欲望に塗れた島
主な登場人物
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指している。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト…エレンツ帝国の皇子。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしている。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な可愛らしい少年。
シリウス…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ティティス…セネトの腹違いの妹。 とても傲慢で自分勝手な性格。 家族内で立場の弱いセネトの事を見下している。 十七歳。
カメリア…トロイア王国に拠点を構える、宝石の採掘、加工、販売を手広く手掛ける、女性実業家で大富豪。 トスカナの取引相手。 三十歳
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
ルフト…宮廷魔術師長サリアを母に持ち、魔術師の一家に生まれた青年。 ロナードたちとの従兄弟に当たる。 二十歳。
ナルル…サリアを主とし、彼女とその家族を守っている『獅子族』と人間の混血児。 とても社交的な性格をしている。
「良かったの?」
ルチルは、廊下ですれ違いざまにギベオンにそう問い掛けた。
「何がだ?」
彼は足を止め、ルチルの方へ振り返りながら、落ち着いた口調で問い返す。
「セティの婚約者……貴方でも良かったんじゃない?」
ルチルは、真剣な表情を浮かべ、ギベオンに言うと、彼の顔に一瞬だけ動揺の色が浮かんだ。
「何を馬鹿な事を。 殿下の護衛騎士である自分では、色々と問題があるだろう」
ギベオンは落ち着き払った口調で言い返す。
「……そう言う事にしておくわ」
ルチルは一瞬、別の事を言い掛けたが、それを飲み込んで、淡々とした口調で言い返すと、片手をヒラヒラとさせ、踵を返し、その場から立ち去る。
(馬鹿ね。 アンタの幼馴染を何年していると思うのよ。 本気で、アンタの気持ちに私が気付いていないとでも思って居るの?)
ルチルはふと足を止め、自分に背を向けて遠ざかるギベオンを見ながら、心の中で呟くと、とてもやるせない気持ちになった。
父親が親友同士という関係であったルチルとギベオンは、ルチルが物心がついた頃にはお互いの事を知っていた。
自分よりも五つ年上のギベオンは、ルチルにとって頼りになる、優しい兄の様な存在であった。
ギベオンは周囲からは、口数が少なく、あまり感情を表に出す事が無く、淡々としていて、不愛想と思われがちだが、幼い頃から彼を知っているルチルは、決してそうでは無いと言う事を知っている。
そして、自分が仕えているセネトに、仄かな想いを抱いていると言う事も……。
兄にも等しいギベオンと、妹も同然のセネト。
大好きな二人が結婚したら、どんなに素敵な事だろうかと、ルチルは一時期は本気で思い、二人をくっ付けようとあれこれ画策した事もあるが、生真面目なギベオンは、主とその様な関係になる事を良しとはしなかったし、セネトもギベオンの気持ちに気付いていない様だった。
それが分かった時、ルチルはとても複雑な気持ちになった。
しかし、セネトに婚約の話が舞い込んだ際、ギベオンは多少なりも動揺をしたであろうし、その時に自分のセネトへの気持ちを再確認した筈だ。
それでもギベオンは、セネトの騎士であり続ける事の方を選んだのだろう。
「……ホント、馬鹿な男」
ルチルは、軽く溜息を付くと、ポツリとそう呟いた。
「はあああ……」
ソファーに座り、テーブルに額が付きそうな程の距離で、両手で頭を抱えながら、セネトは特大の溜息を漏らす。
「今日は一段と、大きな溜息ですね」
その様子を見て、ハニエルは苦笑いを浮かべながら、セネトに声を掛ける。
「このまま真っ直ぐ、本国に帰れるとは思って居なかったが、冗談抜きでそうなった」
セネトは、ゲンナリした表情を浮かべながら言う。
「お兄様から何か?」
ハニエルはそう言いながら、ティポットに乾燥させた紅茶の葉を入れる。
「ここから西に、元々は帝国海軍の補給基地だった島があるんだが……。 その島に駐屯している軍の高官たちがどうも、キナ臭いらしい」
セネトは、ゲンナリとした表情を浮かべたまま、ハニエルに語る。
「横領とかですか?」
ハニエルはそう言いながら、自分が注いだ紅茶が入ったティカップを徐に、セネトの前に置く。
「どうも、海賊たちが襲った船から誘拐した女子供や、海賊たちから没収した金品や美術品などの売買が密かに、その島で行われているらしく、それを裏で取り仕切っているのが、今の司令官を含めた軍の高官らしい。 それも、ここ二、三年の話ではなく、今の司令官が現職に就く以前から行われていた可能性が高いらしい」
セネトは、ゲンナリとした表情を浮かべ、額に片手を添え、悩ましそうに語る。
「帝国本土から離れ、外部からの監視も緩ければ、そう言う事を思い付く馬鹿も居るだろうな」
二人掛けのソファーの上に足を投げ出し、仰向けになって寛いでいたシリウスは、淡々とした口調で言う。
「そう輩は何処にでも一定数は居る。 そう言った輩を全て把握するのは正直、難しいだう」
ベッドの上で身を起こし、魔導書を読んでいたロナードもそう言った。
「だからって、見過す訳にもいかないだろ? 発見し次第、潰す他ない」
セネトは、ムッとした表情を浮かべ、口を尖らせて言い返す。
「で、それをお前がして来いと?」
シリウスは、物凄く他人ごとの様に言う。
「婚約式から逃げ出しただけでなく、父上たちには連絡も寄越さずに何カ月も放蕩していた手前、何か手柄になる様な事を持って帰った方が良いだろうと、兄上が気を利かせて、この情報を持って来たくれたと言う訳だ。 他の兄弟がやりたがらないので、父上も困っておいでの様だ」
セネトは、複雑な表情を浮かべながら、そう説明する。
「つまり、尤もらしい理由を付けて、面倒臭い仕事を振られたと言う訳か」
シリウスは、ゆっくりと身を起こしながら、淡々とした口調で言う。
「そんなストレートに言わなくても……」
ハニエルが苦笑いを浮かべながら、シリウスに言い返す。
「厄介事を片付けて帰れば、皇帝も、婚約式をボイコットした事を、強く責める事が出来なくなるだろうから、引き受けるのが無難だろう」
ロナードは、落ち着いた口調で言うと、ハニエルもうんうんと頷いている。
「まあ、今から本土から人を派遣するよりも、僕たちの方がその島には近いからな。 帰って来るついでにといった感じだ」
セネトは肩を竦め、苦笑いを浮かべながら言う。
「セネトが断われないと分かっていて、その仕事を振るなんて、カルセドニ殿下も随分と意地悪ですね」
ハニエルは苦笑いを浮かべながら、少し気の毒そうに言うと、
「はははは……」
セネトは苦笑いを浮かべ、乾いた笑い声を漏らす。
それから数日後、ロナード達は目的の島に無事に到着した。
「大きなトラブルも無く、ここまで来る事が出来て何よりだわ」
カメリアは、安堵の表情を浮かべながら言った。
「うえええっ……」
下船した途端、ルチルは青い顔をして思わず、船体に隠れる様にして、身を屈めると海の上に豪快に胃の内容物をぶち撒けた。
と言っても、このところ酷い船酔いで、水分以外は殆ど取る事が出来ず、中身は無いに等しかったが……。
昨日からは特に波が高かった為、ルチル以外にも、ロナードやルフト、セネトも船酔いに悩まされていたが、ハニエルが作った酔い止めを飲み、ゆっくり体を休めた事もあり、三人はかなり回復していた。
「この島の市場に酔い止めの薬となる薬草を、扱っていれば良いのですが……」
陸に上がっても調子の悪そうなルチルを見て、ハニエルは心配そうな表情を浮かべながら呟いた。
「兎に角、貴方たちは何処か宿を取って、ルチル様を休ませて頂戴。 停まっていても船の上は揺れるから、その方が良いでしょう」
カメリアが落ち着き払った口調で、ロナード達に言った。
「カメリア。 帝国本土までは船であと何日掛るんだ?」
ロナードは、ルチルの様子を気に掛けながら、徐にカメリアに問い掛ける。
「最低でも、あと一カ月弱と言った所かしら。 途中で食料や水の補給の為に、まだ何度かこの様な場所に立ち寄る事になると思うわ」
カメリアは、淡々とした口調で答える。
(一カ月弱か……。 流石に昨日の揺れはキツかったな……。 まだ暫くはハニエルの酔い止めの世話になりそうだ)
ロナードは、ゲンナリした表情を浮かべ、心の中で呟いた。
「まあ何の問題も無く、この島に上陸する事は出来たから良しとしよう。 あとは手筈通り頼むぞ」
セネトは、両腕を自分の胸の前に組み、淡々とした口調でロナード達に言った。
「今日、決行するのか? 少しルチルの様子を見てからでも……」
ロナードはルチルを見ながら、戸惑いの表情を浮かべ、セネトに言った。
「僕は、ルチルよりもお前の方が心配だが」
セネトは、真剣な面持ちでロナードに言い返すと、
「どう見ても今、危機的状況にあるのはルチルだろ?」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら言う。
「セネトの言う通りだ。 ハニエルの術で怪我は治ったとは言え無理はするな。 それに教会の連中も何処に潜んでいるか分からない。 間違っても一人で行動するな。 必ず誰かと一緒に居ろ」
シリウスが、真剣な面持ちでロナードに言ってから、
「作戦の決行は最悪、私とハニエルだけでも何とかなる。 無理にルチルを参加させる必要は無いだろう」
シリウスは、淡々とした口調でセネトに言うと、
「決行までには時間がある。 その時の様子を見て決める」
彼女は、落ち着き払った口調でシリウスに言い返した。
「ここに居る連中より、教会が追って来ないかが気になる所ね」
カメリアが、海の方へと目を向けながら言うと、ロナードは複雑な表情を浮かべる。
「まあ、揺れないのなら、僕は何処でも構わない」
ルフトは、どうでも良さそうな口調で言う。
「お前まで僕の都合に付き合わせて、済まないな」
セネトが申し訳なさそうに、ルフトに言うと、
「とんでもない! 他ならぬ、皇女殿下の頼みとあれば喜んで」
彼は、先程までの不愛想な態度は何処へやら……片手を自分の胸元に添え、愛想良く笑みを浮かべ、そう答える。
「……使い物になれば良いが」
シリウスがボソリと言うと、ルフトは思わず彼を睨み付ける。
「と、兎に角、一旦ここで解散にしましょ? 必要な物を買ったり、この島を見て回りたい人もいるでしょうし」
カメリアは、シリウスとルフトの間に、不穏な空気が漂い始めたのを感じ取ると、二人の間に割って入り、パチンと自分の手を合わせて叩き、ニッコリと笑みを浮かべながら一同に言った。
「そうですね。 船酔いを止める薬の材料を揃えておきたいですし。 行きましょうか。 シリウス」
ハニエルはそう言って、カメリアの意見に同調し、ルフトとの間に険悪な空気を漂わせているシリウスに声を掛ける。
「遅れるなよ」
市場へ向かうハニエルに同行するシリウスは、去り際にルフトにそう言うと、
「お前の方こそ」
ルフトは、五月蠅そうな顔をしながら、強い口調で言い返す。
(何で仲良く出来ないんだ。 あの二人)
そんな様子をロナードが苦笑いを浮かべながら、心の中で呟いでいる側で、
「アイツ等、顔を合わせる度に、嫌味しか言い合わないのは、どうにかならないのか……」
同じ事を思ったセネトが、ゲンナリとした表情を浮かべ、片手を額に添え、特大の溜息を付きながら呟く。
「まあ、ロナードにまで噛み付かないだけマシですわよ」
ナルルを連れて、周囲を見に行ったルフトを見ながら、カメリアは苦笑いを浮かべながら言う。
「流石に、二対一では勝ち目が無いと、分かっているんだろう」
セネトも、苦笑いを浮かべながらそう指摘すると、
「俺は、ルフトとは殆ど、口を利いた事がないけどな」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら言う。
「ほら。 行くぞ」
酷い船酔いに苛まれ、桟橋の端に蹲っていたルチルの背中を摩りながら、ギベオンがそう声を掛ける。
「ちょっとギベオン。 背負って行ってくれない?」
ゲッソリとして、真っ青な顔のルチルは、座り込んだまま力なく、ギベオンに言うと、
「断る。 背中に吐かれたら最悪だ」
彼は、非情にもそう即答した。
「ひどっ……」
ルチルは、ムッとした表情を浮かべながら言い返す。
「一層の事、ここに永住したらどうだ? そうすれば、もう船で移動しなくて済むぞ」
セネトが意地悪く、ルチルに言うと、
「冗談じゃないわよ! 誰がこんな何もない所に! 帝都へ帰るに決まってるでしょ!」
ルチルは物凄く嫌そうな表情を浮かべ、強い口調で言い返す。
「全く……」
ギベオンがそう言うと、徐に身を屈め、ルチルを片腕でヒョイと抱え上げる。
「へ?」
ルチルは目を点にして、間抜けな声を上げていると、何を思ったのか、ギベオンはそのまま、ルチルを自分の肩の上に担ぎ上げ、スタスタと歩き出した。
「アンタ馬鹿なの? そんなの余計に気持ち悪くなるでしょ!」
ギベオンの肩に担がれたまま、ルチルは激怒して、思わずそう叫んだ。
「吐いたら、海に投げ捨てるからな」
ギベオンは、自分の肩の上でギャーギャー言っているルチルに対し、淡々とした口調で言い放った。
「ちょっと! 下ろしなさいよ!」
ルチルは相変わらず、怒って喚き散らしているが、ギベオンはお構いなしに、涼しい顔をして彼女を宿屋まで運ぶ。
「他に運び方があるだろ……」
遠ざかっていく二人を見ながら、ロナードは呆気に取られつつ、そう呟いた。
「ギベオンの中でのルチルの扱いは、あれで良いんだろ」
セネトは、苦笑いを浮かべながら、ロナードに返した。
宿屋に到着してから、暫くして……。
「困ったわね。 やっぱり嵐になりそうだわ」
入港の手続きを済ませて来たカメリアは、困った様な表情を浮かべながら、部屋の中に居たロナード達に言う。
「嵐なら、島から対象が逃亡する心配はありませんが、私たちも身動きが取れなくなりますね」
ハニエルは、複雑な表情を浮かべながら呟く。
「まあ、私たちは念の為、予定の通りに船で、例の入り江の入口を塞いでおくわ」
カメリアは、落ち着いた口調で言う。
「頼む。 予定通りであれば、この島で行われている、闇取引の客たちを乗せた船が、停泊している筈だ」
セネトは真剣な表情を浮かべ、カメリアに言うと、彼女は頷き返す。
「それより、駐屯所の利用を掛け合うと仰っておられましたが、そんなに上手くいくでしょうか?」
ルフトは、不安そうな表情を浮かべ言う。
「嵐になれば、この近くにいる船は全てこの島へ来て、船に乗っている連中も島に上がって来るでしょう」
ギベオンは、落ち着き払った口調で言う。
「そうなれば、ここも人で溢れかえる。 そんな大勢の中で、皇族である僕の安全を確保する事は厳しい。 それを引き合いに出して、施設の部屋を使わせろと迫れば、向こうも嫌とは言えないだろう」
セネトは、落ち着いた口調で言う。
「そうですね。 それ相応の理由が無い限り、皇族の頼みを断る事はしないでしょう。 断って、後で何かあった方が、彼らも困るでしょうからね」
ハニエルも落ち着き払った口調で言うと、
「金でも握らせれば尚更、『嫌』とは言わんだろう」
シリウスが、淡々とした口調で言う。
「僕は急ぎ、ギベオンと共に駐屯軍の司令官に掛け合って来る」
セネトは、真剣な面持ちで言うと、ロナードたちは頷き返すが、ルフトは不安そうな顔をして居る。
「そろそろ時間だが、ルチル。 行けそうか?」
シリウスは真剣な面持ちで、奥で休んで居たルチルに声を掛ける。
「問題ないわ」
ルチルは横たわっていたベッドから身を起こし、落ち着いた口調で答えた。
「よし。 では皆。 当初の計画通りに準備に取り掛かってくれ」
セネトは、部屋の中に居る面々を見回しながら、落ち着いた口調で言った。
「分かりました」
ハニエルは、落ち着いた口調でセネトに返す。
「ナルル。 何時まで食べてるんだ?」
ルフトは、呆れた表情を浮かべ、自分の側に座って居るナルルにそう声を掛ける。
「このマンゴー美味しいけど、ルフト様も食べる?」
ナルルは、市場で見付けたマンゴーを半分に切った物を両手に持ち、口からその滴を滴らせ、モサモサさ食べながら、まだ口を付けていない方をルフトに差し出しながら言った。
「食べ方……」
「……緊張感のない子ね」
ナルルが後ろのテーブルの上を汚らしくマンゴーを食べ散らかしているのを見て、ロナードとルチルはドン引きして、思わず呟く。
セネトたちのやり取りを聞いていなかったのか、こんな時でもマイペースなナルルに、もはや皆、叱る気が失せてしまい、苦笑いを浮かべる他なかった。
「……ちゃんと、私たちの話を聞いていましたか? ナルル」
ハニエルが苦笑いを浮かべながら、ナルルに問い掛けると、
「うん。 もうここを出るんでしょ?」
ナルルは、呑気な口調でそう言うと、口を付けていなかったマンゴーを豪快に、大きく開けた自分の口の中に押し込んだ。
(一飲みって……)
(コイツの口の構造、どうなってるんだ?)
ナルルが、半分に切ったマンゴーを一飲みしてしまったのを見て、セネトとロナードは思わず顔を引き攣らせ、心の中で呟く。
「ちょっと! 手を拭きなさいよ! そんな手でどこでも触らないで!」
ナルルの手がマンゴーの汁でビチャビチャなのを見て、ルチルは思い切り眉を顰め、彼女に向かって強い口調で言った。
ナルルは五月蠅そうな顔をしながら、見かねたハニエルが差し出したハンカチで手を拭く。
「部屋中、とてもトロピカルな香りがするわね……」
カメリアは、苦笑いを浮かべながら呟く。
「床っ!」
ルチルは、かなり苛立った様な口調で、ナルルが椅子に座っていた床の上に、マンゴーの汁が滴れているのを指差す。
「……行こうか」
ゲンナリした表情を浮かべつつ、セネトは同行するギベオンに声を掛けると、彼は頷き返し、座っていたソファーから立ち上がる。
「ちょっと。 ホントに勘弁してよ……」
ルチルはブツブツと文句を言いつつ、身を屈め、自分が持っていたハンカチでナルルの口などを粗っぽく拭う。
「って……。 ねぇ私たちの分は?」
ナルルの背後にあるテーブルの上に、幾つか置いてあった筈のマンゴーが、種だけ残されている事に気付き、ルチルは徐にナルルに問い掛ける。
「え? 全部食べちゃったゾ?」
ナルルは、キョトンとした表情を浮かべ、そう答えた。
「は? 冗談でしょ? 後で食べるって、私、言ったわよね?」
ルチルは、テーブルの上に無残に種だけになっているマンゴーを見ながら、愕然とした顔をして呟く。
「そんな物、後で幾らでも買えば良いだろ」
シリウスが、ガックリと肩を落としているルチルに、淡々とした口調で言った。
「時間が惜しいので、そろそろ行きますよ。 ルチルさん」
ハニエルは、ルチルに気の毒そうな視線を向けつつ、彼女にそう声を掛けると、ルチルは肩を落としたまま、シュンとした表情を浮かべ、トボトボとシリウスの後に続いて部屋を後にする。
「あの短時間で、全部食べたのか……」
ロナードも、自分達が話し込んでいる間に、五つはあったであろうマンゴーが、見事に種だけになっているのを見て、思わず苦笑いを浮かべながら呟いた。
「意地汚い奴だな」
ルフトも、ナルルに対してかなりドン引きして居る様子で、呟く。
「そんなに食べて、後でお腹が緩くなっても知らないわよ?」
カメリアは、呆れた表情を浮かべながら、ナルルに言った。
「ふ~っ。 満足だゾ」
ナルルは満面の笑みを浮かべ、自分の腹を両手で軽くパンパンと叩きながら言った。
「そ……それは良かったな……」
皆が、ナルルの奔放さに呆れて居る中、ロナードはドン引きしながら、彼女にそう返した。
『……ったく。 さっき来たガキんちょ、本当に皇子で間違いないのかよ?』
島の駐屯軍の司令官の直属の部下である、一人の若い男が面倒臭そうな表情を浮かべ、片方の小指で耳を穿りながらそうぼやくと、フッと息を吹きかけて、指先に付いた耳垢を吹き飛ばした。
側で話を聞いて居た、少年兵はその行動を見て『汚いな』と思いつつ、口に出す事はしなかった。
二人は、上官である司令官から、この島周辺の国の視察を終えて帰国する際に、嵐になりそうなのでこの島に寄港し、嵐が過ぎるまでの間、この駐屯所を利用する皇子とそのご一行の世話をする様に命じられたのだった。
正午を過ぎ、何時もの様にジリジリと肌を焼く日差しと、嵐が近付いている所為か、湿気を帯びた強い海風が突き付けてくる。
『あ~。 面倒臭せぇ……ちゃちゃっと終わらせようや』
年長の青年が、本当に面倒臭そうにそう言いながら、門の前で中腰になり、また片方の小指で自分の耳を穿りはじめた。
『先輩。 そんな態度だと叱られますよ』
その態度を見て、少年兵は焦りの表情を浮かべながら注意する。
『だってよ、嵐になるから巡視船も出せねぇから、部屋でゴロゴロ出来るって言う時に、よりによってよぉ』
青年兵は五月蠅そうな顔をして、相変わらず自分の耳を指で穿りながら言い返す。
そうこう言って居ると、数人が少し急な坂道を登り、此方へ向かって来ているのが見えた。
『ったく。 やっとご到着かよ。 昼過ぎとか漠然過ぎんだっつーの』
青年兵もそれに気付くと、面倒臭そうに『よっこらしょ』と立ち上がると、そうぼやいた。
『ん? ああ……出迎えご苦労』
少しして、彼らの前に現れた肩くらいの長さの少し長めのショートカットのフワッとした癖のある黒髪、琥珀色の大きな瞳が印象的な、少し日に焼けた赤銅色の肌を持つ小柄な少年が、片手を挙げながら、偉そうにそう言って来た。
先程、交渉に来たセネト皇子だ。
流石に滞在して居た宿屋から、駐屯所へ続くこの傾斜を二往復するのはキツイかった様で、心なしか疲れた様な顔をしている。
『お、お待ちして居りました』
青年兵はおずおずと、セネトに言った。
『世話になる』
セネトは、素っ気ない口調で言う。
『中へご案内致します』
青年兵は少し緊張した面持ちで一行に言うと、駐屯所の門を開いた。
何を隠そう、この二人こそが、この駐屯所の上層部たちが、闇取引をしている事を告発した張本人たちであった。
『司令官は?』
ギベオンは、淡々とした口調で、青年兵たちに問い掛ける。
『一服盛っておいたんで、グッスリだぜ』
青年兵は事務的な口調で答える。
『例の、闇取引に関わっている商人たちは、どうなってる?』
セネトは、淡々とした口調で青年兵たちに問い掛ける。
『既に軍艦の倉庫で運ばれてきた物の品定めの真っ最中です』
『さっき来たばかりですから、当分は居ると思うぜ』
二人の兵士はそう答える。
『上出来だ』
セネトは不敵な笑みを浮かべ、満足そうに呟いた。
『海賊たちなどから押収した物を少なく報告して、秘密裏に商人に横流しをし、金にするなど本当に救えないな』
ルフトは不愉快そうな表情を浮かべ、唸る様な声で呟く。
『全くだぜ。 これじゃ、どちらが海賊か分かったもんじゃねぇ』
青年兵は苦笑いを浮かべながら、言う。
『こんな僻地なら、監視の目が届かないと思って居たのだろうな』
セネトは、嫌悪に満ちた表情を浮かべ、呟く。
そんな事を話していると、一番奥の部屋の前に着いた。
『こちらです』
少年兵がそう言うと、部屋の扉を開ける。
中は思ったよりも広く、部屋の隅には二段ベッドが左右に二つずつ、部屋の中央に大きな木製のテーブル、それを囲む様に椅子が八脚、二人掛けのソファーが二つ、壁際に配置され、片手開きのドアが二つあり、部屋の奥に少し大きめの窓が付いて居た。
『ゲストルームは、司令官の私室と化していて、他に部屋が無いもので……使える部屋は此処だけでした』
少年兵は、申し訳なさそうな表情を浮かべ、セネト等に向かって言った。
海軍の司令官と言う立場上、色んな土地へ行くので、その先々で手に入れた、訳の分からぬ壺や皿、置物などが無尽蔵に置かれ、物置状態になっているのだ。
そう言った物を、たった数時間で片付けてしまうのは不可能な話だ。
『問題ない』
ギベオンが落ち着き払った口調で、少年兵に返した。
『私どもは周囲の様子を見てまいります。 何かあれば、遠慮なくお呼び下さい』
少年兵はそう言うと、セネト等に深々と頭を避けると、青年兵士と共に部屋を後にした。
セネト皇子らが来て暫くして雨が降り出し、今は心なしか、先程までよりも風の音と雨の音が強くなってきた気がする。
『さてさて。 役者は揃ったぜ』
青年兵は嬉々とした表情を浮かべ、声を弾ませながら言う。
『思たよりも人が少なくてビックリですが、大丈夫なんですかね?』
少年兵は、不安そうな表情を浮かべ、先輩兵士に問い掛ける。
『あんま、大勢で来ると怪しまれるからな。 少数精鋭ってトコだろ』
青年兵は真剣な面持ちで言うと、
『何だか、緊張して来ました……』
少年兵が、不安そうな表情を浮かべながら言うと、
『今のうちに、小便に行っとけ』
青年兵が、意地の悪い笑みを浮かべながら、少年言う。
『大丈夫ですって!』
少年兵は、ムッとした表情を浮かべ、言い返していると……。
『ってオイオイ……。 早速かよ』
青年兵は、ギベオンたちを見付けるなり、苦笑いを浮かべながら呟いた。
『行って来るゾ』
ナルルは、不敵な笑みを浮かべながら、彼等に言うと、
『船の前に、右肩に赤と黒の腕章を付けた、仲間の兵士が居ます。 彼に声を掛ければ、倉庫まで案内してくれます』
少年兵が真剣な面持ちで、ギベオンたちに言うと、
『了解した。 お前たちは殿下たちのフォローを頼む』
ギベオンは真剣な面持ちで言った。
『任せろ』
青年兵が、不敵な笑みを浮かべながら返した。
『早く行くゾ~♪』
ナルルは嬉々とした表情を浮かべ、ギベオンに向かって、手を振りながら叫ぶ。
『分かっています』
ギベオンは、ナルルに急かされ『やれやれ』と言った様子で返すと、彼女を連れて駐屯所の出入り口へと向かう。
『これで、作戦が上手くいけば、帝国本土へ帰れるかもな?』
青年兵は、嬉々とした表情を浮かべながら言うと、
『先輩は、ここが嫌いですか? 自分は、のんびりしていて良いと思いますけど?』
少年兵がそう返すと、
『オレより若いのが、何言ってやがんだよ』
青年兵は、苦笑いを浮かべながら言ってから、
『こんな帝都から遠く離れた辺境に居たら、何時まで経っても出世出来ねぇぞ? お前だって、給料が増えて、良い暮らしをしたいだろ?』
少年兵に問い掛けると、
『そりゃあ、まあ、給料は増えて欲しいですけど……。 でも、船に乗るのは好きです』
彼は、少し困ったような表情を浮かべながら答えた。
『そうは言うけどな、船に乗ってると色んな危険も伴うし、海賊とだって戦わなきゃいけないんだぞ? オレは御免だね』
青年兵は、肩を竦めながら語る。
『じゃあ、成功する様にちゃんと手伝わなきゃですね』
少年兵は、ニッコリと笑みを浮かべ、穏やかな口調で言った。
『おい。 大変だ!』
二階へ通じる通路から、数人の兵士が血相を変えて駆け寄って来た。
『どうしたよ。』
青年兵が不思議そうに問い掛けると、
『司令官が何者かに拉致された!』
別の兵士が青い顔をして、顔を引き攣らせながら言った。
『何だって?』
青年兵士は、驚きのあまり素っ頓狂な声を上げる。
(やる事早ぇな)
青年兵は、心の中で呟いてから、チラリと少年兵の方へと目を向けると、彼は真剣な面持ちで頷き返した。
『司令官がって……あの人、自分の部屋で昼寝をしていたんじゃあ……』
少年兵が、自分たちを呼びに来た兵士に、戸惑いながら言うと、
『昼寝の最中に襲われたんた』
彼等を呼びに来た中年の兵士が、表情を強張らせながらそう言った。
『それ、本当ですか?』
少年兵はあまりに間抜けすぎる話に、思わず目を点にする。
(寝込みを襲うだろうとは思ってたけど……こんな簡単に捕まるとか、流石にちょっと間抜け過ぎないか?)
少年兵は呆れた表情を浮かべ、心の中で呟く。
駐屯所の中なので、まさか襲撃されるなど、夢にも思っていなかったのだろう。
三階建ての建物の最上部、司令官の私室と賓客用の部屋のある、それほど広くない廊下に、事態を聞き付けた兵士達が溢れていた。
『どうなってるんだ?』
青年兵が、近くに居た兵士にそう問い掛けると、
『突入した小隊は全員、返り討ちにされたらしい』
先に来ていた兵士が、顔を強張らせながら答えていると、突然、司令官の私室の手前にある賓客用の部屋の扉が開き、
『呆れた。 まるで物置じゃないか』
そう言いながら、セネトがロナードを伴って出て来た。
『ああ、お前たち何をしてる?』
セネトは、廊下に溢れんばかりの兵士たちを見て、キョトンとした表情を浮かべながら問い掛ける。
『危険です。 皇子。 一刻も早くこの場からお逃げ下さい!』
兵士が真剣な面持ちで、セネトにそう言うと、
『何故?』
セネトは、不思議そうに問い掛ける。
『司令官の部屋に何者かが侵入して、司令官を拉致して立て籠もって居るとの事です』
別の兵士が真剣な表情を浮かべ、セネトに事情を説明すると、
『あ~。 あの役立たずの狸か……』
セネトが、半ばどうでも良さそうな口調で言ったのを聞いて、
『役立たず……』
『狸……』
近くにいた兵士達が、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
『ここの司令官が、海賊から没収した金品を着服し、私腹を肥やし、金で地位を買った能無しだと言う事は調べが付いている。 故に皇子である僕が直々に粛清した。 何か問題でもあるか?』
セネトは、不敵な笑みを浮かべながら、戸惑って居る兵士たちに語る。
兵士たちは、セネトの予想外の発言に驚き、更に戸惑う。
どうやら彼らは、司令官を拉致した者が、セネトとは思っていなかったようだ。
そして、兵士たちの多くが、司令官がしていた事を知らない為、セネトの告白に驚き、戸惑って居る中……。
『そんなの出鱈目だ!』
『コイツは皇子の名を騙る偽物だ!』
『騙されるな!』
一部の兵士がそう叫ぶと、武器を手にし、セネトに一斉に襲い掛った瞬間、まるでゴム風船にでもぶつかった様に、目には見えない空気の壁に弾き飛ばされ、勢い良く床の上に転がった。
「こんな所にも、豚の仲間が混ざって居たか」
ロナードは溜め息混じりに、淡々とした口調で呟く。
薄暗くて良く見えなかったが、彼の足元に何か大きくて黒い塊が転がっている……。
目を凝らして良く見ると、海軍の制服を着た豚の様に丸々と肥えた、頭が些か寂しくなっている中年男性が、両手を後ろ手にされ、縄でグルグル巻きにされた状態で転がっていた。
『司令官?』
近くに居た兵士は、ロナードが足蹴にしている物体が、ここの司令官だと分かると、思わず素っ頓狂な声を上げた。
(あ~。 たった二人に見事にしてやられて……。 こんな思い切りグルグル巻きにされちゃ、手も足も出ないよな……)
シーツで体をグルグルに巻かれ、米俵の様な姿になっている司令官に、冷ややかな視線を向けながら、青年兵は心の中で呟いた。
『ブヒブヒと五月蠅いので黙らせたが……。 他にも黙らせた方が良さそうなのが居る様だな?』
セネトは、自分に向かって来た兵士たちを静かに見下ろしながら言うと、不敵な笑みを浮かべ、何やら聞き慣れぬ言葉を呟くと、何処からかとても甘い香りが漂って来た次の瞬間、彼の近くにいた兵士たちは強烈な眠気に見舞われ、バタバタとその場に倒れた。
『えっ……』
『何が……』
それを目の当たりにした、青年兵と少年兵は戸惑いの表情を浮かべ、揃ってそう呟いた。
『安心しろ。 眠らせただけだ』
セネトは、落ち着き払った口調で、戸惑って居る兵士達に言った。
『僕たちがその気になれば、ここに居る全員を眠らせて無力化する事が出来る。 無駄な抵抗は止めて大人しく投降しろ』
セネトは、落ち着き払った口調で、戸惑って居る兵士たちに言った。
『お待たせだゾ!』
と、何処からか女の子の声が聞こえたと思った瞬間、天井がベキベキッと物凄い音を立て、黒い分厚い雲が空を覆っているのが良く見える程の大きな穴が開き、炎の様に真っ赤な髪をポニーテールにした女の子が、誰かの頭を片手で鷲掴みにした状態で降って来た。
『な、ナルル?』
「何処から入って来てる」
それを見て、流石のセネトとロナードも驚きの表情を浮かべ、赤い髪の少女に言った。
『はい。 これ』
ナルルは雨に打たれ、ずぶ濡れになったまま、そう言って自分が片手で頭を鷲掴みにしていた、司令官と負けず劣らず、丸々と太った中年の男をセネトの前に投げやった。
その鼻髭を生やした中年の男は、カニの様に口から泡を吹き、白目を剥いて気絶している。
その身なりからして、商人の様である。
「……」
ロナードは、商人らしき中年の男に、憐みの視線を向けつつも静かに見下ろしている。
『ナルル……何故ここから来た?』
セネトは、頭上から容赦なく雨が打ち付けて来るので、不満に満ちた表情を浮かべ、ナルルに言った。
『だって階段を上がって来るより、こっちの方が早いゾ?』
ナルルは、キョトンとした顔をして、セネトに答えた。
『だからって……これは無いだろ? 僕たちまで濡れてしまうだろ』
セネトは、呆れた表情を浮かべながら言う。
『ちゃんと悪い奴掴まえたんだから、細かい事はどうでも良いゾ?』
ナルルは、五月蠅そうな表情を浮かべながら言い返す。
『……』
セネトは、ゲンナリとした表情を浮かべ、片手を額に添える。
【他の二人は?】
ロナードは、落ち着き払った口調で、亜人たちの言葉でナルルにそう問い掛ける。
【コイツの仲間をボコボコにしてるから、もうちょっと掛るゾ】
ナルルはニッコリと笑みを浮かべ、ロナードの問い掛けに答える。
セネトは特大の溜息を付いてから……。
『さて……お前たちは、大人しく武器を捨て投降するか、それとも、僕たちに手向かいして、ボコボコにされるか……。 どちらにするか決まったか?』
兵士たちに向かって、落ち着いた口調で問い掛ける。
『やってらんねぇ……』
『逆らう理由がないですよ』
青年兵と少年兵は、他の兵士たちの戦意を削ぐ為そう言うと、揃って持って居た武器を床の上に投げ捨て、両手を挙げ、降参の意志を示す。
思いの外あっさりと司令官が捕まり、彼と一緒に甘い汁を吸っていた一部の兵士と、彼らと取引をして居た商人たちも捕らえそうな雰囲気だ。
彼らにしてみれば正に、寝耳に水だろう。
ロナード達が、海軍の駐屯所に行ったのを向かいの婦人服を扱う店の中から見届けると、シリウスは、ハニエルとルチルと共に、ある建物の前に来ていた。
木造の二階建て、一階は食堂、二階は宿屋と言う何処にでも店だ。
三人が店の中に入ると、嵐を避けて船から降りて来た旅客船の乗客や、船乗りなどが集まっており、店内は賑わっていた。
シリウスは聞いた通りに、バーカウンターの前に来ると、徐に近くにいた若いバーテンダーに、銀色に光るカードと共にチップとして銀貨を差し出した。
『見た事の無い顔ですが……』
若いバーテンダーは、戸惑いの表情を浮かべ、シリウスに言うと、
『知り合いの紹介で本土から来たの。 ここで市場では出回らない様なモノが手に入ると聞いて』
高そうなお出かけ用のドレス、これでもかと言わんばかりに身に着けた装飾品……如何にも、金持ちの貴族の娘という装いのルチルが、口元を扇子で隠しながら、落ち着き払った口調で答えると、
『少し、お待ち下さい』
若いバーテンダーはそう言うと、一階の店を取り仕切っている壮年のバーテンダーに慌てた様子で声を掛け、シリウスが差し出した銀色のカードとチップの銀貨を見せ、シリウス達の方を何度か見ながら、何やら話している。
暫くして、壮年のバーテンダーがやって来て、
『『下』に御用ですか?』
真剣な表情を浮かべ、徐にそう問い掛けてきた。
『そうよ。 今日はやってないのかしら?』
ルチルは落ち着き払った口調で答えると、壮年のバーテンダーが不審そうな顔をしてルチルを見て居ると、隣にいたハニエルが徐に被っていたフードを手で払い、顔を顕わにすると、
『ご主人様は、とても面食いでいらっしゃるので、その辺の市場のモノでは満足なされないのです』
ニッコリと笑みを浮かべ、壮年のバーテンダーにそう言った。
壮年のバーテンダーは勿論、近くにいた客たちも、ハニエルの人間離れした美しさを前にし、暫し、見惚れてしまう。
『可愛いハニエル。 やっぱり、こんな田舎では、私を満足させられるモノは無いようね。 本土からわざわざ来たと言うのに、とても残念だわ』
ルチルは、ハニエルの長い髪に触れつつ、優しい口調でそう言うと、壮年のバーテンダーを挑発するかの様に、不敵な笑みを浮かべる。
ルチルの言動に、一緒に居たシリウスは一瞬、物凄い形相で彼女を睨み付けると、その視線に気付いたルチルは、彼を挑発するかのように不敵な笑みを浮かべる。
二人の間に、目には見えない火花が飛び交う。
『行きましょう。 ご主人様』
今にも、殺し合いを始めそうな雰囲気を漂わしている二人を見て、ハニエルは慌ててルチルの腕を掴むと、そう言って店から出る様に促す。
『急な参加ですので確認を取ってまいります。 暫くお待ち頂けますか?』
壮年のバーテンダーは、半ば食い入り気味に、真剣な面持ちルチルに言った。
『まあ。 嬉しいわ』
ルチルは、壮年のバーテンダーが急に態度を変えたのを見て、笑みを浮かべながら言った。
『ちょ、ちょっと店長。 何を考えているんです? ここに、あれ程どえらい美人なんて、運ばれて来た事なんて……』
彼等のやり取りを聞いていた若いバーテンダーが戸惑いながら、鍵を取りにカウンターの奥に来た壮年のバーテンダーに小声で声を掛ける。
『無いのなら、手に入れたら良いだけの話だ』
壮年のバーテンダーはそう言うと、ニヤリと笑みを浮かべた。
『ま、まさか……』
若いバーテンダーは、壮年のバーテンダーが何を考えているのか察すると、戸惑いの表情を浮かべながら言う。
『お前は先に行って、その旨を支配人に伝えておけ』
壮年のバーテンダーは小声で言うと、何処かの鍵らしき物を若いバーテンダーに手渡した。
若いバーテンダーは戸惑いながらも頷き返すと、急いでカウンターから出で、店の奥へと向かった。
『もう暫くお待ち下さい。 急いで確認させますので』
壮年のバーテンダーは愛想良く笑みを浮かべながら、ルチルに向かって言うと、
『その必要は無い』
隣に居たシリウスが淡々とした口調で言うと、控えていたハニエルが懐から小瓶を取り出すと、思い切り床に向かってそれを投げ付ける。
小瓶が割れる音共に、何とも言い難い、甘ったるい匂いが店の中に充満し始める。
シリウス、ハニエル、ルチルの三人は、それを吸い込まぬ様に、持って居たハンカチで口元を覆いながら、足早に若いバーテンダーが向かった方へと向かう。
ハニエルが素早く、こちらに割れた小瓶の中身が漂って来ない様、土の魔術で土の壁を作ると、三人は覆っていたハンカチを口元から離す。
『凄い威力ね』
ルチルは、ハニエルが床に投げ付けて割れた小瓶を中心に、その場に居合わせた者たちが、強烈な眠気に見舞われて、バタバタと倒れて行く様を目の当たりにして、そう呟く。
『ああ。 ルフトに渡された時は半信半疑だったが……』
シリウスも、自分が思っていた以上の効果を発揮したのを見て、驚きを隠せない様子で言った。
『魔術を封じ込める事が出来る魔道具ですか……。 なかなか、侮れませんね』
ハニエルも、複雑な表情を浮かべながら、そう呟く。
ルフトが渡して来たのは、まだ試作段階ではあるのだが、魔術文字を刻んだ特製の瓶の中に、魔術を注ぎ、その効果を保存出来ると言う、魔道具の一種だ。
普通、魔道具と言うモノは、『魔石』と呼ばれる、魔力を含んだ特殊な石に複雑な術式を刻み、そこに魔力を注ぎ込む事によって、術式に刻まれた魔術が発動すると言う仕組みであり、魔術そのものを留めて置く事は基本的には出来ない。
魔術の効果を付与する魔石が埋め込まれた、剣や鎧などはあるが、それも魔石と術式があってこそ初めて効果を発揮できる。
その点から考えると、かなり画期的な物である。
『えっ……あ、こ、困りますよ。 お客さん。 勝手に……』
戻って来た若いバーテンダーが、シリウス達と通路で鉢合わせになり、彼がそう言いながら戸惑っている所にシリウスが容赦なく、その鳩尾に拳を叩き込むと、若いバーテンダーは呻き声を上げ、その場に崩れる様に倒れた。
シリウスは、倒れた若いバーテンダーの衣服を漁り、先程、壮年のバーテンダーが手渡していた鍵を見付けると、
『行くぞ』
落ち着いた口調で、二人にそう声を掛けると、二人は真剣な面持ちで頷き返す。
少し歩いた所の突き当たりに、一見すると床下収納用の扉と思う様な、薄い鉄製の扉が床にくっ付いており、シリウスが身を屈め、先程、若いバーテンダーから奪った鍵をその扉に徐に差し込み、鍵を回すと、施錠が開く音がして、その音が下へと反響した。
どうやら下には、かなり広い空洞がある様だ。
『気を付けて』
先頭を行くシリウスに、ハニエルはそう声を掛ける。
大柄なシリウスが辛うじて通れる程の幅に、下へと通じる階段があり、シリウス達は壁伝いに慎重に下って行くと、降り切った所の先は通路が続いた。
それを更に進むと、目の前に分厚い鉄の扉が現れ、扉を開くと、眩しい位に煌々と明かりが灯されている広い空間に出た。
暗い所から、急に明るい所に来た所為で目が眩んだシリウスたちの耳に、彼等が降りて来た事に気付いた人々が、ざわめく声がした。
目を凝らして良く見ると、壁際に沿って幾つか高そうな椅子が並べられ、そこに、商人や貴族など、様々な身なりをした二十人位の男女が座っており、やって来たシリウス達を興味深そうに見ている。
『思ったより、お早いご到着でしたな』
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男が、不敵な笑みを浮かべ、やって来たシリウス達
に言った。
どうやら、上での騒ぎは既に知られてしまっている様だ。
オークションだけでなく、決闘などもするのか、シリウスたちが居る中央を鉄の檻を囲う造りで、その檻から少し離れた所から階段上になって観客席が並び、中央を見下ろす様になっている。
シリウスたが来た所と真向かいに、かなり分厚そうな鉄の扉があり、開け放たれている扉の向こうは、更に奥へと繋がっている様であった。
『これから皆さんには少し、面白いショーを見て頂く事となります』
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男は、落ち着き払った口調で、観客席に居る者たちにそう言った。
『何も知らず、のこのことやって来た、この愚かな余所者たちと、駐屯所の中でも五本の指には入る強さを誇る海軍将校さまのバトルの勝敗を賭けて頂き、その戦いをお楽しみ頂くというもので御座います』
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男は、落ち着き払った口調で、観客席に居る者たちに説明する。
『侵入者の私たちを賭け事の道具にするなんて、なかなか悪趣味ですね……』
話を聞いてハニエルは、苦笑いを浮かべながら呟く。
『どうするの? 逃げる?』
ルチルが戸惑いの表情を浮かべ、シリウスに問い掛ける。
『寧ろ好都合だ。 ここに居る奴らを一網打尽に出来るのだからな』
シリウスは不敵な笑みを浮かべ、そう返した。
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男の説明を聞いて、客たちはざわめていている。
『それはまた……』
『面白そうだが、余所者が負けるのは目に見えいてる』
『これでは賭けが成立しないぞ』
集まった人々が、口々にそう言うと、
『分かって居りますとも。 公平を期すため、海軍将校の二人を相手に、余所者は三人で戦って頂きます。 武器はこの模造剣。 相手が気絶した時点で負けです。 余所者が勝利した場合は賭け金の三倍をお返しします』
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男は、落ち着き払った口調で、観客席に居る者たちに言うと、
『三対二ならば、分からんな……』
『面白そうだ』
『よし。 やろう』
集まった人々は、面白おかしく、口々にそう言って居ると、
『面倒だ。 ここに居る軍人ども全員、纏めて掛って来い』
シリウスが、軽く溜息を付いてそう言うと、
『彼の言う通りよ。 私たちを相手取るのなら、一個中隊は居ないと』
ルチルも、不敵な笑みを浮かべながら言った。
『それは、随分と腕に自信がおありの様ですね?』
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男は、苦笑混じりにシリウス達に言うと、
『全員、お呼びしろ』
近くにいた、同じ様に燕尾服を着た若い男に、そう耳打ちをする。
暫くして、分厚い鉄の扉の向こう側から、如何にも軍人と言った風体の、鍛え上げられた強靭な肉体を持つ、大柄な男たちが五人程やって来た。
その五人とも全員、白い帝国軍の軍服に身を包んでおり、襟元に星が付いているので、かなり高官である様だ。
『済みませんね。 お手間を取らせて』
燕尾服を着た、白髪混じり茶色の髪の壮年の男は、愛想良く笑いながら、海軍の将校と思われる男たちに言った。
『な~に。 暇潰しに丁度良い』
『軍では、私闘は御法度だからな』
『ここなら、存分に暴れられると言うモノだ』
海軍の将校と思われる男たちは、不敵な笑みを浮かべながら言う。
『くれぐれも、顔には攻撃をしないで下さいね』
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男は、あくどい笑いを浮かべながら、海軍の将校と思われる男たちに言った。
どうやら、シリウスたちの様な招かれざる客は毎回、こうやって始末していたのだろう。
『分かっている』
『アンタも相当な悪だな』
『ま、楽しめれば、何だって良いが』
海軍の将校らしき男たちは、自分達の敗北など微塵も想像していない様子で、既に勝ちを確信してる様子で言った。
『これで、全員ですか?』
ハニエルがニッコリと笑みを浮かべ、燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男に問い掛ける。
『そうですが……』
燕尾服を着た、白髪混じりの茶色の髪の壮年の男は、戸惑い気味に答えると、
『そうですか。 でしたら全員、地獄へ行って下さい』
ハニエルは、ニッコリと笑みを浮かべたままそう言った後、凄まじい冷気を感じ、ルチルが身震いをした次の瞬間、周囲はあっという間に氷に閉ざされ、シリウス達と戦う筈であった海軍の将校と思われる男たちは勿論、燕尾服の男たち、戦いを観戦しようとして居た者たちも全員、下半身が氷漬けになって、動けなくなってしまっていた。
『おい! ハニエル!』
見せ場を取られたシリウスは、恨めしそうにハニエルに言う。
『何て人なの……』
ルチルは、ほんの一瞬で、自分たち以外の者達の下半身を凍らせ、身動きが出来ぬ状態にしてしまったハニエルの魔力に圧倒される。
『ああ、無理に動かない方が良いですよ。 ポッキリ折れちゃいますからね。 流石の私も、折れた体をくっ付ける事は出来ませんから』
ハニエルは、力任せに氷漬けの状態から脱しようとしていた、海軍の将校と思われる男たちに向かって、ニッコリと笑みを浮かべ、そう言った。
ハニエルがニッコリと笑みを浮かべて、何気に笑えない事をサラッと言ったので、それを聞いて、その場に居合わせた者たちの顔から、一気に血の気が引く。
『……他に人が居ないか、奥を見て来る。』
シリウスは、自分の見せ場をゴッソリ取られた為、意気消沈した様子で『はあ』と軽く溜息を付いてから、ハニエルに言うと、
『私も行くわ。 奥がどうなって居るか分からないもの』
ルチルは真剣な面持ちでシリウスに言うと、彼は頷き返す。
『お二人とも気を付けて』
ハニエルはニコニコと笑みを浮かべながら、シリウスとルチルにヒラヒラと手を振りながら、全く緊張感の無い口調でそう言った。
『ねぇ。 貴方よりもハニエルの方が、本当はヤバイんじゃない?』
シリウスと共に、分厚い鉄の扉の向こう側へ向かいながら、自分の前を行くシリウスにルチルは徐に言った。
『何を今更』
シリウスは、淡々とした口調で返す。
『大体、ハニエルが狼狽えるのを見た事が無いのよね』
ルチルは苦笑いを浮かべながら、シリウスに言うと、
『どうだろうな? そう見えないだけで、内心は焦って居るかも知れないぞ?』
彼は、淡々とした口調で答えると、
『それが分かるには、貴方と同じくらいの年月を付き合わないと、判らないのでしょうね?』
ルチルは、苦笑いを浮かべたまま、シリウスに言い返す。
『……だろうな』
シリウスは淡々とした口調でそう言ってから、フッと笑う。
その後、分厚い鉄の扉の向こう側には、更に下へと通じる階段があり、それは、波がくり抜いて出来た洞窟まで通じていた。
中型の船が入れる位の空間があって、外部からは分かりにくくなっていた為、海賊に拉致された人たちを乗せた船や、闇取引を目当てにやって来た客を乗せた舶が密かに接岸出来る様になっていた。
海賊に拉致されたと思われる人たちは見当たらなかったが、海賊から没収したと思われる金品などの他に、取引が禁止されている希少動物や、違法薬物、偽造硬貨などが、接岸していた船から降ろされている最中だった。
シリウスとルチルは、積み下ろし作業をしていた者達と、船長や船乗りたちを全員ボコボコにした後、拘束し、船と、船に積み下ろしをしていた現物も差し押さえる事に成功した。
二人から襲撃を受けた彼等にとっては、青天の霹靂であったに違いない。
『カメリア奴、上手く船がここへ出入りが出来なくした様にしたのだろうか……』
シリウスは、淡々とした口調で言うと、
『彼女は、きっちり仕事をするから心配ないわ』
ルチルは、落ち着き払った口調で答える。
『……そろそろ、駐屯所の方もケリがついている頃か』
シリウスは、駐屯所がある方へ視線を向けながら、複雑な表情を浮かべながら呟く。
『心配なの?』
ルチルが、意地の悪い表情を浮かべながら、シリウスに問い掛ける。
『……我々は、此処を任されている。 計画の予定にはない行動はするべきでは無い。 特に、作戦が上手くいった時は。 慢心や油断が何を引き起こすか分からない』
シリウスは、淡々とした口調で返す。
(素直じゃないねわね)
シリウスの物言いに、ルチルは苦笑いを浮かべながら心の中で呟く。
少し時間は遡り……。
ロナード達が寄港している島の中央の高台にある、エレンツ帝国軍の海軍駐屯所に居るロナードは、セネトと共に、この駐屯所の司令官が居る彼の私室に入り込んでいた。
部屋の前には見張りの兵などは居らず、部屋の入り口には施錠もされていなかった為、二人はすんなりと部屋の中に入る事が出来た。
部屋の中は、凡そ駐屯所とは思えない程、贅沢な調度品が置かれ、奥の天蓋付の立派な寝台の上に、二人が探している司令官が居た。
『ぐお~。 フゴゴゴ……。 んごぉ~』
軍人とは思えぬ程、豚の様に丸々と太った体型の、頭の毛が薄い中年の男が、昼間から寝台の上に大の字なり、気持ち良さそうに、豪快な鼾をかいて眠っている。
『おい』
セネトは、呆れた表情を浮かべつつ、持って居た短剣の柄の先で、ツンツンと眠っている司令官の肩を突きながら、声を掛ける。
『ぐか~っ』
この程度の事では、司令官は起きないらしく、豪快に鼾をかいて爆睡している。
『おいっ!』
セネトは苛立った様に、司令官の耳元で大声を張り上げた。
『ふご?』
流石に、耳元で大声を出されたので、司令官は間抜けな声を上げつつも、ビクッと身を強張らせ、慌てて目を開いた。
『……やっと目を覚ましたか』
セネトは、司令官が目を覚ましたのを見て、呆れた表情を浮かべつつ、そう呟いた。
『ふが?』
だが、司令官はまだ寝惚けているらしく、ぼ~とした表情を浮かべ、セネトをボンヤリと眺めている。
『『ふが?』じゃない。 昼間から、職務を放棄して昼寝とは、良い御身分だな?』
セネトは全く危機感の無い司令官に苛立ち、額に青筋を浮かべながら、寝惚けている彼にそう言った。
『な、な、何奴だ!』
かなり遅れて、兵士では無さそうなセネトを見て、司令官が間抜けにそう叫びながら、慌てて身を起こした。
『それを今頃言うな……』
セネトは額に片手を添え、呆れた表情を浮かべながら呟く。
『不審者だ! 不審者が入り込んでいる! 誰か! 誰か居ないか!』
司令官は寝台の上に座ったまま、慌てふためきながらも、部屋の外にまで聞こえそうな程、大声で叫ぶ。
「鼾も五月蠅かったが、声も無駄にデカイなコイツ」
ロナードは思わず、両耳を手で塞ぎつつ、思わずそう呟いた。
『なっ……。 も、も、もう一人居る……だと?』
ロナードの声を聴いて、司令官は自分の目の前にいる、セネト以外にもう一人居る事に、今更ながら気付くと、恐怖に満ちた表情を浮かべ、そう呟いた。
『大いに騒いでくれて結構だが、此方の質問には素直に答える事を勧めるぞ』
そんな司令官を冷ややかに見据えつつ、セネトは淡々とした口調でそう言うと、持って居た短剣の刃先を司令官の喉元に突き付けた。
『ひっ……』
司令官は、自分の喉元に突き付けられた、鋭利な刃を見て忽ち顔を青くし、恐怖に身を強張らせる。
『まず、お前はここの司令官、コニャンコフ男爵で相違ないか?』
セネトは、司令官の喉元に刃を突き付けたまま、淡々とした口調で問い掛ける。
『そ、そうだ。 ワシは貴様の様な下賤な輩が、刃を向けて良い様な相手では無いぞ!』
司令官は、すっかり血の気が失せた顔で、声を震わせながら答えた。
『お前には職務怠慢の他にも横領、禁止薬物の所持と売買など、様々な疑惑が掛っている。 逃亡の恐れがある故、この場で拘束し、帝国本土へ連行する』
セネトは、短剣を突き付けたまま、淡々とした口調で言うと、
『な、な、なにを訳の判らぬ事を! 大体、貴様は何者だ!』
司令官は、突然の事に戸惑い、目を白黒させる。
『ふむ。 昼寝をする事しか能の無い、丸々と肥えた豚は、記憶力は普通の豚以下らしい』
セネトは、片手を自分の顎の下に添え、ポツリと呟く。
『な、何だと! 先程から貴様、無礼だぞ!』
彼の発言を聞いた司令官は、怒りに顔を赤くして、怒鳴る。
『無礼なのはどちらか! よもや、僕の顔を知らぬとでも?』
セネトは俄かに眉を顰め、司令官にそう言うと、冷ややかな視線を向ける。
司令官は改めて、マジマジと自分の目の前に立って居るセネトを見ていたが、やがて顔からサーッと血の気が引く。
『ひっ…… せ、せ、セレンディーネ皇女殿下……』
物凄い勢いで顔を青くすると、声を震わせ、額から大量の冷や汗を流しながら言った。
『如何にも。 僕は第三皇女セレンディーネ・ヴァン・リアン・エレンツだ。 貴様の悪評の数々は聞き及んでいる。 よって、皇族である僕自ら、こうして赴いて来てやったと言う訳だ』
セネトは、青い顔をして、声を震わせて居る司令官に向かって、淡々とした口調で語る。
『ご、ご、誤解です殿下。 私は断じて、その様な事はしておりません。 今日だって……た、た、たまたま体調が優れず、休んでいただけであって……決して、職務を放棄をしていた訳では……』
司令官は慌てふためきながら、セネトに弁明する。
『ほう』
セネトは、淡々とした口調で言う。
「セネト。 尋問は後でも良いだろう? 急がないと人が来てるぞ」
それまで黙って居たロナードが、廊下から複数の足音が近づいて居る事に気付くと、表情を険しくしてセネトに言った。
「分かった。 コイツを縛るぞ」
セネトはロナードの方へ向きそう言うと、短剣を持っていない手をロナードへと差し出す。
(今だ!)
それを見て、司令官は心の中でそう叫ぶと、寝台の枕の下に隠していた拳銃を取り出した。
「セネト!」
それに気付いたロナードの叫び声とほぼ同時に、司令官は勢い良く横へ吹き飛ばされ、ドゴッと言う物凄い音共が辺りに響き渡った。
「……」
セネトはあまりに突然の事に、その場に呆然と立ち尽くす。
「大丈夫か?」
ロナードは血相を変え、ネトの側に駆け寄ると、徐に彼女の肩に手を掛ける。
「あ、ああ……済まない。」
セネトはハッとした表情を浮かべ、ロナードにそう答えてから、徐に、豪華な天蓋付のベッドの淵を突き破り、まるでコントの様に頭から壁にめり込んでいる司令官を見て、
「しかし……これは……どうしようか……」
困惑の表情を浮かべながら呟く。
「とっさの事で、加減が上手く出来なかった」
ロナードは、自分が思っていた以上に、派手に壁に突き刺さって居る司令官を見ながら、戸惑い気味に言った。
(今日は絶好調みたいだな……)
セネトは、心の中でそう呟くと、苦笑いを浮かべる。
「それに、今の音で間違いなく、周囲には気付かれたぞ」
セネトは、軽く溜息を付いてから『やれやれ』と言った様子でロナードに言うと、
「済まない……」
ロナードは、叱られた犬の様にシュンとした表情を浮かべ、セネトに謝罪する。
思いの外、凹んで居るロナードを見て、セネトはそれ以上何か言う気が失せてしまい、
「まあ良い。 コイツが気絶している内に縛り上げてしまおう」
軽く溜息を付くと、落ち着き払った口調でロナードに言った。
「ああ」
ロナードは真剣な面持ちで頷き返した。
ところが……。
司令官は思いの外、頭から壁に深々と突き刺さっており、弛んだ顎が引っ掛かって、なかなか抜けない……。
「うぐぐぐっ!」
「太り過ぎだ! コイツっ!」
ロナードとセネトは、それぞれ反対側から司令官の体を掴み、壁に片方の足を付け、思い切り踏ん張り、壁に突き刺さって居る司令官を引き抜こうと奮闘する。
「あ~もう。 面倒だ。 このままにしとこうか」
暫くしてセネトは、ゲンナリとした表情を浮かべ、片手で頭を掻きながら呟く。
「いや……それは流石に……。 窒息死するんじゃないのか?」
ロナードは戸惑いの表情を浮かべ、セネトに言い返す。
「それは困る」
そうこう言っていると、先程の豪快な音を聞いて、兵士たちが部屋に駆け込んで来た。
『司令!』
『如何なさいました?』
兵士達は表情を険しくし、辺りを見回しながらそう叫んだ後……壁に見事に頭から突き刺さって居る司令官を見て、思わず絶句して、その場に立ち尽くしていたが……。
『く……ふふふっ……。 何が……どうなったら……』
『ぶはっ!』
『う、ウケるっ!』
やがて、コントの様に見事に壁に刺さっているのが可笑しくて、兵士たちは揃って声を上げて笑いながら、そう言った。
『良い所に来た。 コイツを引き抜くのを手伝え』
セネトは淡々とした口調で、部屋に駆け込んで来た兵士達に言った。
『は?』
『何言って……』
『ってか、お前等の所為じゃないのか? コレ』
兵士達は、戸惑いの表情を浮かべつつ、セネトに言い返した。
「態とじゃない……」
ロナードは、バツの悪そうな表情を浮かべつつ、言う。
『これは本当に不可抗力によるものだ。 決して態とでは無い』
セネトは、淡々とした口調で兵士達に言う。
「……と言うより、狙ってやっても、こんな綺麗に刺さる訳がない」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら言うと、
「確かに!」
セネトも苦笑いを浮かべ、ロナードに返した。
『仕方が無いな……』
『こまのままにしては置けないし……』
『……引き抜くか。』
兵士達は、『やれやれ』と言った様子で言うと、壁に突き刺さっている司令官を引き抜く事を試みる。
『ふんぬぬぬぬぬっ!』
『うがーっ!』
『抜けろ~っ!』
兵士たちは顔を真っ赤にして、力一杯に司令官を壁から引き抜こうとするが、何がどうなっているのか、押しても、引いても、全く動かない。
『マジ、首の肉が邪魔な』
『太り過ぎだ』
『これじゃ、ますます浮腫んで取れなくなるぞ』
兵士たちは、ゲンナリした表情を浮かべ、口々にそう呟く。
「仕方がない。 周りの壁を少しずつ削って穴を広げよう」
ロナードは、司令官の首の肉が、壁の割れ目に食い込んでいるのを見て、ゲンナリとした表情を浮かべながら言うと、
「はあ~……」
セネトは、ゲンナリとした表情を浮かべつつ、特大の溜息を洩らした。
彼等は手分けをして、持っていた短剣などで、司令官の首に傷を付けぬ様に慎重に、周囲の壁を少しずつ削る。
「……一体、何をやっているんだ……。 俺たちは」
短剣で壁を慎重に削りながら、ロナードはゲンナリとした表情を浮かべながら呟く。
最早これは、発掘作業と言っても良かった。
「お前。 今度からは、方向とかそう言うのをちゃんと考えてから、魔術をぶっ放て」
セネトも、短剣で壁を削りつつ、ゲンナリたした表情を浮かべながら、ロナードに言う。
『おっ。 外れそうだ』
『よし。 引っ張るぞ』
『せーの!』
兵士達が口々にそう言うと、壁に突き刺さって居る司令官を思い切り引き抜く。
司令官の体は、思いの外勢い良く、壁から引っ張り出される。
『どわっ』
『うわっ』
『ぬ、抜けたぁ~』
兵士達は、後ろに勢い良くスッ転びつつもそう呟く。
「はあ……何か色々と、面倒臭いオッサンだな……」
引っ張り出され、ベッドの上で気絶して居る司令官を見ながら、ロナードはゲンナリとした表情を浮かべながら呟いた。
『で、お前等、ここで何やってんの?』
『見た所、物取りとかじゃ無さそうだが』
『司令を壁にブッ刺すとか、ウケるぅ』
兵士達は徐に身を起こしつつ、セネトに問い掛ける。
『まあ、説明すると長くなるのだが……』
セネトは、ゲンナリとした表情を浮かべつつ、兵士達に事情を説明すると……。
『何かあるとは思ってたが……』
『評判良くなったもんな。 このオッサン』
『年貢の納め時ってヤツ?』
司令官の事で良い噂を聞いていなかったのか、兵士たちは特段驚く様子も無く、淡々とした口調で言った。
『僕はこのまま、この男を帝国本土まで連行したいのだが……』
セネトは、気絶したままの司令官を見ながら、兵士達に言うと、
『良いスよ。 連れて行っちゃって』
『こんなの、居ても居なくても、大差ないんで』
『何なら、手伝いますよ?』
兵士たちは、司令官を庇わなければならない理由が無いようで、無情にも口々にそう言い放った。
「何と言って居る?」
彼等のやり取りを見て居たロナードは、徐にセネトに問い掛ける。
「連れ行けと言っている」
セネトは、淡々とした口調で、問い掛けに答えると、ロナードは、ホッとした表情を浮かべ、
「そうか。 無駄な争いにならずに済みそうで何よりだ」
そう言った。
『けど、兵士の中にも、この狸と一緒になって、悪さをして居るって噂のある奴が何人か居ますから、気を付けて下さい』
兵士の一人が、真剣な表情を浮かべ、セネトにそう忠告する。
彼らは、駐屯所に居る者たちが外へ逃げ出さぬよう、入り口の鉄門を閉めに向かった。
その後、騒ぎに気付いた兵士たちと少し、交戦したが、ロナードの魔術により、兵士たちの大半は深い眠りに落ちてしまい、彼の力を目の当たりにした他の兵士たちは戦意喪失し、降伏して来たので、大事にならずに済んだ。
嵐が止み、海が穏やかになったのを見計らった様に、近くの別の島にあるエレンツ帝国軍の基地から、他の部隊の船が数隻、ロナードが居る島に上陸して来ると、シリウス達が抑えた、闇取引をしていた宿屋の地下や、ギベオンとルフトが制圧した駐屯所の地下ドック、駐屯所全体にも兵士たちが雪崩込み、次々と今回の不正などに関わって居た者たちを拘束していった。
『司令官並びに、今回の一件に関わっているとみられる者たちの、帝国本土への移送船への移動、完了いたしました』
ギベオンは、一階にあるロナード達に貸し与えられた部屋に入るなり、ソファーの上で寛いでいたセネトに一礼してから、そう報告する。
『早かったな。 ご苦労』
セネトは満足そうに言う。
『恐れ入ります』
ギベオンは少し恐縮した様子で、頭を垂れたままそう返す。
『お前たちも、大儀だったな』
ギベオンの後ろに控えていた、応援に駆け付けた兵士達にも優しく、労いの言葉を掛ける。
『お心遣い痛み入ります。 後の事は自分たちに任せて、殿下はゆっくりお休み下さい』
ギベオンは、穏やかな口調でセネトに言った。
『僕は大丈夫だ』
セネトは、苦笑いを浮かべながら言うと、徐にテーブルを挟んで向かいの、三人掛けのソファーの上に座り、真剣な顔をして、テーブルに向かって何やら書いているロナードの方へと目を向けると、
「ここ、綴りが違うぞ」
そう言って、ロナードが紙に書いていた文字を指差す。
「あ……」
セネトに指摘され、改めてその文字を見て、ロナードは間違いに気付く。
「こうだ」
セネトは、テーブルの上に置いてあった羽ペンを手に、紙の空いている場所に正しい綴りを書いてみせる。
「帝国の言葉を勉強していたのですね」
それを見て、ギベオンは穏やかな口調で言う。
ロナードは、ギベオンが兵士たちを率い、今回の一件の関係者を捕えている間、セネトの護衛をしながら、彼女から帝国の言葉を教わり、使わなくなった紙の裏側を使って勉強していたのだ。
船での移動の間も、暇を見付けては、エレンツ帝国の言葉や文化を意欲的に学び、その一方でハニエルからは魔術を習うロナードに対し、ギベオンは素直に好感を持っていた。
不意に部屋の扉をノックする音がしたので振り返ると、、ルチルとハニエル、少し後ろにシリウスが居た。
「お帰り」
セネトがニッコリと笑みを浮かべながら言うが、何故か三人の表情が暗い。
「どうかしたのか?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべながら問い掛けると、シリウスが自分の小脇に抱えて居たティティスを思い切り部屋の中へ投げ入れた。
彼女は何故かロープで拘束されており、憎々し気に自分をぶん投げたシリウスを睨み付けている。
「大変な事になりました」
ハニエルが、淡々とした口調で告げる。
「この馬鹿が、ユリアスの居場所を教会の連中に教えた。 連中が直にここへ来るぞ」
シリウスは、自分を睨んでいるティティスを見下ろしながら、淡々とした口調で告げた。
それを聞いた途端、ロナードの表情が凍り付き、顔から血の気が失せ、ギベオンとセネトは、焦りの表情を浮かべながらティティスを見る。
「一体、どうやって?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべながら、シリウスに問い掛ける。
「コイツは、私たちが闇取引の首謀者たちを捕えに下船したのを見て、カメリアの船から抜け出し、その足で駐屯所に行き、兵士を買収して通信用の魔道具を使って、近くに居る船すべてにユリアスがここに居る事を知らせたんだ」
シリウスは、怒りが限界に達してしまったのか、強い殺意を抱いた冷たい視線をティティスに向けながら、恐ろしく淡々と語った。
「何て事を……」
ギベオンは、苦々しい表情を浮かべながら呟く。
『もう限界なのよ! あのクソ婆の船で汚い襤褸を着て、奴隷の様に扱われるのは! だから、貴方たちが全員死ねば、私はそんな扱いを受けずに済むでしょう?』
ティティスは、物凄く悪意の籠った口調で、薄ら笑みを浮かべながら言った。
『ティティスっ!』
何処までも、自分の事しか考えない妹に対し、セネトの怒りは爆発し、気付いた時には彼女の頬に思い切り平手打ちをしていた。
『何をするのよ!』
ティティスは、自分に思い切り平手打ちをして来たセネトを睨み付け、怒鳴り返した。
『お前は、我々と一緒に居ると言うのに、自分だけが助かると、本気で思って居るのか?』
シリウスは、物凄く冷ややかな口調で、ティティスにそう問い掛ける。
『当たり前ですわ! 私には関係の無い事ですもの!』
ティティスは、シリウスを睨み付けながら、強い口調で言い返す。
『そんな事、相手はどうやって見分けると言うのです?』
ハニエルが静かに、ティティスに問い掛ける。
『そんな事、私が自ら言えば済む話でしょう?』
ティティスは、物凄く真剣な面持ちで言うと、それを聞いて、その場に居合わせた誰もが、呆れた表情を浮かべ、深々と溜息を付いた。
『なぜ相手が、お前の言い分を信じると言い切れる?』
セネトが、冷ややかな口調でティティスに言う。
『自分たちと一緒に居る時点で、貴方も自分たちの仲間だと相手は見做しますよ。 例え、本当に関係が無くても』
ギベオンも、恐ろしく落ち着いた口調で言う。
『私が、この人がここに居る事を教えたと言えば、済む話だわ』
ティティスは動揺しているのか、表情を強張らせながら言うと、
『それを誰が証明するの? 例え証明出来たとしても、相手がアンタの身の安全を確約しなければ、どの道終わりよ』
ルチルが静かに、ティティスに言うと、
『自分ならば、密告する様な者を、生かしたりはしないでしょう。 信用なりませんからね。 邪魔な輩と共に屠り去ります』
ギベオンも、淡々とした口調で語る。
二人の言葉を聞いて、ティティスはやっと自分が如何に、愚かな事をしたのか気付いた様で、その顔からみるみる血の気が失せ、ガックリと肩を落とした。
『つまり貴女は自ら、断頭台に上がったのと同じような事をしたのです』
ハニエルは、淡々とした口調でティティスに言う。
『こうなった以上、お前も戦いに参加して貰うぞ。 腐っても聖女候補なのだろう? 治癒魔術でも何でも、使えるモノは使って貰おうか』
シリウスは、冷ややかにティティスを見下ろしながら、淡々とした口調で言った。
「攻めて来ると言うのなら、迎え撃つ準備をしなくてはね」
ルチルが真剣な面持ちで言うと、ギベオンも表情を険しくして頷く。
「ロナード。 大丈夫だ。 僕たちが居る。 絶対にお前を教会に渡したりはしない」
セネトは、真っ青な顔をして、微かに震えているロナードの肩に手を添え、優しくそう声を掛ける。
彼は恐怖のあまり、今にも泣きそうな顔をしながらも、小さく頷き返した。