に置かれた水差しの中に入っている水をグラスに注ぐ。
ロナードは彼女たちが持って来た水を一気に飲み干すと、少しは目が覚めたのか、目付きがしっかりして来た様に思える。
「お召替えのお手伝いを……」
侍女の一人が、おずおずとした口調でロナードに言うと、
「ああ……。 着替えはその辺に置いてくれ。 自分でする」
彼は、のっそりとベッドから立ち上がりながら、素っ気ない口調で答える。
「えっ……でも……」
侍女の一人が、戸惑いながら口籠らせ、彼を見上げる。
「その位の事は自分で出来る」
ロナードは、淡々とした口調で、戸惑って居る侍女たちに言った。
「ロナード様。 ランティアナでは、王侯貴族などの身分の高い方でも、庶民たちの様に自分で朝の身支度をなさるのですか?」
すっかり困り果てている侍女たちを見かねて、ギベオンが徐にロナードに問い掛けると、
「いいや。 普通は使用人たちにさせる」
ロナードは、サラッと何食わぬ顔をして答えた。
「でしたら……」
ギベオンは、ゲンナリとした表情を浮かべ、ロナードに言うと、
「俺は、人に裸を見られたり、体を触られるのが嫌いなんだ」
彼は、困った様な表情を浮かべ、侍女たちに目を向けながら、そう答えた。
「……」
そこまで言われると、ギベオンも侍女たちも、無理矢理に脱がす訳にもいかない。
「これから着替えは、俺が分かる所に置いてくれ。 自分で着替える。 手伝って欲しい時は声を掛けるから」
ロナードは、落ち着いた口調で侍女たちに言った。
「分かりました」
ロナードの様子からして、侍女たちに譲歩する気配が無いので、ギベオンは『仕方がない』と思い、そう答えた。
「隣の続き間に控えております。 身支度が済まれましたら、お声を掛けて下さい。 殿下が共に朝食をと仰られておりますので、そちらへご案内致します」
ギベオンは、落ち着き払った口調でロナードに言うと、
「……分かった」
ロナードは、淡々とした口調で答えた。
『ホント調子、狂うわね』
侍女の一人がポツリとそう呟くのが聞こえ、ギベオンは全くその通りだと思った。
「随分と朝寝坊だな? また具合が悪いのではないかと心配したぞ」
遅れてやって来たロナードに向かって、待ちぼうけを食らったセネトは、苦笑いを浮かべながら言った。
流石にセネトも昨日、長旅を終えて着いたばかりで、ロナードが疲れて居たのだろうと言う事は分かるらしく、五月蠅く言う気は無いようだ。
「待たせて済まない」
ロナードは、申し訳なさそうにセネトに言った。
「顔色は悪く無さそうだが……本当に大丈夫か? 無理はするな」
セネトは心配そうにそう言いつつ、ロナードに仕草で座る様に勧める。
「大丈夫だ。 お前もする事があるだろう? 早く食べよう」
ロナードは、落ち着いた口調で答えると、近くの席に腰を下ろす。
居合わせた侍女たちや兵士たちは、この国の皇女であるセネトに対して、タメ口を叩くロナードに、臣下のギベオンもセネト自身も咎めない事に驚く。
周囲が戸惑って居る事を余所に、二人はそのまま黙々と食事を始めた。
「そうだ。 ロナード」
暫く食事をして居たが、セネトがふと手を止め、そう声を掛けると、パンに手を延ばそうとしていたロナードはそれを止め、
「ん?」
「シリウスの用事が終わるのに、もう暫く掛りそうだ。 その間に生活に必要な物を揃えておこうと思うが、何か要る物はないか?」
セネトは真剣な面持ちで、テーブルを挟んで向かいに座っているロナードに問い掛ける。
「帝国の言葉や文化、作法などを教えてくれる人を手配してくれないだろうか」
ロナードは、落ち着き払った口調でそう答えた。
「分かった。 急ぎ用意をさせよう」
セネトは、ロナードが自分の予想通りの要求をして来たので、満足そうに笑みを浮かべながら言った。
「頼む」
ロナードは、淡々とした口調で応じる。
教師など付けなくても、ロナードならば一人で勉強しそうな感じではあるが……。
「他に要る物は?」
セネトは、穏やかな口調でロナードに問い掛ける。
「本……かな。 出来れば、ランティアナ語で書かれた物が欲しい。 あとは魔道書でもあれば、当面は暇を持て余す事はない」
ロナードは、淡々とした口調で、そう答えた。
「分かった」
セネトはそう返すと、また暫くの間、二人の間に沈黙が流れる。
「お前……また、そうやってトマトを……」
ロナードが皿の隅に、皮が付いたまま焼かれた付け合わせのトマトをよけている事に気付き、セネトは呆れた表情を浮かべながら言う。
「嫌いだから、仕方が無いだろ」
ロナードは、ムッとした表情を浮かべながら言い返す。
「お前、好き嫌いせずに、何でも食べないと駄目だぞ?」
セネトは、呆れた表情を浮かべながら言うと、
「トマトなんて、食べなくても生きていけるだろ」
ロナードは相変わらず、ムッとした表情を浮かべたまま、口を尖らせながら言う。
「それは、そうかも知れないが……」
セネトは、困った表情を浮かべながら言うと、ロナードは嫌そうな顔をしながらも、渋々と言った様子でトマトを口に運ぶ。
(未来のお前は、何でも食べていた気がするが、あれは呪いの所為で、味覚が死んでいたからか?)
セネトは、物凄く嫌そうな顔をして、フォークに突き刺したトマトを口の中に押し込んでいるロナードを見ながら、心の中で呟く。
「全く。 そう言う所は本当に子供っぽいな。 お前は」
セネトは、トマトを前にして百面相しているロナードを見て、思わず可笑しくなってクスクスと笑いながら言う。
「食えと言ったのは、お前じゃないか」
ロナードは、ムッとした表情を浮かべ、セネトに言い返す。
「悪い悪い。 そうむくれるな」
セネトは笑いながらそう言うと、徐に自分の指先で、ロナードの口元に付いたトマトの破片を拭う。
「――っ」
セネトの仕草にロナードは恥ずかしかったのか、忽ちトマトの様に顔を真っ赤にする。
(可愛いな)
そんなロナードを、セネトは笑みを浮かべながら、心の中でそう呟いた。
(婚約者らしく装えとは言ったが、此処までしろとは言っていないぞ)
そんな二人を、後方に控えて見守っていたギベオンは、物凄く冷めた視線を二人に向けながら、心の中で呟く。
「昨日は到着が遅かったので、色々と説明などをする暇がありませんでしたが、これから少し、王宮を出入りするに当たり、注意するべき事などをお伝えしても構いませんか? 貴方は当面の間、殿下の婚約者という立場ですから、王宮を出入りする事は勿論、場合によっては今回の様に滞在する事もあるかと思いますので」
朝食を終え、セネトに貸し与えられた部屋に戻ったロナードに、ギベオンは穏やかな口調でそう切り出した。
「宜しく頼む」
ロナードはそう言いながら、近くにあったソファーに腰を下ろした。
「一先ず自分が今、思い付く事をお話しします。 追々、付け加えられる可能性もありますが、これはあくまで、必要最低限の事だと思って下さい」
ギベオンは、テーブルを挟んで向かいのソファーに腰を下ろすと、真剣な面持ちでロナード語った。
「分かった」
ロナードも真剣な面持ちで頷き返す。
「そうですね……。 まず、絶対に人から物を貰わないで下さい。 お茶会や食事に誘われた場合も全て断って下さい。 飲食も出来る限り、自分や護衛が居る時になさって下さい。 部屋に用意されている水差しであっても、毒などが盛られている可能性があります。 口にする際は注意して下さい」
ギベオンは、落ち着き払った口調で、ロナードに語ると、
「!」
ロナードの表情が俄かに強張る。
「宮廷と言う所は、欲望と愛憎の渦巻く場所です。 己の出世や保身などの為に、平気で他者を陥れる事は勿論、暗殺など、手段を選ばぬ輩が多く集まっています。 それをまず、肝に銘じて下さい」
ギベオンは、真剣な面持ちで続ける。
「……俺を消しても、誰の得にもならないと思うが……」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべながら、ギベオンにそう言い返すと、
「貴方はそうお思いでしょうが、他の者も同じ考えとは限りません。 事実。 殿下が貴方を連れて来たと言うだけで、既に多くの者が貴方に興味を抱いています。 それに加えて近く、貴方は殿下の婚約者として世間に広く知られる事になります。 殿下の婚約者とだけで、殿下に対して良からぬ感情を抱いている輩の矛先が、婚約者である貴方に向く可能性も大いにあり得ます」
ギベオンは、真直ぐにロナードを見据え、真剣な表情を浮かべ、落ち着き払った口調で語る。
「成程……」
ロナードは、神妙な表情を浮かべ、呟く。
「それと、ここでは根の葉も無い噂も多く飛び交います。 周囲から情報を得る事は大事ですが、一々、噂を気にしていては身が持ちません。 適度に無視する術も身に付けて下さい」
ギベオンは、落ち着いた口調で語る。
(流言で、相手を陥れると言う訳か……)
ロナードは真剣な面持ちで、心の中で呟く。
「……善処しよう」
ロナードは、落ち着いた口調で答えると、
「そうなさって下さい」
ギベオンは頷きながら言った。
「そう言えば、これを殿下から預かっていました」
ギベオンは思い出した様にそう言うと、徐に懐から何かを取り出し、それをテーブルの上に置く。
それは、虹色の光沢を持つ、銀製と思われる、細やかな模様が刻まれた腕輪であった。
「腕輪?」
ロナードは、テーブルの上に置かれた物を見て、戸惑い気味に呟く。
「解毒効果を持つ腕輪です。 この様な場所ですので、念の為に身に付けられた方が良いだろうと、殿下が用意なさった物です」
ギベオンは、落ち着いた口調で説明すると、
「……」
ロナードは何とも言い難い、物凄く微妙な表情を浮かべ、暫く、その腕輪を見てから、
「付けて貰えるか?」
ギベオンにそう言うと、自分の左腕を差し出した。
「あ、はい……」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべつつ、テーブルに置いていた腕輪を手に取ると、ロナードが差し出した左の手首の辺りに付ける。
「有難う」
ロナードはニッコリと笑みを浮かべ、ギベオンにそう言うと、彼は何だかとても複雑な顔をして、
「あの……」
おずおずと、そう切り出す。
「?」
ロナードは、複雑な顔をして自分を見ているギベオンを、不思議そうに見る。
「付けてしまった後に言うのも何ですが……。 もう少し用心した方が宜しいかと思います。 もしこの腕輪が、身に付けた者を従属させる様な物だったら、どうするのです?」
ギベオンは、気まずそうな表情を浮かべつつ、徐にロナードに言った。
「……」
ロナードは、キョトンとした顔をして、ギベオンを見る。
「先程の『人に物を貰わない』と言いましたが、自分も含まれるべきと思うのですが」
ギベオンは複雑な顔をして、重々しい口調で忠告する。
「ギベオン」
ロナードは、気まずそうな顔をして、自分を見ているギベオンを真っ直ぐ見据え、真剣な面持ちで声を掛けると、
「はい」
ギベオンは少し、緊張した様子で返事をした。
「お前は幾ら主の命令でも、人の道から外れる事をする様な奴では無いだろう?」
ロナードは、落ち着いた口調でギベオンに言うと、ニッコリと笑みを浮かべる。
「―――ッ!」
ロナードの言葉を聞いて、ギベオンは酷く驚いた様な、衝撃を受けた様な、そんな顔をして、弾かれた様にロナードを見上げる。
「俺もそれなりに、人を見る目はあるつもりだ。 お前は自分にも相手にも誠実で、信用に値する人物だと思っている。 もし、お前が言う様な効果を齎す物であれば、一瞬でもお前は付ける事に躊躇する筈だ。 だから、腕輪を付ける様に頼んだんだ」
ロナードは、驚き戸惑っているギベオンに対し、落ち着いた口調で語ると、意地悪な子供の様な笑みを浮かべる。
「……」
ロナードの言動を見て、ギベオンは戸惑いの表情を浮かべ、彼を見ている。
つまり、ロナードはそんな事は、お見通しだった訳だ。
「ここに居る者たち程では無いかも知れないが、俺もそれなりに人を疑う事もするし、さっきみたいに相手を試す様な事も、騙す様な事もする。 良くも悪くも、それ位の悪知恵はある」
ロナードは、戸惑いと、一抹の罪悪感を抱いている様な顔をして居るギベオンに対し、落ち着いた口調で語る。
「済みません。 余計な事を……」
ギベオンは俯き、申し訳なさそうにロナードに言うと、
「いいや。 お前は純粋に俺の事を心配して言ってくれたのだから、咎められる謂れはない。 寧ろ、俺の方こそ、細かい所にまで気遣ってくれるお前の優しさに、感謝しなければならない位だ。 有難う。 ギベオン」
ロナードは、落ち着いた口調でそう答えると、彼に対し、屈託のない笑みを浮かべる。
「――っ……」
ロナードの笑顔を見て、ギベオンは一瞬にして心を奪われた。
(この微笑みは反則だ。 この人は、自分が人間タラシだと分かっているのか?)
ギベオンは思わず、自分が赤面しているのを隠す為に俯き、自分の口元に片手を添えながら、心の中で呟いた。
ロナードは、自分の微笑みがどれ程の破壊力を持っているのか分かっていて、この様な事をしているのだろうか……。
「俺は、お前は信用するに値する相手だと思っている。 もし、そのお前に裏切られる様なら、俺はその程度の人間だと言う事だ」
ロナードは、真剣な表情を浮かべ、重々しい口調でギベオンに言うと、
「ロナード様……」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべ、ロナードを見る。
「そんな事にならない様、俺が今出来る事を精一杯しなければ」
ロナードは、穏やかな口調でそう言うと、ニッコリと笑みを浮かべた。
「……そう……ですね」
ギベオンは複雑な表情を浮かべ、歯切れ悪く、そう答えた。
『おい見ろよ』
『あれが噂の……』
『美人だな』
『本当に野郎かよ?』
庭で朝の稽古を終えて一休みしていた騎士たちは、壁のない柱だけが並んだ長い廊下の階段の所で、休憩して居た自分たちから見て、奥の方からこちらへ向かって来ている、背の高い人物に目に好奇心に満ちた目を向けながら、口々にそう言った。
サラリとした闇夜の様な少し長めの漆黒の髪、ガウンの様な、ゆったりとした袖口が大きな紺色の衣を身に纏った、長身な眉目秀麗な青年……。
手元の本に夢中になっているのか、騎士たちが好奇に満ちた目で、自分を見ている事に全く気付いていない様であった。
騎士たちの中でも、一際体の大きな男が、こちらへ近付いて来る漆黒の髪の青年の前を阻むように、態と歩み出た。
案の定、その大柄な騎士の肩と、漆黒の髪の青年の二の腕辺りがドンとぶつかり、彼は少し驚いた顔をして、徐に顔を上げた。
(うお! 近くで見るとすげぇ美人だ。 ホントに野郎なのか?)
漆黒の髪の青年にぶつかった大柄な騎士は、その相手を見て心の中で呟いた。
北半球にある、ランティアナ大陸の者と言う話は誰からか聞いて居たので、背丈だけはぶつかった騎士よりも頭一つ分ほど高かったが、肌の色も白く、普段、同僚の騎士たちのゴッツイ体を見ている彼からすると、漆黒の髪の青年は華奢な体付きに見えた。
『済まない』
漆黒の髪の青年は、ボソッとそう言うと、ペコッと軽く頭を下げ、自分がぶつかった大柄な騎士の横を通り過ぎようとした。
『おいおい。 自分からぶつかっておいて、そりゃねぇだろ?』
大柄な騎士は、意地の悪い笑みを浮かべそう言うと、自分の横を通り過ぎようとした、漆黒の髪の青年の腕を掴み、引き留めた。
声色で分かっていたが、やはり腕を掴んだ感触が、女性の柔らかなフワッとしたものと違い、自分達と同じ様に堅く筋肉質であったので、男である事は間違い無さそうだ。
漆黒の髪の青年は、少し困った様な顔をして、自分を引き留めた大柄な騎士を見ている。
その面差しにまだ少年の様な幼さがあるので、年の頃は二十歳になるか、ならないかと言った所だろう……。
『よぉ。 お兄ちゃん。 ここに来て間もないんだろう?』
『おれたちが、色々と教えてやろうか?』
『それこそ、手取り、足取りよぉ』
他の騎士たちが、下品な笑みを浮かべながら、ゾロゾロと漆黒の髪の青年の周りを取り囲むと、彼は、ウンザリした様な表情を浮かべ、軽く溜息を付いてから、
「言っている言葉は分からないが、通して貰え無さそうだな……」
漆黒の髪の青年は、落ち着いた口調で呟いた。
『あ? 今、何て言った?』
別の騎士が、思い切り眉間に皺を寄せつつ、ロナードに問い掛けると、更に別の騎士が、
『コイツ、オレ達の言葉が分かって無いんじゃないのか?』
彼の言う通り、漆黒の髪の青年は、物凄く困惑した表情を浮かべて居る。
『そいつは良い……』
垂れ目の騎士がそう言うと、漆黒の髪の青年の肩に手を掛ける。
着ていた衣服の襟足の間から、僅かに覗かせる長めの髪が少し掛った首筋、長い睫毛に、不思議な雰囲気を漂わせる深い紫色の瞳、困っている様なその表情が妙に色っぽく、騎士は思わずゴクリと息をのんだ。
『少し、おれたちの遊び相手になってくれよ』
漆黒の髪の青年の肩を掴んで居る騎士は、下心丸出しの下品な笑みを浮かべ、彼にそう言った。
『そりゃ良い考えだ』
『どうせ夜な夜な、殿下にご奉仕してるんだろ?』
『女とやるのとは別の良い事を教えてやるぜ』
漆黒の髪の青年を取り囲んでいた騎士たちも、皆一様に下品な笑みを浮かべつつ、その様な事を言い放った。
そして、彼の肩を掴んでいた垂れ目の騎士が徐に背後から、漆黒の髪の青年の襟首から胸元へ、服の中に手を突っ込もうとした途端。
「くたばれ! この下衆がっ!」
漆黒の髪の青年は、キッと表情を険しくすると、嫌悪に満ちた表情を浮かべ、吐き捨てる様な口調でそう言うと、いきなり、自分の肩を掴んで居た騎士の脚に自分の足を掛ける様にして、石で出来た廊下の上に、思い切り自分の足元に向かって背中から投げ落とすと、間髪置かずに、その顔に踵落としを見舞った。
『んなっ……』
『えっ』
『ちょっ……』
いきなり仲間の騎士が思い切り投げ飛ばされ、顔面に踵落としを食らい、鼻血を出して気絶したのを見て、側に居た騎士たちはたじろいだ。
「次にこうなりたい奴はどいつだ? 纏めて病院に送ってやるから掛って来い!」
漆黒の髪の青年は素早く身を翻すと、先程までの物大人しそうな雰囲気とは打って変わり、怒りに満ちた空気を放ち、抜身の刃物の様な鋭い眼光で、戸惑って居る騎士たちに向かってそう凄んで来た。
何を言っているかは分からないが、漆黒の髪の青年が物凄く怒っていると言う事だけは分かった。
(ええっ!)
(ちょっと待て……)
(すげぇ豹変したぞ)
漆黒の髪の青年に凄まれ、彼を取り囲んで居た騎士たちは揃って、戸惑いの表情を浮かべ、心の中で呟いた。
「この変態どもがっ!」
漆黒の髪の青年は、完全にブチキレており、自分とぶつかった大柄な騎士の股間に思い切り蹴りを見舞った。
『あがっ……』
真面に股間を蹴り付けられた、大柄な騎士は両手で股間を覆いながら、呻き声を上げてその場に崩れ込んだ。
「人が大人しくして居れば、調子に乗るなよ!」
漆黒の髪の青年は、そう怒鳴りながら、股間を思い切り蹴られ、その場に蹲って居る大柄な騎士を何度も足蹴にする。
『こ、コイツ!』
見かねた騎士が思わず、持って居た稽古用の木の剣を背後から、漆黒の髪の青年に向かって振り下ろすが、見事に避けられただけでなく、間髪置かずに素早く剣を握り締めていた腕を後ろ手にされ、思い切り捩じり上げられた。
『いだだだだたっ!』
腕を思い切り捩じり上げられた騎士は、半泣きになりながら、情けない声を上げ、持っていた木の剣を落とした。
それを漆黒の髪の青年は素早く拾い上げると、その後はもう、一方的に騎士たちがボコボコにされ、三人は鼻や口先から血を流し、呻き声を上げ、床の上に転がる事となってしまった……。
「雑魚が」
漆黒の髪の青年は、慣れた手つきで木の剣を払うと、それを自分の肩に乗せ、近くに倒れていた騎士の頭を思い切り踏み付け、物凄く冷ややかな口調で言い放った。
(やべぇぞコイツ……)
(無茶苦茶だ)
(馬鹿強ぇ……)
揃ってボコボコにされ、床の上に倒れて居る騎士たちは皆、自分たちを冷ややかに見下ろしている、漆黒の髪の青年を見上げながら、心の中でそう思った。
「ろ、ロナード様?」
そこに、向こう側から来たギベオンが素っ頓狂な声を上げ、慌てた様子で駆(T)け寄って来た。
「ああ。 ギベオン」
ロナードと呼ばれた漆黒の髪の青年は、駆け寄って来たギベオンに、物凄く爽やかな笑みを湛えながら言った。
「こ、これは……どう言う状況なのでしょうか……」
ギベオンは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードの足元に転がっている騎士たちを見下ろしつつ、彼に問い掛ける。
「暇だったから、少し稽古の相手をしただけだ」
ロナードは物凄く爽やかに、そして実にサラリとした口調で、焦っているギベオンに答えた。
(いや、コレ絶対に違うだろ)
ギベオンは、床の上に呻き声を上げて倒れている騎士たちを見回しながら、心の中で呟いてから、
「絶対、違いますよね? この者たちが貴方に、何かしようとしたのではないのですか?」
ギベオンか真剣な表情を浮かべ、強い口調でロナードに言った。
「俺が……とは言わないのだな?」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら、ギベオンに向かって言うと、
「当たり前です! 貴方が理由も無く、こんな事をする様な方では無い事位は、これまで一緒にいた間だけでも分かりますよ」
彼はムッとした表情を浮かべ、強い口調で言い返す。
「セネトが知れば、コイツ等全員の首が飛ぶ事になるが、それでも事実を聞きたいか?」
ロナードは、自分がボコボコに熨した騎士たちを見下ろしつつ、ギベオンにそう問い掛けると、ニッコリと笑みを浮かべる。
「い、いいえ……」
ギベオンは、彼のその笑顔と言動に嫌な予感を覚え、顔を引き攣らせつつ、ロナードに答えた。
大方、無駄に見目の良いロナードに、ここに居る騎士たちがちょっかいを出して、ロナードの逆鱗に触れる様な言動をしたであろう事は、ギベオンにも容易に想像がついた。
(自分としても、コイツ等を今直ぐ簀巻きにして、砂漠に放り出したい気持ちで一杯だが、流石に一度に何人も兵士が突然居なくなるのは不自然だからな……)
ギベオンは、ロナードにボコボコにされ、床の上に転がっている兵士たちを見ながら、心の中で呟いた。
「ロナード様。 何にしても、これはちょっとやり過ぎです」
ギベオンは額に片手を添え、溜め息混じりにロナードに言った。
「済まない……」
ロナードは、叱られた子犬の様な表情を浮かべ、ギベオンにそう言って謝った。
(普段は控え目だからすっかり忘れていたが……。 この人は元・傭兵で、しかも、あのノヴァハルト伯の実の弟だ。 嘗められる様な事をされて、黙っていられる様な人では無かったな)
ギベオンはゲンナリとした表情を浮かべながら呟いた。
だが、これから暫くの間、彼等の様な犠牲者が続出する事は、間違いないだろう。
(……少し用事を済ませる為に、離れていただけでこんな事になるとは……)
ギベオンは、ゲンナリとした表情を浮かべ、心の中で呟いていたが、ふと顔を上げると、先程まで側に居た筈のロナードの姿が無い。
(全く! あの人は!)
ギベオンは焦りの表情を浮かべながら、慌てて周囲を見回すと、階段を下りて中庭へ出て直ぐの所に身を屈めていた。
「ロナード様? ご気分でも悪いのですか?」
ギベオンはゆっくりと歩み寄りつつ、ロナードにそう声を掛ける。
良く見ると、身を屈めているロナードの前には、見た事も無い、紫色の花に網目状の長い葉っぱを有した、触手のように伸びた雄蕊(?)の様な、黄色い物が生えているのが特徴的だが、とても存在感がある綺麗な花が咲いていた。
周囲を見回すと、隅の方にポツポツと似た様な花が咲いている。
「綺麗な花ですね」
ギベオンは穏やかな口調でロナードに声を掛けると、
「何で……これが此処に……」
ロナードはポツリとそう呟くと、手早くそれを摘み取ると、スクッと立ち上がり、
「急ぎ、セネトに会う事は出来ないか?」
物凄く切羽詰った表情を浮かべ、ギベオンにそう言った。
「えっ……」
ロナードが物凄く怖い顔をして言うので、ギベオンは戸惑いの表情を浮かべる。
「詳しい説明はその時にする。 兎に角、直ぐに会わせてくれ」
ロナードは、戸惑って居るギベオンに、真剣な面持ちで言う。
「殿下でしたら、今の時間はご自分の書斎に……」
ギベオンが戸惑いながら言い終わるや否や、ロナードは摘み取った花を握り締めたまま、物凄い勢いで、自分が来た方向へ駆け出した。
「ちょっ……ロナード様!」
ギベオンは慌てて彼を呼び止めようとするが、自分を制止する声が聞こえていないのか、ロナードはそのまま廊下を疾走する。
(えっ……足早っ……)
慌てて追いかけようとしたが、あっという間にロナードが遥か向こうに行ったのを見て、ギベオンは戸惑いの表情を浮かべながら、心の中で呟く。
同じ頃、セネトは自分が不在にしていた間の、王宮内や国内での出来事について、兵士から報告を受けていた。
『あの殺しても死にそうにない、第一側妃が病床に臥せっているとはな……』
セネトは、複雑な表情を浮かべながら呟く。
(問題は、それが何らかの目的があって、その様に振舞っているのか、それとも本当に体調がすぐれないのかだが……)
セネトは、真剣な表情を浮かべたまま、心の中で呟く。
『一時期は回復されていたのですが……殿下がお帰りになられる二、三日前からまた、急に体調を崩されて……』
兵士は、複雑な表情を浮かべながら、セネトに第一側妃の状態を語る。
『また? またと言うからには、以前にもその様な事があったのか?』
セネトは微かに眉を顰め、兵士に問い掛けると、彼はビクビクしながら、
『は、はい……。 殿下が外遊へ赴かれて暫くしてから……この数カ月の間、体調を急に崩される事がしばしば……』
重々しい口調で語る。
(これは単純に、婚約式をボイコットした僕への当てつけか?)
セネトは、微かに眉を顰め、心の中で呟いてから、
『その話が本当ならば、何か重篤な病気を患っているのではないのか?』
セネトは真剣な表情を浮かべ、兵士に言うと、
『皇后宮の者たちは勿論、皇帝陛下もそう思われ、幾人か名の知れた医師に診せた様なのですが、これと言った原因が分からないままでして……。 あ、勿論、呪術の可能性も考えて、魔術師にも診せたとの事ですが、それも違うようでして……』
兵士は、沈痛な表情を浮かべながら、セネトに語る。
『ふむ……。 何にしても一大事だ。 婚約式をボイコットしたお詫びを兼ねて、今から僕が見舞いに行く事は可能そうか?』
セネトは真剣な面持ちで問い掛けると、
『それは確かめてみないと、何とも……』
兵士は、複雑な表情を浮かべながら答える。
『急ぎ、皇后宮に確認を』
セネトは、真剣な面持ちで兵士に命じると、
『御意』
兵士は胸元に片手を添えてそう言うと、深々と頭を下げると、急いで部屋を後にした。
皇后宮はその名の通り、皇后に与えられた宮で、元々はセネトの実母が使っていた宮だが、彼女の死後、王宮内に強い力を持つ、実質上の皇后とも言える立場の第一側妃が、その宮の主となっている。
『……どうも、体調不良者は第一側妃だけでは無さそうよ』
それまで黙って話を聞いて居たルチルが、神妙な面持ちでセネトに言った。
『なんだと?』
セネトは思い切り眉を顰め、自分の傍らに立っていたルチルを見る。
『私が知る限りでは、その皇后陛下の身の回りの世話をしている侍女たちも、相次いで体調を崩しているらしいの。 おまけに後宮でも側妃の何人かが体調を崩して、臥せっている方が居るとか……』
ルチルは、神妙な表情を浮かべながら、そう続けた。
『他の側妃もなのか?』
セネトは戸惑いの表情を浮かべ、ルチルに問い掛けると、
『ええ。 単純に第一側妃を亡き者にしようと企む輩の仕業と見做すのは、どうかと思うわ』
彼女は、神妙な表情を浮かべ、重々しい口調で答える。
『確かに……。 異常が現れなかった側妃や、その子供たちが真っ先に疑われる事になる。 そんな事も分からない奴ならば、既に後宮には居ないだろうからな』
セネトは、真剣な表情を浮かべ、重々しい口調で呟くと、ルチルも真剣な面持ちで頷き返す。
『まだ、ハッキリとした事は分かっていないけれど、具合を悪くする時期や、症状の現れる経緯、その重さなど多少違いは見られるけれど、第一側妃と似通った症状らしいわ。 だから最初は伝染病を疑った様ね』
ルチルは、複雑な表情を浮かべながら、自分が今朝、自分の所に居る噂話が大好きな侍女たからで聞いた話をセネトにしていると……。
『ちょっと、困ります!』
不意に廊下側から、部屋の入口の見張りをしている兵士が、慌てた様な声を上げる。
『どうした?』
セネトが不思議そうに、兵士に声を掛けると、
「セネト。 中に居るのか? 至急、話したい事がある」
扉越しに、ランティアナ大陸の公用語で、かなり切羽詰まった様子の若い男の声がした。
声色の感じから察するに、ロナードの様ではあるが……。
「どうした?」
セネトも、ロナードが何やら急いでいる様な声であった為、部屋の中から問い掛ける。
『兎に角、中に入れてやれ』
セネトは、部屋の入口の見張りをして居た兵士に言うと、暫くして、兵士たちのボディチェックを終えて、ロナードが血相を変えて部屋の中に入って来た。
「そんなに慌ててどうした?」
セネトは、不思議そうに部屋に入って来たロナードに問い掛ける。
確かロナードは、ギベオンに連れられて、この宮の内部とその周りを案内されている筈である。
ロナードは息を切らせながら、
「何で、妖光花が生えている?」
真剣な面持ちで、セネトに問い掛けて来た。
「よ、よう……何だって?」
セネトは、思い切り眉を顰めながら、ロナードに問い返す。
「妖光花だ」
ロナードは、真剣な面持ちで返していると、
「ロナード様。 困ります!」
ロナードを追い駆けて来たのか、ギベオンが息を切らせながら、そう言って部屋に駆け込んで来た。
「その花が……何だと言うんだ?」
セネトが戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに問い掛けると、
「そこら中に生えているが、お前たちは、あれが毒花だと知っていて放置しているのか?」
ロナードは、真剣な面持ちで言うが、セネトもギベオンも、何の事なのかサッパリなので、困惑の表情を浮かべる。
「深い紫色の、レースの様な網目模様の長い葉のシュッとしたヤツだ」
ロナードは真剣な面持ちで言うが、花などに興味が無いセネトは、どんな花なのかすらも分からない。
「ああもう! さっき、ここに入る時に没収されたから手元にない!」
ロナードは、摘んで来た花を兵士に没収されたらしく、苛立った様な口調で呟くと、
『ロナード様から、没収した花はどれだ?』
ギベオンは徐に、入り口を見張って居る兵士に問い掛けると、
『これの事ですか?』
そう言って、徐にちょっと萎れているが、紫色の花に網目状の長い葉っぱを有した、触手のように伸びた雄蕊(?)の様な、黄色い物が生えて居るのが特徴的だが、とても存在感がある綺麗な花を差し出してきた
「これだ。 これが妖光花」
ロナードは、息を整えながら、兵士が持って来た花を指差しながら言った。
「……こんな花、あったか?」
セネトは小首を傾げながら、ルチルに問い掛けると、
「そう言えば、聖女候補の試験を受けるティティス様が、此処を発つ前に第一側妃様に挨拶をする為に皇后宮に一緒に来た時、花壇に沢山あったのを見掛けた覚えが……」
彼女は、記憶を手繰り寄せる様に顔を顰めながら、答えた。
「これはクラレスの南部にある瘴気を放つ沼地に群生しているヤツで、満月の夜に甘い香りを放ちながら、キラキラと光る胞子と共に瘴気も放つ毒花だ」
ロナードは、淡々とした口調で、自分が摘んで来た花について説明をする。
「なっ……」
『毒花』と聞いて、セネトは表情を強張らせる。
確かに、少し変わった形をしているが、その辺の花よりも存在感があり、鉢植えなどにして送ったら喜ばれそうな程、綺麗だ。
「その実は黒くて、外皮を割ると中に白い粉が詰まっている。 一時期、高級な白粉として街に出回った事もあるが、皮膚からその毒性を吸収してしまい、体調を崩す貴婦人が続出し、死人も出た為、今はランティアナでは、白粉として用いる事は勿論、観賞用として栽培する事も禁じられている花だ」
ロナードは、淡々とした口調で説明を続ける。
「そんな危険な物が何故、王宮に……」
ギベオンは戸惑いの表情を浮かべつつ、呟く。
外から王宮内に何かを持ち込む際は、厳しく調べられる筈なのだが……。
「大方、鑑賞用の花として持ち込まれた所為で、危険性が薄いと捉えられ、良く調べられもされず、王宮内への持ち込みを許可してしまったのだろう」
セネトは、淡々とした口調でそう指摘した。
これが薬用などとなると、話は別だが……。
「実が飛び散る様になっていて、僅かな水分で芽吹き、おまけに胞子まで飛ばすから繁殖力が強く、暑さにも耐性がある。 実を付ける前に全てを刈り取った後、花から出る瘴気を吸わない様に、人が近付かない場所で燃やしてしまった方が良い。 放って置くと、あっという間にそこら中に茂るぞ」
ロナードは真剣な表情を浮かべ、セネト等にそう警告する。
「……」
セネトは、神妙な表情を浮かべ、押し黙る。
「事実だとしたら、女性を中心に体調不良の者が続出している事とも、説明がつくわ」
話を聞いて、ルチルが真剣な面持ちでそう指摘すると、
「確かに」
セネトは、神妙な表情を浮かべつつ、そう呟く。
何時の時代も、女性たちは美に対して貪欲だ。
このエレンツ帝国でも百年近く前、まだ世の中に『夜光草』の事があまり知られていない時代、痩せられる薬として、若い女性を中心に爆発的に流行した事があった。
今でこそ、幻覚、食欲不振、幻聴、倦怠感、消化器障害、呼吸困難など命に関わる様な危険な薬物になる事が知られているが、当時は、多くの者がその危険性を知らなかった結果、女性を中心に膨大な数の中毒者を抱える事となり、『夜光草』を起因とした自殺や凶悪犯罪、夜光草を植える土地や水源などを巡り、局地的な内紛状態となった地域や、詐欺などが横行し、一時はその価値は金以上であった事もあった程で、国は酷く乱れた。
その為、現在のエレンツ帝国では、国の許可なく栽培する事は勿論、個人の譲渡や使用、国内に持ち込む事は禁じられ、違反者には厳しい罰則が与えられる様になっている。
今回、この花も、美しい見た目に騙され、鑑賞用として持ち込まれたのだろうが、何かの形で質の良い白粉にもなると判った途端、美に対して人一倍貪欲な王宮の女性たちが、その危険性を知らずに喰い付いた結果、原因不明の病が流行する事態に陥っているのだろう。
「誰がコレを持ち込んだか調べるのは後にしてでも、次の満月の夜までに花を駆除した方が良い」
ロナードは、真剣な表情を浮かべ、セネト等に訴える。
「わ、分かった。 直ぐに駆除に当たらせよう」
セネトは表情を引き攣らせつつも、真剣な面持ちでそう答えた。
「あと、この花の実を使った白粉を使っている者がいないかも、調べた方が良い」
ロナードは、落ち着き払った口調で言うと、
「後宮に触れを出すよう、掛け合ってみよう」
セネトは、真剣な面持ちでそう返した。
その五日後……。
『後で話を聞いて、ゾッとしたわ。 まさか、お母様まであの妖光花の所為で、床に臥せっていたなんて……』
青い顔をしながら、ルチルはそう呟く。
彼女の母親は、花が好きな事が災いし、妖光花の危険性を知らず、その美しさに心を奪われ、親しくしていた側妃に頼んで譲り受け、幾つか鉢植えにして部屋に飾っていたそうだ。
その所為で満月の夜に毎回、花から放たれる大量の瘴気を知らぬ内に吸込んでしまい、体調を崩していたのだ。
他の者も殆どが、ルチルの母の様に鉢植えにして部屋に妖光花を飾っていたり、部屋の窓の近くに妖光花が生えているとも知らず、窓を開け放っていた事が原因の体調不良あった。
中には、ロナードが危惧した通り、白粉にして使っていた侍女もかなりおり、最も深刻な状態であった第一側妃は、侍女から白粉を譲り受けて使っていただけでなく、部屋の周囲に美しいからと、妖光花を大量に植えていた。
妖光花が何時頃から植えられる様になったのか、大体の時期は分かったものの、誰がそれを持ち込んだのかまでは突き止める事が出来なかった。
ただ、セネトの大方の予想通り、何処からか、妖光花が高級白粉になる事を知った侍女たちの手によって、短期間で爆発的に生育場所が広がって行った事は明らかになった。
『何と言うか……美しさを求める女たちの執念を垣間見た様な感じだな……』
セネトは、ゲンナリした表情を浮かべつつ、そう呟いた。
『そうね。 何時までも若く美しく見られたいと思うのは、誰もが抱いている女の性だものね』
ルチルも、軽く溜息を付くと苦笑い混じりに言った。
『ロナード様の助言のお蔭で、王宮の周囲に無尽蔵に生えていた分は、満月の夜を迎える前に全て排除する事が出来ました。 ただ、薬になるらしいので、今後は宮廷魔術師たちや宮廷医たちが所有している薬草園で厳重に管理される事になるそうです。 それ以外の場所で自生している物は発見し次第、駆除する事が正式に決定しました』
ギベオンは手元の報告書を見ながら、淡々とした口調でセネト等に報告をする。
『そうか』
セネトは、フーッと軽く息を付いてそう言うと、腰掛けていた一人掛けのソファーの背凭れに身を預ける。
『近く議会でも正式に、国内への妖光花の種子や苗の持ち込みの制限、栽培の禁止、国営の薬草園以外にある物は全て駆除をするという内容のモノが、可決する様です』
ギベオンは、書類に目を通しながら、淡々とした口調で続ける。
『それが良い。 素人が管理しきれる物では無い様だからな』
セネトは複雑な表情を浮かべながら答えた。
『ホント、美しい花には何とやら……って良く言ったものね』
ルチルは肩を竦め、苦笑いを浮かべながら言うと、
『同感だ』
ギベオンは真剣な面持ちで頷きつつ、そう返してから、再び書類に目を向け、
『追加調査で分かった事ですが、どうやら、クラレス公国がルオン王国を経由して、妖光花を積極的に国外へ輸出している様です』
淡々とした口調で、報告を続ける。
『毒花と知っていてか?』
セネトは、戸惑いの表情を浮かべつつ、ギベオンに問い掛ける。
『末端の者は分かりませんが、取り仕切っている者が、その危険性を知らないとは思えません』
ギベオンは、淡々とした口調で答える。
『夜光草の密売と言い、奴隷売買と言い……。 最近のクラレス公国やルオン王国は本当に物騒ね』
ルチルは溜息を付いてから、ゲンナリとした表情を浮かべ、呟く。
『ベオルフ宰相が長く、実権を握っていた弊害でしょう。 宰相になる以前から黒い噂の絶えぬ人でしたからね。 ある筋の話では、以前から領内の税金を納められぬ者に、役人が国外への出稼ぎと言う名目で身売り話を持ち掛け、それを宰相は黙認しているのでは……とも言われています』
ギベオンは、これと言った表情を浮かべる事も無く、事務的な口調で語る。
『領民を奴隷として国外に売るなど、末期症状だな』
セネトは、呆れた表情を浮かべながら言った後、やり切れないと言った様子で特大の溜息を付いた。
『逃げて来て正解だったんじゃない? ロナード』
ルチルはふと、自分の脳裏にロナードの顔が浮かんだので、徐にそう言った。
普段は男性に対しては、なかなか辛辣な見解をする方なのだが、流石に自分の母を助けてくれた相手を悪く言う程、根性は捻じ曲がってはいない様だ。
『自分もそう思います。 ランティアナでは以前にも増して、イシュタル教会が幅を利かせているとも聞きますし、今のルオンの状況を見る限り、戻った所で……と言う感は否めません』
ギベオンは、神妙な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
『ルオンで、帰りを待って居るオルゲンは将軍には悪いが、二人はこのまま、帝国に居た方が良いかも知れないな……』
セネトは、複雑な表情を浮かべながら言う。
『将軍に迎えを送ってはどう?』
ルチルが、真剣な面持ちで言うと、
『大きな後ろ盾も無く、まだ若いカタリナ王女が、退役したとは言え、人望の厚いオルゲン将軍を手放すとは考えにくい』
セネトは、溜息混じりにそう返す。
『だったら、二人の映像を収めた魔道具を、定期的に送ってあげる事くらいしか、私たちが出来る事は無いわね』
ルチルは、気の毒そうな表情を浮かべながら言うと、ギベオンも複雑な表情を浮かべながら頷き返す。
『気の毒な事をした』
セネトは、沈痛な表情を浮かべながら言うと、
『あの二人が、祖父とは今生の別れになるかも知れないと、分からないとも思えないわ』
ルチルが真剣な面持ちで言うと、
『最悪の事態も想定して、覚悟を持って此方へ来られた筈です』
ギベオンも真剣な面持ちで言うと、
『そうだな……』
セネトは、複雑な表情を浮かべながら呟く。
「成程ね。 そんな事が……」
二人掛けのソファーにゆったりと座り、紅茶を優雅に飲んでから、カメリアはそう呟いた。
「結局、妖光花を持ち込んだ者が誰なのかまでは、突き止める事が出来なかったらしい」
シリウスは、淡々とした口調でそう言うと、手にしていたティカップに注がれている紅茶を啜る。
「貴方が私を態々、邸宅に呼び付けたのは、その花を持ち込んだ者か、若しくは、そうなる様に仕向けた者を調べ欲しいって事ね?」
カメリアは、不敵な笑みを浮かべながら、落ち着いた口調で言うと、
「話が早くて助かる」
シリウスは、淡々とした口調で言う。
「対価次第ね。 危ない橋を渡るのだから、それ相応のもので無ければ引き受けないわよ」
カメリアは、意地の悪い笑みを浮かべながら、テーブルを挟んで向かいのソファーに座っているシリウスに言う。
「ならば、何を対価に差し出せば、引き受けてくれる?」
シリウスは、真剣な面持ちで問い掛けると、
「そうねぇ……。 少しばかり、アルスワット公爵領の鉱山から取れる魔石を、融通してくれないか、掛け合ってくれないしら?」
カメリアは、不敵な笑みを浮かべたまま、シリウスにそう提案した。
「まあ……掛け合う程度なら……。 ただ、お前が期待する返事を貰えるかは、保証出来ないが」
シリウスは、少し考えてからそう返した。
「構わないわ。 公爵様が交渉の席に着いてくれさえすれば」
カメリアは、ニッコリと笑みを浮かべながら言うと、
「相変わらず、食えない女だ」
シリウスは、苦笑いを浮かべながら言う。
「あら。 それは褒めてくれているのかしら?」
カメリアは、不敵な笑みを浮かべながら、シリウスに問い掛ける。
「さあ。 どうだろうな」
シリウスは肩を竦めながら、淡々とした口調で答えた。
「ところで、ロナードとはまだ一緒に住んで居ないの? ここに来れば会えると思ったのに」
カメリアは、帝都に来て一週間も経つと言うのに、この場にロナードの姿が無い事を不思議に思い、シリウスに問い掛けた。
「ああ。 法的な手続きは済んだが、寺院が色々と五月蠅くてな」
シリウスは、少し困った様な表情を浮かべながら言う。
「無理も無いでしょうね。 十年近く前の、しかも幼い頃の話とは言えども、イシュタル教会に所属していた彼を、寺院が警戒しない方が可笑しな話だわ」
カメリアは肩を竦めながら、落ち着いた口調でそう指摘する。
「建前はそうだろうが、本音としては、希少な召喚師であるアイツを、自分たちの監視下に置きたいと言ったところだろう」
シリウスは、軽く溜息を付いてから、淡々たとした口調で返す。
「そう言う事……」
カメリアは、その話を聞いて思わず、そう呟く。
「誰かが寺院に、ロナードの事を教えた様だ」
シリウスは、ゲンナリした表情を浮かべながら言うと、
「『私が』とは、言わないのね?」
カメリアは、意地の悪い笑みを浮かべながら、シリウスに言うと、
「お前は、自分が気に入っている相手を困らせる様な真似はせんだろう? それに、そんな事をして一体、お前に何の得があると言うんだ?」
シリウスは、落ち着き払った口調でカメリアに言う。
「信者からのお布施を自分の懐に入れて、私腹を肥やしている老子たちに恩を売って、自分が扱う貴金属を何処よりも優先的に、買って貰おうって企んで居たとしたら?」
カメリアは、不敵な笑みを浮かべたまま、シリウスにそう返すと、
「馬鹿馬鹿しい。 例え、お前が自身の言う通りの事を企んで居たとして、態々それを私に話すなど、どうかしている」
シリウスは、軽く溜息を付き、肩を竦めながらそう答えた。
「ふふふ。 確かに」
カメリアは、不敵な笑みを浮かべたまま、言った。
「全く。 面倒な事をしてくれたものだ」
シリウスは、迷惑この上ないと言うった顔をして、ぼやいた。
「どうにかして、ロナードから興味を逸らす様にしないといけないわね」
カメリアは、真剣な面持ちで言う。
「アイツ等が如何に粘着質なのかは、お前も良く知っているだろう?」
シリウスは、特大の溜息を付くと、ゲンナリした表情を浮かべて言う。
「そう言う、どうでも良い事に熱心にならないで、もっと有益な事にその情熱を向けて欲しいと、私も常々思って居る所よ」
カメリアは、苦笑いを浮かべながら言う。
「サリアが、色んな方面から根回しを試みている最中だが、果たしてどれだけの者が、味方になってくれるか……」
シリウスは、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で言う。
「だったら尚の事、セレンディーネ様との婚約式を早くする事ね。 皇族の婚約者となれば、寺院も迂闊には手を出せなくなるでしょうから」
カメリアが真剣な面持ちで言うと、
「結局、それしかないか……」
シリウスは、溜息を付いてから、額に片手を添え、不本意そうに言った。
「今、私が思い付く事の中で、最も有効的な手段だと思うわ」
カメリアは、真剣な面持ちで、シリウスに言った。
「セネトの負担にならなければ良いが……」
シリウスは、心配そうに言うと、
「お互いの利害が一致しているし、あの二人、お似合いだと私は思うわよ」
カメリアは、ニッコリと笑みを浮かべながら言う。
「そう思うのなら、手を貸してやってくれ」
シリウスは、軽く溜息を付いてから、あまり気乗りしない様子で言う。
「あなた今、自分がどんな顔をしているのか、分かって居て言っているの? 可愛がって来た娘を、良く知りもしない若造に取られた父親みたいな顔をしているわよ」
カメリアは、可笑しそうに笑いながら言うと、
「何だ。 その意味不明な例えは」
シリウスは、面白く無さそうに言う。
「兎に角、言っている内容と、表情との間に大きな乖離があるって事よ」
カメリアは、可笑しそうにクスクスと笑いながら言う。
「カルセドニには、とても酷い顔をしていると言われた」
シリウスは、ゲンナリとした表情を浮かべながら言うと、
「そうね」
カメリアは、笑いながら返してから、
「実は明日、婚約式に着るドレスに会うお飾りの打ち合わせをする為に、セレンディーネ様とお会いするの。 そのついでに、貴方の可愛い弟にも会おうかしら。 幾ら伯爵でも、許可も無しに王宮には上がれないでしょうからね」
カメリアが、不敵な笑みを浮かべながらシリウスに言うと、
「だったら一つ、頼まれてくれるか?」
シリウスが、真剣な面持ちで問い掛けると、
「お安い御用よ」
カメリアはニッコリと笑みを浮かべ、そう答えた。
「ふむ……寺院か……」
婚約式の衣装合わせを終え、ドレスに合わせるお飾りの打ち合わせと称し、ルチルとギベオン、婚約者となるロナード、そして商談の相手であるカメリアを残し、侍女や兵士たちを部屋から閉め出すと、カメリアの報告を受けたセネトが、神妙な面持ちで呟く。
「ロナードの力の事を知れば、寺院が放ってはおかないだろうとは思っていたけれど……。 こんなに早く知られるなんて、一体誰が、寺院の者にロナードの事を話したのかしら?」
ルチルは、神妙な表情を浮かべながら、そう呟く。
「流石の私も、仕事の間に愛人たちが、何処で誰と合っているかまでは、把握出来ないわ。 もし、あの子達の内の誰かが、うっかり貴方の事を寺院の関係者に話して居たら、御免なさい」
カメリアは、複雑な表情を浮かべながら、重々しい口調でロナードに言うと、
「人の口には戸は立られないからな。 それに秘密と言うのは、何れは知られる事だ。 何より、カメリアの愛人たちが喋ったとも限らない。 だから気にしないでくれ」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら、沈痛な表情を浮かべているカメリアに、優しい口調で言う。
「ロナードの言う通りだ。 もしかすると、サリアに同行していた魔術師たちかも知れないし、僕たちが予想もしない者の仕業かも知れない。 だから、そんなに自分を責めるな」
セネトは、落ち着いた口調でカメリアに言うと、彼女は沈痛な表情を浮かべたまま、頷き返す。
「これ以上、嫌な事態にならない様にするには、やっぱり、二人の婚約式を早くする事ね」
ルチルが、ニヤニヤと笑みを浮かべ、声を弾ませながら言うと、
「だから何でお前が、そんなにノリノリなんだ?」
セネトが、帝都に戻ってから、二人の婚約式を早くさせようとしているルチルに、不満に満ちた表情を浮かべながら言う。
「だって、貴方が婚約をすれば、私も何の気兼ねも無く、男漁りが出来るでしょ?」
ルチルが、嬉しそうにそう言うと、
「……漁る男が居ればの話だが」
ギベオンがボソリとそう言うと、近くでそれを聞いたロナードが思わず、苦笑いを浮かべる。
「何も、僕に気を遣う必要など無いのに……」
セネトは、軽く溜息を付くと、額に片手を添えながら、ルチルにそう言った。
「殿下。 ルチルの言う事を真に受けないで下さい。 コイツは今まで、親親戚から山の様に、見合いの写真を送り付けられていたと言うのに、こんな年になるまで高望みばかりして、見向きもして来なかったのですから、周囲から諦められるのも当然です」
ギベオンは、淡々とした口調でセネトに言うと、
「っさいわね! そう言うアンタはどうなのよ?」
ルチルはムッとした表情を浮かべ、口を尖らせながら言い返す。
「自分は独身主義だ。 生涯結婚をする気はない」
ギベオンは、淡々とした口調で言った。
「だったら一層の事、お二人がご結婚されては如何?」
カメリアが、意地の悪い笑みを浮かべながら、ルチルとギベオンに言うと、二人はほんの一瞬、互いの顔を見合わせてから、
「有り得ないわ」
「有り得ませんね」
同時に、そう返した。
全く同じ反応をする二人に、セネトは可笑しくなって思わず吹き出し、声を上げて笑い、ロナードとカメリアは苦笑いを浮かべる。
「まあ何にせよ、寺院の動向には十分に注意する事ね」
カメリアは苦笑いを浮かべたまま、セネトたちにそう忠告する。
「分かった」
セネトは、真剣な面持ちで頷き返す。
「まだ暫くは、帝都に居る予定だから、何か情報を掴んだら連絡するわ」
カメリアはそう言うと、徐にソファーから立ち上がる。
『では殿下。 これにて失礼致します』
カメリアはニッコリと笑みを浮かべ、そう言と、その声を聞いて部屋の扉が開かれる。
『婚約指輪は次回、お持ち致します』
カメリアは、愛想良く笑みを浮かべながらセネトに言うと、ペコリと頭を下げて立ち去って行った。
こうして、セレンディーネ皇女が近く、自分が異国から連れ帰った青年と婚約すると言う話が、その時に居合わせた侍女と兵士たちを発生源に、瞬く間に王宮内に広がった。