困惑と思惑(上)
主な登場人物
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指していた。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト(セレンディーネ)…エレンツ帝国の皇女。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしていた。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な女性。 十九歳。
シリウス(レオフィリウス)…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
ルフト…宮廷魔術師長サリアを母に持ち、魔術師の一家に生まれた青年。 ロナードたちとの従兄弟に当たる。 二十歳。
ナルル…サリアを主とし、彼女とその家族を守っている『獅子族』と人間の混血児。 とても社交的な性格をしている。
カルセドニ…エレンツ帝国の第一皇子でセネトの同腹の兄。 寺院の聖騎士をしている。 奴隷だったシリウスとハニエルを助け、自由の身にした人物。
アイク…ロナードの専属護衛をしている寺院の暗部に所属していた青年。 気さくな性格をしている。
アイリッシュ伯…ロナードがイシュタル教会の孤児院に在籍していた頃、彼に魔術の師事をしていた人物で、ロナードに呪詛を掛けた張本人。
「聖女はいらっしゃったか?」
「いいえ」
「聖女様!」
「何処に居られますか?」
先程の騒ぎの中、リリアーヌが忽然と姿を消した事で、寺院の関係者たちは大慌てで、彼女の事を探し回っている。
「ねぇ。 もう獅子族に消されてるって事はない?」
その様子を他人事の様に眺めているルチルが、ポツリと隣に居たギベオンに問い掛ける。
「幾ら腹が立っても、その様な事を獅子族がするとは思えない。 そんな事をしたら、後々どう言う事になるか、考えが及ばない程、愚かでは無い筈だ」
ギベオンは、落ち着き払った口調で返す。
「それは、相手が真っ当な思考が出来ればの話でしょ? 一時的な感情で間違いを犯す事は誰にでもあるでしょ?」
ルチルは、不敵な笑みを浮かべながら言うと、
「聖女が何者かに屠られる事を望んていると、誤解を受けかねない発言だぞ」
ギベオンは眉を顰め、そうルチルに警告する。
「実際そうだから問題無いわ。 それに、私などよりも切実に、彼女が消えて欲しいと願っている人が他に居ると思いけれど?」
ルチルは、不敵な笑みを浮かべながら言った。
「……それは、ロナード様の事を言っているのか?」
ギベオンは表情を険しくし、ドスの利いた低い声で問い掛ける。
「あの子は、居なくなって欲しいと思っても、死ねば良いなんて思う様な子では無いでしょ? 幾ら、自分に嫌な事をした相手でもね」
ルチルは肩を竦め、苦笑混じりにそう返した。
「……」
ルチルの言葉に、ギベオンは少しバツの悪そうな表情を浮かべる。
「それにしても、セティの忠犬って言われるアンタが、ここまでロナードに入れ込むなんて、ホントあの子は天然の人間タラシなのかしら?」
ギベオンの表情を見て、ルチルは可笑しそうにクスクスと笑ってから、そう言って彼をからかう。
「ロナード様はとても義理堅い方だ。 自分はその義理堅さに応えているまでの事だ」
ギベオンは、ムッとした表情を浮かべ、ルチルにそう返す。
「はいはい。 そう言う事にしておいてあげるわ」
ルチルは、意地の悪い笑みを浮かべながら、そう言い返した。
そんな事を話して居ると、天幕の奥からカタンと物音がした。
「あら。 目を覚ましたみたいね」
ルチルはそう言うと、物音がした方へと目を向ける。
「もう、お休みになられなくても宜しいのですか?」
ギベオンは優しい口調で、奥から此方へ歩み寄って来た相手に問い掛ける。
「ああ……」
まだ少し眠いのか、少しぼーとした顔でロナードは、そう言った。
「外が騒がしい様だが、何かあったのか?」
ロナードは、天幕の中央に置かれたテーブルを囲む様に配された椅子に腰を下ろしつつ、ギベオンたちに問い掛ける。
ロナードは、魔物を討伐した後、幻獣を召喚して大量の魔力を消費した事で、体が魔力を回復させようと強烈な睡魔に見舞われ、今の今まで周囲が大騒ぎしている事に気付かない程、深く眠っていたのだ。
「聖女が行方不明らしいわ」
ルチルは、他人事の様にそう話す。
「それは……色々な意味で大丈夫なのか?」
ロナードは、ギベオンが差し出した、水が入ったカップを受け取りながら、戸惑いの表情を浮かべ、そう問い掛ける。
「心配しなくても、彼女はこの天幕群に入れない様に、ハニエルが結界を張っているわ」
ルチルは、落ち着き払った口調で答える。
「いや、そう言う事でなく……。 聖女が失踪したとなれば、彼女と一緒に現場に居たカルセドニ殿下が責任を問われるような事はないのか?」
ロナードは、心配そうな表情を浮かべながら、ルチルに問い掛けると、カップに注がれた水を飲む。
「一応、先発隊も一緒に探してはいます。 ですが、殿下は聖女が消えた時、里の者たちの対応をなさっていて、彼女に背中を向けていたとの事なので、気付けと言う方が、無理があると思います」
ギベオンが、落ち着いた口調で、ロナードの問い掛けに答えた。
「だったら良いが……」
ロナードは、不安そうな表情を浮かべたまま、そう呟く。
「ちょっと兵士から聞いた話だと、どうやら目晦まし的な術が使われた形跡がある様なの。 恐らく、寺院の者たちが彼女を里の外へ逃がしたのではないかと、言っていたわ」
ルチルが、落ち着き払った口調で語る。
「まあ、詐欺紛いな事をしたんだ。 里に居辛いのは確かだな」
そう言いながら、カルセドニ皇子たちと共に、聖女を探していたセネトが戻って来て、落ち着いた口調で言った。
「主。 もう起きて大丈夫なんですか?」
セネトに続き、天幕に入って来たアイクが、ロナードの姿を確認するなり、心配そうに声を掛ける。
「ああ。 問題ない」
ロナードは、落ち着いた口調で返す。
「ハニエルの様子はどう?」
ルチルは、心配そうにセネトたちに問い掛ける。
「ハニエルが、どうかしたのか?」
ルチルの言葉を聞いて、ロナードは戸惑い表情を浮かべ、セネトたちに問い掛ける。
「どうやら、聖女が『魅了眼』の力を使って、人々を操ろうとした時に、彼女の力を打ち消す為に『呪歌』を使ったらしいんだ」
セネトは、複雑な表情を浮かべながら、事情を知らないロナードに簡潔に説明する。
「呪歌を……」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべながら、呟いてから、
(ハニエル。 呪歌を使えたのか……)
心の中でそう付け加えた。
「主。 呪歌を知っているんですか?」
アイクは、戸惑いの表情を浮かべながら、ロナードに問い掛ける。
「ああ。 俺は長く鷺族の里がある、大陸北部のカナン王国に居たからな。 彼等の里に行った事は無いが、鷺族ではないかと思われる者たちとは、何度か会って話をした事はある」
ロナードは、落ち着き払った口調で答える。
「あの……ぶっちゃけ、オレ、呪歌って何か分からないんですけど……」
アイクが、恥ずかしそうにそう言うと、
「ボクもだぞ」
「私も」
「自分もです」
ナルルとルチル、そしてギベオンも口々にそう言った。
「僕は何となく、どう言う感じのものか漠然とは知っているが……」
セネトも、ちょっと恥ずかしそうに言う。
「俺も、詳しく知っている訳じゃない。 ただ、鷺族の一部に伝わる、不思議な力を含んだ歌と言う事くらいだ。 歌を聞いた者に影響を及ぼすと言われているから『呪歌』と呼ばれているだけで、実際は呪術とは別物だと聞いている」
ロナードは、落ち着いた口調で簡単に呪歌の事を説明する。
「そうなのですね」
ギベオンは神妙な面持ちでそう呟く。
「ただ……。 その力を使う代償に、命を削ると言われている。 ハニエルに何もなければ良いが……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「酷く衰弱して吐血したのは、力を使った代償と言う事か……」
セネトは、複雑な表情を浮かべ、そう呟く。
「ですが、咄嗟にハニエルさんが呪歌を歌わなければ、間違いなく大事になっていました。 それこそ、寺院の者達と里の人達が入り乱れ大乱闘になり、死者すら出ていたかも知れません」
ギベオンが真剣な面持ちでそう言うと、ルチルも真剣な面持ちで何度も頷く。
「お前も呑気に、眠ってなど居られなかったぞ」
セネトも、真剣な表情を浮かべ、ロナードに語る。
「そんな大変な事になっていたとは知らず、済まなかった」
ロナードは、申し訳なさそうにそう言うと、セネトはハッとした表情を浮かべ、
「お前を責めるつもりで言った訳じゃない。 ただ、そんな事にならなくて良かったと言う意味でだな……」
慌てて、ロナードにそう言って取り繕う。
「そうですよ主。 主は魔物を倒すのに頑張ったんですから、ちょっとくらい休んでいたって、誰も文句は言いませんよ」
アイクも慌てて、セネトをフォローする。
「大体、こんな事態になったのだって、さっさと幻獣を召喚しなかった聖女たちが原因な訳だし。 アンタが責任を感じる必要は無いわよ」
ルチルも、苦笑いを浮かべながら、ロナードに言うと、ギベオンやナルルも真剣な顔をして頷いている。
「そ、それよりも主。 小腹が空いていませんか? 簡単な食事を持ってきますよ?」
アイクはニッコリと笑みを浮かべ、ロナードにそう問い掛けると、タイミング良く彼の腹の虫が返事をした。
「あははは。 減ってるみたいですね。 何か抓めそうな物を持って来ます」
自分の意志とは関係なく、豪快に鳴った腹を押さえ、気恥ずかしそうにロナードに、アイクは苦笑いを浮かべながらそう言うと、急いで天幕の中から出て行った。
「兵士たちの報告では、聖女の魔力を追跡する事が出来なかったそうだ」
夕食を囲みながら、カルセドニ皇子は、淡々とした口調で語る。
「考えられる事があるとすれば、彼女が追跡を阻害する魔道具や術を用いたか、彼女に与している魔術師たちが協力して、追跡できないほど遠くへ一瞬で彼女を移動させたか……」
セネトは、自分の顎の下に片手を添え、真剣な面持ちで呟く。
「何にしても、彼女を探し出すのは難しいだろうな」
シリウスは、苦々しい表情を浮かべながら呟く。
「幸いな事に、魔物を閉じ込めていたと思われる、召喚石は此方の手にあります」
暫く体を休めて、体調が回復したのか、それとも、自分の事を心配している仲間たちを安心させる為なのか、夕食の席に姿を現したハニエルが、落ち着いた口調で言うと、カルセドニ皇子が頷き、
「召喚石を解析すれば、全員では無いにしても、石に残っている魔力の痕跡から、近々に石を使った者が分かる」
「リリアーヌが使った事は疑いようも無いが、上手くいけば、召喚石を彼女に渡した者が誰なのか、突き止められるかも知れない」
セネトは、真剣な面持ちでそう言うと、ハニエルやシリウス、カルセドニ皇子等も真剣な顔をして頷く。
「主。 どうかしましたか?」
アイクは、自分の隣で先程から、複雑な顔をして押し黙っているロナードにそう声を掛ける。
「考えたくも無い事だが……。 もし、ティアマト大老子が使用者の中にいたら……どうするつもりだ?」
ロナードは、複雑な表情を浮かべながら、カルセドニ皇子等におずおずとそう問い掛けた。
「それも含めての調査だ」
カルセドニ皇子は、真剣な表情を浮かべ、落ち着き払った口調で答えた。
「あの人が良さそうな婆さんが、使っていない事を祈る他ない」
シリウスはロナードの心中を察してか、複雑な表情を浮かべながら言った。
「そうよね。 あなた達から見れば大老子様は、自分たちのお婆さまの姉に当たるものね。 他人事ではないわよね……」
ルチルも、複雑な表情を浮かべながら言う。
「確かに血縁はありますが、付き合は皆無だったお二人に、その責が及ぶとは思えません」
ギベオンが、落ち着き払った口調でそう言うと、セネトやアイクも真剣な面持ちで頷く。
「もし、ティアマト大老子も含め、寺院全体がこの一連の事柄に関わっていたとなれば由々しき事だ。 寺院と言う組織は、頭の先から爪先まで、大手術をする事になるだろう」
カルセドニ皇子は、真剣な表情を浮かべ、そう語った。
彼の目は、揺るぎない強い決意を宿していた。
彼は、今回の事を足掛かりに、寺院の止みを白日の下に晒し、大改革をするつもりで居る様だ。
(皇太子の地位を取り戻す為なのかも知れないが……。 それにしたって……)
ロナードは、複雑な表情を浮かべながら、心の中で呟き、
「殿下。 目の前の山に気を取られ、足元の石に躓かないようお気を付け下さい。 殿下にもしもの事があれば、この場に居る者たちは皆、悲しみます」
ロナードは、真剣な表情を浮かべ、カルセドニ皇子にそう言うと、彼は物凄く驚いた顔をして、
「まさか、君からその様な言葉を掛けられるとは、思いもしなかったが、相分かった。 セティやルチに悲しみの涙を流せる訳にはいかないからな」
そう言うと、ニッと笑みを浮かべてから、
「傍から見て私は、功を急いている様に見えるのか?」
徐に、近くに居たギベオンに問い掛ける。
「若干……その様に」
ギベオンは、困った様な表情を浮かべ、暫く思慮した後、そう返した。
「何言ってるのよギベオン! 若干じゃないわよ! かなりよ!」
お酒が入ったルチルは、微かに頬を紅潮させながら、強い口調ギベオンに抗議する。
「る、ルチル?」
彼女の言動に、ギベオンは焦りの表情を浮かべる。
良く見れば、新兵が何気に彼女の前に置いて行った食前酒の瓶が、見事に空になっており、微かに甘い香りを漂わせていた。
(一人で全部、飲んでしまったのか……)
空になっている酒瓶を見て、ギベオンは呆れた表情を浮かべ、心の中で呟くと、額に片手を添え、はあ……と溜息を付いた。
ルチルは、酒が強いとは言い難い。
この様に、アルコール度数が低い物でも、一瓶開けてしまえば頬を赤くして、彼女が絡み酒をするには十分過ぎた。
「何してるんだ。 大体これは、食前酒に皆で飲む様に用意された物だろ!」
セネトも呆れた表情を浮かべ、既に出来上がっているルチルにそう言った。
「い~じゃない。 ちょっとくらい。 ねぇ? ロナード」
すっかり出来上がっているルチルは、ニタニタと笑いながらセネトに言うと、自分の隣に座っていたロナードに絡みだした。
「は。 え? ちょっ……」
ルチルに腕を掴まれ、そう言われたロナードは、自分の腕を握り絞めているルチルの胸が思い切り当たっているので、物凄く困った様な顔をしていて、周囲に助けを求める様な視線を送る。
「離れろ!」
それを見たセネトが怒って、強い口調でルチルに言う。
「え~。 な~に。 セティ。 ヤキモチぃ~?」
ルチルは相変わらず、ニタニタと笑いながら、セネトを更に挑発する様な口調で返す。
「ルチル!」
彼女の態度にセネトは益々声を荒らげる。
「ロナードも固まっちゃって、可愛い~」
ルチルは、どうして良いのか分からず、石像の様に固まっているロナードに対し、ヘラヘラと笑いながらそう言うと、更に彼に自分の体を押し付ける。
「止めないか!」
見かねたギベオンが、ルチルの肩を掴み、ロナードから引き剥がそうとするが、彼女はギベオンの手を乱暴に振り払うと、
「いや~よ。 アンタのむさ苦しい顔は見飽きてんのよ。 アタシだってたまには、若くて綺麗な子と飲みたいの!」
ギベオンにそう言うと、ギュッとロナードの腕を掴む。
「ルチル……。 痛い」
思い切り彼女に腕を握り絞められ、ロナードは痛そうな顔をしてルチルに言う。
「ごめ~ん。 でも、何時も思うけど、貴方、とっても良い匂いがするわよね? 香水、何を使ってるの?」
ルチルはそう言いながら、固まっているロナードを嗅ごうと、自分の顔を近付けながら言うと、彼は物凄く嫌そうな顔をして、体を仰け反らせる。
「おい。 痴女!」
見かねたシリウスがそう言って、ルチルの首根っこを掴むと、乱暴に彼女をロナードから引き剥がす。
シリウスに乱暴に引き剥がされたルチルは勢い良く横へと転がり、ロナードも椅子に座ったまま後ろに倒れ込み、隣に居たアイクが下敷きになる様な形で、二人仲良く後ろにスッ転んだ。
「いったぁ……」
被害を被ったアイクはそう言いながら、ゆっくりと身を起こす。
「大丈夫?」
アイクの隣に座っていたナルルが、心配そうな顔をして、彼と一緒にスッ転んだロナードの腕を掴んで立ち上がらせる。
「机の角で頭をぶつけた」
ロナードは、側頭部を摩り、ちょっと痛そうにしながら立ち上がり、自分と一緒に転げたアイクの腕を掴み、彼を立ち上がらせる。
「酒癖が悪過ぎですよ。 ルチルさん」
アイクは、呆れた表情を浮かべ、床に転がっているルチルに言うが、彼女は大の字になって、豪快に鼾をかいて爆睡しているではないか。
「は? マジですか?」
ちょっと目を離した瞬間に、寝落ちしてしまったルチルを見て、アイクは『信じられない』といった様子で呟く。
「寝かせて来ます」
ギベオンは、軽く溜息を付いてから、ルチルを抱き上げ、落ち着いた口調でそう言うと、
「そのまま戻って来なくて良いぞ」
シリウスが、意地悪い顔をしてギベオンをからかうと、
「ルチルは大切な同僚です。 冗談でも、その様な事を言わないで下さい」
彼は真顔で、シリウスにそう言い返すと、ルチルを抱えたまま、静かに立ち去って行った。
「怒らせましたね。 あれは」
ギベオンが真顔のまま立ち去ったのを見て、アイクが苦笑いを浮かべながら言う。
「ギルぅ。 さっきは御免ね? むさ苦しいとか、見飽きたとか、そんなの嘘だからね」
目を覚ましたルチルは、自分をベッドまで運んでくれたギベオンにそう言うと、
「怒っていない。 それより、その酒癖の悪さを何とかしろ」
ギベオンはムッとした表情を浮かべ、ルチルにそう言い返すと、彼女に水が入ったカップを渡す。
「御免てばぁ~」
ルチルは、ギベオンから差し出されたカップを受け取りながら、彼にそう言って謝る。
「だから、怒ってなどないと……」
ギベオンは、ムッとした表情を浮かべたまま、ちょっと強い口調で言い返す。
「うそ! その顔は絶対に怒ってる!」
ルチルはムッとした顔をして、口を尖らせながらギベオンに言う。
「良いから、これを飲んで、暫く眠って居ろ」
ギベオンは五月蠅そうな顔をして、ルチルに言うと、
「ギルぅ~。 あだぢの事嫌わないでぇ~」
彼女は突然、大粒の涙をポロポロと流しながら、ギベオンの腕を掴んでそう言って来た。
「嫌う訳がないだろ」
ギベオンは、呆れた表情を浮かべ、落ち着き払った口調で返すと、
「ホントぉ?」
ルチルは上目遣いで、ギベオンにそう問い掛ける。
「ああ」
ギベオンは、彼女の言動にたじろぎつつも、そう返した。
「嬉しい。 やっぱりギルが一番よ♥」
ルチルはそう言うと、思い切りギベオンに抱き付いた。
いきなり抱き付いて来たルチルに、ギベオンは慌てて抱きとめようとして、そのままルチルと共に後ろにスッ転んだ。
その時、天幕の入口の方から、陶器が地面に割れて砕ける音がした。
ギベオンが徐に音がした方へと視線を向け、そし次の瞬間、彼は一瞬にして凍り付いた。
「で、殿下。 これは誤解です!」
ギベオンは慌てて、薬が入った小袋を乗せたお盆を手にしたまま、驚きのあまり立ち尽くしているセネトにそう弁明した。
彼女の足元には、先程落としたと思われる、水が入った陶器のカップが割れて転がっていた。
「嘘つき」
彼女はそう呟くと、持っていたお盆を彼に投げつけ、勢い良く天幕から出て行った。
「殿下っ!」
ギベオンは青い顔をして、急いで彼女を追い駆けようとするが、酔っ払って脱力し、自分の上に乗っているルチルが思いの外重く、彼女が自分の首に腕を回してしがみ付いているので、そうする事が出来なかった。
翌日……。
里を去る準備をする兵士たちの間を縫う様に、二日酔いに苛まれているルチルは、真っ青な顔をして、額に片手を添え、トボトボと歩いている。
その隣で何故か、この世の終わりの様な顔をしたギベオンが、魂が抜けた様に力なく歩いている。
「……ルチルは兎も角、ギベオンはどうしたんだ?」
それを見て、自分の側を歩いていたセネトに、ロナードは問い掛けた。
「知るか!」
彼女は何故か昨日の夜から物凄く不機嫌で、今朝もそれは続いていて、ギベオンの事を心配して
問い掛けたロナードに、物凄く強い口調で言い返した。
(え……。 俺、何かした?)
昨日の夜から、恐ろしく機嫌が悪いセネトに、ロナードは戸惑いの表情を浮かべ、心の中で呟く。
セネトがルチルを気に掛け、彼女の天幕へ行って戻って来た時から、物凄く不機嫌である事に何かを察したシリウスは、憐れむような目をギベオンに向け、ポンポンと彼の肩を叩き、
「そう気を落とすな」
そう声を掛けると、ギベオンは思わずカチンと来て、
「誰の所為だと……」
強い口調でそう言い返し掛けた時、ハニエルがとても気の毒そうな顔をして、
「誰にでも、間違いの一つや二つ、犯すとはありますよ」
優しくそう声を掛けると、ニッコリと笑みを浮かべた。
「誤解です! 殿下!」
ギベオンは物凄く居た堪れない気持ちになり、思わず、自分たちの前を行くセネトに向かってそう叫ぶが、彼女は物凄く不機嫌な顔をして、ギベオンの声を聞かない様に、咄嗟に両手で自分の両耳を塞いだ。
「セネト?」
セネトの行動を見て、ロナードは戸惑いの表情を浮かべ、思わず、セネトとギベオンを何度も交互に見る。
(何をやらかしたんだ? ギベオン……)
物凄く怒って、無視を決め込んでいるセネトに、ギベオンは今にも泣き出しそうな顔をしているのを見て、ロナードは心の中てそう呟いた。
「どうしたんだ? ギベオンは」
ギベオンが酷く落ち込んでいるのを見て、カルセドニ皇子は思わず、近くに居たアイクに問い掛ける。
「さあ……。 昨日、ルチルさんの天幕から戻って来てから、ずっとあんな調子です。 皇女様も何故か、機嫌が悪いですし……」
アイクは、困惑を隠せない様子で、カルセドニ皇子にそう答える。
「ふむ……。 喧嘩でもしたのか?」
酷く落ち込んでいるギベオンと、何故か物凄く怒っているセネトを見ながら、カルセドニ皇子はそう呟いた。
「大人の事情だゾ」
人間よりも聴覚が優れているナルルは、肩を竦めながらそう言った。
「?」
彼女の言葉に、アイクとカルセドニ皇子は、困惑の表情を浮かべる。
「戻って来やがった」
険しい山脈が並ぶ上空から、眼下に広がる砂漠を行く、大型の砂船を見据えながら、鷹族の族長の息子ジェドが不敵な笑みを浮かべながら呟く。
彼は、セネトを連れ去り、ロナードに里の守り神であったガルーダを嗾け、返り討ちにされた事により、父である族長から直々に里から叩き出されたのだ。
それ以降、彼の取り巻きの二人を引き連れ、自分が招いた事だと言うのに、セネトとロナード(特にロナード)を逆恨みし、彼等に報復しようと、彼等が砂船に乗って帝都へ戻って来るのを待って居たのだ。
「ほ、本気なんですか? ジェドさん」
「相手は、あのガルーダ様を倒した奴ですよ?」
ジェドの取り巻きの二人は、逃げ腰でそう言った。
「当たり前だ! アイツ等の所為でオレは、里を追い出されたんだぞ!」
ジェドは、怒りが収まらないと言った様子で、強い口調で言い返す。
「こういうアホが居るから、弟の気苦労が絶えんのだ」
突然、自分たちよりの頭の上から、何処かで聞いた覚えがある、若い男の声が響いた。
彼等は驚いて、慌てて声の方を見上げると、灼熱の太陽を背に受けた、少し長めの金髪を風に靡かせた、背の高いガタイの良い美丈夫が、彼等の里の乗り込んで来た際に居た飛竜の背中に乗っていて、静かに彼等を見下ろしていた。
「ひっ……」
彼に見覚えがあった、ジェドの取り巻きの一人は、恐怖に顔を引きつらせる。
「お前、里に乗り込んで来た!」
ジェドは、自分たちを静かに見下ろすシリウスを忌々し気に睨み付け、唸る様な声で叫ぶ。
「お前等みたいなアホがする事なんぞ、此方はお見通しなのだよ」
シリウスは、淡々とした口調でそう言うと、飛竜の手綱を引き、
「貴様らに、空の悪魔と恐れられた、ルオン竜騎士団の妙技を味わせてやる。 光栄に思え」
ジェドたちに向かってそう凄むと、手にしていた槍を恐ろしい速さで、ジェドたちに向かって投げ付けて来た。
「!」
ジェドは咄嗟にそれを避けたが、反応する事が出来なかった彼の連れが、槍を土手腹に食らい、そのまま勢い良く、地面に向かって急降下する。
そのまま地面に激突するかと思われた瞬間、下から勢い良く風が巻き起こり、
「いきなり、殺そうとする奴があるか!」
黒髪の可愛らしい顔立ちをした小柄な少年が、シリウスに向かって怒鳴り付ける。
「余計な真似を」
シリウスは舌打ちをすると、物凄く不満そうな顔をして呟く。
「久しぶりだな。 オレの花嫁。 やはり、オレの事を忘れられなかったみたいだな?」
ジェドは、眼下に居るその少年に対し、嬉しそうに声を弾ませながら言う。
「気色の悪い事を言うな! この盛りが付いた鳥野郎が!」
セネトは物凄く嫌そうな顔をして、強い口調でそう言い返す。
「そう照れなくても良いぞ。 今直ぐに側に行ってやるからな」
ジェドは、彼女の言葉などまるで聞こえていないのか、嬉々とした表情を浮かべ、声を弾ませながら言った。
「来なくて良いぞ。 花に集る蠅が。 駆除してやるから掛って来い」
そう言いながら、ロナードかセネトを背で庇う様に現れると、ジェドに向かって冷ややかな口調で言い放った。
「貴様ぁーッ!」
ロナードが現れると、ジェドは怒りを爆発させ、殺意剥き出しで叫ぶ。
その時、一本の矢がジェドを目掛けて飛んで来て、彼の頬を掠めた。
「脳内が花畑のクズ野郎は、一度死ぬ目に遭わないと分からない様ね?」
ルチルが自分の胸の前に両腕を組み、ジェドを挑発する様に、不敵な笑みを浮かべながらそう言うと、彼女の後ろに控えていた兵士たちが、ジェドに向かって一斉に手にしていたボウガンを構える。
「先程は外しましたが、次は必ず奴の脳天を撃ち抜いてご覧にいれます」
ボウガンを手にしたギベオンが、淡々とした口調でセネトそう言うと、静かにボウガンを身構える。
「くっ……」
形勢不利と悟ったジェドは、悔しそうな表情を浮かべ、その場から離脱しようと翼を羽ばたかせ、上空へ逃れようとした瞬間、彼の取り巻きの一人が、ゴンと目には見えない壁に思い切りぶつかり、鼻血を出しながら、地面に向かって落ちて行くのを見て、彼は表情を凍り付かせる。
「俺が、婚約者に手を出した奴を逃がすとでも?」
ロナードが、冷ややかな口調で、焦っているジェドに向かって言う。
「この野郎!」
ジェドは怒りに任せ、片手で薙ぎ払う様な仕草をすると、巨大な風の刃が勢い良く、ロナード達が乗った砂船を目掛けて飛んでくる。
慌てふためく兵士たちを他所に、ロナードは物凄く落ち着いていて、静かに片手を掲げると、
「風よ」
そう呟くと、物凄い勢いで風が巻き起こり、ジェドが繰り出した風の刃はあっという間に飲み込まれ、そのままジェドは、グルグルと回転する風の渦の中に飲み込まれ、なす術なく、錐もみにされてしまう。
そうして、ボロ雑巾の様になった彼は、力なく砂の上に落下した。
「ほう。 こんな状態になっても、まだ生きているか」
飛竜から降り、ジェドの生死の確認に来たシリウスが、彼の頭を踏みつけながら、淡々とした口調で呟いた。
「セネト。 コイツをどうしたい? このままここに打ち捨てて、野獣や魔物たちの餌にしても良いが?」
シリウスは、自分から少し離れた砂船の甲板の上から、様子を見ていたセネトにそう問い掛ける。
「本来なら、そうするべきだろうが、鷹族との確執を作らない為にも、見殺しにする訳にはいかない。 そいつを助けて、手当てをしてやれ」
セネトは、落ち着いた口調でそう言うと、
「随分と甘い事を言う。 後で恩を仇で返されても、私は知らないぞ」
シリウスは肩を竦めると、ちょっと呆れた様な口調でセネトに言った。
「その時は、俺がコイツの胴と首を別々にする」
ロナードか、淡々とした口調でそう返すと、
「好きにしろ」
シリウスはそう言うと、倒れているジェドを肩に担ぎ上げる。
「他の二人も助けてやれ」
セネトは、近くに居た兵士たちにそう命じると、彼等は砂船の近くの砂漠の上に転がっている
と思われる、ジェドの取り巻き二人を探す為、急いで船から飛び降りた。
「これで良かったのか?」
セネト達のやり取りを、静かに見守っていたカルセドニ皇子は、彼女の側に歩み寄ると、優しく問い掛けた。
「ええ。 暴力を暴力で返すより、こっちの方が後々、大きな効果を発揮する筈です。 兎に角、彼の処遇は僕に任せて下さい」
セネトは、シリウスに担がれ、此方に向かって来る、気絶しているジェドを静かに見据えたまま、淡々とした口調で言った。
「また馬鹿な事をする様なら、俺がシメます」
ロナードが、ニッコリと笑みを浮かべながら、カルセドニ皇子にそう言うと、
「お前たちが、そこまで言うのなら任せよう」
彼は苦笑いを浮かべながら、二人に言った。
「うっ………」
ジェドは微かに呻き声をあげ、ゆっくりと目を開けた。
見た事も無い天井に、ジェドは戸惑いの表情を浮かべる。
「気が付いたか」
不意に、聞き覚えのある若い男の声がしたので、ジェドはそちらに目を向けると、あの忌々しい黒髪の背の高い美丈夫が部屋の入口の前に静かに佇んでいた。
「お前ッ!」
ジェドは彼の姿を見るなり、慌てて起き上がろうとするが、全身に打撲した様な痛みが走り、思わず表情を歪め、前のめりになる。
「鷹族と言うのは、無駄に丈夫に出来ているらしい。 あれを真面に食らって生きていたのは、お前が初めてだ」
黒髪の美丈夫は、少し呆れた様な顔をしながら、落ち着き払った口調でそう言った。
「敵から情けを受けるなど、誇り高い鷹族の名折(uナオ)れだ! さっさと殺せ!」
ジェドは痛みを必死に堪え、キッと黒髪の美丈夫を睨み付けながら、強い口調で言い放った。
「そうしたいのは山々だが、俺の婚約者はそれを望んでいない。 お前の様なクズでも改心すると、本気で思って居る様だ」
黒髪の美丈夫は、淡々とした口調でそう言い返す。
「ふっ。 何だかんだ言って、オレに惚れているんだな」
ジェドは照れ臭そうにしながら、そう言うと、忽ち黒髪の美丈夫が纏っていた空気が変わり、明らかに殺気を放ちだした。
「貴様のこれまでの行いの何処に、セネトが惚れる要素があったと言うんだ? 冗談も休み休みに言え。 さもないと、今直ぐにこの窓から叩き出し、八つ裂きにして魔物の餌にするぞ」
彼は、額に青筋を浮かべ、怒りに満ちた形相でジェドを睨みながら、ドスの利いた声でそう凄んだ。
これが、冗談などではなく、本気である事は、彼が纏う空気から察したジェドは、忽ち顔を青くした。
「その位にしてやれ。 ロナード」
そう言いながら、黒髪の可愛らしい顔立ちをした小柄な少年が部屋に入って来た。
「おお! オレの花嫁! 心配になって見舞いに来てくれたか!」
ジェドは彼女を見るなり、嬉々とした表情を浮かべ、声を弾ませながらそう言うと、ロナードが忽ち殺気を放ち、
「焼き鳥にするぞ」
怒りに満ちた表情を浮かべ、ドスの利いた低い声でそう凄んだ。
「僕の婚約者が怒りに任せて、お前を焼き鳥にしていないか、とても心配だったんでな。 こんなクズの為に、僕の婚約者が手を汚すのは嫌だからな」
セネトは、呆れた表情を浮かべ、軽く溜息を付いてから、冷め切った口調でジェドにそう返してから、
「まかり間違っても、こんなクズ野郎を好きになる様な事は無いから、そんな怖い顔をするな」
ロナードの頬を優しく触れると、とても優しい口調でそう言った。
「……分かった」
彼は一瞬、ジェドに刃の様な鋭い眼差しを向けたが、セネトにそう返すと、穏やかな表情を浮かべる。
(コイツ、オレを殺す気満々じゃないか!)
時折、自分に殺気を向けるロナードを見ながら、ジェドは心の中でそう呟くと、背中が凍り付く様な感覚に見舞われた。
「確か……ジェル? いや、ジェイ? ジェン?」
セネトは真剣な面持ちでそう言うと、
「ジェドだ!」
ジェドは堪らず、強い口調でそう言い返す。
「ああ。 すまん。 貴様の様なクズ野郎の名など、どうでも良いから、今の今まで忘れ去っていた」
セネトは、全く悪かったと思っている様子もなく、サラッとそう言い放つので、流石のジェドもカチンと来る。
「兎に角、お前の身柄は僕が預かる。 お前たちの族長も、『外の世界を見聞きさせ、しっかり勉強させたい』と言っていた。 だから、くれぐれも父親の優しさを踏み躙る様な真似だけはするなよ」
セネトは、真剣な面持ちでジェドにそう言うと、
「何だ。 親父も追放だとか言って、やっぱりオレの事が可愛いんだな」
ジェドは、何処か得意げな顔をして言うと、
「調子に乗るなよ」
ロナードがジロリと彼を睨み付け、ドスの利いた低い声でそう凄む。
同じ頃……
帝都にあるとある貴族の屋敷に、アイリッシュ伯爵の姿があった。
彼の足元には、首と胴体が別々にされた、豚の様に丸々と太った初老の男が転がっていた。
「やれやれ。 寺院の老子も所詮は己の私腹を肥やす事しか能のない、老害だったと言う事ですね」
アイリッシュ伯は、床の上に転がっている初老の男を冷ややかに見下ろしながら、淡々とした口調で言った。
その様子を、お互いを抱き合うようにして、部屋の隅で恐怖に身を震わせながら、初老の男の妻子が見ている。
妻とは随分と年が離れているようで、アイリッシュ伯とそう年が変わらないくらいで、彼女が震える手で抱きしめている子供も幼く、五歳くらいだろうか。
二人とも、恐怖のあまり声も出せず、ただ震えていた。
「ああ。 心配しないで下さい。 僕は優しいので、彼一人で逝かせるような事はしません。 お屋敷と共に三人仲良く逝って下さい」
アイリッシュ伯は、ニッコリと笑みを浮かべると、自分を凝視したまま、震えている妻子に向かっていった。
そうして、彼が涼しい顔をして屋敷の外へ出た途端、その親子が居た部屋から物凄い勢いで炎が舞い上がった。
「ああ……。 炎を見ると嫌でも思い出しますね。 先生。 僕がこの手で貴女を殺めたあの日の事を。 貴女の胸をこの手で貫いた感触は、今でもハッキリと覚えています」
アイリッシュ伯は、少し離れた場所から、燃え盛る炎に包まれた屋敷を眺めながら、ウットリとした表情を浮かべながら呟いた。
「大変だ!」
「屋敷が燃えているぞ!」
「早く火を消せ!」
火事に気が付いた近所の者たちの、焦りに満ちた声が響き渡る。
人々が寝静まっている真夜中の闇を、煌々と照らす炎は、屋敷とその家族たちを容赦なく包んだ。
「さあ。 そろそろ帰ってくる頃ですかね。 僕の可愛い、可愛い弟子たちは」
アイリッシュ伯は、火事に混乱している人々を尻目に、静かにそう呟くと、不敵な笑みを浮かべながらその場から立ち去った。
「此処が帝都……」
数日後、セネト達に連れられ、帝都に到着したジェドは、自分たちが長年慣れ親しんで来た里や、近くの人間の町とは段違いの光景に息を呑む。
煉瓦を隙間なく並べ、馬車に乗っていても揺れが少なく、美しく整備された道、林の様に立ち並ぶ家々、その間を様々な年齢や容姿、性別の人々が行き交い、活気に満ち溢れている。
砂漠のど真ん中にあるとは思えない程、町の隅々まで水路が張り巡らされ、綺麗な水が惜しみなく町の至る所を通り、その水音が人々に涼を与えている。
何もかもが、彼が見て来たどの町よりも、桁外れだった。
「おお。 美人……」
ジェドが目を輝かせ、馬車の窓に張り付いているのを見て、行き交う女性たちが可笑しそうにクスクス笑っているのに、なぜか彼は嬉しそうに声を弾ませて、その様な事を口走っている。
「恥ずかしいから、カーテンを閉めろ」
先程から、馬車とすれ違う人々が、奇異に満ちた視線を向けているので、セネトは恥ずかしくなってそう言うと、ギベオンが窓に張り付いていたジェドを引き剥がし、荒っぽくカーテンを閉めた。
「何処へ向かっているんだ?」
ジェドは、興味津々と言った様子で、セネトに問い掛ける。
「アルスワット公爵邸だ」
淡々とした口調で答えるセネトの隣で、ロナードは先程から黙々と、召喚石についての報告書を読んでいる。
「誰だ? それ」
ジェドは、キョトンとした表情を浮かべながら言うと、
「帝国の建国に大きく寄与した、三大公爵の一つだ。 今も大きな影響力を持っている。 当主は宮廷魔術師長でロナードの上司だ」
セネトは、淡々とした口調で答えると、
「帝都に戻るなり早速、上司に報告とは仕事熱心だな」
ジェドは、何処か馬鹿にした様な口調でロナードに言う。
「そう言うのではじゃない。 サリアが俺の事を物凄く心配しているらしい。 顔を見せて安心させたいだけだ」
ロナードは、報告書に視線を落としたまま、淡々とした口調で答える。
「まあ、実際の所は、今後の作戦会議だ」
セネトが淡々とした口調で答えると、ゆっくりと馬車が止まった。
「着いたようですね」
ギベオンがそう言うと、馬車の外から扉が開き、ギベオンに促され、ジェドが馬車から降りると、そこには恐ろしく大きくて立派な邸宅が聳え立っていた。
帝都のど真ん中だと言うのに、その 地は広く、門から邸宅までもかなりの距離がある。
鷹族の里にある族長の屋敷が、屋敷とは呼べる程の物ではないのだと思えるくらいに……。
「うへぇ……」
ジェドは目の前の光景に、思わず感嘆の声を漏らす。
「ご無事にお戻りになられて何よりで御座います伯爵さま。 当主がお待ちです」
燕尾服に身を包んだ、壮年の男性がロナードの側に来ると、恭しく腰を折り、そう告げる。
「行こうか」
ロナードは、馬車から降りて来たセネトをさり気なくエスコートしながら、そう声を掛ける。
「これは! 皇女殿下!」
燕尾服を包んだ、壮年の男性は慌てた様子でそう呟くと、近くに居た侍女が駆け寄り、セネトが
日焼けをしないよう、彼女の側に来ると急いで日傘を差した。
「よい。 それより、前触れもなく、伯爵にくっ付いて来て済まなかったな」
セネトは、片手で制しながら、侍女たちにそう声を掛けると、
「いいえ。 殿下を伯爵さまが連れて来られであろうと、当主を含め、屋敷の者一同、準備万端でお待ちしておりました」
燕尾服に身を包んだ、壮年の男はニッコリと笑みを浮かべそう言うと、二人は揃って頬を赤らめる。
「主と殿下は、公爵邸ではニコイチ判定なんですね?」
ロナードの護衛の為に側に来たアイクが、ニッコリと笑みを浮かべながら、燕尾服に身を包んだ、壮年の男性に言うと、
「勿論で御座います。 殿下も伯爵さまも、我が家と思ってお寛ぎ下さいませ」
彼は、ニッコリと笑みを浮かべながら、ロナードとセネトに言った。
「何だか、改めてそう言われると、何だかむず痒いな……」
セネトは、ちょっと照れ臭そうに呟くと、ロナードも顔を赤らめたまま、無言で頷く。
屋敷の玄関に到着するなり、バンと勢い良く扉が開かれ、物凄い勢いで中から女性が飛び出して来て、
「ユリアス!」
そう言いながら、その女性は勢い良くロナードに抱き着いて来た。
「うおっ!」
いきなり抱き付かれ、ロナードは慌ててその女性を抱き止めようとするが、その女性と一緒に思い切り後ろにスッ転んだ。
「主!」
「ご当主様!」
それを見て、近くに居たアイクと、燕尾服を来た、壮年の男性が揃って焦りった声を上げる。
「全く。 母上。 何をしてるんですか」
少し遅れて、ルフトが呆れた表情を浮かべながら、ロナードに抱き着いたサリアに言った。
「ああ。 御免なさい。 ユリアス。 心配で居ても立っても居られなくて……。 怪我はない?」
サリアは、己をクッション代わりにして、自分が地面の上に転ばない様に気遣ってくれたロナードに声を掛けると、ゆっくりと馬乗りになっていた彼の上から退く。
「ええ……」
ロナードはそう言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
「ユリアスはレオンでは無いんですから、いきなり母上が思い切り突っ込んで来たら、普通に後ろに扱けますよ。 怪我でもしたら大変ですから止めて下さい」
ルフトは呆れた表情を浮かべながら、サリアに言う。
「そうね………」
彼女は、苦笑いを浮かべながら返した。
(兄上には、何時もしているのか……)
ロナードは、心の中でそう呟くが、兄の恵まれた体付きである事を思い出し、自分との隊格差に軽く溜息を付いた。
「殿下にも、見苦しい所をお見せしました」
ルフトは、落ち着いた口調でセネトに言うと、
「そう畏まるな。 僕とお前たちの仲だろう? 少し驚いたが、微笑ましくて何よりだ」
彼女は、苦笑いを浮かべながらも、怒る様子もなく、そう返した。
「ここで立ち話も何だから、中に入ってゆっくり話しましょう」
サリアが、落ち着いた口調でそう語ると、その場に居合わせた者たちは真剣な面持ちで頷いた。
「悪い話と、良い話……両方あるのだけれど……。 先にどちらを聞きたい?」
サリアは、苦笑いを浮かべながら、ロナード達にそう問い掛けた。
「悪い話と言うのは……」
ロナードがおずおずと問い掛けると、
「今回の魔物騒ぎの黒幕と思われる方が、亡くなられたわ」
サリアは、複雑な表情を浮かべながら語る。
「そんな……」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「公には、タバコの火の不始末と言う事になっているけれど……」
サリアは複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「実際は放火殺人だ」
ルフトが、淡々とした口調で答えると、
「どうやってそれを? 現場に行ったのですか?」
アイクが戸惑いの表情を浮かべながら問い掛ける。
「ええ……」
サリアは複雑な表情を浮かべながら答える。
「母上は、死者の記憶を遡って見る事が出来るんだ。 遡れると言っても、せいぜい三十分くらいなんだけどね。 だから事件性のありそうな時は、治安部隊から協力を頼まれる事があって、今回も要請を受けて行ったんだけど……」
ルフトは、苦笑いを浮かべながら、そう説明する。
「この男……。 知っているわよね?」
サリアはそう言いながら、徐に懐から一枚の似顔絵を差し出してきた。
ロナードはそれを見た瞬間、その表情を凍り付かせ、セネトやアイクも思わず絶句した。
「アイリッシュ伯……だよね?」
ルフトは、複雑な表情を浮かべ、おずおずとロナードに問い掛けるが、彼は顔面蒼白のまま、石像の様に固まってしまっている。
「母上は何時も、死者の記憶を元に、犯人と思われる人物の似顔絵を描かせるんだけど、これを見て僕もビックリしたよ」
ルフトは、複雑な表情を浮かべたまま、そう語った。
「ロナード。 大丈夫?」
セネトの背後に控えていたルチルが思わず、セネトの隣に座っていたロナードの肩を掴み、そう声をかけると、石像の様に固まっていた彼は、ハッとした表情を浮かべる。
「済まない……。 水を……貰えるか?」
ロナードは、相変わらず顔から血の気が引いたまま、震える声でそう言った。
(落ち着け。 アイツは此処にはいない……。 落ち着け)
ロナードは、自分の手が震えている事を自覚しながら、ギュッと両眼を閉じ、心の中で自分に言い聞かせる様に心の中で呟いた。
「御免なさい。 似顔絵なんて見せるんじゃなかったわね……」
ロナードが尋常になく動揺しているのを見て、サリアは沈痛な表情を浮かべそう言った。
「すみません……」
ロナードは、執事が差し出した水が入ったグラスを受け取り、震える手で水を飲み干すと、軽く息を吐いてから、幾分か落ち着いたのかそう言った。
「大丈夫か?」
隣にいたセネトも、心配そうな顔をして、ロナードの背中に手を添えながら問い掛ける。
「ああ……」
ロナードは、何とも言えないような、複雑な顔をしながらも、落ち着いた口調でそう返してから、
「話の続きを……」
サリアにそう促した。
「彼が、この屋敷の主で、リリアーヌの後見人になっていたと思われる、インラック老子とその家族を殺した事は間違いないわ」
サリアは、複雑な表情を浮かべながら語る。
「では彼が、リリアーヌに召喚石を?」
セネトが真剣な面持ちで問い掛けると、
「恐らく……。 彼女の前に召喚石を使った痕跡があったわ」
サリアは真剣な面持ちで頷き返し、重々しい口調でそう語った。
「証拠隠滅……」
ロナードは、自分の口元に片手を添え、苦々しい表情を浮かべながら呟いた。
「僕も、そうだと思う」
ルフトも、何時に増して真剣な面持ちで言う。
「殺された老子は、リリアーヌが何処へ行ったのかだけでなく、アイリッシュ伯たちが何処に潜んでいるのかも、知って居たのかもな……」
セネトが、複雑な表情を浮かべながらそう呟くと、アイクも頷きながら、
「その可能性は高いと思います」
「自分もそう思います」
ギベオンも、真剣な面持ちで言うと、隣に居たルチルも頷く。
「老子の最近の足取りを追った所で、彼等は既に逃げた後でしょうけれど……。 一応、調べてはみるわ」
サリアは、複雑な表情を浮かべながら言うと、ロナードは真剣な面持ちで頷き返した。
「折角、黒幕と思われる人物を特定する事が出来たのに……」
セネトは、残念そうにそう呟いた。
「それが、悪い事の一つ目よ」
サリアは、深々と溜息をつきながら言った。
「え。 まだあるんですか?」
アイクが、戸惑いの表情を浮かべ、サリアに問い掛けると、
「あら。 一つだとは言っていないわよ?」
彼女は苦笑いを浮かべながら、そう言った。
「確かに」
ロナードは思わず、苦笑いを浮かべながら呟いた。
「もう一つは、悪い話と言うよりは、面倒な話と言うべきかも知れないわね」
サリアは、ゲンナリした表情を浮かべながら言うと、ロナードとセネトは揃って、ゴクリと息を呑む。
「今回、リリアーヌが失踪した事もあって、貴方を次の大老子に推そうと、動き出した人達が居て、彼らが連日、貴方に会わせろと五月蠅いの」
サリアは、ゲンナリとした表情を浮かべたまま、ロナードにそう語る。
「異国で生まれ育ち、ガイア信教の信者ではない俺を立てねばならない程、次の大老子に適した人が居ないのか?」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべ、問い掛ける。
「ガイア神は男の神様でしょう? だから、昔から寺院の内外でも男性を大老子にって言う考えが根強いのよ。 ほら。 前にも話した通り、ティルミット家は女系で、男児が生まれにくい家系だし、歴代の大老子を見ても殆ど女性だから……。 物珍しいのもあるんじゃないかしら」
サリアは、苦笑いを浮かべながら、ロナードにそう説明する。
「だからって、無信教の俺を大老子にするのは、流石にどうかと思うが」
ロナードは、物凄く迷惑そうに言うと、
「僕たちも、君にその気が無い事は散々言っているんだけど、『ご本人の口から直接、お伺いしたい』って聞かなくてさ」
ルフトも、ウンザリした様な口調で言った。
「それに、ティルミット家の本家や分家も貴方が、大老子になるんじゃないかと、戦々恐々している様なの」
サリアは、溜息混じりにそう語る。
「他にもまあ、好き勝手言っててさ」
ルフトは肩を竦めながら切り出すと、
「直系ではないけれど、ティルミット家の分家に一人、ブルーメって言う十歳の女の子が居るんだよね。 その子と結婚させたいとか、ね」
ルフトが苦笑い混じりに言うと、それを聞いたセネトの表情が強張る。
「俺には、幼女趣味はないが」
ロナードは、迷惑そうな表情を浮かべながら言うと、
「今はそうだけど、あと八年もしたら、君は二十五で彼女は十八。 八歳差なんて気にならない様になるって、向こうは言っているよ」
ルフトは肩を竦めながら言うと、
「……」
無言で紅茶を飲んでいるセネトは益々、表情を険しくする。
「彼等とは一度、良く話し合う必要があると思うわ。 幸い、ティルミット家の当主代理は私の幼馴染で、話も分かる人だから良いとして、問題は貴方を推そうとしている爺たちの方だと思うわ」
サリアは、深々と溜息をついてから、ロナードにそう言った。
「分かった。 先方の都合の良い時に会う事にする」
ロナードは、仕方がないと言った様子でそう返した。
後日、ティルミット家の分家で、一門を統括している人物と会うため、相手が指定して来た場所へ向かったロナードは、とても帝都の中とは思えぬほど、青々と木々が茂り、美しい花々が咲き乱れる、ティルミット家一門が所有する庭園に来ていた。
ここは、帝都に住まう人たちに公園として一般開放されているが、その奥はティルミット家一門専用のスペースがあり、公園となっている場所とは違い、何処か荘厳な雰囲気が漂う場所だ。
彼が待機する様に通されたカセボ一つ取っても、とても立派な作りで、カセボの下に配置されているテーブルや椅子なども、見るからに高そうで、お茶会に用意された簡単な軽食もとても品があり、美味しそうだった。
「お待たせしたね」
茶色に近い髪を後ろで一つに束ねた、中肉中背の、年の頃は三十代半ば過ぎ位だろうか、温和な雰囲気を纏った、清潔感の溢れる男性が、十歳くらいの、可愛らしいピンクのワンピースに身を包んだ、動き易い様に髪をポニーテールにした女の子の手を引きながら、少し急いだ様子で駆け寄ってきて、ロナードにそう声を掛けてきた。
彼の後ろには、武器を携えた護衛と思われる兵士が数人、付いてきている。
それを見て、アイクが直ぐに表情を強張らせ、緊張した空気を漂わせるが、ロナードは彼を片手で制すると、椅子から立ち上がり、自分たちの方へと向かってきた父娘を迎えた。
「君が、リュディガー伯爵?」
その男性は、穏やかな口調で問い掛けて来た。
「お初にお目に掛かります。 ユースティリアス・フォン・リュディガーです。 この様な席を設けて下さり、心から感謝致します」
ロナードは、自分の胸の前に片手を添え、軽く首を垂れながら、丁寧な口調でそう返した。
「丁寧な挨拶を有難う。 僕はフィデリオ・フォン・メギストン。 爵位は君と同じ伯爵だ。 此方は娘のブルーメ」
その男性は、穏やかな笑みを浮かべ、優しい口調でロナードに言うと、自分の足にくっ付くように立っていた娘に向かって、
「メル。 ご挨拶を」
優しい口調でそう言って、ロナードに挨拶をする様に促す。
彼女は、少しおずおずとしながらも、父親の足から手を離すと、手でワンピースの裾を抓み、
「ブルーメ・フォン・メギストンです」
そう言うと、軽く首を垂れた。
「初めまして。 ブルーメ嬢」
少し緊張しながらも、可愛らしい挨拶をしてきた彼女に、ロナードはニッコリと笑みを浮かべながら返した。
すると、ブルーメ嬢はぽーとした表情を浮かべ、ロナードの顔に見入っている。
(まあ、主は美人だから、普通はそう言う反応だよな)
ブルーメ嬢が呆けた顔をして、ロナードに見入っているのを見て、アイクは心の中でそう呟くと、苦笑いを浮かべた。
(目がハートになってる……)
我が娘が、自分の目の前にいる青年を見て、女子の顔をして、ウットリとした眼差しを向けているので、父親のフィデリオは物凄く複雑な表情を浮かべながら、心の中で呟いた。
同性の自分から見ても、目の前にいる青年は眉目秀麗で、背が高くてシュッとしており、物腰などには品があり、正に貴公子と言うのは彼の様な人間を差すのだろうと思う。
けれど、この青年と我が娘を結婚させる気など毛頭ない。
婚約すら冗談ではない!。
初対面の彼に、嫌悪感などを抱いている訳ではない。
これは、娘を持つ父親ならば誰しもが、一度は抱く感情だ。
相手が彼でなくとも、誰が相手だろうと、そう思ったに違いない。
それだけは、ハッキリと言える。
とは言え、初対面の、しかも軽く一回りは年下の青年に、その様な感情を露にするのも大人気ないので、瞬時に笑みを浮かべ、
「どうぞ。 座って話しましょう」
優しい口調でそう声を掛け、彼に椅子に座る様に勧める。
「ご存知かと思いますが、ティルミット家の当主であるティアマトさまは、地方の寺院支部を訪問なさっている最中です。 私の妻も補佐役として、大老子様の旅に同行している為、私が当主代理代行をしています」
フィデリオは、にこやかに笑みを浮かべながら、簡単に事情を説明する。
そう説明すると大抵の者は、分家の者と言う事に加え、彼が代理の代理であるので、かなり舐めた態度になる者も多い。
「ティアマトさまには、順調に旅をされているのでしょうか? ご年齢の事もありますので、お体の事などを心配しています」
ロナードは、ちょっと心配そうな表情を浮かべながら、そう問い掛けた。
開口一番に、当主であるティアマト大老子の事を伺うのは良くある事だが、彼のその雰囲気からして、社交辞令などとかではなく、純粋にティアマト大老子の事を心配しているように、フィデリオは感じた。
(ふむ。 悪い子ではなさそうだ)
フィデリオは注意深く、ロナードの事を観察しながら、心の中でそう呟いた。
若くして、伯爵家の当主となり、第三皇女の婚約者という肩書に加え、アルスワット公爵一門の当主であるサリアにも随分と可愛がって貰っていると聞いていたので、天狗になっているのではないかと思っていたのだが、それは杞憂だったようだ。
「私の要望に応じ、お会いして下さった事を本当に感謝しています。 ご存知かと思いますが、私は色々と複雑な立場にあり、どの様に立ち振る舞うことが、周囲に余計な波風を立たせないで済むのか苦慮しています。 ご助言を頂けるととても助かります」
ロナードは、複雑な表情を浮かべながら、フィデリオに語る。
当主でもなく、代理の代理である自分を前にしても、不満そうな様子もなく、素直に胸の内を明かして来彼に、フィデリオは素直に好感を持てた。
ただ、魑魅魍魎の様な輩が、自分の名誉や権利、地位や財産の為に他人を騙し、蹴落とし合う事が常で、自分の本音を隠し、相手の腹の探り合う事が普通の貴族社会では、彼の様な真っ直ぐな物言いは、あまり宜しくない。
曲がった物の考え方しか出来ぬ輩からは、要らぬ警戒心を抱かせ、意地悪く腹黒い輩からは、己の企みに利用されてしまうだろう。
(しかしまあ……ここは社交界でも無いし、子供相手に意地悪な事をするのも気が引ける。 何より、あまり虐めるとサリアに叱られそうだ。 ここは本音で向き合うとしよう)
フィデリオは、どう対処すべきかと少し考えた後、そう心の中で呟いた。
「貴方とカルセドニ皇子が、胡散臭い聖女を退場させてくれた事には、私や多くの者が感謝しています。 しかしその所為で、今度は貴方を持ち上げようと企む輩が出て来たのも事実……。 正直、貴方はどうしたいと考えているのでしょうか。 まずはそれを聞かなければ、私も答えようがありませんね」
フィデリオはニッコリと笑みを浮かべ、ロナードにそう言った。
「ご存知かと思いますが、私は生まれも育ちもランティアナです。 しかも、ガイア信教の信者ではありません。 ああ……イシュタル教会の信者と言う訳でもないです」
ロナードは、複雑な表情を浮かべながら、そう切り出した。
「私もそのように、サリアからは聞いている。 ランティアナに居た時は、色々と苦労したというのも……」
フィデリオは、優しい口調でそう返すと、
「ええ……。 まあ……」
ロナードは、物凄く複雑な表情を浮かべ、歯切れ悪くそう返した。
「サリア様の親戚?」
ブルーメ嬢は、興味津々と言った様子で、ロナードを見た後にフィデリオに問い掛ける。
「そうだよ」
彼は、優しい口調でそう返すと、彼女は『へぇ。 そうなんだ』と呟きながら、ジッとロナードを見ている。
「異国で生まれ育ち、ガイア信教の信徒でも無い者が、ガイア信教の最高指導者の地位に就くのは、如何なものかと……私はそう思っていて、自分などではなく、もっと相応しい方が居るのではないかと思うのです。 例えば、ブルーメ嬢とか……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「そうは言うけれど、君はティルミット家の血も引いている。 だから、君さえ望めばティルミット家の当主は勿論、寺院の大老子の地位にも就ける。 正直、私たちよりも本家に近い血筋だからね。 それに、まだほんの子供のメルよりも、年齢的にも君の方が良いだろうと考える人も少なくはないと思うよ」
フィデリオは、落ち着いた口調でそう語ると、ロナードは俄かにその表情を曇らせた。
(成程。 大老子にはなりたくない、と……)
ロナードの表情を見て、フィデリオは心の中で呟く。
妻は別として、フィデリオ自身は、娘のブルーメがその地位を望まぬ限り、大老子は勿論、老子をさせるつもりもない。
ああいう、権力や名誉などと言ったものに塗れた、黒々とした世界に娘を放り込みたくない。
ロナードも、そう世界に自ら身を投じ、自身の力を周囲に誇示し、謀略と張り巡らせ、その最たる地位に上り詰めたいと言う野心は無いのだろう。
それは、フィデリオたちやブルーメなどにとっては、とても有難い事だ。
少なくとも彼とは、ティルミット家の当主の座や、大老子の座を巡って、争う必要はないのだから。
(ふむ。 これは良い話かも知れない。 仮に、メルが大老子になろうとした場合、世代的に考えても、最大の障害は彼だろう)
フィデリオは心の中で呟きながら、何度もロナードを見る。
どうやら、寺院の者たちが聖女に代わり、彼を持ち上げようとしている動きに、彼は心底困っているようだ。
「今回の、獅子族の里で魔物が暴れている一件に関わる以前から、寺院と言うりも……宗教や宗教団体に対して、少なからず不信感や嫌悪感を抱いていました。 正直、今の寺院の幹部たちの考え方に、自分が同調出来る部分が見当たりません。 そう言った人たちと一緒に仕事をする……ましてや、その人たちを束ねるなど、私にとっては途方のない事に思えてならないのです」
ロナードは、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調でそう語る。
(あ~。 寺院の汚い部分を知ってしまって幻滅しちゃったのか……。 こいつ等と関わりたくないって、思っちゃったんだな……。 無理もないか。 最近は本当に酷いもんな……)
ロナードの言葉を聞いて、フィデリオは心の中でそう呟くと、気の毒そうな表情を浮かべた。
「カルセドニ皇子と一緒に、寺院の者たちの襟を正そうとは、思わなかったのかい?」
フィデリオは問い掛けると、
「……考えなかった訳ではありませんが、兄だけでなく、自分までも関わってしまうと、アルスワット公爵一門やセレンディーネ皇女殿下にも飛び火しそうなので、止めるべきだと……」
ロナードは複雑な表情を浮かべたまま、重々しい口調で返した。
(ふむ。 自分の周りに居る人を守る為にも、自分は関わらない事が最良と考えたのか……。 賢明だな)
フィデリオは、ロナードを見ながら心の中で呟いてから、
「君の考えは良くわかった。 此方にとっても悪い話では無いから、君を大老子に持ち上げようとする輩には、可笑しな真似をしない様に注意しておこう」
フィデリオは、優しい口調でそう返すと、ロナードはホッとした表情を浮かべ、
「有難うございます」
そう言って、頭を下げた。
「うーん。 やっぱり帝都は良いね」
メイド服に身を包んだ、お下げ髪の若い女性を連れた、黒髪のショートカットに琥珀色の双眸、日に焼けた赤銅色の肌を持つ、中肉中背の十代後半と思われる、帝国軍の軍服に身を包んだ活発そうな雰囲気の少女。
「日傘も差さずに、この様な所に出向かれては困ります」
一緒に居た若いメイドは、アタフタしながら、急いで持っていた日傘を少女の頭上に差す。
「見てご覧よ。 公には、呪いの使用は禁じられているのに、こんなに沢山の呪いが渦巻いているよ。 ホント、帝都って笑顔を浮かべながら、相手を呪い殺そうとする、頭のイカレタ連中だらけの素敵な場所だね」
その少女は、恐らく自分しか見えぬであろう、ドス黒い煙が雨雲の様に空を覆い、悪意や殺意をまき散らしている光景を見ながら、不敵な笑みを浮かべながら言った。
一見、公園で無邪気に過ごしている様に見える人たちからも、その煙が立ち上っていて、そんな黒々とした大人たちの手を取られ、無邪気に笑みを浮かべ笑っている子供たち……。
自分の傍らで、引き攣った笑みを浮かべている親が、誰かを殺したい位に憎んでいて、呪い殺そうとしていると知っても、こんな風に無邪気に微笑み掛ける事が出来るだろうか。
人々は帝都に、様々な思惑を持ってやって来る。
そんな人たちの思惑が、複雑に絡み合い、空を覆い隠さんばかりの、どす黒い呪いの雲を作る。
なんて悍ましくも、美しい光景だろうか。
そんな、呪いが渦巻く空の下、多くの人たちが行き交う公園で一際、彼女の目を引く者が居た。
帝国の者にしては背が高く、シュッとしていて、身なりから察するに、何処かの貴族の令息であろうが、その人物は全身を包まれる様に、どす黒い呪いに覆われていた。
普通、こんなに濃厚な呪いを見に受けていたら、体中に激痛が走り、心身は衰弱し、ベッドから起き上がる事は勿論、手足を動かす事ともままならない筈だ。
何より、真っ当な精神状態では居られない。
それなのに、どういう訳かその人物は、まるで呪いなど受けていないかの様に、普通に歩いている。
(なんなの? あれ。 どういう理屈?)
彼女は、目の前にある信じ難い光景に、心の中で絶叫し、その人物に釘付けになる。
「お嬢様?」
一緒に居たメイドが、妙に大人しくなり、離れた場所を歩く、一人の男性に釘付けになっている彼女に、戸惑いの表情を浮かべながら声を掛ける。
「ねぇ。 彼は誰? 何者なの?」
彼女は、戸惑いの表情を浮かべ、メイドに問い掛ける。
「えっ……」
呪い以外の事には興味が無く、他人に無関心な彼女が、こんなに興味を抱く事に、メイドは驚いた。
「今直ぐ、彼が誰なのか調べて」
彼女は、真剣な表情を浮かべ、メイドにそう言った。




